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【連載】チェスの神様 第一章 #6 兄貴
#6 兄貴
「あっ、兄貴」
遠くに、僕の自転車に乗った兄の姿が見えた。必死の形相だ。
「僕、外したほうがいいかな」
二人だけのほうが話しやすいかもしれないと思って立ち上がる。
「いかないで。一緒にいてくれないかな」
だが、いけこまに服の端をつかまれたので、座りなおした。
本音を言えば、逃げたかった。でも逃げられなくなった。覚悟しなければいけないのは僕も同じのようだ。
「駒っちゃん! 駒っちゃん!」
自転車を放り投げ、兄はいけこまの前で平謝りした。僕が隣にいることに気づかない様子で、いけこまだけを見ている。
「ごめん。いろいろ、ごめんなさい!」
「いろいろって?」
「いや、だからその、かまってあげられなくて」
「他には?」
「ストレス発散に、寝るまでゲームしてることとか」
「他には?」
「休日、早起きできないこととか」
「他には?」
「え、まだある?」
兄貴は少し考えてから、
「ごめん。おれ鈍いから、気付いてないことがきっと一杯あると思う。だから、ちゃんと教えて。言ってくれたら、今度から直すようにするから」
「……じゃあ、言います」
いけこまはまっすぐに兄貴を見る。
「あたし、みっちゃんと過ごす時間を大切にしたいの。だって結婚したんですもの、一緒にいるときは、いつも同じものを見ていたい。それが、あたしの本音」
「うん……」
「……なんてね。これってあたしのわがまま。みっちゃんがお仕事に一生懸命なのは知ってるし、遅くまで頑張ってるのも尊敬してるから、あたしだけが『こっちを見てよ』っていうのは自分勝手だって分かってる。……はは、なんだか惨めな気持ちになってきちゃった。ごめん、やっぱり今のは忘れて」
いけこまの消え入りそうな声を兄貴は黙って聞いていた。そして小さく息を吐き、
「そうだよなぁ。仕事があるとはいえ、そばにいてほしいと思った時にいてあげられなくてごめん。おれのほうこそ『疲れてる』が口癖になってて、駒っちゃんの寂しい気持ちに気づいてやれなかった。ごめんな。……彰博のほうが駒っちゃんの気持ち、察してたみたいで、おれ、自分が情けないよ」
そこでようやく兄貴は僕を見た。
「お前と一緒にいるって聞いて、めちゃくちゃ腹が立った。おれの嫁さん、勝手に連れ出して何してんだよ、って。だけどその時、駒っちゃんの寂しそうな顔が浮かんだんだ。……彰博は昔から人の心情を察するのが得意だからな。もしかしたら今回も、って」
「彰博君、とっても気遣ってくれるのよ」
いけこまが答える。
「先日もね、彰博君がチェス一緒にやろうって誘ってくれたの。晩御飯のしたくはお義母さんがしてくれちゃって……。あたし、出番がなくて落ち込んでたのよね」
「彰博とチェスを? 駒っちゃん、チェスできるの?」
「ううん。ルールを知ってるくらいで全然。だけど、彰博君が手加減してくれたから、何とか形にはなったかな」
「ふぅん……」
おまえにもそんな機転が効くのかといわんばかりの目を向けられる。腹の底からこみ上げるものがあった。
「そういう、上から目線が嫌いなんだ、僕は。だからいけこまと一芝居打ったんだよ」
心の声が表に出ていた。言ってしまった、と思ったがもう遅い。僕はもちろん、兄貴もびっくりした表情をしていた。
「お前も言うようになったな。いつまでもちび助だと思ってたのに。感謝の気持ちも、今の一言でぶっ飛んだ」
「僕だってもうすぐ十八になる。人並みに意見くらい言えるし、別に感謝されたくてしたわけじゃない」
兄貴がこぶしを握ったのが分かった。殴られるかもしれない。一瞬、体がこわばった。だが、こぶしは飛んでこなかった。
「気に入らないんだよ。何にも考えてないくせに。おれが高校生の時には、毎日必死になって勉強してたぞ? それなのに、何だ、おまえは。少しは母さんを喜ばせたいって思わないのか? いい大学、いい会社に入って親孝行しようって気はねぇのか? おれは毎日働いて稼いでる。チェスばっかしてるお前が、遊び惚けてるやつが、わかったような口利くなよ!」
遊び惚けている……。ぐうの音も出なかった。
でも……。でも……。
いけこまとの家出を決行した時から僕の戦いは始まっている。ここで逃げたらいつもと同じ。いけこまだって勇気を出したんだ、僕も今更引けない。
「あぁ、確かにチェスばっかりしてるさ。この先の人生なんてろくに考えてないのも事実だ。でもさ、兄貴は一つ勘違いしてるよ。母さんが喜ぶから勉強したり働いたりするっておかしいよ。それって兄貴の人生歩んでないって僕には思える」
「……はぁ?」
「ひょっとしたら同居も、母さんのためって思ったんじゃないの? そうだとしたらいい迷惑。僕だけじゃない、いけこまにも失礼だ」
「……何言ってるかわかんねぇな。母さんは喜んでる。おれの進学先も、勤め先も、同居のことも」
「へぇ。じゃあいけこまが悩んでても、母さんさえ喜んでくれればいいってわけ。それでもいけこまの夫だって言える? 子どもだって無計画に作っといてさ、無責任だと思わないの?」
「こいつ……!」
「ちょっと、みっちゃんやめて!」
今度こそ手が出かかって、いけこまが慌てて止めに入る。
「反論したくなるってことは、暗にそれを認めてるってことよ」
「けどこいつ、子供のこと無計画だって……」
「仕方がないよ。本当のことだもの」
「……じゃあ、おれはどうすればいいんだよ?」
これまで自分が信じて突き進んできた道を否定され、明らかに混乱していた。いけこまの両腕をつかみ、真正面から見据えて答えを求めている。いけこまは年上らしく、落ち着いた声で言う。
「みっちゃん。今はお仕事のことで頭がいっぱいなんでしょ? ……もし、みっちゃんが嫌じゃなければだけど、仕事が落ち着くまでは二人で暮さない? 親御さんのこと、大事に思う気持ちはわかるけど、あたし、今は野上家でやっていける自信がないの」
「でも、アパートは引き払って……」
「そんなの、探せばいいじゃない。もちろん、いいとこ見つかるまではもう少しいさせてもらうけど、まずはあたしたちの新婚生活を楽しんでもいいんじゃない? 同居はそれからでもいいと思うの」
「駒っちゃん……」
「みっちゃんはお母さんのことが大好きなのね。彰博君との会話を聞いてよくわかった。……ちょっぴり嫉妬しちゃうな。あたしも負けないように頑張らないと!」
「……うあぁぁっ!」
兄貴は頭を抱えてしゃがみこんだ。二人して言いすぎたかもしれない。そう思ったが、いきなり自分の顔をぱちぱち叩いて立ち上がった。
「あー、もう、降参だ! そうだよぉ、本当のおれはマザコンだし、こんなにも格好悪いんだ。駒っちゃんを守ってあげる力だってないかもしれない。でも……でも……。好きなんだ、どうしようもなく。だからずっとずっとそばにいてほしいんだ。大事にしたいんだ。そして……こんなおれを支えてほしいんだ」
「みっちゃん、見栄なんか張らなくたっていいんだよ。少なくともあたしの前では、男らしくとか、父親にならなきゃとか、そんなに気負わなくっていい。ずっとそんなんじゃ、疲れちゃうもん。あたしたち、よく見せあうために結婚したんじゃないでしょ? 心から安心したいから一緒に暮らすんでしょう?」
「……こんなおれを見ても、引かない?」
「もちろん。ていうか、薄々、気づいてたしね」
「はは、さすが。ありがとう。やっぱおれ、駒っちゃんと結婚してよかった」
「……一件落着、かな?」
あんまり僕が蚊帳の外なので、ちょっとだけ口をはさむ。二人ともばつが悪そうに僕の顔を見た。
「情けねぇ兄貴だと思ったろ? おまえの前ではかっこいい兄貴でいようっていつも思ってたんだけどなぁ。駒っちゃんにあんなこと言われたらもう無理だぜ」
「べつに。兄貴が何もかも完璧だったら、それこそ僕は落ち込んじゃって生きていけなくなるからね。兄貴にも弱みが見つかって、僕は嬉しいね」
「はっ、おまえらしいな。……ここでこうして話してると、思い出すよ」
兄貴は天を仰いだ。
「思い出の場所なの?」
いけこまが問い、兄貴はうなずく。
「おれが中一で彰博が小一の時から毎年、正月に二人でだるま市に来ててさ。ちょっと多めにお金持たされるから、前回と同じ大きさで、できるだけ安いだるまを探すんだ」
「どうして?」
「そりゃあ、残ったお金で買い食いするからさ」
「なるほど」
「でさ、決まってそこの亀屋の和菓子。彰博に至っては、毎度いちご大福三個と甘酒っていう組み合わせな。一回、餅をのどに詰まらせて大変な目にあったってのに、やめないんだぜ? 懲りないやつだよなぁ」
「冬限定で、しかもおいしいんだからいいじゃん」
「彰博君、可愛い! 女子みたーい!」
いけこまにからかわれて居たたまれない。いけこまはすぐ「ごめんごめん」といって、
「兄弟っていいなぁ。あたし、一人っ子だから羨ましい。そりゃあ喧嘩もするんでしょうけど、子どものころはきっと、毎日楽しかったでしょうね。ねぇ、みっちゃん。あたしたちの子供もきょうだい作ってあげましょうね」
「ちょっと、駒っちゃん。彰博の前でそんな話……」
「あら、いけなかったかしら?」
「保健室の先生はこれだもんなぁ」
僕は子供だから大人の会話に入れないらしい。もっとも、僕が恋愛に無頓着だからそう扱われても仕方がないけれど。
下からも続きが読めます↓(10/26更新)
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