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【連載小説】第三部 #10「あっとほーむ ~幸せに続く道~」忘れられない思い出

前回のお話(#9)はこちら

前回のお話:

生きる気力を取り戻させるためとはいえ、妻のめぐが父親と同年代の男と親しく話すことに納得できない翼。そんな彼の自宅に永江孝太郎がやってきた。父とその友人、本郷祐輔の画策によるものだった。
そもそも乗り気でない永江は終始心ここにあらずで、鈴宮・野上両家の庭先に座っていた。なんとか心を開こうとあれこれ話しかけてみても効果がないと分かり、匙を投げかけた翼だったが、彼の中にかつての自分を見いだし、あることを思いつく。奇しくも悠斗と意見が一致し、永江を「殺す」ため、最寄りの銭湯に連れて行く。そこでくつろぎながら会話する中で、永江はようやく心を開き始めるのだった。

※第十話は2エピソードあります! メインは後半部分です🥰

<悠斗>

 また夏がやってきた。めぐの二十歳の誕生日祝いにバーで飲んでからもう一年が経とうとしている。店主は代わってしまったが、今年も「バー・三日月」で誕生日を祝おうと計画していた矢先、めぐから再び妊娠したとの知らせを受けた。

 それなりの期間、流産のショックを引きずっていためぐだが、翼の支えもあってか、ちゃんと立ち直ることが出来たようだ。

 前回の妊娠では「赤子は愛菜の生まれ変わりだ」と信じ、その誕生を切望していた。だがそのことがめぐにプレッシャーを与え、流産しやすい身体状態にしてしまった可能性も否定はできなかった。反省したおれは、今回は「めぐと翼の子」という、ごく当たり前の意識を持つよう心がけている。そのせいか、そわそわしたり、日がな一日めぐのことを考えたりはしない。めぐが母親になっていく様子を、普段通りの生活をしながら見守るだけだ。

 めぐもめぐで、今回こそは赤子と対面したいと願い、身体優先の生活を心がけている。仕事の日数や勤務時間を減らし、オバアから身体を冷やさないコツや体操を教わっては毎日実践しているようだ。

◇◇◇

 そんな我が家に最近、あの人が頻繁に出入りするようになった。言わずもがな、永江孝太郎氏である。

 彼はひと月ほど前、本当に都内からこの街の一等地に建つマンションの一室に移った。車の運転免許を持たない彼はロードバイクでやってくる。一週間から十日に一回、何の連絡も無しに、だ。

 この日も夕食を終えた頃にふらりと現れた。料理は残っていないと言っても「構わないよ」と返事をし、「少し話せるかな?」と玄関に足を踏み入れる。

「やぁ、めぐさん。こんばんは。お腹の赤ちゃんは元気に育っているかい?」

「はい。順調みたいです。っていっても、つわりがあんまりないから実感はないんですけどね」

「しかし、君の胎内には確かに命が宿っているんだろう? 赤ちゃんのためにも君には元気でいてもらいたいものだ。……もし食欲が減衰していないならこれを。僕の気持ちと思って受け取って欲しい」

 永江氏は手に持っていた紙袋をめぐに渡した。中には枝付きのメロンが入っていた。

「わぁ! おいしそうー! ありがとうございます! あ、そうだ。翼くんお手製のフルーツポンチが食べたい! メロンを器にしたやつ。わたし、あれ好きなんだよねぇ」

「オーケー。めぐちゃんのためなら、いくらでも作るよ」
 翼はめぐに顔を寄せて微笑み、キスをした。永江氏の前でも翼は遠慮などしない。むしろ、これが我が家の作法とばかりに見せつけてさえいるようだった。

 ちらりと盗み見た永江氏は無表情で二人を見ていた。こんなとき、どんな顔をすればいいか分からない様子だった。さすがに、端から見ていて可哀想になる。

「あの……。ちょっと外に出ませんか? イチャつくこいつらのことは放っておいて」
 
「……ああ、付き合おう」
 彼は二つ返事で了承した。

 家を出ると、どこからか火薬のにおいがした。ちょっと歩くと家の前で花火に興じる親子の姿を見つけた。

 めぐが無事に出産し、その子が少し大きくなったらおれもあんなふうに花火がしたい、と思う。結局、愛菜とは一度もすることができなかったせいか、こんな光景を見ると胸が痛む。

 永江氏はしかし、親子には目もくれず、黙ったまま歩く方向を見つめている。無言なのも適当に歩くのもどうかと思って提案してみる。

「腹が減ってたら、どこかに食いに行きます? まだ開いてる店、知ってますけど」

「お気遣いなく。長年プロ野球選手として夜に仕事をしていたから、一般の人の夕食時には空腹を感じないんだ」

「あー……」

 会話が途切れる。それなりにおしゃべりだという自覚があるおれでも、こういう空気感を放つ人との会話は苦手だ。

(どうしたもんかな……)

 空を見上げる。そこには夏の大三角があった。さすがにこんな街中じゃ天の川は見えないが、こと座のベガとわし座のアルタイルの間には無数の星々があるのだと思うと宇宙の広大さや神秘を感じずにはいられない。

 おれの行動を不審に思ったのか、声をかけられる。
「……何を見ている?」

「夜空を……星々を見ています」

「なぜそんなことを? 昔の旅人のように方角が知りたいわけでもあるまい?」

「ただ美しいから見ています」

「ただ美しいから……」
 永江氏はおれの言葉を反復し、立ち止まって空を見上げた。

 そこはちょうど公園脇で開けていた。星を遮るものは限りなく少なく、月影もない。LEDの外灯が煌々こうこうとしているのは残念だが、それにも負けず大三角を形成する三つの一等星は頭上で力強く輝いている。

「……夜空なんて久しく見上げていなかったな。最後に見たのはそれこそ、小学校の理科で星空観察の宿題が出たときかもしれない」

「そりゃまたずいぶんと昔ですね」
 おれが言うと、彼は一つうなずいて当時を思い出すように語り始める。

「あの頃はまだ父も元気で、その宿題も確か一緒にやったと記憶している。……あれは台風が去った日の夜のこと。少し風があったけど、流れる雲間から覗く星々を一生懸命探しては記録したものだ。……なぜだろう。長い間忘れていたはずなのにその時の父の顔が目に浮かんでくるよ」

「記憶は心が動いたときに残る……。きっとその時のあなたは、お父さんと一緒に星空の観察ができて嬉しかったんだと思います」

「……確かにそうかもしれない」
 彼はそう言うと、公園のフェンスに両肘をかけて身体を反らせ、上半身ごと空を仰いだ。

「目が慣れてきたのかな。さっきよりもたくさんの星が見える。まるで……僕が天に降り立ったかのようだ」

「あなたがそう感じるのは生きているからだ、ってことを忘れないでください。死んだら二度と味わえないんですから」

「……君がこういう時間を大事にしている理由が少しだけ分かったような気がする」

「そりゃあよかった」

「……あっ、流れ星」



「えっ」
 言われてすぐに見上げたが捉えることができなかった。少しばかり悔しい……。

「今って何かの流星群が見える時期だった気がする……。よーし、流れ星を見るまでは帰らねえぞっ!」

「……まるで子どものようだな」
 彼はあきれているようだ。
「年甲斐もない行動をして、恥ずかしくないのかい……?」

「おれはいくつになってもやりたいことをやる。馬鹿だと言われてもやる。それがおれらしい生き方だと思ってるんで、何も恥ずかしいとは思いません」

 躊躇わずに言ったら笑われた。

「……そういう生き方を選択できる君にますます興味が湧いてきた」

「なら、流れ星を探すのに付き合ってくださいよ。十五分……いや、十分でいいんで!」

「……ここは少し明るい。公園の真ん中へ行こう。その方が見つけやすいはずだ」
 彼は「イエス」の代わりにそう言って歩き出した。

「おかえりー! じゃーん! 見て見て! おいしそうでしょう! ……って作ってくれたのは翼くんなんだけどねぇ」

 帰宅すると、待ってましたとばかりにめぐが玄関先に顔を出した。手には輪切りメロンの器に盛られたフルーツポンチを持っている。

「ちょうどフルーツ缶が家にあってね。作るなら今しかない! ってことで二人の帰りを待ってたの。ね、早く食べよー? 永江さんも上がって上がって!」

「……この短時間で作れるものなのか」
 永江氏は翼の料理テクニックに驚いているようだ。
「幼稚園教諭をしているなんてもったいない……」

「あー、それって褒めてるつもり……? 俺は何でも一通りできちゃうタイプなだけだよ。子どもの世話はもちろん、料理もできるしピアノやギターも弾けるんだぜ? ……スポーツはからっきしダメだけどな。ま、俺に出来ないことは悠斗やめぐちゃんが補ってくれるから、俺たちは家族としてうまくやってけるってわけよ」

「そうやって君たちは得意を活かし、支え合っているのか……」

「そーゆーことー」

 居間はオバアが寝ていて使えない。手洗いを済ませたおれたちは、ダイニングテーブルを囲んでフルーツポンチを食べることにした。

「うまいな……」
 永江氏はメロンを頬張りながら呟いた。翼が即座にツッコむ。
「そりゃ、高級メロンだもん。うまいに決まってらぁ」

「いや、たぶん君たちと一緒だからそう感じるんだ。一人で食べても味気ないに違いない」
 彼は食べる手を休めたかと思うと、おれたちを見回した。

「めぐさん、悠斗クン、翼クン……。恥を忍んで頼む。どうか僕のことは名前で……孝太郎と呼んでほしい。君たちともっと親しい関係になりたいんだ」

 その顔は真剣だった。そんな彼の言葉を翼が優しく受け止める。

「オーケー、コータローさん。俺も悠斗もめぐちゃんも、あんたのことをもっと知りたいと思ってるよ。だからまたいつでも遊びに来いよな。食材を持ってきてくれればこんな風に、何かしら食べられる形にすることもできるし」

「ならば次回は君たちの食事時しょくじどきに顔を出すようにしよう。こっちに越してきてからは尚更、家庭の味が恋しくてね……」

 そう言った顔は、初めて会ったときよりずいぶん柔和になっていた。頑なだった心は、おれたちとの交流の中で少しずつだが確実に開かれていると感じる。

 いつかこの人を心の底から笑わせてやる。そして、生きててよかったと言わせるんだ。それが、しぶとく生き残ったおれに課せられた使命だと今は思っている。

◇◇◇

 翼の勤める園の夏休みが終わり、新学期が始まると聞いてぞっとした。忙しくしているつもりはないのに、いつの間にか夏が終わろうとしていたからだ。

 暦の上ではもう秋。しかし照る太陽はいまだ真夏を思わせる。子どもの頃、九月にもなれば涼しさを感じたものだが、この頃は秋らしい空気を感じる日も少なくなってしまった。

「こう……秋を感じるイベントとか、ないもんかなぁ?」

 つぶやきながらポストを覗く。と、綺麗な花柄の往復ハガキが一枚届いていた。めぐ宛てかな、と思って手に取る。が、宛名はおれになっていた。

「同期会のお知らせ……? 城南高校の……?」

 卒業アルバムを見ながら作成したのだろうか。わざわざ郵便で知らせるとは今時珍しい。このやり方では、卒業時と同じ家に住んでいる連中の元にしか届かないじゃないか。

 一体どんな人間が主催したのかと思って詳細を見てみる。すると驚いたことに企画者は生徒ではなく、数学担当の先生だった。奇しくも自身が初めて赴任した高校で教師生活を終える記念に、初めて受け持った学年の生徒を集めようということらしい。なんとも妙な形ではあるが、どうせ暇だし、たまにはそういった会合に出てみるのも悪くないだろう。

 彰博あきひろ映璃えりに同期会のことを話す。やはり二人の元にハガキは届いていなかったが、その日程なら行ってみたいという返事だった。

 映璃がおれ宛のハガキを見ながら言う。

「別に会いたい人がいるわけじゃないけど、こういうのってなぜか行きたくなるんだよね」

「それはエリーが今の人生に満足しているからだよ。もし、いまでも高校生の頃のエリーを引きずっていたら? 恥ずかしくて同級生の前に顔をさらせないでしょ?」

「んー、確かに」

 二人の会話を聞いて納得する。いくら暇だからって、話せるネタがない状態で同級生の輪に飛び込むのはあまりにも愚かだ。つまり、ちらっとでも「行ってみようか」と思ったおれもまた自分の生き方に満足しているんだろう。

「だけどおれたち、高三の時はずいぶんやらかしてるから、三人で一緒にいたらそれこそ話題にされるだろうな」

 先に好きだったおれと後から好きになった彰博とで映璃を奪い合った。はじめから勝負は決まっていたようなものだが、おれが暴れたせいで学年中のうわさになったから、違うクラスだったやつでも話題にすれば「あのことか」と思い出すだろう。

 今考えてみても、当時のおれは呆れるほどに水泳馬鹿だったな、と思う。もっと映璃のことを大事にしてやればよかった。そうすりゃ、おれの人生も変わっていたかもしれない……。過ぎたことを悔やんでも仕方がないのは分かっているが、こうして三人で昔話をしていると決まってそういう気持ちになるのだった。

 彰博は勝者らしく余裕の笑みを浮かべている。
「あの出来事は今の僕たちの原点だ。何を言われても僕は堂々としているつもりだよ」

「原点、ねぇ……」

「悠だって胸を張っていればいいさ。……あのときの出来事があったから今がある、そうじゃなかった?」

「……ああ、そうだな」
 しかし同級生の前でもそう思える自信がなかった。

◇◇◇

 九月某日。同期会は市内のホテルの一室で行われた。中に入らずとも入り口の前でうろついている人の多くが同期会の出席者だと分かる。ただ、顔を見てもパッと名前が出てこない。皆、三十数年の人生を重ねてきてすっかり容貌が変わってしまっているせいだ。若作りだったおれでさえ今では年相応。おかげで誰からも声がかからない。それはそれでほんのちょっぴり寂しいと感じてしまうおれである。

 会が始まると、すぐに主催の先生の挨拶が始まった。こういう場で話すのに慣れているのか、はじめからテンションが高い。しかし少し緊張していた一同は先生のジョークで徐々に笑いはじめ、話が終わる頃にはずいぶん和んでいた。

 立食パーティーが始まり、集まった百人以上が一斉に動き出す。会場が笑い声と食器類のぶつかり合う音で満たされる。

「おっ、鈴宮か。生きてたんだな。久しぶりー」
 料理を皿に取り分けていると声をかけられた。同じ水泳部だった佐々木だ。その手にはワイングラスが握られており、半分ほど飲んだ形跡があった。

「よぉ。……ずいぶんと肉付きがよくなったな。さては水泳してねえな?」

「んな暇あるかよ。こちとら忙しいサラリーマンやってんだぜ? ……そっちは当時と変わらない体型してんな」

「おかげさまで、水泳やってる暇があるんでね」

「へぇ……。風の噂では、泳げなくなったって……。十数年前には死んだって情報も流れてきてたけど?」

 確かにおれは一度水泳をやめ、この街を離れている。が、そのことを知っている人間はほとんどいないはずだ。一体どこから漏れ伝わったのか。人のうわさとは恐ろしいものだ。

「……昔のことは忘れたな」
 適当にはぐらかす。佐々木は大して興味がなかったのか、それ以上は聞いてこなかった。代わりにもっと前の話を引っ張り出してくる。

「ああ、昔っていえば、高三の時、野上と吉川の取り合いバトルしてたよな。ありゃあホント、見てて面白かったなぁ。鈴宮が負けるところまで含めて。その恋敵の野上と同じ大学に進んだって聞いたときにはびっくりしたけど。なぁ、あのあとも野上とは親しくしてたの? 結局あの二人、どうなった?」

 吉川というのは映璃の旧姓だ。予想していたとおりの話題になったので、こっちも用意していた返しをする。
「あのあと? ま、いろいろあったよ」
 嘘はつかない、けど真実も告げない。こういうのは曖昧にしておくのが一番だ。

 そこへ運悪く話題の二人が現れた。おれが「いろいろ」としか言わなかったからだろう。佐々木は大喜びで二人に話しかける。

「今ちょうど、高三の時の話をしていたところだ。……待てよ? 一緒に現れたってことは二人ってもしかして結婚したの?」

「そうだけど、何か?」
 彰博が堂々と答えた。佐々木は一瞬面食らったが、ひるまずに返す。

「へぇ! 野上、やるじゃん。……ベッドに誘うときもチェスを使ったりするわけ?」

「…………! お酒の席でも言っていいことと悪いことがあるわよっ……!」
 映璃が顔を真っ赤にして怒りをぶつけた。

「わりいわりい。吉川は相変わらず威勢がいいな……。鈴宮。こいつと別れてよかったかもしれないぜ?」

「……悪いが、こいつらはおれの家族なんだ。そういう言い方はよしてくれ」

「……は?」
 ヘラヘラしていた佐々木は目を丸くした。

「聞いて驚きなさい。悠は私たちの娘と一緒に暮らしてるのよ!」

「えーっ!!」
 映璃が言い放つと、佐々木は大げさに両手を広げた。

「……ってことは、鈴宮は野上と吉川ふたりの子どもと結婚したってこと……? いくつか知らないけど、犯罪だろ、それ……」

 思わず舌打ちをする。この男はどうしてこんな風にしか言えないんだろう。否定するのも面倒くさくなってきた。しかしこのままでは誤った情報をリークされかねない。どうしたものか……。

「佐々木、誤解しているようだからいちから説明するよ」

 そう言ったのは彰博だった。やつはおれと違って過ちを正すことを嫌がらず、懇切丁寧に事実を伝えた。途中、おれに関するいらぬ情報も漏れ出たが、かえってそれがよかったようだ。すべてを聞き終えた佐々木は、最後にはおれに同情の眼差しを向けた。

「鈴宮も大変な人生を送ってきたんだな。……実はおれも嫁さんに逃げられて今、別居中でさ。家に帰っても一人なんだよ。……なぁ、フリーなんだったらこのあと一緒に女の子、探しに行かねえ? 鈴宮と一緒ならおれにも勝算があるかもしれない」

「やめとく」
 即答すると、佐々木はさっと表情を変えた。

「……そういうキャラじゃなかっただろ。もっとこう……軟派な男ってイメージあったのに」

「悪いな……。ナンパがしたけりゃ他を当たってくれ」

「…………」
 佐々木は黙り込み、逃げるように群衆の中に消えた。その背中に向かって映璃が毒づく。

「最低なやつ! 昔から思ってたけど。だから奥さんにも逃げられるのよ。悠もそう思うでしょ?」
 
 同意を求められたが、おれは首を横に振る。
「いや……。おれも一歩間違えばあいつと同じ道をたどってたと思うよ」

「悠……!」

「確かに佐々木はどうしようもない野郎だ。だけどおれだって、ああなってた可能性があると思ったらそこまで悪くは言えないよ。……実はおれ、あの頃の自分が結構好きだったんだ。今よりずっと陽気で垢抜けていた頃の自分が。だから時々考えちまう。もし、あの頃のおれで居続けてたらどうなってたのかなって。もちろんやり直すことなんてできないし、戻りたいわけでもないんだけど」

「…………」

「大事なのは、自分の打った『この一手』が最善だったと信じられるかどうかだと僕は思うよ」

 彰博が静かに告げた。

「人は惑う生き物だ。だけど、悩み、苦しみ、考え抜いて決めた一手はいつだってそのときの最善だ。……失ったものや切り捨てたものを取り戻したい気持ちは分かる。だけど今の君は、それらを失ったからこそ最高に輝いているってことを忘れないでほしいな」

 それを聞いて、やはり彼と映璃を奪い合わなかったら、そしておそらく負けを喫していなければ、今の幸せを手にすることはなかったのだと痛感する。

「よーし。それじゃあ最高に輝いてる今を祝して乾杯といこうぜ。そうだな、今日の目玉はワインっぽいからそれにしよう」

「いいね」
 意見が一致し、酒が並ぶテーブルまで移動しようと足を向ける。

「ワインなら私も飲みたーい! 仲間はずれにしないでよー」
 映璃が年甲斐もなくかわいらしい声を出してすり寄ってきた。

「わかったわかった、一緒に行こうぜ」
 映璃の肩を抱く。そのとき、正面から数人の女が押し寄せてきた。彼女らはおれたちを見るなりキャーキャー騒ぎ始める。

「あ、鈴宮君、みっけ! あれ? 吉川さん、肩なんか抱かれちゃってぇ、ああ、羨ましいー」

 明らかにさげすんだ言い方と目つき。おれと映璃が付き合っていた頃から嫉妬心を抱いていた女の発言に違いないと思ったら案の定、散々おれに告白してきた山田のぞみだった。タイプじゃなくて無視し続けたんだけど、結局、卒業間際までつきまとわれた。

 山田は刺々しい口調で言う。

「今し方、佐々木君から聞いたよ。鈴宮君、今は吉川さんの娘さんと同居してるんだって? 高三の時、そこにいる野上君に愛する吉川さんを奪われて悔しがってたのは有名な話だけど、まさか三十年経っても思いを断ち切れず、彼女のお尻を追いかけ回してるとはね……。吉川さん、迷惑してない? 女の気持ちをこれっぽっちも理解できないやつなんて、さっさと見限っちゃえばいいのに」

「山田さん……!」

「待て……!」
 手を出しかけた映璃を制する。

「なんで止めるの?! 悠、馬鹿にされてるんだよ?!」

「だけど……本当のことだ」

「えっ……」

「だっておれは……」

 その時、会場のスピーカーからビンゴ大会のアナウンスが流れた。どこからともなくカードも回ってきて手渡される。そのどさくさに紛れ、三人そろって部屋の隅に移動する。

「……さっきの話の続きだけど、なんて言おうとしたのよ?」
 映璃は気になって仕方がない様子でおれに言い迫った。

「何って……。おれが、女の気持ちをこれっぽっちも理解できない男なのは事実だろ? だから映璃だっておれじゃなく彰博を選んだ。違うか?」

「……嘘。悠は別のことを言おうとしてた。私には分かる。ね、アキもそう思うでしょ?」

「そうだね。あまり喜ばしい内容じゃなさそうだけど」

「何だよ、お前ら……。いつからそんなにおれのことに詳しくなったんだ?」

「そりゃあもう……。長い付き合いだからね」
 彰博はため息交じりに言って、手元のカードに目を落とした。

「……こういうのはどう? どちらが先にビンゴするか競い合うって言うのは。もし僕が勝ったら、君の秘密を洗いざらいしゃべってもらう」

 彰博からこの手の提案をされて勝ったためしがない。だけど、端から勝負しないのはさすがに格好悪い。

「オーケー、その勝負、受けて立つよ。一応確認だけど、逆におれが勝ったときはちゃんと言うことを聞いてくれるんだろうな?」

「もちろん。犯罪行為以外なら何でも」

「ちっ、相変わらず言ってくれる」

 気合いを入れるため、飲み損ねていたワインを二杯引っかける。クワッとしてきたところで最初の数字がアナウンスされる。

「一番目はラッキーセブン! 七番です」

「七、あった」
「私も!」
「…………」

 幸先の悪いスタート。むしゃくしゃしたおれは、ワインをもう一杯飲みながらサンドイッチを頬張った。


* 


「……まさかこんなにあっさり勝負が決まるとは」

「くそっ……!」

 予想通り、惨敗だった。開始からわずか五分の出来事。しかも一番に上がったので、景品は某テーマパークのペアチケットだ。彼はそれを手に、満面の笑みを浮かべながらおれの隣に舞い戻ったのだった。

「ビンゴ、続ける? それとも僕の言うことを聞く?」

「……約束は約束だ。お前の言うとおりにする」

「なら、食事も済んだし、とりあえずここを出ようか。これだけの人がいる中で罰ゲームをさせるのはさすがに心苦しい」

「お前に良心が残ってたことに感謝するよ……」

 苦々しい思いを胸に会場を後にする。このあとさらに恥を掻かされることになるのかと思うと気が重い。

 駅のロータリーを過ぎると、行きつけのバー『三日月』が見えた。彰博は「ここで飲み直そう」と言って店の中に入っていく。

「いらっしゃいませ」

 声をかけてきたのは三十歳前後の女性バーテンダー。数人いる店員の中で、先代のマスターから店を任されたのは彼女だった。

 彼女が店主になってから女性客が一気に増えた。特に早い時間が人気で、今日も店内はほぼ満席に近い。

 マスターがにこやかに話しかけてくる。
「野上様。今日は奥様とご一緒ですか? 鈴宮様と三人でいらっしゃるのは珍しいですね」

「高校の同期会があったもので。まぁ、三人で二次会ってやつです」

「……申し訳ありません。いつものお席はあいにくと空いておりませんで。ご予約頂いていればよかったのですが……」

「三人で座れるならどこでも構いません」

「でしたら、カウンター席へ。ちょうど三席空いてますので」
 隣の客に詰めてもらい、映璃を真ん中に、おれが左側、彰博が右側にそれぞれ腰掛ける。

「……あのさぁ、早いとこ済ませてくんねえ? 焦らされるのは好きじゃねえんだ」

「まぁまぁ。まずは一杯ずつ頼んでからにしよう。……エリー、何を飲む? 君が選んだものを僕らも注文しよう」

「ほんと? それじゃあ……」
 映璃は少し考えてから「XYZにする」と言った。
「だって、思い出のカクテルだもの」

「いいチョイスだ」
 彰博はうなずき、それを三つ頼んだ。

 程なくしてカクテルが提供される。二人がグラスを交わす隣でひとり、一気に飲み干す。

「さぁ、約束だ。罰ゲームとやらを受けてやろうじゃないか!」
 指を差し、彰博にいい迫る。

「わかった」
 彰博はおれの言葉を聞いて酒をあおり、グラスを空にした。映璃はそんなおれたちを黙ってみている。彰博が目を細め、にやりと笑う。

「……君の本音を聞かせてくれないか。エリーのことを本当はどう思っているのか。そして本当はどういう関係でいたいのかを。遠慮はいらない。はっきり言って欲しい」

 予想外の言葉に戸惑う。

「……それが、罰ゲームの内容か。……聞いてどうするつもりだ? おれの返事次第では、お前だってただじゃ済まないはずだろう?」

「……僕だって覚悟の上だよ。だけど、このまま年をとっていくのはお互いに気持ちが悪いじゃないか」
 彰博はそう言い、二杯目のカクテルを注文すべく手を挙げた。

「ブルーマンデーを」
「おれにも同じものを」
「かしこまりました」

 空いたグラスが回収され、次の酒が出てくるまで手持ち無沙汰になる。かと言って、本題を口にするにはもう少し酒の力が必要だ。二人も同じなのだろう、黙ったままカウンターの向こう側を見つめている。

 こんなとき黙っていられないのがおれの性分。酒が回り出して口が軽くなったのをいいことに、思いつくまましゃべる。

「……まさか、本気にしてるのか? 山田のぞみが言ってたこと。おれが未だに映璃を好きでいて、あわよくば振り向かせようと家族のフリをしてつきまとってるって……。そりゃあ映璃は年齢より若く見えるし、話してて楽しいし、作る飯もうまいし、優しくしてくれるし、いい女なのは確かだけど……。だいたい、めぐのことが好きで結婚も考えてたおれが、どうして映璃に気があるって話になるんだよ? おれがいつ、映璃を口説いたって? 証拠があるなら提示して欲しいぜ」

 そこまで言ったところでカクテルが差し出された。綺麗な青色の液体が逆三角形のグラスに注がれている。おれと彰博は同時にグラスに手を伸ばし、同時に飲み干した。

「……それが君の本心なんだね」
 彰博がぽつりと呟いた。慌てて否定する。

「お、おれは決して家族のフリなんか……」

「僕が指摘してるのは、君がエリーを好きでいるってところだよ。……もしかしたらこれは僕の思い込みが過ぎるだけなのかもしれない。だけど、少なくとも君はエリーへの思いを断ち切れてはいない。無意識なんだろうけど、君は彼女の肩を抱くことがあるだろ? それが君なりの家族としての接し方なのだとしても、夫としてはいささか不快でね。それをエリーが拒まないのも問題なんだけど」

「待て待て。だったらまずは映璃を問いただすべきじゃないのか? 妻なんだし」

「エリーの気持ちはすでに聞いている。君への想いは『友だち以上恋人未満イコール家族』だそうだ。だけどそれは一定じゃなく、グラデーションになっているという。つまり、君を受け容れたくなる日もあれば、おしゃべりだけがしたいような日もあるということらしい。……納得できずにかなり詰問した。だけどそれが答えだと押し切られては、それ以上問いようがない。僕はその言葉を信じることにした」

「映璃の態度に余裕があると思ったら、そういうことかよ……」

 少しは映璃に罪をなすりつけられると思ったのに、すでに解決済みだと言われてしまったら、矛先は必然的におれに向けられることになる。

 完全にお手上げだ。そしてこれは罰ゲームだ。幸か不幸か酒も回っている。
「酔った勢いで言わせたことを後悔するなよ……」
 宣言し、一気に告げる。

「ああ、そうだよ。彰博の言う通り、おれは今でも映璃が好きだ。だけど、勘違いしないでくれ。今更若い頃のように愛し合いたいとは微塵も思ってない。めぐへの想いとはまったく違う。これだけは信じてくれ。……そう、映璃が感じているようにおれの情もグラデーションになってる。友情、恋愛、性愛、家族愛、博愛……。その間を行ったり来たり……だ。想いは、気持ちは、線引きできない。そうだろう? おれが映璃の肩を抱くのも決して下心からじゃない。なんつーかそうだな……。握手みたいなもんだよ」

「握手……? 肩を抱くのが握手……?」

「わりい。おれ、語彙力ねえんだ」

「知ってる。だけど、あまりにも表現の幅がなさ過ぎる……」

「なら、お前の知ってる言葉で補ってくれ」

「やれやれ……」
 さっきまで強面だった彰博は、おれの馬鹿な発言を受けて少しだけ表情を和らげた。

「君はもともと情熱的な男だ。だから想いが行動に表れてしまう、と。そういうことかな?」

「それだよ、それ! な? 映璃」
 いい気分のまま抱き寄せる。映璃は嫌がることなくおれにもたれた。

「私、悠に肩を抱かれるの、好きだよ。すごくあったかくて守られてる感じがして……。大事にされてるって思えるの」

「おれも同じだよ。映璃のそばにいると落ち着くし、心がぽかぽかする。それは家族だからじゃなくて、映璃が映璃だからだと思ってる。……高校生の頃のおれはそんなふうに思えなかったから選んでもらえなかったんだろうけど、今のおれなら……」

「そうだね。今の悠は人として、とても魅力的よ。……だけど、ごめんね。悠が言ったように、私も悠を恋愛対象としてみることが出来ないわ。残酷なことを言うようだけど、それはアキに対しても同じ。愛の形が変わってきたって言うのかな……。そう、私たちはもう成熟しきったのよ。そして次のステージに進まなければいけなくなったのよ。

 ……どんな風にこの先の人生を歩めばいいのか、私にはまだ見えてこない。だけど私はひとりじゃない。アキがいて、悠がいて、子どもたちがいる。だからきっと立ち止まらずに歩いて行ける。……もうあの頃のようにいつまでも迷ったりはしないわ」

「ああ、そうだな」

「さすがエリー。語彙の少ない僕らの思いを見事に言語化してくれたね。エリーのそういうところが好きだ。ホント、尊敬するよ」

「えっへん! 留年しかけた二人とは違うのよ!」
 映璃は腰に手を当て胸を反らした。

「そういう仕草、かわいくて好きだぜ!」
 調子に乗ってぎゅっと抱きしめる。すかさず彰博が怒りを押し殺したような声でマスターに注文する。

「すみません、鈴宮悠斗にジンベースの方のアースクエイクを。一気に潰したいんで」

「潰すって……。おれを殺す気か……?」

「死にたくなかったらエリーから離れてくれる?」

「……だってよ、映璃。どうする?」
 
「んー……」
 映璃はあごに人差し指を当ててじっくり考え始めた。そのうちにカクテルが出来上がり、おれの前に提供される。

「じゃあ、こうしよ?」
 何かよからぬことを思いついたのか、映璃がカクテルグラスを持ち上げた。

「……これは私が飲む。これ以上、私を巡って争わないように。……ね?」

 言うが早いか、映璃は四十度近いカクテルをぐいっと飲んだ。おれたちのように一気に飲み干すことはできなかったが、その心意気に胸を打たれたおれたちは顔を見合わせ、反省した。

「……やれやれ、エリーには敵わないよ」

「全くだ。……残りはおれたちで片付けるか」

「そうしよう」
 おれを潰すために作らせたカクテルを半分ずつ飲む。半分だって充分酔えるものを飲ませようとした彰博の怒りを思い知る。

「……お前、本当に映璃のことを愛してるんだな」
 おれが呟くと、彰博はチェイサーを飲み、ふっと息を吐いた。

「……もちろん愛してるよ。だけど時々不安にもなるんだ。エリーがさっきみたいに、悠に喜んでその身を預けているようなとき、エリーの心は一体どこにあるんだろうって。愛していると口では言っていても、その心はとっくに僕以外の誰かに向けられてるんじゃないかって」

「アキ……」

「エリーの心がその時々で揺れるのは聞いた。悠が魅力的な男だというのも分かってる。中年になった僕らが次のステージに進まなきゃいけないってことも……。僕も模索しなきゃいけないな。これから進んでいく道を。君とのこれからを」

「うん。私も一緒に探すわ。アキとはこれからも同じ景色を見ていたいから。……だけど、その道には他の人もいていいと思う。例えば悠とか。二人より三人の方が楽しいじゃない?」

「……そうだね。きっと、そうだ」

「ありがとな、映璃。二人の人生におれを加えてくれて」

「こっちこそ。好きでいてくれてありがとう。これからもよろしくね」

 昔と変わらない顔で微笑みかけられ、嬉しくなってつい頭を撫でる。それを見てムッとした彰博に宣言する。

「映璃とはこれからもこんな風に関わっていく。これが、罰ゲームの問いに対する答えだ。……おれ、自分は変わっちまったんだと思ってた。今を幸せに生きるためにはそれも仕方がなかったんだって、思い込もうとさえしてた。でも、違った。変わったんじゃなくて、使い分けが出来るようになっただけなんだ、きっと。だからおれは映璃の前では昔と変わらずに甘えるし、映璃にもそうしてもらいたい。そして彰博にはこんなおれたちを……可能であれば受け容れて欲しい」

「……君の想いは確かに聞いたよ。エリーとの関わり方も了解した。ただし、エリーと会うときは必ず僕も同席させてもらう」

「さては、信用してねえな?」

「そうじゃない。……いい雰囲気に見える二人の仲を引き裂く。そして優越感に浸る。それが、二人といるときの僕の新しい関わり方だ」

「…………! ひでえ性格してんな! お前、いつからそういうキャラだよ?!」

「たぶん、君を名前で呼ぶようになってからじゃないかな。あの日以来、僕は君に遠慮しなくなって本当にらくになったんだ。感謝してるよ」

「感謝されても嬉しくねえし!」
 馬鹿な会話をしていたら、映璃に笑われた。

「あっはは! いいね! 昔より楽しいよ! これからはこんな感じでやってきましょ!」

「了解。……ってことで悠、もう一杯、どう?」

「……オーケー、オーケー。ただし、お前のおごりなー」
 もうずいぶん酔ってはいるが、この二人とこんなにも腹を割って話せたのだ。こうなったらとことん思いの丈をぶつけようと決める。そんなおれの心中を察したのか、彰博が言う。

「僕の本性を知っても変わらずに付き合ってくれる友人は君だけだ。ありがとう」

「あぁ、まぁ……、お互い様ってやつよ」

 深く知ることは深く傷つけ合うことでもある。だがおれたちは今、そこを乗り越えた。新しく切り開いた道の先に何が待っているのかは分からない。それでもおれたち三人は、少なくともしばらくは同じ景色を見ながら歩いて行くと誓った。一人では決して見ることの出来ない世界。それが見られると思うと今からワクワクするのだった。


続きはこちら(#11)から読めます


悠斗、彰博、映璃が主人公の小説「チェスの神様」はこちら

キンドル版もあります!(内容は同じですが、こちらは縦書きです)


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いろうた@「今、ここを生きる」を描く小説家
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