村木先生に寄す
村木道彦先生
静岡県のM高校で、先生が顧問をされていた将棋部の部員だったIです。
お元気ですか……と久しぶりにお名前を検索したら、まさかの今年3月、享年81歳で亡くなられたことを知りました。謹んでご逝去を悼み、生前の温かいご指導に対し、あらためてお礼申し上げます。
当時の将棋部は黒澤という馬鹿みたいに強い男の独擅場で、一方の私は奇襲戦法ばかりを好んで県大会の緒戦に散るような地に足のつかぬ部員でした。あまりお話しすることはなかったように思いますが、生徒たちの対局を見守る先生の穏やかな笑みを、よく覚えています。
M高校は当時1学年が10クラスあった大きな進学校で、残念ながら村木先生の国語の授業を受ける機会はありませんでした。もし先生が担任だったら、私はあと20年以上早く、短歌の世界にどっぷり足を踏み入れていたかもしれません。
当時から、先生は「早稲田の寺山修司、慶応の村木道彦」と並び称された伝説の歌人らしい……ということだけ聞いたことを覚えています。今になってようやく、1965年の歌誌『ジュルナール律』にそのお二人の名前が確かに並んでいること、そして村木先生が、俵万智さんにも強い影響を与え、「ライトヴァースの元祖」と呼ばれるほど、現代口語短歌に大きな存在感を残した人であったことを知りました。
冒頭に引用した「ふかづめの手」、最もよく引用される〈するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら〉、そして永田和宏さんの『現代秀歌』でも紹介されている「黄のはな」、いずれも、ひらがなのやわらかさ、アンニュイでスローなテンポに痺れます。意図的に「かなに開く」ことのコントラストによって、狙い澄まして配置されたわずかな漢字がより強い印象を与えることにも驚きます。私はつい、肩肘張った漢字熟語を乱発しがちです。村木先生の作風を折々思い出して、凝り固まった頭をほぐし、文字の与える印象と、口に出したときの語感とを、もっと自由にとらえなければ。
穂村弘さんは、評論集『短歌の友人』の中で《□□□□□□□おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏》という穴埋め形式の例題を出し、〈リアル〉であるためには何が必要なのか?という問いを深耕しています。
「みずいろのベンチ」の上に「うめぼしのたね」を見る感覚、着想、視力、どれもが憧れです。
先生は、第一歌集『天唇』の発表からしばらく経ってぱたりと短歌の世界を離れられ、しかし、1989年に作歌を再開。『天唇』から34年後、先生が66歳となられた年に、第二歌集『存在の夏』が刊行されました。2018年に初版発行されたアンソロジー『短歌タイムカプセル』(東直子・佐藤弓生・千葉聡編著、書肆侃侃房)に収録されている、村木先生の自選二十首の半数は、この第二歌集からのものでした。
私は40手前にしてようやく作歌を始めましたが、一度「歌のわかれ」を経た先生が歌を再開した事実に勇気づけらています。「青春を生きる今」だからこそ詠める歌と、「生きて汚れてきた今」だからこそ詠める歌、どちらもがある。いま私は、短歌とはいつでも何度でも始められ、いつまでも続けられる活動だということを確信できています。
村木先生が起こした大きな波紋を継いで、本当に多様な歌人たちが創作に取り組みつづける短歌の世界。この世界へと私を導いた引力のひとつは、間違いなく、先生の記憶です。
そのむらをひとはおとずれ、ひとは去り、古木はきょうもわらう、夕景
本当にありがとうございました。ご冥福を心よりお祈りいたします。
『村木道彦歌集』(国文社,1979.10)は、国立国会図書館デジタルコレクションで利用可能です。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12540767
cover: UnsplashのNatalia Luchankoが撮影した写真
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