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【連載】チェスの神様 第三章 #3 悠斗

#3 悠斗

 夜が更けるにつれ、罪悪感と自己嫌悪に襲われる。鈴宮悠斗という、だれもがうらやむ男を手に入れておきながら、平凡な、野上彰博という男を好きになって乗り換えようとしている私。
 ――あんたは最低な女よ……。
 もう一人の自分が頭上からずっとささやき続けている。
 明日はアキと会って、英語と古典を教えるんだから。もう寝なきゃ……。
 無理やり自分に言い聞かせ、寝る支度を済ませる。気づけば二十三時になろうとしている。
 と、スマホから、着信を知らせる振動音がした。アキかもしれない……。私は慌てて電話に出た。
「もしもし……」
『おっ、まだ起きてたか』
「……悠」
『なんだよ、そのがっかりした声は』
 単純に、ばつが悪かった。今日一日、面と向かって話し合う機会をあえて作らなかったのだから、きっと抗議の電話に違いないと身構える。
『野上からの電話だと思ったんだろ。ったく、だいたいなんでよりによって野上なわけ? せめて理由、聞かしてくんねぇかなぁ?』
 悠は怒らなかった。意外なほど、普段通りのしゃべり方。それが逆に罪の意識を強くさせた。
「その前に……。夕べは突然『別れよう』だなんて言ってごめん。ちゃんと話し合いもしないで、気を悪くしたわよね? 本当にごめんなさい」
『まったくだ。掛け直しても出ねぇし。俺、なんかしたか? って、昨日の夜は全然寝れなかったぜ』
 ごめんなさい、ともう一度謝る。
「だけど、ほかに言葉が思いつかなかったの。何を言っても言い訳にしかならないと思って」
『それもひでぇなぁ。一応確認するけど、本当に野上のことが好きなの?』
「……好きよ」
 悠が深く息を吐いたのが聞こえた。
『俺、今日だけは遅刻しないで学校行って、手当たり次第聞き込みしたんだぜ? そしたら野上と映璃が一緒にいるのを見たっていう話を入手してよぉ。もう頭がパニックになってさ』
「だからって、殴ることなかったじゃない」
『今朝はとにかくむしゃくしゃしてたんだ。寝不足だったし。映璃は悪くない。きっと、野上にそそのかされたに違いないって自分に言い聞かせてたら、ああなった。……まぁ、野上に手ぇ出した時点で嫌われたかもしれねぇけど』
「……そうね。暴力をふるう人は嫌い」
『けどさぁ、別れる理由くらい言ってくれなきゃ、こっちも引くに引けねぇじゃねぇか』
「……理由があれば別れてくれるの?」
 悠の言葉を逆手に取ると、
『た・と・え・ばの話! 俺、野上に負けてるところがあるだなんて思ってねぇから』
 とすぐに否定された。
 この、自信たっぷりの口調。誰かに似ている。ちょっと考えて、父のことを思い出した。
 ジョークで人を笑わせるのが好きな人気者。周囲には多くの人が集まるが、少しでも意見が食い違うと、自分は間違っていないと言い張り何としても押し通す。そして自然体で惚れやすい。そう、悠も父も。
 この瞬間、私は気づいてはいけない事実に気づく。
 もしかして、私は悠に、不在の実父の姿を重ねていたのではないか、と。
 年に一度でも顔を見せることによって、あの男はあの男なりに私の父であり続けようとした。そして作戦通り、私の中で父は父として認識されていった。
 ある期間を除いて、ほとんど「訪問」程度の時間しか顔を見せなかった父。だが会った時は必ずと言っていいほど、「どうして突然帰ってきたの?」という怒りと「どうしてすぐに帰ってしまうの?」という矛盾した気持ちを抱いては混乱した。捨てられたはずなのに、やっぱり父にはそばにいてほしいという子供心が常にあったのだ。
 もっと一緒にいてほしい。認めてほしい。愛情を注いでほしい。その思いが形を変え、父に似ている悠を好きになることで心の穴を埋めようとしたのではないか? もしそうだとするなら、私が悠に対して抱いていた感情は「恋」ではなく「慕情」のようなものだったのではないか……。
 自分の気持ちを知った瞬間、壊れた水道のように、涙が出てきて止まらなくなった。静かな沈黙の時が流れた。
『……泣いてんの? 野上のこと、悪くいったくらいで泣くなんて。……それとも、そのくらいやつのことが好きなのか?』
 泣き出した理由が分かるはずもなく、悠は見当はずれなことを言った。
「そうじゃないの……」
 そんな気持ちで付き合っていた自分が情けなく、また申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「悠のこと、好きになろうとしたのよ。だけど、好きになりきれなかった。やっぱり、これ以上悠とは付き合えない」
 涙声ではあったが、きっぱりと告げた。悠は戸惑っている様子だった。
『どうしてだよ? 部活とスイミングスクールの掛け持ちしてて、なかなか会えないから? バカなことしか言わないから? それとも……体を求めすぎるから?』
 そう。父との共通点の一つとして、悠は会いたいときに会えなかった。向こうの都合で会いに来ては一方的にしゃべり、体を求め、拒めば怒った。そのことが不満だったし、孤独を感じさせた。
「正直、すぐに会えないのはつらい。付き合ってるのに、全然付き合ってる感じがしないの。電話を掛けられるのも遅い時間しかないし。今日はたまたま起きていたからいいけれど、普段ならとっくに寝ている時間よ」
『それは悪いと思ってる。でも、大会が終わるまでの辛抱だ』
「悠は大学もスポーツ推薦、狙ってるんでしょう? 部活を引退してもスイミングスクール通いが続くなら今とあまり変わらないと思う」
『……寂しいの?』
「そうよ。寂しいわよ。いつだって、会いたいときに会えないなんて寂しすぎるわ」
『そっか。そりゃあ、俺が悪かったよ。ごめんな』
 悠は素直に謝った。そうあっさりと非を認められたら、怒っている私のほうがばかみたいじゃない。なんだか惨めだった。
「……ねぇ、聞いてもいい? 私のどこが好き?」
 こんな私のどこが好きなのか。改めて聞いてみたくなった。
『笑った顔が好きだから!』
 わかりきったことを言わせるな、と言った口調だった。
『映璃にはいつでも笑っててほしい。だから、とっておきの笑い話は映璃に最初に話したくて、いくつもとってあるんだぜ』
「悠……」
『……んでも、ちょっとしゃべりすぎかなぁって、いつも反省するんだ。映璃の話、聞いてやれなかったなぁって。でも俺、バカだからさぁ。泳ぐとすぐにそんなことも忘れて同じことを繰り返しちゃってる。頭のいい映璃のことだから、俺のこういう部分が嫌いなのかなって。別れようって言われて、必死に考えてようやく気付いたんだ。……ってまた俺ばっか、しゃべってるし!』
 自分突っ込みを入れる悠がおかしくて少しだけ笑う。悠も『おっ、笑った』と嬉しそうに言った。
『そうそう。何で俺ばっかしゃべるかってぇと、映璃がしゃべんないからだよ。自分のことは何も教えてくれない。だから、もし人には言えない何かを抱えてるんなら、俺が笑わせて心を開かせてやろうっていう思いもあるんだぜ。まぁ、結局俺の力じゃ無理だったってことなんだろうけど。野上のやつ、どうやってお前の心を開いたの? ひょっとして、チェスを通して人の心を読む力でも持ってるのか?』
「まさか」
『じゃあ、どうやって……』
 悠は本当にわからないようだった。
「一番困っているときそばにいてくれたから、かな」
『……昨日の朝ってこと?』
「そう」
『そりゃないぜ。日曜も一日中、スイミングスクールで泳いでたんだ。翌朝、五時台になんか起きらんねぇっつーの』
「アキも早起きは大の苦手よ。でも電話に出て、話を聞いてくれた」
『……俺が力になれなかったから、別れてほしいってことなのか』
「アキは私に生理が来ないことを心配してくれた。そして体に自信がないなら、本当のことを知って治せばいいって後押ししてくれたの」
『生理が来ないのは俺だって聞いてたけど、そんなに深刻な病気ならどうして相談してくれなかったんだ?』
「私だって、深刻なものだと知ったのは昨日よ。アキと病院に行って医師の診察と検査を受けてね」
『……そうだったのか』
「悠はいい人だって心から思ってる。本当よ。もし出会うときが今じゃなかったらきっと、ちゃんと愛し合えただろうなって思う。でも、今の私には寄り添ってくれる人が必要なの」
 それは悠じゃなくて、アキ。そう続けようとした。しかしその前に悠が口を開く。
『……俺だって、寄り添えるよ』
「えっ……」
『俺だって映璃の助けになりたい。病気って、治療すれば治るんだろ? どんな病気か分かってんなら、俺にもサポートできる。今すぐってわけにはいかないけど、できるだけ映璃の都合も聞いて合わせるようにするから』
「気持ちは嬉しいけど、いつ治るか、そもそも、今更治療をはじめて治るものなのかもわからないんだよ? それでも……私のことをずっと好きでいてくれる? 一生、セックスできないかもしれないとしても」
『一生って、そんな大げさな』
「たぶん、そのくらい深刻」
 悠は押し黙った。しんと静まり返った室内で、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
 やがて悠は声を発した。
『少し時間をくれないか。野上が条件つけてきたあのテストの結果が出るまで。しばらく、真剣に考えてみる』
「……そう」
『ちなみに聞くけど、野上のやつ、なんて言ってるの?』
「私たち、昨日そういう関係になったばかりよ。まだ将来の話なんて何もしてないよ」
『それでも映璃は野上が好きなんだろう? 野上を選ぼうとしてるんだろう?』
「…………」
『まぁいい。今日はもう遅いから、お互いまともに選択ができる頭じゃねぇ。映璃もさ、少し考えてみてくんねぇ? 俺と野上、どっちと正式に付き合っていくか』
「……うん」
 答えはすでに決まっているはずだった。なのに悠が、私の体のことを、将来を考えるだなんていうから、私の心はまた少し揺れ動いてしまっている。数時間前、アキと強く抱き合い、いまにもキスしてしまいたくなるほど気持ちが高まっていたというのに。
 電話を切り、布団に体を沈めて考える。
 私の体と向き合い、心の底からサポートしてくれるアキと、笑いで私を楽しませ、元気にしようとしてくれる悠と。
 二人の男から求愛され、どちらを選ぶか悩んでいるなんて、私はなんてぜいたくなのだろう。そしてなんて罪な女なのだろう。

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いろうた@「今、ここを生きる」を描く小説家
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