見出し画像

映画「ザ・ミソジニー」雑感

まだ、学生気分が抜けず「青臭い社会人」だった頃。
Iターンして住んでいた九州の片田舎から、大都会・福岡は博多の街に時折出かけていた。
目的は、美術館や博物館の鑑賞だったが、その帰りには必ず大きな書店に寄っていた。

その書棚で見つけた一冊が…著者は失念したが、確か中公新書の「魔女と聖女」という本だった。
私たち世代には「クトゥルフ神話大系」や「ノストラダムス」「超能力」や「UFO」などは、当然身につけておくべき基礎の素養だったものだから、自然、この本にも手が伸びた。

読んでみれば、学術的裏打ちはされているものの、やはり、禍々しい記述が羅列されていて「オカルトオタク10年生」くらいの私には、大いに刺激的だったのを記憶している。

翻って、2022年の今…。
1999年7の月に人類は滅亡しなかったし、マヤカレンダーの滅亡の年ですら過去のものとなった。
戦争や疫病の世界的流行はあるものの、私たち世代は、今の、
「やたら明るくて、希望に満ち満ちた「スピリチュアル」」や、オカルト番組を地上波からCSなどに追いやった「「コンプライアンス」という、共通認識の怪物」に、すっかりシラケてしまっており、オカルトオタクというよりは、オカルト好々爺(私は好々婆?だが)に収まってしまっていた。

そこへ、
この映画「ザ・ミソジニー」である。
多少ネタバレしてしまうので、未見の方には申し訳ないが、この映画には、二人の女が登場する。
一人は…不気味な屋敷に住まう、劇作家であり女優の…おそらく、婚姻関係を結んでいたパートナーの裏切りを傷として抱えており、些末な人間関係そのものに辟易して「あんなところ」に隠遁してしまい、創作のみを世の中との繋がりにしている孤独な女性である。

いま一人は女優…気が強いどころか、その高慢さを隠しもしない女。
しかし、やはり彼女も、母親との軋轢を傷として抱え、それを克服すること無く、現パートナーの存在は、それを埋める事が到底出来ていないのだろう…時折見せる不安な表情がそれを物語っている。

そんな二人の女が、主旋律と副旋律をせわしなく交代しながら、この映画は展開していく。

そう、最初はジェットコースターよろしく、ゆるゆると…不穏さを秘めながら「カタン、カタン…」と進んでいく本作、しかし、気がつくとその奔流、ストリームにすっかり巻き込まれ、スクリーンに向かって、叫び出したくなるような、飛び出したくなるような、そんな興奮を自覚する。
私個人としては、二人の女のどちらにも「分かる…!」となってしまい、これを男性監督の高橋洋氏が造ったというのが驚きだったのだが、この映画のプロデューサーは「二人の女」のひとりでもある河野知美さんという、大変エレガントな女性で、納得した次第。

そして、劇作家で女優の役、この映画の屋台骨を背負う、中原翔子さんの「オンナ」としての多彩な顔は、とにかく見事である(それは、河野さんもしかりだが)

もはや、古典のオカルトと、最新のホラーの概念が「ふたりの魔女」よろしくグルグル、うねうね、と絡み合い昇華した、この「ザ・ミソジニー」は、是非、
「あの頃」に置いて行かれた「もう、私は枯れた、涸れた、疲れた…」と感じている昭和世代に観て欲しいし、平成、令和の今に生きずらさを感じているすべての人に観て欲しい。
きっと、血が沸き踊って「何かが蘇る」と思うから。
と、今現在、この映画に4回足を運んだ私が保証して、この雑感の結びとする。


追記:友人を伴って、5回目の観賞も決りました。決めました。
さらに追記:10月12日に5回目行ってきました!
何度観ても良い!のです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?