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ちょっとくらい、甘えさせてもらおうじゃないか。

正直、歯磨きが好きじゃない。

これはいまだにそうだ。口の中にあの硬いプラスチックを入れるのが好きじゃないし、泡で満たすのも不快に思う。できるなら磨かずに生きたい。
でも歯磨きをしない状態は不快に感じる。アンビバレントだ。

今はもう、ある程度の大人として毎日歯磨きしていることを前提に話すと、
人生のなかで一年ほど、ろくに歯磨きせずに生きていた時期すらある。


小学校中学年の頃、私は歯列矯正をしていた。
矯正中は虫歯になりやすいらしく、通っていた歯医者では受診のたびに歯に染色液を塗り、しっかりと磨けているかチェックをされた。

「アンタ、これは女の子の歯じゃないわよ」

子どもの頃からせっかちで、面倒くさがりで、ズボラ。そんな私と「歯磨き」との相性はすこぶる悪かった。
私の歯はいつも見事な紫色に染まり、戦前生まれのおじいちゃん先生に飽きれられていた。

前歯の裏から、掻き出すように。
奥歯は、三方向の根元から包み込むように。

鏡を持たされ言われるがまま、磨いても磨いても紫が残る。
いつも夕方の受診だったからだろう、OKが出て帰る頃にはいつも外が暗くなっていた。

信じられないくらいツルツルになった歯を舌先で触りながら、帰り道の土手を自転車で走った。
内心、ここまでしなくても大丈夫だろう、と思っていた。

「本当は、前歯は掻き出すんだよな」
「本当はもっと、奥歯も磨かないといけないんだよな」

矯正を卒業した後も、歯を磨くたびに、おじいちゃん先生の教えは脳裏に浮かんだ。
だけど教えを守っているとは言い難いレベルの歯磨きを続けてきた。

中学生になり、高校生になり、それでも私は、虫歯にはならなかった。


・・・歯を磨かなくても、虫歯にはならないのかもしれない。

サンタクロースが実際にはいないように。
和尚様のツボには蜂蜜が入っていたように。
歯を磨かないと虫歯になる、というのは、大人たちの脅し文句だったのかもしれない。そんなことまで思うようになっていった。

人と会うときに、臭くなければそれでいい。


そのうち就職して、終電で帰るような生活になった。
化粧も落とさずベッドに倒れ込み、朝を迎える。夜の歯磨きが二日に一回になり、そのうち朝だけなんとか磨き、気休めにブレスケアを噛むようになった。

仕事をドロップアウトして実家に帰り、家族、それも甘えきった両親にしか会わなくなった頃にはもう、心身ともに歯磨きをする余力はなくなっていた。

こうして私は歯磨きという人類の義務から精神的に自由になったまま、一年を過ごした。


自堕落な日々を過ごし、再び上京して仕事に戻った後。今度は営業職になったこともあり、一応きちんと歯を磨くようになった。

上京して仕事場にも慣れた頃、どうにも口に違和感を感じ始めた。
口が臭う、気がする。

最初は歯磨きが足りないのだと思って、とりあえずしっかり磨いてみた。
先生に教えられた正しいやり方で、一日に三回。

それでも変な感じが取れない。

その後結婚することになる、彼氏もできた頃だった。
慌てて会社近くの歯医者に駆け込むと、案の定、口の中は恥ずかしいほどに虫歯だらけだった。

歯磨きをしないと、本当に虫歯になるのだ……。
そして、虫歯になると、臭うのだ……。

それは衝撃的な事実だった。
恥ずかしくて恥ずかしくて、すっかり意気消沈していたたまれなくなった私を察したように、少し年上の女医先生が「こんなの、全然大丈夫よ」と言ってくれた。
「治せばいいんだから。来てくれて良かったんだから。」
静かな口調で、励ますように。それはあまりに頼もしくて、内心少し泣きそうになった。

その後、二回ほどの治療で、女医先生は虫歯を全部どうにか直してくれた。

ついでに一本、親知らずも抜いてもらった。細い麻酔を丁寧に何度も打ち、抜かれても全く痛くないことに感動した。
おまけにおまけに、私の歯は一本、永久歯ではなく「歯牙腫」というものになっており、下あごの中にはまだ見ぬ永久歯が一本残っていることまで判明した。

とにかく、口の中の違和感はすっかりなくなり、私には先生が神様に見えた。

会社が近いから、その後も女医先生とはコンビニなどでばったり会った。

「そろそろクリーニングだね」

なんて神にさらりと導かれると、ついつい電話で予約を取った。
横たわり、ぼんやりと口を開けて、あの手この手で誰かに口の中を綺麗にしてもらうのは悪くなかった。

クリーニングの後は歯がツルツルした。このツルツルを、私は知っていたなあ、と思った。


時は流れて、私は結婚し、息子が生まれた。
息子は誰に似たのか、とにかく歯磨きが大嫌いだった。

絵本を読んだり、お気に入りの歯ブラシを買ったりしても何の効果もない。
そもそも口の中に歯ブラシを入れることが嫌なようだった。わかる、気持ちは大いにわかるのだけれど。
結局は毎晩、羽交い締めにして大泣きされながら子の歯を磨く日々が始まった。

前歯の裏は掻き出すように。奥歯は三方向を根元から。

そう思ってはいるものの、泣きに泣かれて、つい「まあいいか……」と終えてしまう日も多かった。気づけば前歯の裏側に、ちょこんと白い歯石ができてしまった。歯石は磨いても磨いても取れない。
まだ小さいきれいな乳白色の歯についたそれが、自分の甘さを糾弾しているように思えた。
自分が虫歯になった時よりもショックだった。

歯医者だ。

これはもう、さっさとプロに頼るのだ。


子どもに優しそうな歯医者を選び、すぐに予約を入れた。
息子は最初は泣いてぐずっていたものの、歯石を取ってくれるのが若くて可愛いお姉さんだとわかると、おとなしく口を開けてくれた。(息子を育てて知ったのだけど、クレヨンしんちゃんはめちゃくちゃリアルな漫画なのだ…)

歯石を取ってもらい、端から端まで磨いてもらう。
フロスもかけてもらい、一本ずつ息子の歯がツルツルに仕上がっていく。

それはもう、心安らかな光景だった。

ああ、ひとりで全てを背負わなくてもいいのだ。
私が必死に100点を追わなくても、こうしてたまに助けてもらえばいい。苦手な部分くらい、甘えさせてもらおうじゃないか。

その様子を隣で見守りながら、私ははじめて歯医者を好きだと思った。

その後も何度か、息子はクリーニングで歯医者にお世話になった。
私の中で、歯医者は恐る恐る行くあの歯医者ではなく、どちらかというと美容室のように、罪悪感を持たずに通える場所になっていた。

今年の6月、保育園の歯科検診の後には、「ほとんどの子が歯石がついていますので、皆さん受診をお願いします」という連絡が来る中、息子には何の指摘もなかった。
ほんのちょっと、誇らしいというか、これで良かったんだと肯定されたような気がした。



私たちは二か月前、マイホームを建ててこの見知らぬ街に引っ越してきた。
息子が通っていた歯医者は遠いし、私の会社も移転してしまった。

できればこの街で、また、歯医者を見つけたい。
今度はいままでのどの先生よりも末永く、家族で通えるお気に入りの歯医者を。



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黒木郁
私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。

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