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人はみな素晴らしい、という前提で生きる
質問:人を好きから入るって、どういう感覚ですか?
うるかの回答:
こちらの記事↓で書いた通り、私は初対面で「MAX100のうち80くらい好き」と思いながら人間関係を始める才能があります。老若男女全ての人について言えることで、恋愛感情は無関係です。そんな私の才能について、更につっこんだご質問をいただきました。ありがとうございます。
人を好きから入るとは、どういう感覚なのか。
考えたことがありませんでした。それが私の通常の感覚だからです。
今回改めて思い返してみて、私の中に以下3つの前提があると整理できました。
①他の人には、私が「ステキ」と胸ときめく何かがある
②他の人には、私が「すごい」と尊敬できる何かがある
③他の人も自分も常に変化し続けている生き物である
以下、一つ一つを解説してみたいと思います。
①他の人には、私が「ステキ」と胸ときめく何かがある
初対面でわかりやすいのは容姿のときめきです。私はストライクゾーンが広いようで、芸能人並に突出し整った容姿でなくとも、「目が馬のように優しいな」「手がすんなり綺麗な形だな(手フェチです)」「中学の同級生の○○さんに似てるな」と数々のときめきポイントを瞬時に認識できます。知り合いに似てるだけで一気に親近感が湧くという、お得な性質です。(そして大概、共通の知り合いに「あの人○○さんに似てるよね」と告げると「全っ然似てない」と力強く即答される。1ミリでも類似ポイントがあれば似てる認定してしまう、甘々判定らしい)
顔立ち体型といった容姿以外に、装い、言動、性質など、あらゆる側面で「いいな」と思いやすいのだと思います。「変人」と言われてしまうような独特な人は敬遠されてしまいがちですが、私は「面白いなあ」と興味が湧いてときめいてしまうので、チャンスがあればさりげなく話しかけ、何を考えているのか質問してみたいと思ってしまいます。好奇心が強いのも、ときめきやすさに一役買っているようです。
②他の人には、私が「すごい」と尊敬できる何かがある
時たま、人として好ましく思えない人と出会うこともあります。私の場合、お店の店員さんにだけ横柄な態度をとったり、道ばたに平気でゴミを捨てるといった品位に欠ける人のことは全く好きだと思えません。
しかし、そんな人でも忘年会の司会をやらせたら天下一品、という側面を持っていたりします。場を盛り上げつつ、臨機応変に対応しつつ、しっかりタイムキープして時間通りに一本締めまで気持ちよく終わる、という見事な仕事ぶりを目にすると、人としてステキとは思えないけれどもすごい人だ、私にはできない、と素直に尊敬の念が湧いてきます。「ステキ」と「すごい」を、私の中では切り離して評価しているのです。
「ステキ」が5段階評価で「1」だとしても、一つでも尊敬できるものがあれば私は「すごい」の評価として「4」や「5」を付けます。人間誰しも必ず得意なものを持っているもので、私にとって大体全員が「すごい」の高評価者となっています。結果、私の中での総合評価が「1」「2」になる人が現れにくいという構造のようです。
③他の人も自分も、常に変化し続けている生き物である
私には、今思うと恥ずかしくて恥ずかしくて穴に入りたくなるような思い出が山ほどあります。調子に乗ってしまったり、自意識過剰だったり、感情的すぎたりする振る舞いを、なかったことにできたらどんなにいいだろうと心の底から悔いているのです。
けれど、そんな数々の失敗を経て今の自分があり、当時よりは1ミリでも成長したり進歩したりできていると信じたい。
その「信じたい」思いを、私は他の人にも抱いています。彼は、彼女は、いつも変化していて、私が知っているのはその一瞬だけ、ちょびっとの一部分だけ、と思っています。
それに、今合わないと思う人に、今後何か迷惑をかけたり頼ったりする事が発生するかもしれない。今最高に気が合う相手を、全く信じられなくなる日が来るかもしれない。私も他の人も環境も状況も常に変化していくから、決めつけずに大らかに。
その態度は、過去の恥ずかしい自分を許したい思い、そのものです。
他人を見ながら、知らず自分を見ている。それが私の世界の見方なのかもしれません。
自分も、他人も、ステキなところやすごいと思えるものを必ず持っている。たとえ今この瞬間そう思えなくても。それは、個体として一つ一つを肯定したい祈りの感覚なのかもしれません。