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【一気読み・長編小説】 「あっとほーむ ~幸せに続く道~」第一部・第二部

これまで投稿した「あっとほーむ~幸せに続く道~」の第一部・第二部を再編したものです。大幅な改変点がある箇所は、目次から分かるようにしてあります。大長編ではありますが、途中、AIによるイラストの挿絵を追加していますので、一読した方も、初めての方も、ぜひ読んでみてください!

登場人物紹介:

鈴宮悠斗すずみやゆうと
彰博、映璃とは高校の同級生。二十代のころ水難事故で娘を亡くし、それを機に離婚。その後は独身を貫く。八年前に母の危篤の知らせを聞いて帰郷し、それ以来故郷で暮らしてきた。四十六歳。

野上のがみめぐ:
零歳の時、彰博、映璃の養子となる。八歳のとき悠斗と出会い、それ以来「友だち」として交友を深めてきたが、実は早くから好意を寄せていた。高校一年生。十六歳。

野上翼のがみつばさ
彰博の甥。彰博、映璃のことを兄姉のように慕って育つ。めぐは従妹いとこに当たるが以前から好意を寄せてきた。幼稚園教諭。二十七歳。

野上彰博のがみあきひろ
めぐの養父。悠斗とは高校時代の同級生。彼が娘を亡くしてからと言うもの、放っておけずに何かと気にかけている。スクールカウンセラー。四十六歳。

野上映璃のがみえり
めぐの養母。生まれつき子どもが産めない体だったため、少しでも子どもに関われたらと、幼稚園教諭の職に就いた。そうするうちにやはり自分でも育てたいと思うようになり、養子をもらい受けた。幼稚園教諭。四十六歳。

高野木乃香たかのこのか
めぐの友人。めぐと同じ城南高校の一年生。父親は洋菓子店の経営、母親は代々神社の家系に育ち、現在は宮司を務める傍ら洋菓子店の販売員をしている。


第一部


<悠斗>

 急逝した父の旅立ちに尽力してくれた野上のがみ夫妻からの急な話に、おれは動揺していた。

 夫妻とは高校時代の同級生だが、彼らの娘を含めて付き合いだしたのは今から八年前。母が亡くなる前後で、落ち込んでいたおれを慰めてくれたのがきっかけだった。

 実の娘を水難事故で亡くし、それを機に離婚を経験したおれの唯一の家族だった父との暮らしは、まだまだ続いていくもんだと思ってた。なのにもう、父の声が実家に響くことはない。がらんどうの一軒家に戻ったとき、おれを襲ったのは悲しみよりも恐怖心だった。

 そんな折りに提案されたのだ。「本当の家族になって欲しい」と。

◇◇◇

 本当の家族になる――。つまり彼らの最終的な望みは、娘との――めぐとの――結婚だ。おれは長らく独り身だし、めぐもおれになついてる。加えておれと、めぐの両親である彰博あきひろ映璃えりとは旧知の仲だから安心もできる……。と、こういう具合だ。

「……分かってるよな? おれはお前らと同い年。四十六歳のおじさんなんだぜ?」

 そう言って拒んではみたものの、彼らが考えを引っ込める気配は一切なかった。むしろ、こっちが折れるまで何度でも言い続けるつもりでさえいるようだった。

 事実、めぐのことは好きだ。日ごと、女になっていく彼女の魅力に取りつかれそうにもなる。だけど、あまりにも年が違いすぎる。許されるはずがない。彰博も映璃も、そんなことは充分承知しているはずなのに。

「……めぐとはずっと『友だち』だと思って接してきたんだ。急にそんなことを言われても、正直戸惑う」
 おれの素直な気持ちを伝えても、彰博は淡々とした口調で言う。

「もちろん、急ぐ必要はない。めぐだってまだ十六歳だ、ゆっくり考えてくれればいいとも思ってる。でも、鈴宮すずみやには僕たち家族の考えを知っておいて欲しかったんだ」

「おい、めぐはどう思ってんだよ……」

 たまりかねて、さっきから押し黙ったままの彼女に声をかける。めぐは意味ありげに微笑みかけてきただけだった。苛立ちが込み上げる。もちろんおれに対して、だ。

 ここでおれがはっきりとした態度をとれば――自分の気持ちに正直になって「イエス」と、あるいは友人として付き合い続けると決意して「ノー」と言えば――済む話なのに、その一言が出てこない。いつの頃からかおれは、曖昧な態度を取って人生から逃げることでしか生きていけなくなっている。

 こんなおれの生き方を、彼らはずっと見てきた。だからこそ無謀な提案をしてきたに違いない。分かってる。ただ前に進むだけじゃなく、今度こそ自分を幸せにする道を選ばなきゃいけないってことくらい。

「……お前らの言い分は分かった。でも、少し……いや、どのくらいかかるか分からないけど……時間をくれないか。大丈夫、ちゃんと、答えは出す」

 彼らからの信用を失わないためにも、そう宣言するしかなかった。もうこれ以上、逃げに徹してはいけない。おれもいよいよ、覚悟を決めなきゃいけないと思って絞り出した言葉だったが、正直、胸が苦しい……。

「ねえ、悠くん。ドライブに連れて行ってよ。風を感じたい気分なの」
 おれの言葉を聞いていくらかほっとしたのだろうか。めぐがいつものようにすり寄ってきて言った。

 八歳のときから、めぐはおれのことを「ゆうくん」と呼び続けている。もし「鈴宮さん」か「悠斗ゆうとさん」と呼ばせていたら、こんな話を切り出されることもなかったんじゃないか、と思ってみるが時すでに遅し、だ。

「ああ、分かったよ。おれもちょうど、外の空気を吸いたいと思ってたところだ。このうちの空気は重すぎて、とても吸えたもんじゃねえ」

「えー? 重くしてるのは悠くんでしょー?」
 彰博と映璃は笑ったが、めぐの指摘が図星過ぎて、おれだけは笑えなかった。

◇◇◇

 愛車のカワサキ「ゼファー」にまたがる。実の娘、愛菜まなの死を機に一度手放した二輪車バイクだが、めぐと出かけるのにちょうどいいからと、奮発して再び手に入れた。めぐもすっかり後ろに乗るのが当たり前になっていて、慣れた様子でヘルメットを被り、おれの腰に腕を回す。

 生きていれば、後ろにいるのは愛菜だったはずだが、それは言うまい。いや、実の娘ならこんなふうに父親とバイクでドライブなどしないのかもしれない。現にめぐは、父親と二人で出かけることはほとんどないようだ。

「パパの車の助手席に座るのも悪くないんだけど、決まって哲学的な話が始まるからつまらないんだよね。でも、悠くんはそういう話をしないから、一緒にいて楽しい!」

 めぐはヘルメットのスピーカーを通して、父親とドライブしたくない理由を話してくれた。あいつがめぐとドライブしているところを想像したら可笑しくなって、小さく笑う。

「あっ、悠くんが笑った! よかったぁ。さっきまでずっと怖い顔してたから心配してたんだ」

 よほど思い詰めた顔をしていたのだろうと想像する。実際、父を亡くして日が浅い上にあんな話をされたのだから、笑えなくても許して欲しいと思ってしまうのだが、めぐを不安がらせてしまったことは素直に反省する。

「ごめんな……。おれ、不器用だから」

「ううん。でもね、こういう時こそわたしたちを頼って欲しいの。……出会ったときだったら頼りなかったかもしれないけど、今ならもう少し力になれるはずだから」

「ありがとう。だけど、めぐにはいつだって力をもらってるんだよ。だから……」

 ――あえて家族にならなくてもいいんじゃないのか……?

 そう言おうとしたが、声にならなかった。めぐを悲しませたくないという気持ちと、おれの深い部分にある思いとが発声を阻止したみたいに思えた。

 実家に戻って父と二人で暮らしていた八年を一言で表すなら「幸せ」。これ以外に表現しようがない。しかし、父の死によって「幸せ」な日々はあっさりと終わりを告げた。

 そう、幸せは永遠には続かない。むしろ、人生が充実していればいるほど、失った時の悲しみや落胆も大きい。なのに、彼らは再びおれを「幸せな日々」に連れ戻そうとする。

 人生はその繰り返しだと言うのなら、きっとそうなのだろう。でもおれは、再び身を裂くような悲しみを経験するくらいなら、はじめからほどほどの人生でいい。愛菜を失い、離婚して一人、細々と暮らしていた時のように、生きるために飲み食いするだけの人生を選びたい……。

 ――本当に一人になったら死ぬぞ! それでもいいのか?!

 内なるおれが叫ぶ。さっきめぐに言いかけた言葉にブレーキをかけた存在だ。こいつは、時々現れてはおれの生命を繋いできた。どうしても生きたいと切望する、生に貪欲なやつだ。

 ――分かっているだろう? 父親を失って一人になったあの日、彰博たちがいなかったら死んでいたことくらい。潔く野上家の一員になっちまえよ! お前はもう四十六歳、若かったあの頃とは違うんだ!

 その言葉に、数日前の息苦しさがよみがえる。

 最初の晩は単に動悸がするだけだった。だけど次の日になって症状がひどくなった。何もしていなくても息があがり、しまいには呼吸困難に陥ってすぐに病院へ運ばれたのだった。

 医者は過度のストレスが原因だと言い、時の経過とともに改善すると告げたが、内なるおれも彰博たちもその言葉を信じてはいないらしい。精神的に安定するまでの間だけでも一緒に暮らそうと、自宅の一室を提供してくれたのもそういった理由からだ。

 彼らの優しさにはいつだって救われている。ありがたいとも思う。だけど、自分のことすら幸せにしてやれないおれが、めぐを幸せにできるのか? 一緒にいたら、幸せどころか不幸にしてしまうんじゃ……? どうしてもそう思ってしまうおれがいる。

◇◇◇

 市内のドライブコースを一回りし、野上家に戻ってみると、見覚えのあるナンバーの二輪車――スズキの『Vストローム』――が一台、停まっていた。

「あっ、つばさくん来てるんだ」

 めぐが言ったのを聞いて、このバイクが彰博のおい、野上翼の愛車だったことを思い出す。実家が近いということもあり、時々ここへ遊びに来るようだ。おれも何度か顔を合わせたことがある。若い頃の彰博によく似た風貌ながらも、野球部主将だった父親の性格を受け継いだ、非常に快活な青年である。

「ただいまー」

 めぐが明るい声で玄関ドアを開ける。が、それとは対照的に、中から聞こえてきたのは翼の怒りに満ちた声だった。緊迫した空気が家を支配している。おれたちは部屋に上がることもできずに立ち尽くした。

 翼と彰博のやりとりが聞こえる。

「アキにいはもっと慎重な人間だと思ってたのにがっかりだよ。どうして……よりによって鈴宮さんなんかに、めぐちゃんをあげようと……?」

「あげるだなんて、人聞きの悪い。僕はめぐの気持ちを確かめた上で提案したまでだよ。それに彼はまだ『うん』とは言っていない」

「だけど……! あの人は八年前から何も変わってないじゃないか。全然、成長してない。そんな人と結婚しても、めぐちゃんが不幸になるだけだ」

「翼くんが息巻くのは、めぐのことが好きだからかな?」

「……だって、初めて出会ったのは俺が十一歳の時だよ? 赤ちゃんの頃から面倒を見てきたんだもん。いくら鈴宮さんが気の知れた友人だったとしても、いきなり結婚前提に話を進めるアキ兄たちのやり方には賛成しかねる」

「そうだよね。翼くんはとりわけ、めぐのことを可愛がってくれてたから、そう思うのも無理はない。でも、それは鈴宮だって同じじゃないかな?」

「大事にしてくれる人ならいいわけ? だったら俺にも資格はあるはずだ」

「でも、君はめぐの従兄いとこ……」

「いとこ同士の婚姻は法律上問題ない。そうでなくても、めぐちゃんはアキ兄たちの養子で血の繋がりはないじゃないか。アキ兄はただ、自分の決めたことを押し通したいだけだ。……どうしてもこのまま話を進めるつもりなら、こっちも強硬手段に出るしかない」

「いったい何を……?」

「……あの人には、いなくなってもらう。それしか、方法はない」
 恐ろしい台詞が聞こえた直後、重々しい足音が玄関に近づいてきた。

 ――逃げなきゃ、危険だ。殺されるぞ……!

 「命、第一」の内なるおれが叫んだ。けれどおれの足は一歩も動かない。めぐもわなわなと震え、その場から動けずにいる。じきに足音とともに彼らが姿を現す。

 まさか玄関にいるとは思っていなかったのだろう。翼は驚いた表情でおれを見た。しかしすぐにおれの胸ぐらを掴んで引き寄せる。

「……今の話、聞いてた?」

「……ああ」

「だったら話は早い。あんたには、いなくなってもらう。それが野上家のためだ」

「……おれを、殺すのか?」

「……そうだな、赤ちゃんよりも甘えん坊のあんたを殺すのは簡単だよ。だけど俺は、犯罪者になる気はない」

「えっ?」
 目を丸くすると、翼はあざ笑い、おれを突き飛ばした。

「テストさせてもらうよ。あんたが、めぐちゃんの夫にふさわしい男かどうかを。そのために、ある場所で働いてもらう」

「……ある場所?」

「そう。ある場所だ……」
 翼はにやりと笑った。殺さない、と言った彼だが、ちょっとでも油断をすれば隠し持ったナイフで殺されるのではないか、という恐怖心は拭えなかった。

「翼くんは優しい子だから心配しなくても大丈夫だよ」

 野上家の面々は口をそろえて言う。しかし、その言葉が真実ならなぜ、あんなにも鋭い目でおれを睨み付け、「殺す」などと言ってきたのか。心の底からおれを憎んでいなければ、あんなふうには言えないんじゃないか……?

 ただでさえ眠れないというのに、翼のせいで余計に寝付けなかった。

 翌朝、各々が出かける支度をしていると、翼が例の二輪車でやってきた。笑顔で迎える野上家をよそに、一人おびえる。だが翼は部屋の隅にいるおれを見つけるなり、「着いて来いよ」と言って表に引きずり出した。

「一緒に来てもらう。今日は貴重品だけ持ってくればいい」

「……いったいどこに連れて行こうって言うんだ?」

じきに分かる」
 翼は昨日と同じように、にやりと笑った。

「結構ビビってただろう? ここに来るまでは」

「結構も何も……。どんな恐ろしい目に遭わされるかと想像したら、夕べは眠れなかったほどだ」

「どうよ? おれの迫真の演技は。実は高校のとき演劇部だったんだよ。おかげで上手くいった。……ってことで、あんたも俺並みの演技でよろしく頼むよ」

「……本気か?」

「これもめぐちゃんのためだと思って頑張ってくれよ」
 そう言われては返す言葉もなかった。

 着いていった先は何のことはない。翼と映璃の職場である、私立の幼稚園だった。大いに身構えていたおれは、あまりの落差に茫然自失だったが、今日の仕事内容を聞かされたときには開いた口が塞がらなかった。

 手渡されたのは、サンタクロースの衣装。今日、園で行われるクリスマスイベントでサンタに扮するのがおれの仕事、らしい。

 翼が耳打ちをする。
「……いつも来てくれる『サンタ』が急に来られなくなっちゃって、困ってたんだ。適当な人もいないから昨日の時点では俺がやることになってたんだけど、正直、バレるんじゃないかと心配してたんだ。そんな時あんたと会ったから、これはもう、やってもらうしかないなって」

「事情はともあれ、どうしてこれがめぐとの話と繋がるのか、理解できない」

「ま、詳しい話は後ほど。朝の園は忙しいんでね。とにかく、頼んだぜ。あとのことは映璃先生の指示に従えばオーケーだから」

 そういうと、翼はかわいらしいエプロンを身につけて仕事モードになり、あっという間にどこかへ行ってしまった。おれは職員室にぽつんと取り残された。

 ひっきりなしに先生たちが出入りしている。が、誰もおれに声をかける先生はいない。とにかく、めまぐるしく動き回っている。それを見ているうち、おれの周りの時間だけが止まっているように感じはじめる。

 いや、実生活を思い返してみても、周りのときはどんどん進んでいくのに対し、おれの方はほとんど動いていない。むしろ時々後退すらしている。前を向いているようで、一人になった時にはいつも後ろを、過去を見て生きてきたのは誰が見ても明らかだ。

 おそらく翼が指摘しているのは、おれのこういう姿勢だ。そう。おれはめぐたちがいなければ「今ここ」を生きることができない。本当に一人になってしまったら、おれは再び過去の記憶に引きずられ、今度こそ戻ってくることはできないだろう。

 ――何だお前、ちゃんと自覚してるんじゃないか。だったらもう、迷うことはない。この仕事を完璧にこなして翼に認めてもらおう。そうすりゃお前も、晴れて野上家の一員だ。

 内なるおれがそう言った。今度ばかりは同意する。

(そうだな……。お前の言うとおりかもしれない。これはきっと、おれに与えられた最後のチャンス……。)

 おれには演劇の経験はないが、幸いにしてこの八年、スイミングスクールのコーチとして子どもたちと接してきた経験ならある。だから子どもに囲まれたり、話したりする分には何の問題もない。

 四十六歳。独身。たくさん恥をかいてきた。失うものは、何もない。今更、何を恐れる必要がある?

(よぉし……! こうなったら、サンタでも何でもやったろうじゃねえか……!)

 わずかに残っていた情熱のかけらに火が付き、にわかに燃え出す。翼の顔立ちが、高校時代の彰博を思い起こさせるからに違いない。

 おれと彰博とは、映璃をめぐって争った仲だ。殴り飛ばしたこともあった。そのくらい、映璃のことが好きだった。忘れもしない、高三の春のことだ。

 失恋した時からおれは、あいつには絶対に敵わないのだと半ば諦めモードで生きてきた。映璃のことだけじゃない。子どもを亡くして離婚し、この街を離れる決心した時も、あいつが「死ぬな」と言ったがために死にそびれてしまったし、今回も、あいつの言葉がおれの人生を、おれの意図せぬ方向に変えようとしている。

 ……もう、彰博におれの人生を決められるのはごめんだ。確かにおれは、どうしようもなく情けなくて、一人じゃ生きていけない男だ。情けをかけたくなるあいつの気持ちも分かるし、事実、そのお陰で今日まで生きてきたのは認める。

 だけど……。だけど、だ。

 これが天の与えてくれた、おれが成長する最後のチャンスなのだとしたら……。あいつの言葉ではなく、自分の意志で人生を決定できる人間になるためのラストチャンスなのだとしたら、この、燃え始めた情熱の火は絶対に消しちゃいけない。

(サンキューな、翼。お前がおれを、再び男にしてくれたようだ……。絶対に、負けねえ……! 負けてなるものかっ……!)

「それではみんなで呼んでみましょう。せーの、サンタさーん!」

 遊戯ホールにいる先生のかけ声とともに、園児たちが大きな声でサンタを呼んだ。それを合図にドアが開き、スポットライトがサンタのおれに当たる。

 手を挙げ、子どもたちの声に応える。自然と笑みがこぼれる。付き添いの先生の案内でステージに上がると、拍手がさらに大きくなった。

「はーい、みなさん。今年もみんなの『会いたい!』という気持ちが通じたので、こうしてサンタさんがやってきてくれました。会えて良かったよねぇ! さぁ、それではさっそく、サンタさんのために一生懸命練習した、歌や楽器の演奏を聴いてもらいましょうね!」

「はーい!」

 純朴な子どもたちの声がホールに響き、年少組から順に、歌や楽器の演奏が披露される。大きな声で歌い、演奏し……。たとえ間違っても構わずに最後までやりきる、その一生懸命さにおれは心を打たれた。サンタであることも忘れて。

 最後には園児たちと一緒に「あわてんぼうのサンタクロース」の歌を歌いながら踊って欲しいと無茶振りをされたが、その場のノリで「へんてこダンス」を踊ったら大ウケだった。先生の中には、涙を流しながら笑い転げている人もいるほどだった。

「また来年も来るよ! ホッホッホー」

 ホールを出る時間が来た時には、すっかりサンタになりきっているおれがいた。サンタの衣装を手渡された時に感じていた不安は微塵も感じていなかった。

 ホールの外に出ると、翼が待ち構えていた。おれは得意になって言う。
「……どうだった? おれの演技は?」

「やるじゃん。……子どもたち、大喜びだったよ。今日はありがとう。助かったよ」
 不覚にも礼を言われて恥ずかしくなった。サンタの衣装を着たまま現実的な話をしているせいかもしれない。

「なんだよ……。昨日はあんなに怖い顔で迫ってきたくせに」

「……これで一人、いなくなったな」

「えっ?」

「……あんたの中に巣くう、臆病者が、だよ」
 それを聞いてハッとする。

「もしかしてお前、昨日『殺す』って言ったのは……?」

「しーっ! こんなところで、そんな言葉、使うなよ!」
 指を立てられ、慌てて口を塞ぐ。やれやれ、と言いながらも翼はうなずいた。

「あんたの中には何人もの『悪人』がいるのさ。そいつらさえ追い出しちまえば、きっとあんたは全うになる。おれはそう思ってああ言ったんだよ」

「おまえ……」

「ああ、これは俺の、元演劇部員としての勘だったんだけど、どうやら当たってたみたいだな。じゃあこの調子で、明日もよろしく」

「明日も?」

「そ。園が冬休みに入るまでは、毎日来てもらうから。園長にはもう、許可取ってある。……来るなっていっても、来るんだろう? たしか、スイミングのコーチ業は夕方からだよな?」
 翼が意地悪そうに言った。言われて、自分の顔がニヤついていることに気づく。

「……ああ。来るよ。だから、明日の持ち物は事前に教えといてくれ。今日中に用意しておく」

「オーケー、鈴宮センセ」
 翼が初めておれの名前を呼んだ。

「よろしく、野上先生」

「ああ、俺のことは『つばさっぴ』って呼んでくれりゃあいいよ」
 真面目に名前を呼んだのに、あだ名で呼ぶよう言われてしまった。

(つばさっぴ……。)

 心の中で呼んでみたが、恥ずかしすぎて、とてもじゃないけど声には出せないと思った。 

 園での話は、その晩の一番の話題となった。おれが黙っていても、一部始終を見ていた「映璃先生」が黙っちゃいない。昨日までのおれなら「勘弁してくれ」と言って小さくなっていたに違いないが、何の予告もなしにサンタ役を任されてやりきったことは自信になっていたから、映璃が面白おかしく話すのにあわせて、自らその時の様子を再現してみせたほどだ。

それを見た彰博は、おれの変化に腰を抜かしそうになったが、「新しい君の一面を知ることができて嬉しい」と笑みを浮かべたのだった。

◇◇◇

それから毎日、園に行って保育の手伝いをした。と言っても、幼稚園教諭の免許を持たないおれに与えられる仕事など、先生たちからすれば雑用みたいなものばかりだったが、それですら、こなすのがいっぱいいっぱいで、腰を下ろす時間もなかった。ましてや、悩んでいる暇などあろうはずもなかった。

 ――愛菜のことを忘れる日があってもいいんだよ。一緒に過ごした思い出はなくならないんだから。

 亡き娘の魂が天から母を迎えに来た時に言った言葉だ。長い間おれは、その言葉の意味が分からずにいた。けれど、八年経った今になってようやく分かった。園で目の前の仕事に集中している間、愛菜たちのことを「忘れていた」と気づいた瞬間に。あれは「今を一生懸命生きて欲しい」という愛菜からのメッセージだったのだ。

 父が急逝したのも、野上家からの打診も、翼から仕事を与えられたのも、未だ「あの頃」にしがみついているおれを前進させるために、愛菜が強制的に引き起こした出来事だったに違いない。お陰でやっと、気づくことが出来た。

(ごめんな、愛菜。なかなか成長できないお父さんだけど、馬鹿なおれだけど、ようやく分かったよ。もう、忘れることを怖がらない。めぐとの関係も、ちょっとずつ前に進めるよ。それでいいんだよな……?)

◇◇◇

 クリスマスの直前に園は冬休みに入った。園での仕事を満了したおれは、失いかけていた、生きる目的みたいなものを、徐々にではあるが取り戻し始めていた。

「クリスマス……か」

 奇しくも今年は日曜日に当たっている。スイミングのコーチの仕事も、学校も休みだ。おれは意を決し、こちらも冬休みに入っためぐを誘ってみることにした。

「クリスマスなんだけど……都内に遊びに行かないか? ……えーと、デートってやつ?」

 ゼファーを走らせて一緒に出かけるのは珍しくなかったが、「デート」と称して出かけたことはこれまで一度もなかった。めぐは一瞬にして表情を明るくした。

「デート?! 嬉しい!! 絶対行くよ!!」
 そう言っておれに抱きついた。

 デートなんていつぶりだろう。もはや遠い昔の出来事だからどうやって振る舞えばいいのかも忘れてしまったが、記憶を頼りになんとか頑張るしかない。

◇◇◇

「……もう園での仕事は終わったはずだ。きょうは互いに休みのはずだろ? いったい何しに来た?」

「そりゃあ、あんたを見守るためさ。ちゃんとデートできるかチェックしないと」

 クリスマスの早朝。おれの前に現れたのはサンタクロースではなく翼だった。おれからは一切伝えていないが、誰かの口から翼の耳に入ってしまったのか、あるいは翼が、盗聴器でも仕掛けて会話を盗み聞きしたのか……。いずれにしても、おれはよほど信用されていないらしい。よりによって、年下の男にデートを見張られるなんてあり得ない……。

「……おれはお前の子どもか? 言っとくけど、おれだって一度は結婚してるんだぜ?」

「どうせ、そんときゃ、強引に押し倒したんじゃないの? デートして愛を深めた間柄なら、事情はどうあれ、簡単に離婚されたりしないと思うんだよね」

「うっ……」
 鋭い指摘に思わず声を漏らすと、めぐは妙に納得し、それを見た翼の方は声を上げて笑った。

「アキ兄から聞いてたとおり、あんたって本当に正直者だなぁ。ま、自覚があるなら今日の三人デートも試練の一つだと思って我慢するんだな」

「そういうお前は、女の子と付き合ったことがあるのか? ……もう二十七だろ?」
 苦し紛れに反論する。翼は嫌そうな顔をした。

「うるさいねえ、このおじさんは。女の子との交際歴はちゃんと、あ・り・ま・す!」

「うそくさっ……。めぐ一筋で、他の女には興味なし、って感じするけど?」

「そんなに疑うなら、今からあんたを口説いて、押し倒して、骨抜きにしてやってもいいぜ?」
 言うが早いか、翼はおれに顔を寄せ、腰に腕を回そうとした。慌てて距離を取る。

「分かった、分かった……。これ以上は何も言わず、お前の言うとおりにするよ……」

「分かればよろしい」
 翼のほうが上手うわてだと認めるのは癪だったが、ここは大人しくしておくのが賢明だろう。矛を収めたのが分かると、翼は満足そうにうなずいた。

「最後に一つ付け加えておくけど、万が一めぐちゃんの機嫌を損ねるようなことをしたら、その時点であんたとのデートは終了ね。あとの時間は俺が引き受けるから」

「えっ? お前と交代するのか?」

「そのための付き添いっしょ」

 なるほど。翼がついてくる本当の目的は、めぐとのデートか。会話のすべてを聞いているめぐはさっきから黙ったままだが、表情を見る限り、この状況を楽しんでいる様子だ。こっちもこっちで意地悪い。

(こうなったら、なんとしてでもデートを成功させてやる。若い二人の笑いものにされてたまるか……!)

 東京湾に隣接する観光スポットまでは、バイクを飛ばして一時間半ほどで到着した。日曜ということもあって途中、渋滞した場所もあったが、その間めぐとの会話が途切れることはなかった。

 駐車場にバイクを停めて商業施設エリアまで歩く。そこはすでに大勢の人で賑わっていた。三人して顔を見合わせると、翼が合図をする。

「それじゃあ早速、おじさんとめぐちゃんのラブラブデート、開始!」
 笛を吹くような格好をした翼が、おれたちを両側から挟み込んでくっ付けた。

「ねぇねぇ、手、繋ご!」
 めぐが左手を差し出す。

「……よぉし!」
 ため息を吐くために吸った息を、やる気を出すための言葉に代える。

(頑張れ、おれ……! 若い頃を思い出せ……!)
 自分を奮い立たせ、差し出されためぐの手に指を絡める。

(どういう気持ちでこのデートを見守っているのか知らねえが、お前の思い通りにはならねえからな……。)
 翼を睨み付けながら、心の中でそう言い放つ。

 街はクリスマス一色だ。都内の観光スポットだけに、どこを見てもカップルだらけ。だがおれが見る限り、おれたちほどの年の差カップルは見られない。いや、そんなことはどうでもいい。今は、めぐを楽しませることだけに集中しよう。

「めぐは何がしたい?」

「まずは観覧車に乗りたい! バイクで通ってきた道を上から見てみたいんだ!」
 そう言って、大きく空を仰ぐ。同じように見上げると、雲一つない真っ青な冬の空が広がっていた。

「よし、行こうか」
 すがすがしい空の下、おれはめぐの手を引いて観覧車を目指す。

 昼間の観覧車は思いのほか空いていた。並んでいるのも、おれより年上の夫婦か子連れが多い印象だ。正直、待ち時間は苦手だから助かった。

 ゴンドラの扉が開けられ、係員に誘導される。
「二人で乗れよ。俺は次のに乗るから」
 目が合うと、翼はニコニコしながらおれたちを押し込んだ。

「えっ?! ここは遠慮するのかよ?!」

「二十分も狭い空間に押し込められるなんて、お互い、居心地悪いっしょ。さ、どーぞ、お先に。いってらっしゃい」
 そう言って手を振った翼は、さっさと次のゴンドラに乗り込んでしまった。

「デートの監視」なんて言うから、てっきり一緒に乗るものだと思っていたが、常識的な対応をされて動揺する。無論、こういうシチュエーションは初めてじゃない。どう振る舞えば良いかも一応、心得てはいる。それでも、いざとなるとやっぱり……ドキドキする。

――どうした、プレイボーイ? 一気に二人の距離を詰めちまおうぜ!

 格好つけたがりなおれが顔を出す。こいつが勝手な行動を取り始めると収拾がつかないことは分かっている。……恥ずかしい話だが、翼の指摘どおり、元妻との交際時はこいつの「悪魔の囁き」に抗えず、一気に事を進めてゴールイン。いわゆる「でき婚」だった。

(黙れっ! 今日はお前の出番はない!)

 一喝してやると、「プレイボーイのおれ」は一旦、影を潜めた。ひとまず安堵し、めぐに視線を移す。めぐは女子高生らしく、はしゃぎながら外の景色を眺めている。その姿にほっと心癒やされる。

「ほら、あそこを見てごらん。おれたちはあの橋を通ってきたんだ」

 後ろからそっと肩を抱いて語りかける。まるで父親が娘に話しかけるように。めぐは嬉しそうに答える。

「あ、ほんとだ! あの橋って、夜になると虹色に光るんでしょ? ねえ、日が暮れるまでここにいるよね? 帰る時もあの下を通るよね?」

「ああ」

「わーい! 楽しみだなぁ!」
 その顔は、八歳のときと同じようにおれを元気にしてくれる魔法の笑顔だった。

(そうだ、おれはめぐのこの笑顔が好きなんだ。この笑顔がおれに恋をさせるんだ……。)
 思わず見とれていると、めぐが急に真面目な顔をしておれの名を呼んだ。

「うん?」
 返事をすると同時にめぐの唇がおれのそれに重なった。慌てて身体を反らす。

「焦っちゃダメだ。……デートはまだ始まったばかりだぜ?」

「でも、わたし……」

 上目遣いで見つめられる。……ため息が出るほどかわいい。胸を高鳴らせていると、「プレイボーイのおれ」がすかさず顔を出す。

――ほらみろ! お前が尻込みしているから、めぐの方から攻めてきたぞ! お前も負けずに攻めろよ。背中を押してやるぜ?

(……ダメだっ! 今度ばかりはお前の誘惑には乗らない!)
 頭を振り、声を追い出す。一度深呼吸をしてから言う。

「……気持ちは充分伝わってるよ。……おれだって、めぐのことは大好きだ。だけど……だけどさ……。友だちから恋人に、恋人から夫婦になるためには、一歩ずつ階段を上らなきゃダメなんだ、たぶん……。それを、何段か飛ばしで駆け上がろうとすれば必ずどこかで踏み外す……。おれは、焦ったばかりにこの関係を壊すようなことはしたくないんだ」

 見つめ返すめぐは、ちょっぴり寂しそうに目を伏せたが、「わかった」と返事をしてうなずいた。

「……ってことは、ちょっとずつだったらいいんだよね? さっきみたいに手を繋ぐのはオーケー?」

「ああ、それならいいよ」
 甘え声のめぐに応じ、冷えた手を握る。そしてそのまま、観覧車が下に着くまで東京の賑やかな街並みを見下ろした。

「お疲れさん。いやあ、何ごともなくて残念残念」
 ゴンドラを下りると、すぐあとから翼がやってきた。

「お前はいったい、何を期待してたんだよ……」

「万が一押し倒そうものなら、このあとは、俺がめぐちゃんと夜まで手つなぎデートしようと思ってたのに」

「そりゃあ残念だったな」

「さて、お次はどうする?」
 どこまで本気か演技か分からない翼の表情は、何かを企んでいるようにも、嫉妬しているようにも見えた。

(どうせならこのまま一日、残念がらせてやる。)

 そう思って一つ、めぐに提案する。

「なあ、このあとはウインドウショッピングをするのはどうだ? 気に入ったものが見つかったら買ってやるよ。クリスマスプレゼントに」

「えっ? 本当?」
 一瞬飛び上がっためぐを見て、翼が舌打ちをする。

「ちっ、物で釣る作戦かよ。これだからおじさんは……」

「……お前は黙って着いてこい」

「オーケー、オーケー」
 ここは意見を引っ込めた翼だったが、おれが少しでも油断をすればいつでも逆転は可能だ、と言わんばかりの気迫は前面に押し出したままだった。おれは翼を一瞥いちべつし、めぐの手をぎゅっと握るとそのまま歩き出した。

 「やんちゃなおれ」が顔を出す隙を与えないよう、細心の注意を払いながらめぐとのデートを続ける。

 めぐが欲しいと言ったものはよくよく考えて買うようにし、自分の話ばかりしないよう心がけた。昼食のチョイスはめぐに合わせ、彼女の自慢話には相づちを打ちながら辛抱強く耳を傾け、寒いと言われればカフェに入ってホットドリンクを一緒に飲んだりもした。

 気づけばあっという間に日没が訪れ、暗くなった街が一瞬にしてイルミネーションでキラキラと輝きはじめた。昼間見た橋もライトアップされている頃だろう。おれはめぐの手を引っ張って、遠景に橋が見える場所まで連れて行こうとした。しかしそこで、めぐの足は止まった。

「……どうした? あの橋を見に行こうよ」
 声をかけてみても返事はない。どういうわけか、不機嫌そうにも見える。

(おれ、何かしちゃったかな……?)

 思い返してみても、めぐの機嫌を損ねるような行為をした覚えはない。黙されて困惑し、思わず「言ってくれなきゃ、分かんねえよ!」と語気を強める。慌てて口を押さえたものの、もはや手遅れ。めぐは完全にむくれてしまった。

「……わたしは悠くんと、恋人としてデートを楽しみたかったのに、これじゃあパパと一緒じゃない!」

彰博パパと一緒、と言われてますます混乱する。めぐは、まくし立てる。

「ただ、そばにいられればいいわけじゃない。おしゃべりして楽しければいいわけでもない。……ちょっとずつ距離を縮めたいのは分かるよ? でも、今日はデートだなんていうから、もっと心の距離を縮められると思ってた。なのに……。遠いよ、悠くんが。こんなにそばにいても、悠くんの心はどこか別の場所にあるみたいに感じる……」

「そんなことはない。おれは……おれの心はちゃんとここに……」

「嘘。口だけで言ったってダメだよ。……わたしはもう、出会った頃のような何も知らない子どもじゃない。もうちょっと大人として扱ってよ」

「…………」
 二の句が継げないでいると、めぐはあっさりと翼の元に駆け寄り、その腕にしがみついた。

「帰りは翼くんのバイクに乗るー」

「オーケー」
 そう言った翼は、めぐの腰に腕を回して引き寄せると、勝ち誇ったように笑った。

「詰めが甘いな、おじさんは。初デートでこれじゃ、先が思いやられるね」

「…………」

「ま、帰る道中で一人反省会でもするんだな。……あ、めぐちゃん。今度は夜の観覧車に乗ろうよ。東京の夜景と、瞬く星を見ながら……」

 最後の部分はおれには聞こえなかった。が、耳打ちされためぐの顔が赤くなるのを見て、いらぬ妄想をしてしまう。

「お前、いったい何を企んでいる……?」

「おじさんには関係ないね」

「…………!」
 かっとなって胸ぐらを掴むが、翼は余裕の笑みを浮かべている。

「恋は駆け引きだよ、おじさん。前の恋がどうとか、年齢がどうとか関係ないの。目の前の相手をよく見て行動する。これは恋愛だけじゃなくて対人関係全般に言えることだけど」

「…………」

「相手はめぐちゃん。十六歳の高校生だぜ? 彼女の気持ちはちゃんとんであげないと。大人ならさ。……じゃ、行こっか」

 散々おれをこき下ろした翼は、上機嫌でめぐと並び歩き始めた。おれは悔しさを噛みしめながら、彼らの後ろに着いていくことしか出来ない……。

(挿絵1)

三人のイメージイラストです。本編に制服でのクリスマスデートシーンはありません💦

 ――言わんこっちゃない。おれを黙らせたのが運の尽き。あのまま言うとおりにしていれば、今ごろめぐはお前の腕の中だったろうに。

 「やんちゃなおれ」が愚痴をこぼした。おれはやり場のない怒りに、ただただ耐えるしかなかった。なにせ、相手は「おれ自身」なのだから。

 めぐと翼が夜のデートを楽しむ姿を見せられるのはいい気分じゃなかった。だけど、先に帰ってしまうのも子供じみていて嫌だった。

 人生最後の大恋愛、それも相手は娘ほどに年の離れためぐ。絶対に失敗したくないとの思いは強い。だが慎重になりすぎるあまり、接し方が「パパみたい」と言われてしまったおれは今後、どう振る舞えばいいのだろう……?

 帰る道中、二人が乗るバイクの後ろを走りながら考える。

 恋がしたいめぐと、家族になりたいおれとではかなりの温度差がある。それが、今回デートがうまくいかなかった原因だ。差を埋めるのは簡単。やんちゃで本能むき出しのおれを登場させるだけだ。しかし、それでは心が離れるのも一瞬。おれはもう、ジェットコースターみたいな人生を送りたくはない。

 結論が出ないまま野上家に着いた。別れ際に、翼がめぐを大事そうに抱きしめる姿を見て胸が苦しくなる。おれとは対照的に、翼はめぐとの距離を縮めたに違いなかった。

 あれきりめぐは一言も口を利いてくれない。さっさと寝る支度を済ませ、おれにはおやすみの挨拶もせずに自室に行ってしまった。おれはため息をつき、リビングのソファに身体を沈めてまぶたを閉じた。

 少しして、瞼の上に影が落ちた。目を開けると、映璃がのぞき込んでいた。
「……隣に座ってもいい?」

「……ああ」
 返事をすると、めぐより小さい身体の映璃がすぐ横に腰掛けてきた。映璃はおれの肩にもたれたまま黙っている。そっと肩を抱く。映璃は何も言わない。

「……相手が同年代ならどんなに楽だったことか」
 気の知れた友人にはつい本音が漏れる。映璃が応じる。

「でも、めぐのことは好きなんでしょう?」

「好きだよ。好きだからこそ……大事にしたいと思ってる。なのに、めぐが急かすんだ」

「ふふ。まるで高校時代の悠みたいね」

「……ああ、嫌になる」

「……あのころの悠は、何を考えていたんだろう? どんな未来を思い描いていたのかなぁ? 私、知りたい」

「……どうした? 急にそんなことを言い出して」

「実はね……」
 何かあると思ったら案の定、映璃は隠し持っていた封書をおれに手渡した。「三十年後の私への手紙」と書かれている。それを見て高一の時、節目の暦だからと一人一通、自分宛の手紙を書くよう言われたのを思い出した。

「……あれからもう三十年経ったのかよ? 嘘だろ?」

「嘘じゃないって。それだけ……年月が経ったのよ」

「そっか……。三十年も……」
 改めて手紙を見る。宛先が実家の住所になっているのを見て「おや?」と思う。

「この手紙、どこから取ってきた?」

「悠の家のポストから……。ごめんね、私たちのところに届いた手紙を見て、悠の家にも来てるんじゃないかと思って見てきちゃった。結構郵便物がたまってたよ? ついでだから他のも預かってきた」

 そう言えば、野上家で厄介になり出してから、実家には一度も戻っていない。ほんのちょっと空けるだけのつもりだったから、水道も電気もそのまま。もちろん、郵便物の届け先も変えていなかった。

「サンキューな。そこまで頭が回ってなかった」

「ううん、大丈夫。悠が嫌じゃなけりゃ、私が時々見に行くよ」

「ありがとう。映璃は頼りになるな……」

「だって悠は私の大事な……」
 そこまで言って映璃は口をつぐんだ。

「大事な……なんだよ……?」

「……ねえ、悠。私は悠がどんな答えを出そうとも、ずっと家族だと思って接するつもり。だから、そんなに気負わないでね。ちゃんと、自分に正直にね?」

「……ああ」
 返事をしながら映璃の言葉を噛みしめる。

 ――家族。

 彼女の口から発せられたその言葉が、疲れた身体にゆっくりと染み渡っていく。

(おれはやっぱり、こいつらと一緒にいたい。これからもずっと……。)

 改めて、封書に目を落とす。三十年前、おれは確かに何かを書き残した。けれど、内容は全く覚えていない。あの頃のおれのことだから大したことは書いていないだろうが、それでも中を見てみようと決意する。

 のりづけされた封筒の端を破る。中には手紙の案内と、便せんが二枚入っていた。折りたたまれたそれをゆっくり開く。そして、おれが書いたであろう文面に目を落とす。

『鈴宮悠斗様

 今から三十年後のおれは四十六歳。全然想像できないけど、元気でやってるか? これを読んでいるってことは、元気なんだろうな。そういうことにしておく。

 四十六歳なら結婚してるのかな。何人家族? 幸せに暮らしてる? おれのことだからきっと、いくつになっても脳天気でやってる気がするけど、実際はどうなの?

 ……先生が書けって言うから書くけど、もし、これを読んでいるおれが人生に行き詰まっていて、メチャクチャ落ち込んでるとしたら、今のおれから言いたいことがある。考えすぎるなって。

 おれは馬鹿だからな。考えたって何もいい発想は生まれない。だったら、何も考えずに突っ走れ。そうやって開き直れ。

 ……といっても、馬鹿丸出しでいいってわけじゃないぜ? あれこれ言われて悩むんじゃなくて、元々のおれを大事に、ありのままで生きていけって言いたいんだ。

 水泳部が強い高校の推薦状がもらえるって話になった時、どうしても電車通学したくないって理由で、推薦を蹴ってまで自転車圏内の城南高校を選んだのを覚えてるか?(受験勉強は辛かったけど、受かって良かったな……。)お陰で朝はのんびり出来るし、満員電車に揺られることもない。今でも、あのときは自分の気持ちに正直になって良かったなぁと心から思ってる。自分を大事にするって、そういうこと。もし忘れてたなら、思い出してくれ。

 格好つけたがりのおれ。情けないおれ。頑張り屋のおれ。どれも全部、おれ。なんだかんだ言って気に入ってるから、大事にしてくれよな。

 人のことはどうでもいい。誰に何を言われようが、構うことはない。『おれ全開』で行けば必ず道は開ける。そうやって十六年生きてきたおれが言うんだ、間違いない!

 最後に改めて、四十六歳のおれへ。色々あると思うけど、これからも頑張って。この手紙が役に立たない未来を願って。十六歳のおれより』

 まさか、過去の自分からエールをもらうことになるとは。当時のおれが今の状況を予期していたとは思えないが、このタイミングでこの手紙を読んだのにはきっと意味がある。過去から未来へ、すべての時が繋がっている……。そしておれは生かされている……。そう思わずにはいられなかった。

「ありがとう、映璃。手紙を届けてくれて。おれ、頑張れそうな気がする」

「お礼を言うのは私じゃなくて、悠自身にでしょ?」

「……そうかもしれないな」

 最悪のクリスマスだと思っていたが、最後の最後におれ自身からクリスマスプレゼントが届いた。思いがけない、最高のプレゼントだ。

 寝る支度をし、あてがわれた部屋で一人になる。

(おれはめぐとどうなりたい……?)
 自問自答する。

 今回の話は――家族になって欲しいと持ちかけられたことは――唐突だった。だけど、めぐのことは話をもらう以前から好きだったし、あわよくば恋仲になれたらと密かに思い描いてもいた。

 それを押しとどめているのは年齢差。そして過去の恋愛や結婚の苦い経験だ。そのせいで今日のデートは大失敗。自分でも情けない終わり方だったと思う。

(めぐとどうなりたいんだ……? 見栄も建前もいらない。おれは、おれ自身の気持ちが知りたいんだ……。)
 おれの問いに「素のおれ」が答える。

(本音を言おう。おれはめぐと愛し合いたい。もう一度、いや、今度こそちゃんと自分の家族を持ちたい。だけど、時間をかけてゆっくりと愛を育んでもいきたい。これが、今のおれの気持ちだ。)

 おれの中にいる、何人もの「おれ」が一斉に騒ぎ出す。おれはそいつらに話を聞いてもらうため号令をかける。

(いいか「お前ら」、よく聞け。おれは決めたよ。十六歳のおれが教えてくれたように、おれの中にいるすべての「お前ら」を……「おれ」を信じると。だから、一人ひとり出しゃばるんじゃなくて、全員で協力してほしいんだ。「お前ら」にはちゃんと、おれをここまで生かしてきた実績がある。目的のために力を合わせれば、今回のことだってきっとうまくいくはずだ。)

 ――協力……? どうやって……?

 わずかに残っていた「臆病者のおれ」が消え入りそうな声で言った。

(めぐが十六歳なら、おれだって十六歳に戻ったつもりでめぐと付き合うよ。だから、「お前ら」は、あの頃のおれみたいに振る舞ってくれりゃあいい。大丈夫、「お前ら」は十六歳でも、おれは四十六歳だ。ちゃんと計画は立てるし、万が一無謀な行動に出ようとしたら、その時はちゃんとブレーキをかけてやる。)

 ――おお、なんて頼もしいんだ。これでこそ男、鈴宮悠斗。よっしゃ! いっちょ、やったろうじゃん!

 真っ先に「生に貪欲なおれ」がエンジンをかけ始める。他の「おれ」も負けてなるものかと続く。すると、さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたいに、気持ちが高揚し始める。まるで十六歳の頃に戻ったかのようだ。

 恋は駆け引きだ、と翼は言った。これまで行き当たりばったりの恋愛しかしてこなかったおれだけど、演技なんて出来るかも分からないけど、それが効果的だというのなら一か八か、今からでもやってみる価値は充分にあるはずだ。

(なあ、翼。おじさん、おじさんって馬鹿にするけどなぁ。おれには四十六年分の経験があるんだよ。頭はあんまり良くないけど、失敗から学ぶ能力くらいはあるんだよ。……おじさんを、舐めるなよ……!)

 脳裏に浮かんだ翼の顔に向かってそう言い放った。

 翌日から年末までは実家に戻って家のことをした。精神面から一人で過ごすことには不安もあったが、晴れた冬の我が家は明るくて気持ちが良く、自然と、この家で起きた楽しい出来事ばかりがよみがえってきた。おかげで父の持ち物の整理や先延ばしにしていた手続きもはかどり、気分よく年を越すことができた。

◇◇◇

 元日からはまた野上家で厄介になる。新年の挨拶を兼ねて親戚一同が集まるというので、おれもそこに参加する。場所は彰博の実家だ。訪ねると、彰博とその両親、映璃、めぐ、そして翼と家族の姿があった。

「悠くんったら、どうして返事をくれなかったの? 心配してたんだよ? もしかしたら、また倒れてるんじゃないかって……」
 
 顔を見せるなり、真っ先に声をかけてきたのはめぐだった。実家に戻っている間はすべての連絡を絶つと彰博や映璃には伝えてあったが、めぐは何遍もメールをよこした。

『クリスマスの日は言い過ぎました。反省しているので、返事を下さい』
『元気でいますか? 心配しています。連絡ください』

 もちろん、メッセージは確認している。でも、返信しなかった。めぐを心配させるのがおれの作戦――恋の駆け引き――だったからだ。今日、顔を合わせた時にもっと怒っていたらどうしようかとドキドキしていたが、うまくいったようで一安心する。

「水泳で鍛えてるから大丈夫だよ。心配性だな、めぐは」

「だって、呼吸困難に陥った時は本当に死んじゃうんじゃないかと……。今だって、あんまりよく眠れないんでしょう?」

「大丈夫。めぐと結婚する前にくたばるおれじゃないよ」

「えっ?」
 驚くめぐに顔を寄せて囁く。

「めぐに言われて色々考えたんだ。……この前はめぐの気持ちをちゃんと分かってあげられなくてごめんな。これからはめぐのこと、出会ったばかりの八歳じゃなくて、十六歳の女として接する。めぐとの心の距離も縮められるよう頑張る。……ちょっとずつだけどな」

「もしかして、メールの返事をくれなかったのはそれを考えていたから……?」
 めぐの問いに、おれは曖昧に笑った。

「めぐはおれの大切な人。だからまた、改めてデートに行こう。今度はきっと満足させてみせる」

「悠くん……」
 めぐは顔を赤らめ、目を伏せた。そこへ翼が現れる。

「どうした、おじさん? 急に雰囲気変わったみたいだけど、何か心境の変化があったの?」

「助言してくれたおかげで、色々気づかせてもらったよ。あの日は逆転負けを喫したけど、今年のおれは手強いと思え」

「へぇ。見ない間に、ちょっとは男を上げたみたいだな。でも、一度離れためぐちゃんの心がすぐにあんたに戻ってくるかな?」

 翼はそう言うなり、めぐの肩を抱こうとした。すかさずその手を払う。

「触るな。めぐはおれの……恋人なんだ」

「ひゅー!」

 そばにいた翼の父親が口笛を吹いた。翼はあからさまに嫌そうな顔をしている。
「そうやってはやし立てるの、やめてくんない? 父さんはどっちの応援してるわけ?」
 
「どっちもなにも、めぐちゃんのハートを掴んだ方が結婚できる。当然のことだろ?」

「父親なら息子の応援をするもんじゃないの?」

「そう言われても、彰博から鈴宮くんはいい人だって聞いてるし、めぐちゃんと両思いなら翼が横やりを入れるのもどうかと思うんだよなぁ」

「お父さんの言うとおりだよ。お兄ちゃんは余計なことをしないで、他にいい人見つけた方がいいよ」

「…………! まい一言ひとことの方が余計だっつーの!」
 舞というのは妹のようだ。短髪で色黒。父親によく似てスポーツが出来そうな顔をしている。

「新年早々、喧嘩はやめましょうよ。さぁ、座った、座った!」
 翼の母親が音頭を取ると、みな本来の目的を思い出して酒宴の準備を始めた。

 めぐは未成年だから酒盛りに参加できない。また、おれも喪中だから派手に騒ぐことはしないが、それでも会が始まると、周りの雰囲気に飲まれて気分が良くなり、おしゃべりも進む。

 気がつけば、翼の父と妹を中心に野球の話で盛り上がっていた。しかし翼はその輪から外れたところでじっと彼らを睨んでいる。おれは翼の横に座った。

「そんなに怖い顔をするなよ。せっかくの酒が不味くなるぜ? ほら、注いでやるよ」
 おれが酒瓶を傾けると、翼は「ふんっ……」と言いながらも空のコップを差し出した。

「……野球が嫌いなのか? それで不機嫌そうな顔を?」

「ああ、嫌いだね」

「どうしてさ? 彰博から聞いた話じゃ、お前の父さんはキャプテンとしてチームを甲子園に導いた実力者だって……」

「だからだよ。……親が野球やってたからって、息子が野球好きになるとは限らない。散々やれやれ言われたけど、興味が湧かないものは仕方ないじゃん。反対に、妹は野球が大好きでさ。素質を見込まれて、今日まで父さんがみっちり指導してきたから、あの二人は仲良しってわけ」

「へぇ。妹は野球やってんだ?」

「ああ。今は大学のチームでレギュラーだってよ。……一方の俺はしがない幼稚園の先生。おまけに従妹いとこのめぐちゃんが好きだなんて言い出すもんだから、父さんは不満なのさ。……不貞腐ふてくされて当然だろ?」

「なるほど。お前もお前で苦労してきたんだな」

 どんなに威勢のいい男でも父親の前では所詮子ども。弱点を握られれば尚更その立場はなくなる。おれも経験があるからわかるが、父親の言葉はたいてい正しい。だからこそ受け入れがたく、反発もしたくなる。父子おやことはそういうものだ。

 酒のせいか卑屈になっている翼に、酒の力で饒舌になったおれから一言物申す。
「なあ、父親に反対されたからって諦めるなよ、めぐのこと」

「えっ?」

「ライバルが身を引いたおかげで勝っても嬉しくないし。本気でめぐとの結婚を考えてるなら、ちゃんと押し通せよ?」
 翼は目を丸くした。

「急にかっこいいこと言っちゃって。おっさん、酔っ払ってるっしょ? 酔った勢いでいった言葉なんて信用できない」

「酔ったときほど、本音しか出てこねえよ」

「ってことは……素のあんたって、格好つけなんだ?」

「ああ、そうだよ。昔のおれはずっとこんな調子だった」

「昔? まさか、高校生にでもなったつもり?」

「そうだけど? 気持ちはめぐと同じ、十六歳だよ」

「げげっ!! おっさん、冗談キッツー!」

「冗談なもんか。おれは本気だ」
 真正面から見据えると、翼はひるむことなく真っ向から睨み返してきてコップに残った酒をあおった。

「ふんっ、ライバルらしくなってきたじゃん。つついた効果がようやく出てきたみたいだ。ちょっと前までは本当におばけみたいな顔をしてたからな。そんなあんたとめぐちゃんを結婚させるって聞いて思わず息巻いちゃったけど、やっと対等にやり合えそうだ」

「おう。ようやっと、エンジンが暖まってきたよ。……そうそう、今年は十六歳のつもりでやってくから、『おじさん』呼ばわりするのはやめてくれよな。呼ぶなら他の呼び方で頼むぜ」

 翼は半ば呆れ顔だったが、「そうだな、それじゃあ……」と言って真面目に呼び名を考え始める。

「決めた。勝負がつくまでは『鈴宮』って呼ばせてもらうよ。アキ兄みたいに」

 そういった翼の顔は、メガネこそかけていないが、映璃をめぐって争っていたときの彰博によく似ていた。

「ならおれも、お前のことは『野上』って呼ばせてもらう」
 意図せず、そんな言葉が口から飛び出した。

 彰博と、互いに名字で呼び合った高校時代が鮮やかによみがえる。彰博には完敗してしまったが、翼相手には絶対負けない。

 その時、おれたちのやりとりを見ていた彰博の父親がゆっくりと歩いてきた。その顔には満面の笑みを浮かべている。

「いやいや、若いっていいねぇ。見ているだけで、じいちゃんも若返っちゃいそうだよ。この様子じゃ、ひ孫の顔もすぐに見られそうだ。ぜひとも、じいちゃんが生きてるうちに頼むよ」
 思わず翼と顔を見合わせる。

「ひ、ひ孫って……。じいちゃんは気が早いよ……。俺たちはともかく、めぐちゃんはまだ十六歳だぜ?」

「ん? 十六歳ならもう結婚できる年齢だろう?」

「じいちゃんの時代とは違うんだよ。今は男女とも結婚は十八歳から」

「ええっ? それじゃあもう少し長生きしないとなぁ。じいちゃんも恋をすれば元気に……」

「何を言ってるんですか、このおじいさんは」
 一部始終を見聞きしていた彰博の母親が伴侶の耳を引っ張った。

「ごめんなさいねぇ。年寄りの言うことなんか気にしなくていいから。若い子は若い子同士で頑張ってね。……ちなみにおばあちゃんは、つばさっぴを応援してるわよ?」

「ほんと!? やっぱり俺の味方はばあちゃんだけだよぉ」

「えぇ、えぇ、初孫ですもの」

 彼らのやりとりを見ていたら、翼への闘志が急速にしぼんでいった。代わりに、心がぽかぽかと温かくなってくる。ああ、これが野上家ってやつか……。

 映璃は、おれがどんな選択をしようともずっと家族だと言った。でもおれは、正式にこの家の人間になりたい。この輪の中で堂々と、家族だと胸を張りたい。たとえ時間がかかったとしても。

「めぐ。酒飲みたちはここに置いといて、気晴らしに出かけようよ。二人きりになりたいんだ」
 おれは、さっとめぐの手を取って誘った。

「えっ? でも、悠くんだってお酒飲んじゃってるじゃん!」

「もちろん、バイクには乗らないよ。散歩、散歩。手を繋げるし、ゆっくり話せる」
 散歩と聞いてほっとしたようだ。めぐは「それなら行く!」と言って立ち上がり、上着を羽織った。

「俺もついていっちゃおうかな~」
 そわそわし始めた翼を制する。

「悪いが、今日は遠慮してもらう。めぐと話がしたかったら日を改めてくれ」

「……じゃあこっちは、鈴宮が不在の間に過去話でも聞き出しておくとするか」

「……好きにしろ」
 こっちがめぐとの時間を確保すれば、向こうも向こうで策を講じてくる。互いに腹の探り合いをする格好だが、面白くなってきた。

「ちょっとめぐを借りるよ。近所をぐるっと回ったら、またここへ帰ってくる」

 彰博に一声かけると、彼はにっこりと微笑んだ。
「いってらっしゃい。めぐとの散歩を楽しんでおいで。僕たちはここで君の帰りを待っているから」

 

 めぐと並んで歩くのはクリスマス以来だ。あの時は初めてのデートで緊張していたから、正直何を話したのかも覚えていない。しかし今は、酒が入っているせいもあってリラックスした気分で隣を歩けている。

 外の空気は冬らしく凜としているが、風はなく、日差しの暖かさが心地よい。道沿いの家の縁側で丸まっている猫を見て、あんなふうにひなたぼっこしたら気持ちいいんだろうな、と思う。

 繋いだめぐの手は冷たかった。
「悠くんの手、あったかいね」

「だろ? カイロいらずだ」
 早く暖めてやりたくて、ダウンジャケットのポケットに繋いだ手ごと突っ込む。めぐは嬉しそうに微笑んだ。今なら何でも答えてくれそうなくらいにご機嫌な様子だ。

「一つ聞いてもいい? どうしても知りたいことがあるんだ」

 思い切って問うてみる。めぐは目をキラキラさせながら「なに?」と返事をした。おれは躊躇ためらうことなく一息に告げる。

「おれと翼、どっちが好きなんだ? めぐの、本当の気持ちを教えて欲しい」

「本当の気持ち……」
 めぐは困ったようにうつむいた。少しの間黙っていたが、やがて意を決したように言う。

「正直に言えば、どっちも好き。だって、好きだよって言われて嬉しくないわけないもん。名前の通り、わたしは本当に恵まれてるなあって思ってる。……悠くんのことは大好きだし、パパやママにも言ったように結婚できたら嬉しいなって思う。だけど、翼くんのことも同じくらい好きなんだ……。これって、わがままなのかな。二人とも好き、じゃいけないのかな……」

「そうか……」

「怒ってる……?」

「どうかな……」

 ある程度は予想していたから、驚きはしなかった。けれど、めぐの心が二分しているならこの闘いは一層厳しいものになるだろう。めぐが静かに続ける。

「……ママもそうだったって。高校生の時、悠くんとパパの二人に愛されてた間は、どっちの気持ちに応えたらいいか分からずに辛かったって。……血は繋がってないけど、その話を聞いた時、わたしたちはやっぱり親子なんだなぁって思ったよね」

 最初に映璃と付き合っていたのはおれだった。だけど、あの時のおれは映璃よりもスイミング優先で、寂しがるあいつの心を埋めてくれた彰博に気持ちが移ったのは自然な流れだった。なんとか挽回しようと頑張ってはみたものの、映璃を苦しめただけで復縁が叶うことはなかった。その映璃と、一時的とはいえ一つ屋根の下で暮らし、さらには彼女の娘を愛して家族になろうというのだから、人生分からないものだ。

「……確かに翼はいいやつだ。めぐの気持ちも分からないではない。だけど……おれはめぐと家族になりたい。だから……おれだけを愛してくれないか」

「悠くん……」

「とはいえ、結婚のことを考えるのはずっと先で構わないけどな。今はとにかく高校生活を楽しんだ方がいい。どんなに戻りたくたって、過ぎてしまったらもう二度とは戻れないんだから」

「……悠くんは楽しかった? 高校の三年間は」

「ああ。色々あったけど充実してたよ。そして、あの頃の出会いや経験、選択や決断があったからおれは今、ここにいられる。すべてが今に繋がってる。無駄なことなんて一つもない。そう思うんだ」

「そっか……。もっと聞いてみたいな、悠くんの高校時代の話。今後の参考にしたいし」

「えー? 参考になるかは分からないけど、しゃーねぇなぁ。栄冠を勝ち取った話だけな」

 めぐにせっつかれる形で、三十年前の出来事をぽつりぽつりと話す。もうとっくに忘れていたはずなのに、一つ話すたびに次々と記憶がよみがえってくるから不思議だ。ここ何年も、あの頃のふがいなかった記憶しか思い出せなかったが、こうして話してみると、おれも意外と頑張っていたんだな、といい気分になる。めぐも喜んでくれたようだ。

 話しているうちに、普段はあまり来ないところまで足を伸ばしてしまったことに気づく。馴染みのない場所で戸惑っていると、めぐに手を引かれる。

「おみくじ、引いていこうよ!」
 
 大きな鳥居があった。入り口には「春日部神社かすがべじんじゃ」と書かれている。近所にこんな神社があったとは知らなかった。

「ここ、わたしの友達んちの神社なんだ。おみくじがよく当たることで有名なんだよ」

 元日ということもあって、境内は参拝客で混み合っていた。しかしこうしてめぐと二人でいる時間はちっとも長く感じないものだ。

 ようやく本殿にたどり着き、参拝を済ませた足でおみくじを引きにいく。めぐはくじを選ぶようにして、おれは最初に触ったくじを迷わずに引く。

「わぁっ、大吉! 最高の一年になります、だって! 悠くんは?」
 飛び上がって喜ぶめぐに手元を覗かれる。

「待て。おれのほうは……」
 丁寧に折られたくじを開く。

「……中吉だってさ。まぁ、悪くないな」
 いいながら、自然と目が『恋愛』の項目を探す。あった。文言を読んだおれは思わず「あっ」と声を出す。

 ――『勇気を持って行動すれば必ず勝利する』

 その文字をじっと見つめ、噛みしめる。横からのぞき込んだめぐが文章を読み上げる。
「へぇ。いいこと、書いてあるね!」

「だな……」

 神には見放されていると思っていた時期もあるが、この八年に限っていえば、見守られ、導かれているという実感がある。この神社にたどり着いたのもきっとそう。おれは来るべくしてここへ来たのだ。

「ここのおみくじ、よく当たるって言ったな?」

「うん。あそこのご神木しんぼくに手を合わせると、もっとご利益があるって聞いたよ」

「そうか」

 めぐが指さした先に神木があった。さくで囲まれた神木の根元には、たくさんの賽銭が投げ込まれている。そればかりか、柵にはお礼の手紙が数え切れないほど結ばれている。

 先例にならい、賽銭を投じる。そして手を合わせ、時間をかけて祈る。

(神様。いつも見守ってくださってありがとうございます。おれはこの土地で、新しい家庭を築きたいんです。どうか背中を押して下さい。前に進む勇気を下さい……。)

 風もないのに、前髪がふわりと揺れるのを感じた。おれの願いに神が応えたかのようだった。

「めぐは、神様の存在を信じる?」
 手を合わせたまま問うと、めぐはぺろりと舌を出した。

「願いが叶った時だけね。薄情かな……? 悠くんは?」

「おれはいつでも信じてるよ。……この神社にもたくさんの神様がいる。そよぐ風、木漏れ日、神聖な空気。これってみんな、神様からの贈り物なんだ。それを受け取ることで、おれたちは今日も生きていられるんだよ」

 めぐは感心したように深くうなずく。それを見て、さらに続ける。

「神様だけじゃない。先祖や死んだ家族も見守ってくれてる。……別に見えるわけじゃないけど、感じるんだ」

「……そうだね。わたし、悠くんとの出会いは神様のはからいだと思ってるの。パパやママから聞いたけど、わたしと出会う少し前までずっと音信不通だったんでしょう?」

「ああ。親父からお袋の余命がわずかかもしれないと連絡をもらったケータイは、十年間、電源を切ったままだった。存在も忘れてた。それが突然、部屋の隅から出てきて、充電したらそのタイミングで電話が鳴ったんだ」

 あの時ほど、運命を感じた瞬間はない。そう。おれは故郷ここへ呼び戻されたのだ。何らかの強い力によって。お陰でめぐと出会い、こうして想い合っている……。神に導かれたとしか言いようがない。

「めぐとの出会いがあったから、おれは今日まで生きてこられたんだ。めぐは……おれにとっての神様みたいな存在。だからこれからも……ずっと一緒に生きていきたいんだ」

「うん。ずっと一緒だよ」
そう言ってめぐは笑った。

(挿絵2)

 酒宴会場に戻ると、家の中からギターの音色とともに歌声が聞こえてきた。

「なんか楽しそうなことやってる!」
 めぐは駆け足で室内に飛び込んだ。

(誰が弾き語りしているんだろう……?)

 部屋に入ると、輪の中心にいたのは翼で、気持ちよく歌を披露しているところだった。歌が終わり、一同から拍手が起こる。拍手に応えた翼は、おれに気づくと椅子から立ち上がった。

「あんまり遅いんで、もう戻ってこないのかと思ったよ。鈴宮なんか放っておいて解散しようよって提案したんだけど、めぐちゃんも一緒だからもう少し待ちたいって言われて。それなら歌って待ってるかって話になって歌ってたんだ」

「ふーん。歌、うまいんだな、野上は」

「これでも園で毎日、ピアノの伴奏をしながら歌ってるんでね。ここにピアノがあれば自慢の演奏を聴かせてやれたんだけど……。そうそう、めぐちゃん。プレゼントがあるんだ」
 翼はギターを置くと別室に行き、何かを手に持って戻ってきた。

「はい、これ。気に入ってくれると嬉しいな」

「わぁ! 素敵なブーケ! わたしにくれるの?」

「うん。ばあちゃんが手入れしてる花壇の花ばっかりだけど、剪定を兼ねて摘み取っても構わないって言うから」

「ありがとう。えっ、ホントにお庭の花だけで作ったの? お店で買ってきたみたい。すっごくキレイ」

「園芸好きの先生がいてさ、少し前から花の生け方とかブーケの作り方とかを教えてもらってるんだ。……めぐちゃんに喜んでもらえるような花束が作れたらいいなと思って」

「わぁ、嬉しい! 翼くん、さっすがー!」
 めぐは一度ブーケをテーブルに置くと、翼の胸に飛び込んだ。めぐをぎゅっと抱きしめた翼は、おれを見てしたり顔をする。

「あんたに、めぐちゃんを喜ばせるテクニックがあるかな? あるならぜひ拝見したいもんだね」

 さっきまでしょんぼりしていたのが嘘みたいに自信たっぷりの翼を見て、思わず唇を噛む。まさか、おれのいない間にプレゼントを用意して待っているとは……。

 めぐを喜ばせるテクニック。そんなものがあるならとっくにやっている。悔しいけれどおれの取りは、生きることに貪欲なことと泳ぎが得意なこと、この年になっても顔のシワがほとんど目立たず十代でも通用するほどに眉目秀麗びもくしゅうれいなことくらい。特別稼ぎがいいわけでもなければ、特殊能力もない。

(おれは翼には勝てないのか……。頑張っても挽回は出来ないのか……。)
 悩み始めると、内なるおれたちが声を上げる。

 ――もう忘れたのかよ? 十六歳の悠斗からの手紙を思い出せ。お前には、何も考えずに突っ走れるって特技があるじゃないか。お前の持ち味を生かすしか、この闘いを乗り切る方法はないぜ。それとも、あれか? 今からめぐ好みの男になるために頑張るか?

 ――いや、めぐの好みは翼も把握してるし、あっちは先手を打ってるから同じ土俵で勝負したってはなから勝ち目はないだろうよ。特技を生かすなら、やっぱりいい顔で迫って口説いて……。

 ――強引に迫るのはよせ。そんなことをして嫌われてみろ、翼の思うつぼだぞ!

 頭の中が騒がしい。協力しろって言ったのに、何だってこいつらは自己主張したがるんだ……?

(ああ、やかましい……! しゃべるなら、ちゃんと意見をまとめてからにしろ!)
 注意しても、奴らは言うことを聞かない。

 ――おれたちが「考えて」発言するとでも思ってるのか? 無策で行き当たりばったりなのが鈴宮悠斗だろう?

 至極もっともなことを言われて言葉に詰まる。返答できずにいると、一人の「おれ」が突飛なことを言い出す。

 ――じゃあこうしよう。どうせ、こっちの意見なんて聞いてもらえないんだから、ここは悠斗の好きにさせるっていうのはどうだ?

(は……?)
 いきなり見放された気分だった。しかし、奴らは同意する。

 ――そうだな、こっちが何を言ってもウザがられるなら、ここは黙って見守るのが正解かもしれない。

(おいおい、お前ら。アドバイスなしの方向で意気投合するのかよ……。)

 ――意見をまとめろって言ったのは悠斗だろ?

(……たしかにそう言ったけど。)

 ――で、どうするよ? おれたちの言うことを聞くのか、聞かないのか。

(……わかったよ。今回のところはお前らに意見は求めない。おれの考えだけで行く。)
 決断を下すと、急に頭の中が静かになった。

 さて……。自分で決めるとは言ったものの、現時点で翼に対抗できる手段はない。翼は相変わらずほくそ笑んでいるし、めぐもあいつのそばでニコニコしている。

 おれは心を落ち着かせるため一旦その場を離れ、庭に足を向けることにした。

 それほど広くはないが、日当たりのいい庭には様々な冬の花が咲き誇っている。パンジー、プリムラ、ノースポール、クリスマスローズ……。冬野菜なんかも植えてある。

 花壇の前で腰を下ろしていると、翼と談笑していたはずのめぐがそばにやってきた。
「おばあちゃんは花壇作りの名人なの。九十近くになった今でも、季節の変わり目には全部一人で植え替えしてるらしいよ」

「へぇ。……そう言えば、おれの母親も庭いじりが好きだったよ。よく、植え替えを手伝わされたっけ。おかげで、花の名前もたくさん覚えちまった」

 花に触れない生活をするようになって久しいというのに、見ただけでその名がパッと出て来たのには自分でも驚いている。そしてめぐは、こんなおれに興味を持ったらしい。

「悠くん、花の名前を知ってるんだ! 実はわたし、全然詳しくなくて……。さっきもらったブーケの花名も、後で調べようと思ってたんだよね。……もしかして、分かる?」

「ああ、分かるよ」

「この花は?」

「プリムラ・ジュリアン」

「じゃあ、こっちは?」

「ノースポール。正式名はクリサンセマム」

「え、それじゃあ……これは?」

「……これはブロッコリー。さすがに見りゃ分かるだろ?」

「えー? こんなふうにるなんて知らないもん」

「じゃあ、これも分からない?」
 おれが指さした葉っぱを見ためぐは苦笑する。

「大根でしょう! それは分かるよ! もう、いじわるなんだからー!」
 照れ笑いするめぐを見ておれも笑う。

「なんだ、なんだ? 庭が騒がしいぞ?」
 笑っているところに翼が割って入る。めぐは笑いながら翼に話しかける。

「悠くんね、花の名前に詳しいの。お庭に咲いてる花の名前をみんな知ってるの」

「ふーん……」
 翼はつまらなそうに返事をして、しゃがむおれを見下ろした。

「……あんたにも特技があったってわけだな」
 言われてハッとする。自分では全く気がつかなかったが、そうか。これを「特技」って言うのか。

 人のことはどうでもいい。『おれ全開』でいけ――。

 十六歳のおれからの手紙に書いてあった言葉を思い出す。

(そうか。『ありのままのおれでいく』って、こういうことか……。)
 唐突に、打開策が見えてきた気がした。

(お袋、ありがとう。あの時、熱心に花の名前を教えてくれて。まさか、こんな形で役に立つとは思ってもみなかったけど、無理やりにでも花壇の手入れを手伝わせてくれたことに感謝するよ。)

 新年会がお開きになり、彰博宅へ戻る。三人が夕方の寒さに手をこすりながらさっさと室内に入る中、おれはそのまま残って庭に回った。

 庭、といってもさっき見たのより狭いし、今は見苦しくない程度に刈り取られた雑草ばかりが生えている状態。そこはもはや物置き場と言ってもよかった。気にかけていない時にはなんとも思わなかったのに、こうして見るとなんて殺風景な庭だろうと思う。おれが言うのもおこがましいが、日常が忙しいからと、何の手入れもしないのはあまりにもズボラじゃないのか……?

「悠? 寒くないの? 暖房を入れたから、早く部屋においでよ」
 庭に面した窓から映璃が呼んだ。

「映璃。花壇だ。花壇を作ろう」

「えっ?! どうしたの、急に」

「ここを、花でいっぱいにしよう。そうすりゃ、もっと明るい家になる。おれは野上家を、今以上に賑やかで笑顔いっぱいにしたいんだ」

「悠……」
 映璃は微笑んだ。

「分かった。悠の好きにしていいよ。正直な話、このスペースをどうにかしたいなって思ってたんだよね。悠が作る花壇かぁ。楽しみだなぁ」

 アキ、めぐ。悠が花壇を作るって! 映璃が室内に戻った二人に声をかけた。二人は驚きの声を上げながらやってくる。

「悠くん、うちの庭に花壇を作ってくれるの?! わーい! わたしも手伝うよ! あんな感じのがいいなぁ。……あ、ちょっと待ってて。パソコンでイメージ画像を探してくるから!」
 めぐはそういうなり再び部屋の奥に引っ込んだ。やれやれ、忙しい子だ。

「翼くんがいい刺激になっているみたいだね」
 めぐを見送った彰博がおれに視線を移し、満足そうにうなずいた。

「ああ。お前とやり合ってた頃を思い出すよ。負けるもんかって気持ちになる。……いなくなってもらうって脅された時はさすがに怖かったけどな」

「あはは。だけど実際、いなくなったと思うよ、あの日の君は。再び過去に引き戻されそうになった君を現実に連れ戻してくれたのは、間違いなく彼だ」

「ああ……」

「ねぇ、ねぇ、悠くん。こっちへ来て。わたし、こんな花壇がいいの!」
 めぐに呼ばれて部屋に入る。パソコンの画面を見ると、ローズガーデンばかりが表示されていた。

「……この狭い庭をローズガーデンにしたいと?」

「うん。悠くんならできるよね?」

「できるよね、って……。いきなりハードル上げてくれるなぁ。でもまぁ、やってみるか。めぐも手伝えよ?」

「もちろん! 早速、明日から庭作りしようよ!」

 気づけば、おれよりもめぐのほうが張り切っている。この様子なら、庭作りを通しておれたちの心の距離も一気に縮まるかもしれない。

「めぐ」

「ん?」
 椅子に座ったまま振り返っためぐを抱きしめる。驚いためぐの耳元でそっと囁く。

「おれは翼と違って格好いいところは見せられないかもしれない。むしろ……父親っぽく接することしかできないかもしれない。だけど、めぐのことは心から愛してる。庭の花がゆっくり成長するように、おれたちの愛もゆっくり育てていきたい……。それがおれの願いだ」
 
「悠くん……」

「とはいえ、次にデートに行くときは、いつでも十六歳に戻ってハッチャケられる自信はあるけどな。……ああ、そうだ。制服デートでもするか? 確かまだ、捨てずに取ってあったと思うんだ、城南高校の制服」

「えっ! 悠くんと制服デート?! いいね、それしたい! 悠くん、見た目だけでいったら高校生でも全然イケるくらい、若い顔してるもんね!」

「いや……。それはさすがに無理があるんじゃ……?」
 そばで聞いていた彰博に即座に突っ込まれる。だけど発言を取り消すつもりはない。

「何を着ようがおれの自由だろ? それに、お前と違って日頃から鍛えてるし、めぐの言うとおり、顔だってそこまで老け込んじゃいないから、高校生でも充分通用する……はず」

「うわっ、そのやたらと自信たっぷりな感じ、懐かしいな。本当に高校の時の鈴宮みたいだ。すごく……腹が立つ。鈴宮たちがするなら僕たちもしようか、制服デート」
 彰博が映璃に提案する。

「えっ! もう、アキったらなんで悠に対抗心燃やしてんのよ? やーね……」
 しかし、その顔はどことなく嬉しそうである。彰博もそう思ったようだ。

「満更でもなさそうだけど?」

「そりゃあ……あの頃のことを思い出したら心も弾むわよ」

「ははっ、こいつはいいや!」
 浮ついた映璃を見てテンションが上がる。
「やろうやろう、制服デート。すっげー楽しそうだ!」

「本気?! 僕たち、四十六だよ?」

「結婚するのに、年は関係ないって言ったのは誰だ? デートだっておんなじだ」

 きっぱりと言い放つと、彰博は大きな声で笑い転げた。彼のこんな姿は未だかつて見たことがなかった。

 きっと、おれのことを馬鹿なやつだと思っているに違いない。でも、それでいいんだ。事実、おれは馬鹿だし、それを押し通す方がやっぱりおれらしく振る舞えるみたいだ。そうすることで周りがこんなにも笑ってくれるなら、おれは一生馬鹿をやり続ける。誰になんと言われようとも。

<めぐ>

八(追加・変更点あり)

 三学期初日。学校が午前中で終わったわたしは洋菓子店『かみさまの』のカフェスペースにやってきている。ここは友人・高野木乃香このかの父親が経営しているお店で、お客さんがいない時間は客引きを兼ねておしゃべりをしていいことになっている。

 冬休みにはいろいろなことがあった。それを学校で話さず午後まで取っておいたのは、木乃香をびっくりさせるためである。

「えっ? めぐの彼氏って四十六歳なの?! 制服デートしたって言うからてっきり、いっこか二こ上かと思ってた!」 
 
 実際に話してみると、彼女の反応は予想以上で、椅子をひっくり返す勢いで驚いた。食いつきの良さに満足したわたしはそのまま話を続ける。

「でも、悠くんはすっごく優しいよ。まぁ、わたしが守ってあげたくなるくらい、繊細な一面もあるけど」

「そっか。それだけ年上なら、学校までバイクで送ってくれるのも納得」

「あー、今朝送ってくれたのは従兄いとこの翼くん」

「えっ?! 従兄がどうして?!」

「翼くんはわたしのことが好きなんだって」

「好きなんだって、って……。めぐはそれでいいの?」

「うん。だってわたしも翼くんのこと、好きだもん」

「ふ、二股……? かわいい顔して、やるわねぇ……」

「……もしかして、引いてる?」
 正直に話しすぎたかも……と、ちょっぴり歩み寄った発言をすると、木乃香は「……少しね」といって肩をすくめた。

「でもさ、実際どうするつもりなの? ずっと二股を続けるわけにもいかないでしょう? 最後にはどっちかに決めないと、めぐが不幸になっちゃうよ?」

「うーん……。でも今は、男の子同士で競い合ってるみたいだから、バトルの行方を見守っておこうかなって感じ?」

「え?! ってことは、めぐの二股は彼氏公認ってこと?! 何がどうなってるんだか……。ねぇ、お母さんはどう思う?」
 木乃香はすっかり呆れてしまったようだ。とうとう、店番をしている母親に意見を求めはじめた。

「カップルの数だけ愛の形がある。私はめぐちゃんのような生き方もありだと思うな。もちろん、それなりの責任と覚悟は必要だけどね」
 木乃香のお母さんはそう言って笑った。

「人の幸せを木乃香ちゃんが決めることは出来ないんだよ。めぐちゃんがそれを幸せだと思ったらそれでいいの。もし許せないっていうなら、木乃香ちゃんはそういう生き方をしなければいいだけの話」

「……確か、お母さんの友だちに『複雑なカップル』がいるんだっけ?」

「うん。時々ここへも来るよ。もし今度会う機会があったらぜひ話してみて。あ、でも頭のいい人たちだから、恋バナで浮かれた木乃香ちゃんに彼女たちの話は理解できないかも?」

「えー、ひどいなぁ。これでも城南高校受かったのにぃ」

「受かるだけじゃねぇ」
 木乃香のお母さんは再び笑った。

 それからしばらく談笑を楽しんだわたしは、店で一番人気のケーキ『かみさまの樹』を買って家に帰った。

 帰宅すると、仕事前の悠くんが庭の整備をしていた。「ただいま」と声をかけると、悠くんはシャベルを動かす手を止めた。

「おかえり。今日はようやくレンガを敷き詰められたよ。少しは庭らしくなってきただろ?」

「うん。結局、一人でやらせちゃってごめんね。花を植える時は手伝うから」

「まぁ、いいさ。身体を動かしていれば無心になれるし、めぐが喜ぶ姿を想像すれば頑張れるってもんだよ」

「ありがとう。……ねぇ、ちょっと早いけどおやつにしない? ケーキを買ってきたんだ。二人だけでこっそり食べちゃお」

 買ってきたケーキの箱を見せると、悠くんは子どもみたいに嬉しそうに微笑んで室内に入った。

 手を洗い、さっそく紅茶の用意をする。お気に入りのダージリン。ティーポットに二人分の茶葉を入れる時、一緒に飲める人がいる嬉しさを感じるのはわたしだけだろうか。

 紅茶を淹れていると突然、後ろから抱きしめられた。ドキッとして振り返る。

「……どうしたの?」

「めぐが帰ってきてくれてよかった。実はちょっと……寂しかった」

「えー? 本当に子どもにでもなっちゃったみたい。これからお仕事でしょう? 大丈夫……?」

「ああ。でも、めぐの姿を見て声を聞いたら落ち着いた」

「それならいいけど……。無理しないでよね? 花壇だって、春までに完成すればいいんだから」

「無理はしないよ。……ああ、いい香りだ。めぐは紅茶を淹れるのもうまいな」

「ここのケーキとの相性は抜群だよ! さ、食べよ食べよ!」

 テーブルに向かい合って腰掛ける。
「いただきます」

 わたしと悠くんの特別な時間。その笑顔がわたしだけに向けられていると思うだけで嬉しくなる。

 以前、高校の卒業アルバムを見せてもらったことがある。パパもママも今ほどシワがなく、また髪の毛や肌もつやつやしている写真を見て、時の経過をまざまざと思い知ったものだが、悠くんだけは当時とほとんど変わっていなかったのには驚いた。

 いつだったかパパから、過去にとらわれている人間の時間は止まったままだ、と聞いたことがある。おそらく悠くんはそれが理由で年齢より若い顔つきなのだろうと想像するが、わたしからすれば若作りの顔はむしろ好都合というもの。周囲から見て年齢差を感じないのはやはり嬉しいものだ。

「悠くん、だーい好き」
 あふれる想いが言葉になって飛び出す。悠くんは微笑む。

「ああ、おれも好きだよ。だから……ずっとおれだけを見ていてほしいな。あいつじゃなくておれを」

「もちろんだよ」
 ケーキを食べながら噛みしめる幸せ。自然と笑みがこぼれる。

(挿絵3)

 悠くんがスイミングのコーチの仕事に行ってしまったあとは、両親が時間差で帰ってくる。最近はこれが我が家の、悠くんを加えた新しい生活パターンである。夕食を済ませたあとで翼くんが遊びに来るのも、もはや日常だ。

 木乃香このかには「二股」だと言われたけれど、別に二人をもてあそんでいるつもりはない。むしろどちらも大切にしたいから、一対一で会えるならそういう時間を持ちたいとさえ思っている。夜にやってくる翼くんと近所の散歩をするのもそういう理由からだ。

 悠くんと違い、翼くんはわたしにぴったり身体をくっつけて歩きたがる。わたしが寒がりなのを知って、少しでも互いの熱を感じられる距離で、と考えているらしい。

 彼とパパを知る人は皆、親子のように似ていると言い、一緒にいると間違われることさえある。確かに、翼くんのお父さんよりはパパに似ているかもしれないが「断然、翼くんの方が格好いい」とわたしは言いたい。目は細いけれどキリッとしているし、くせっ毛にもストレートパーマをかけている。それに、声だってとっても素敵なのだ。クリスマスの日、夜の観覧車で「好きだよ」と耳元で囁かれたときには幸せのため息が出てしまったほど。

 月が綺麗な夜だった。見上げた空は吸い込まれてしまいそうなくらいに澄み渡っている。ずっと見ていたら心の曇りもなくなってしまいそうだ。

 翼くんが白い息を吐きながら言う。
「新学期はどうだった? 俺が学校まで送ってったことで何か言われた?」

「うん。送ってくれたのが従兄だって言ったら、彼氏じゃないの? って突っ込まれたけど、どっちも好きだからって話したら、ちょっと……引かれちゃった……」

「えっ、本当にそう言ったの……?」

「やっぱりダメだったかな。二股かけてるって言われちゃったんだけど……」

 慌てて言葉を継いだが、翼くんは「そういうことじゃなくて」と言って首を横に振った。そして立ち止まるなり、わたしの身体を塀に押しつけた。

「めぐちゃんにとっては、あいつが……恋人なの? 俺のことは従兄で、恋人とは認めてくれないの……?」
 その言葉にハッとする。彼の優しさに甘えていたことを、今更ながらに反省する。

「……翼くんのことも大好きだよ。だけど、翼くんはやっぱり従兄って気持ちが強くてそれでそんなふうに……」

 言い訳にしか聞こえないとしても、なんとか想いを伝えたかった。けれどもそれで納得する翼くんではない。恥ずかしさから顔を逸らしたら顎を掴まれ、無理やり正面を向かされた。真剣な目がこちらを見ている。

「……俺はただの、優しい従兄にはならない。鈴宮ほどのんびり構えるつもりもないし、いつまでも二番手でいるつもりもない」

「翼くん……」

「俺は従兄である前に一人の男だ。めぐちゃんのためなら歌も歌うし、花だって贈る。だから、俺を恋人だと言ってよ。ううん、もっと特別な存在だって言ってよ……」
 そう言ってわたしの手を取る。そして小さな箱から指輪を取り出すと左の薬指にはめた。

「俺と結婚してください。一生、大事にするから……」

 愛を囁いた唇が重なる。温かい吐息が顔にかかる。真似事とは違う。これがホントの、大人のキス……。翼くんの本気を今、改めて知る。

(ごめんなさい、わたしが間違ってた。こんなにも愛してくれていたなんて……。)

 キスを繰り返すたび彼の想いが入り込み、心ごと支配されていく。けれどもそこにはやはり翼くんの優しさが含まれていて、わたしを組み伏せてやろうという強引さは感じない。優しさの分だけ、心地よい。彼の熱を、刺激をもっと感じたい……。そう思わせる彼の魅力に取りつかれていく……。

 ところが、心地よさは唐突に終わった。誰かが強引に翼くんを引き剥がしたのだ。

「野上っ! おれのめぐに何してんだよっ……!」

 そこには、眉を吊り上げた悠くんの顔があった。仕事帰りなのだろう、すぐそばにバイクが停めてある。翼くんに夢中でまったく気配に気づかなかった。

 怒りの収まらない悠くんが、翼くんの顔めがけて拳を突き出す。が、拳は余裕の笑みを浮かべる翼くんにあっさり掴まれてしまった。

「何って、見たから怒ってるんだろ? キスだよ、キス。あんたは我慢してるのかもしれないけど、俺はあんたより先に二人の距離を縮めていくよ。今し方、プロポーズもした」

「……何を焦っている? めぐはまだ高校生だぞ?」

「はぁ? あんただって、高校生の時はエリ姉とキスしてたって聞いたけど? 自分のことを棚に上げて良くもそんなことが言えるな」

「……めぐ。帰るぞ。後ろに乗れ」
 悠くんは怖い顔のまま、バイクの後ろに乗るよう指示した。

「なんだよぉ。まだ散歩の途中なんだけど? めぐちゃんは俺が責任を持って送り帰すよ」

「おれはめぐに言ってるんだ。早く乗れ!」

 従わなければ悠くんを失ってしまう……。わたしは翼くんに申し訳なさを感じながらもバイクに乗った。悠くんはすぐにエンジンを吹かす。

「ごめん。後で連絡するから……」
 一言だけ告げたが、翼くんの耳には届いただろうか……。冷たい夜風がわたしと悠くんの間を通り抜けていく。

「怒ってる……よね?」

「ああ。メチャクチャ怒ってる。数時間前、おれだけを見ると約束したのが嘘だったんだからな」

「許して……くれないよね?」

「そうだな……。たとえめぐがその指輪をあいつに突っ返したとしても、簡単には許せないな」

 帰宅してすぐ、翼くんとの出来事をありのままに話した。嘘はつきたくなかった。けれど、正直に話したことで余計に彼の機嫌を損ねたのは間違いない。何の弁解もできないことを、わたしはしてしまったのだ。

 ――最後にはどっちかに決めないと、めぐが不幸になっちゃうよ?

 木乃香に言われたことを思い出す。あの時はこうなる未来を予想できなかった。自分の想像力のなさを呪う。

 どちらからも好かれたい。待ってくれるというのなら、今は恋愛を二倍楽しみたい――。そんなワガママがいよいよ通用しなくなったことを知る。このままでは本当に不幸の道に進んでしまう。なんとかしなければと思うが、今はその方法も思いつかない。そこへ追い打ちをかけるように悠くんが言う。

「もし、めぐがこのままおれを翻弄するようなら……。心苦しいが、おれはここを出て行くよ。めぐのことは好きだけど、振り回されるのはごめんだからな。幸い、親の残した家があるし、そこで暮らしていくことは出来る」

「そんな……」

「そのくらいおれたちは本気ってことだ。高校生の恋愛ごっこをしたいわけじゃない。めぐと新しい家庭を築きたいって、本気でそう思ってるんだよ。でもなけりゃ、翼に言われて幼稚園で仕事したりしないし、翼だって、指輪そんなものを用意してポケットに忍ばせておくはずがないじゃないか」

「だけど……」
 反論しようと立ち上がったが、続く言葉は相変わらず出てこなかった。悠くんはため息を吐く。

「……やっぱり、しばらく会うのをやめよう。翼にも言っておく。めぐの浮かれ気分が落ち着くまではそうするのが互いのためだってな」

「…………」

「会わないうちに、やっぱり恋愛ごっこがしたいって結論づけたなら、おれも翼もめぐを諦めるしかない。なに、めぐが友だちとして会ってくれるならちっとも寂しいことはないよ。それに、翼だっていいやつなんだ、あいつが本気を出せばすぐに似合いの人が見つかるだろうさ」

 拗ねてしまうのは簡単だった。でも今ならそれが幼稚な態度だとわかる。わたしは今までのように拗ねることも言い返すこともできず、ただただ黙ることしかできなかった。

 八歳で初めて出会った時の悠くんは、今にも消えてしまいそうなくらい弱々しい姿をしていた。幼心に「幽霊?」と思ってしまったほどだ。しかし話せば話すほど純粋な人だと分かり、すぐに友だちになった。

 わたしが笑顔でぎゅっと抱きしめてあげると、そしてそれを繰り返していくと悠くんの笑顔は増えていった。一緒にいれば彼の精神は安定する。そのことに気づいたわたしは、彼の役に立ちたい一心で今日まで接してきたのである。

 両親から悠くんとの結婚話をもらった時に「イエス」と言ったのも、守ってあげたいとの思いがあったからだ。けれども、それはわたしの思い上がりだったようだ。

 わたしに悠くんを守る力があるわけじゃなかった。両親や翼くんがくれた、溢れんばかりの愛情を分け与えていただけ。ちょっとばかり、母性本能を発揮していただけ……。そう。わたしはただ、「恋愛ごっこ」ならぬ「お母さんごっこ」をしていたに過ぎなかったのである。この気づきはあまりにも衝撃的ですぐに受け容れられそうになかった。

 あの話の翌日、悠くんは本当にここを出て行ってしまったし、翼くんも全く訪ねてこなくなった。

 ――おれたちは本気ってことだ。

 悠くんの言葉が頭の中でずっと繰り返されている。彼らが離れていってようやく目が覚めるなんて、わたしはとんでもない大馬鹿者である。

 もう、いつでも会える距離にいるからと甘ったれたことは言えない。二人との関係を修復するには何らかの「覚悟」をしなければならない。けれど、肝心の「覚悟」の仕方がわたしには分からない……。

◇◇◇

 悶々とした日々が続く。スッキリと晴れ渡った日曜日の昼下がりも、今のわたしにとっては曇天も同じ。少し前まで浮かれていたのが嘘みたいに足取りは重い。

 けれども、じっとしていたら余計に気が滅入ってしまう。だからわたしは、足を引きずるようにしながらも一歩一歩、ある場所を目指して歩き続ける。

 訪れた場所は、先日おみくじを引いた春日部かすがべ神社。悠くんいわく、ここにはたくさんの神様がいて、いつでも見守ってくれているという。

 わたしは早速本殿に赴き、多めに賽銭を入れて手を合わせた。

(神様、どうかお願いです。わたしから二人を奪わないでください。二人のことが大好きなんです。ずっとずっと、一緒にいたいんです。そのためなら何でもします。だから、お願いします……!)

 手袋をした指先がかじかんでしまうまで手を合わせていた。神様が願いを聞き入れてくれるかどうかはわからない。だけど、今のわたしにはもう、神様にすがることしか出来なかった。

 本殿から向き直り鳥居に足を向けると、ご神木の隣にあるパネルに目が留まった。先日来た時には気が付かなかったが、近づいてよく見てみると、「新年の抱負」が書き込まれているのだと分かる。

 ――○○大学合格!
 ――今年こそ、結婚するぞ!
 ――妊活、頑張る!

 中には、「なわとびがとべるようになりたい!」と平仮名だけで書かれた抱負もあった。

(みんな、何かを目指して頑張ろうとしてるんだな……。それに比べてわたしは……。)

 二人の男性に愛を囁かれるという、誰もが羨むような状況下において、どちらか一人を選ぶことができずに悩んでいるわたし。いや、一方を切り捨てることができないと言ったほうが正確かもしれない。

 ああ、身体が二つあったらどんなに良かったことか。けれどもそれはどんな努力をもってしても叶わぬ夢……。

 結局わたしは、掲げられたたくさんの抱負をまぶしく見つめることしかできなかった。神頼みをしたのに、心が晴れることもなかった。

 うなだれて帰宅すると、ママが熱心にピアノの練習をしていた。

(あ、ここにも努力家が一人……。)

 ママは幼稚園教諭になろうと決めてからピアノを学んだ人だ。「幼い頃から弾き続けてきた同僚にはどうあがいても勝てない」と言いながらも、「そこは努力でカバーできる」と、暇さえあれば弾いている。そんなママが好きなのだ、といつかパパが言っていたっけ。

「あ、帰ってきてたの? 声くらい掛けてよ」
 わたしに気づいたママは弾く手を止めた。

「練習の邪魔しちゃいけないと思って」

「邪魔だなんて。……どうしたの? いつものめぐらしくないね」

 ママはソファに座るよう促した。何も言わなくてもママには分かってしまうようだ。わたしは、特技もなければ頑張りたいこともない、また二人との関係も神頼みで解決しようと考えて神社に参拝してきたことを正直に伝えた。

「やっぱりあなたは私の子どもね。私も高校生の時、同じようなことで悩んでたものよ」
 ママは深くうなずいて、わたしをまっすぐに見つめる。

「あの頃は何も考えず、誰かの言葉に流されていれば楽に生きていられた。何の不自由もなかった。城南高校に進んだのも、先生に勧められたからって言う単純な理由だしね。そこには何の目的もなかったよ」

「ママにもそんな時期があったんだね」

「高校生なんてみんなそうじゃない? みんな、目の前の勉強や学校での生活でいっぱいいっぱい、あるいは恋愛に夢中になってる。先のことを考えてコツコツ努力できる人なんてほんの一握りに過ぎないわ」

「そうなのかなぁ?」

「……めぐは、ある意味においてはちょっと特殊な環境で育っちゃったよね。親と同い年の友だちがいたり、年上のいとこが、きょうだいみたいに可愛がってくれたり。恵まれてきた分、悩むことも少なくて済んだ十六年っていうか」

「そう! その通り! ……だけど、この先もそれじゃ悠くんや翼くんに申し訳ないし、わたしが変わらない限り、きっと二人の気持ちは離れていってしまう。それが怖いの」

「めぐ。そう思えた今が、変わるタイミングよ」
 ママはわたしの肩にそっと手を置いた。

「ママもそうだった。同じように生きていたはずのアキが……。パパがその状態から脱しようともがく姿を見て、私もこのままじゃダメだ、変わりたいって思った。その時にようやく自分の病気と――十八歳まで生理が来なかった身体と――向き合おうって決心できたの」

「そのママを支えてくれたのがパパってこと? だから結婚したの?」

「支えてくれたアキに惹かれたのは、確かにそれがきっかけね。でも、結婚は正直、しなくてもいいと思ってた。だって検査の結果、わたしが子どもを産めない身体だと医者に断言されてしまったんですもの。私は彼の子どもを産めない。それがずっとコンプレックスだったのよ」

「それでもパパは、結婚しようって言ったんだよね?」

「うん。それが嬉しかったって言うのが本当のところかな。こんな欠陥のある私を全肯定してくれる人と家族になりたいって思えたから」

「そっかぁ。パパ、すごいなぁ」

「でもそう思えたのは、そこに至るまでに長い長い共同生活があったからだと思ってる。お互いに、いいところも悪いところもいっぱいさらけ出した。それでもこの先の人生をともに過ごしたいと思えた。だから結婚という道を選んだ。……それが私とアキの物語」

 すっかり感心してしまったわたしだが、果たして自分にも同じような決断が出来るかどうか、考え出したらまた自信がなくなりそうだった。しかしママはそれも分かっているのか、くように言葉を継ぐ。

「これはあくまでも私たちの話であって、めぐに当てはまるとは全然思わないよ。……めぐは天真爛漫だからね。その姿に悠も翼くんも惹かれて一緒にいたがってるんだと思うし。でもね、一緒にいるのと結婚するのとは違う。そこだけは知っておいて欲しいの」

「えっ?」

「一緒にいるだけなら、結婚という形にこだわらなくてもできる。事実、私も二十歳はたち前後はそうやって過ごしてたし、それで満足してたんだもの。でも、結婚すると相手の家族や親戚がついてくる。更に女の場合は子どもを産む産まないって問題も出てくる。そういう責任を引き受ける覚悟が、結婚には必要なの」

「…………」

「だから十六歳で、結婚するかどうかを決めなくていい。そんなことはずっと先でいい。まだ、今を楽しみたいでしょう? だったら焦らないこと。めぐの人生なんだから、どう生きるかはめぐが決めればいいんだよ」

 ママの、厳しくも優しい言葉になんと答えたらいいか分からず黙り込む。ママは語気を強めてさらに続ける。

「いい? 自分で、決めるんだよ? ちゃんと自分で答えを出すこと! 押し切られて結婚したって、絶対に後悔するから」

「後悔……」
 最後の言葉でようやく腑に落ちる。
「そうだよね。うん、わたしも後悔はしたくない」

 ママはうなずく。
「めぐは、悠や翼くんの気持ちを大事にしたいと思ってるのよね? でも、それ以上にめぐの気持ちを大事にしてね。大丈夫、あっちは大人なんだから、めぐよりも人生経験を積んできてるし、めぐのことが好きなら、めぐの決断にも賛成してくれるって」

「うん。ママ、ありがとう。わたし、自分で答えを出す。時間を掛けてでも、ちゃんと決断する」

「ママはめぐのことを信じてるよ。また困ったことがあったらいつでも言ってね」
 そう言ってわたしの手を強く握った。

 ――ずっとずっと、一緒にいたいんです。そのためなら何でもします。

 神様の前でそう誓った。誓ったからには、そしてこのままじゃダメだと思っているなら変わらなきゃ……。

 神様はいつでも見守っている――。

 その言葉を信じてみよう。そして何かしらのアクションを起こそう。信頼を取り戻すためにも……!

 会えないと言われた彼らにわたしの気持ちを伝えるにはどうしたらいいか、幾晩も考えた。十六歳のわたしの能力では、何をしても大人の彼らには劣る。それでも想いだけは充分にある。

 だったらいっそ、開き直って十六歳らしく気持ちを表現すればいいのではないか――。

 そう思い至り、自分の力で花束を作って手渡そうと決めた。それも、愛にあふれる花言葉を持つものばかりで。

 学校から帰る途中で花屋に寄ったわたしは、五千円分くらいの花を一本単位で購入した。夕方に帰宅したママに、無造作にバケツに放り込んだ花々を見せる。花束の作り方はママに教わることになっている。ママだって、翼くんに負けず劣らず上手なのだ。

「わっ、たくさん買ってきたわね。うーん、バランスを考えると全部使うのは難しいかもしれないけど、頑張ってみようか」

「映璃先生、よろしくお願いします」
 わたしは、かしこまって頭を下げた。

 赤いチューリップとリモニウムは「永遠の愛」、ピンクのバラは「愛を誓います」、ブバルディアは「誠実な愛」、カーネーションは「愛を信じる」……。一応、花屋の店員さんに聞いて買いそろえたものだが、花の形はバラバラ。ママは何度も手に取ってはバケツに戻し、を繰り返す。

「……よし、これでいこう」
 イメージが固まったのか、ようやくそう言うと、わたしに園芸用のはさみを持つよう指示した。

「やっぱり、バラは真ん中に持ってきたいから、バラを中心にそのほかの花を配置していこうと思うの。それで、作りたいブーケの大きさを決めたらそれに合わせて茎を切る。躊躇ためらわずにパチン! とね」

「えー、ドキドキしちゃう……」

「失敗してもいいよ。何ごとも経験だから」
 促されるまま、えいやっと気合いを入れて切る。

「そうそう、そんな感じ。どんどん行くわよ」

 花は生もの。スピードが大事なのだという。次々に花を手渡され、茎を切っては束ね……を繰り返す。気づけばあっという間に小さなブーケが出来上がった。最後はママに手伝ってもらって茎をくくる。

「はい、できあがり。どう? 難しくなかったでしょう?」

「うん。わたしでもできた……!」

「あとはラッピングね」

「それなら、花屋さんでもらってきた。わたしが真剣に悩んでるのを見て、サービスしてくれたの。想いが伝わるといいですね、って」

「これだけ『愛』が詰まった花束を渡そうとしてるんだもんねぇ。それで、これをもうひとつ作るの?」

「うん。悠くんと翼くん用に」

「……本当に好きなんだね、二人のことが」

 ママがどんな気持ちでそう言ったのかは分からない。でもきっと、真剣に二人を愛そうとするわたしを応援してくれているはずだ。

 ママはラッピングの仕方も丁寧に教えてくれた。おかげで、時間はかかったものの、初めてにしては上出来の仕上がりになった。

「これなら、めぐが本気だってことも伝わると思うよ」
 とっくに帰宅し、夕食の支度をしてくれたパパが言った。褒められて俄然がぜん、嬉しくなる。

「ホントに? それじゃあ、今すぐ渡してくる!」

「えっ? 夕食は?」

「帰ってから食べる! パパとママで先に食べてて」

「分かった。いってらっしゃい」
 笑顔で送り出される。わたしは二つのブーケを胸に抱え、まずはすでに仕事を終えているであろう翼くんの家に向かった。

 門の前まで行って、翼くんのバイクがないことに気づいた。どうやら外出しているようだ。伯父おじ伯母おばに居場所を尋ねることもできるが、花束を二つも抱えたまま顔を合わせるのは気まずい。

 時計を見る。悠くんの仕事上がりの時間はとうに過ぎていた。彼の家まで徒歩だと二十分くらいかかってしまうが、ここは頑張りどころだ。気合いを入れ直し、悠くんの家に足を向ける。

 夜が更けるにつれ、寒さが増してくる。肌を刺す夜風を感じるたび、悠くんや翼くんの体温が恋しくなる。わたしは単に寒がりなだけじゃなく、寂しがり屋で甘えん坊なんだろうなぁと思う。二人がいるから明るく振る舞える。天真爛漫でいられる。わたしの人生にはやはり二人とも必要なのだと改めて実感する。

 親きょうだいではないけれど、二人は限りなくそれに近い存在。いつだって一緒にいたいと思うのはごく自然なこと。そして、そんな彼らとこの先の人生を歩んでいきたいと願うなら、常識的な考えは完全に捨て去らなきゃならない。

 そう。「どちらか一人に決める」のではなく「二人とも選ぶ」。それがわたしの「覚悟」であり「決意」である。

 おそらく多くの人は首を傾げるか、生ぬるい判断だと言うだろう。どちらか一人を切り捨てるのが覚悟ではないのか、と。
 
 けれども、考え抜いた末に決めたのだ。わたしは一つの身体で二人分の愛を受け入れ、一人で二倍の愛を分け与えるのだと。

 幸いにしてわたしには「若さ」がある。二人よりも勝っていることがあるとすればそれくらい。ならばそれを逆手に取ってやろうと考えたのである。

 悠くんの家の前まで来ると明かりがついていた。帰宅しているようだ。ほっとしてチャイムを鳴らそうとボタンに手を伸ばす。と、中から話し声がするのに気がついた。誰か来ているのだろうか? 気になって庭の方に回ってみる。

「えっ……」

 目を疑った。Vストロームが停まっている……。部屋の中を覗いてみると、悠くんの隣に翼くんがいるではないか。

 二人は――この形容が合っているかは分からないが仲良く――エプロン姿でキッチンに立っていた。会話はよく聞こえない。けれど、どうやら翼くんが悠くんに料理を教えているらしかった。

(いったいどうなってるの……? 二人はライバルで、いがみ合ってるとばかり……。それとも、わたしの知らない間に二人は特別な関係に……?)

 楽しそうに談笑しながら料理をする姿を見れば、いらぬ妄想も膨らむ。その矢先、翼くんが包丁を置いて悠くんの方をじっと見つめ始めた。何かを囁いている。そしてその顔が悠くんに……。

(えっ、キ、キス……?!)

「きゃあ……!」
 思わず大きな声が出てしまった。慌てて口を押さえたが時すでに遅し。わたしに気づいた悠くんが足早にやってくる。

「……こんなところで何してんだ? しばらくは会わないって言っただろ?」

「……言われたとおりになんかしない。わたしはわたしの考えで行動する。……それより、今何してたの……?」

「……見てたのか?」
 こくんと頷くと、悠くんは額に手をやった。

「ほら見たことか! お前が馬鹿な行動をしたばっかりに。きっと誤解してるぞ! どうしてくれるんだ!」
 悠くんが翼くんの肩をつついた。しかし翼くんはけろりとしている。

「どうするもなにも、俺が揶揄からかうのはいつものことじゃないか。 ……まぁ、美男子のあんたと一緒にいると、どういうわけか変なスイッチ入っちゃうのは確かだけど。めぐちゃんが声を上げなければ、もうちょっとで鈴宮にキスしてやれたのに、残念残念」

「…………! お前にキスされるくらいなら死んだ方がマシだっ!」

「だから冗談だっつーの。本気にされても困るよぉ。す・ず・み・や・く・ん♡」
 まるで漫才を見ているようだ。失礼だと思いつつも、堪えきれずに笑う。

「二人って実は……仲良し?」

「冗談はよせ。仲良しなものか!」
 悠くんは首を大きく振った。

「でも……直前まで料理してたんでしょ? 翼くんに教えてもらってたの?」

「ほら。ここでも勘違いされてるぞ。おれがこいつに頼むわけがないだろ?」

「え? じゃあ翼くんの方から? でもなんで……?」
 首をかしげると、翼くんが種明かしをする。

「めぐちゃんちを出て行ったって聞いたからさ。鈴宮一人じゃ、どうせろくな飯も作れないだろうと思って見に来てやったんだよ。案の定、出来合いばかり買ってきやがる。だから俺が料理の仕方を教えてやってたわけ。花嫁修業ならぬ、婿修業ってやつ? 今の時代、男も台所に立たないと生き残れないぜってな」

 翼くんが料理上手なのは知っていたが、この展開は驚きである。当然ながら悠くんは反論する。

「親父と二人暮らしの時は料理くらいしてたって言っても聞きやしない。一人で食う分には何の問題もないって言ってるのにさ」

「甘いね。これだから中身おっさんの自称十六歳は困る。そんな生活してたら、今度こそ死ぬぜ? 俺が手を差し伸べなかったばっかりに死んだなんてことになったら、目も当てられないからな。今のうちにまともな飯くらい作れるようにしておかないと。そうでなくても、これから家族を持つ気でいるなら料理のスキルは必須だろ」

「殺すと言ったり、死なれたら困ると言ったり……。お前は何を考えているのか分からん」

「あー、よく言われるよ。でもまぁ、こんな俺でも嫌いじゃないんだろ?」

「不思議なやつだよ、お前は……」
 悠くんはため息交じりに笑った。

「ところで、めぐ。その花束は……?」
 二人の姿に驚きすぎてすっかり忘れていたが、言われて本来の目的を思い出す。

「……これ、わたしの気持ちです。どうか受け取ってください……!」

 片手に一つずつ花束を持って差し出す。端から見たら滑稽な姿に違いないが、気にしている場合ではない。

 はじめに感想を言ったのは翼くんだ。
「もしかしてこれ、めぐちゃんが作ったの? ……よく見たらすごい組み合わせだな。鈴宮、花言葉分かる?」

「いや、おれはそこまでは分からないけど……。そう言われたらなんとなく想像ついたぞ」

「ああ。これ全部、『愛』にまつわる花言葉を持つ花だよ。よくこれだけ集めたね?」

「花屋さんに聞いたんだ。丁寧に教えてくれたよ」

「へぇ。……俺たち、よほど愛されてるらしいぜ? どうするよ?」

「どうするって……」
 悠くんにじっと見つめられる。わたしは思いの丈を正直に伝える。

「……正真正銘の大人である二人に向かって、たかが十六歳のわたしが『大人扱いして欲しい』だなんて、生意気なことを言ってごめんなさい。いっぺんに二人も恋人が出来たから嬉しくて、気持ちが大きくなってたみたい。だけどそのことで二人を振り回しちゃった。反省してます。……だからまた、これまでみたいに会ってください。悠くんも、うちに戻ってきてください。お願いします……!」
 深々と頭を下げる。が、直後に二人がクスクスと笑い始めた。

(なんで、なんで……? 謝ったのに、なんで笑われるの……?)

 戸惑っていると翼くんが言う。
「やっぱりかわいいなぁ、めぐちゃんは。その気持ち、よーく伝わったよ。大丈夫。心配しなくても、俺たちはこれまで通りの付き合い方に戻るよ」

「えっ?」

「俺たちだって模索してるんだ。めぐちゃんと……そしてライバルと、どうやったらうまくやっていけるかを。一緒に飯作ってるのもそうだし、話し合うのもそうだし、鈴宮がしばらく会わないって言ったのだって、めぐちゃんの成長を思えばこその発言だったわけで。それは分かる?」

「う、うん。でも、二人は恋敵で……」

「これでも俺たち、大人だから。そりゃあライバルである以上、駆け引きもするけど、必要があれば歩み寄ることは出来る。そうだよなぁ、鈴宮?」

「それはそうなんだけど」
 悠くんは歯切れの悪い返事をした。

「おれが野上家に戻るのはいい。でも、そうすることでまた『恋愛ごっこ』が始まらないとも限らない。……なぁ。めぐの決意を聞かせてくれないか。ここに乗り込んできたくらいだ、何かしらの強い想いを持っているんだろう?」

 悠くんが疑念を抱くのは当然だ。愛の花束を渡したくらいで許してもらえるなら、そもそもあんなふうに怒ったり、家を出て行ったりする必要はなかったはずだ。

 さっきよりも強い緊張を感じながら二人を見つめる。そして、胸に秘めた思いを一息に告げる。

「わたしは二人が大好き。だから、どっちか一人を選ぶんじゃなくて、二人を選ぶ。そして……三人で暮らすの。周りから変だと言われようが、無茶だと言われようが、絶対にそうするって決めたの」
 わたしの告白を聞いた二人は顔を見合わせた。

「鈴宮の予想どおりだったな」

「ああ。めぐの性格を考えれば当然、そう言うと思ってたよ」

「予想どおり……? 反発……しないの?」
 あっさり受け容れられて拍子抜けする。悠くんは言う。

「めぐはいま、おれたちと『暮らしたい』と言った。暮らしは、日常だ。平凡な毎日だ。それを、おれたちとしたい。つまりは家族になりたい。そういうことなんだろ? だったらおれはめぐの出した答えを歓迎する」

「だけどきっと、三人暮らしなら平凡な毎日になんてならないだろうさ。なにせ、俺と鈴宮が揃えば漫才が始まるからな」

「馬鹿が! いつお前と漫才をやるって言った?!」

「ほら、ツッコミを入れた時点で漫才だろ」
 あんまり可笑しくて、今度は大笑いする。つられるようにして二人も笑う。

(これだ、わたしが求めているのは。こんなふうに毎日笑い合いたい。今よりもっと笑顔の絶えない家にしたい。そして、二人とならきっと実現できる……。)

 なぜだろう。「結婚」の二文字を脇に置いたら、気持ちがすっと落ち着いた。クリスマスに浮かれていたのが嘘みたい。ほんのちょっとではあったが、会わない期間を作ってもらったのは正解だった。お陰で今、こうして三人でいることが純粋に楽しくて嬉しい。

「わたし、分かったの。二人とは、結婚したいんじゃなくて、一緒にいたいんだって。 ……二人がわたしとの結婚を望んでいるのは知ってるし、それでいて一人に決めないのは覚悟が足りない証拠だって言われちゃうかもしれないけど、これが今のわたしに出せる精一杯の答えなの」
 包み隠さず想いを伝えると、悠くんがわたしの頭にぽんと手を載せた。

「おれたちも話し合ってみて分かったんだ。互いに、めぐの唯一の男になろうと躍起になるあまり結婚にこだわっていたけど、元を正せばそれって、めぐの幸せのためだったんだなって。だから、めぐが三人で暮らしたいと願うなら、それでめぐが幸せになれるというなら、おれたちはその考えを受け容れる。……彰博には話しておくよ。これが、おれたちが現時点で出した答えだってな」

「……パパ、がっかりするかな?」

「がっかりさせておけばいいさ。大体、あいつはおれに世話を焼きすぎるんだ。それについても色々言いたいことがある。この際、三十年分の思いをぶつけてやるよ」

 その時、わたしのお腹がぐぅーっと鳴った。大仕事を終えてほっとしたせいだろう。それでなくても室内は、作りかけの料理の良い匂いに包まれている。

 恥ずかしさにうつむくわたしの顔をのぞき込むようにして翼くんが言う。
「あれ、めぐちゃん。もしかして、晩ご飯を食べてこなかったの?」
 
「うん、早く二人に花束を渡したくて」

「なら、ここで食べて行きなよ。鈴宮が飢え死にしないようにと思って、材料は少し多めに用意してあるんだ」

「でも、家にはわたしのぶんのご飯が……」

「めぐちゃん。俺たちもう『三人家族』だろ? そういう心配はしなくていいんだよ。アキ兄もエリ姉も分かってくれるって」

 言われて、それもそうだなと思い直す。自分で判断し、行動できると信じているからこそ笑顔で送り出してくれたのだろうし、この恋愛の行方だって温かく見守ってくれているに違いない。

「……それじゃあ、遠慮なく。わたしも手伝うね。二人と一緒にご飯が食べられるなんて、サイコーに幸せ!」
 にっこり笑うと、二人は早速、料理の続きに取りかかった。

十一

 夕食をとったあとで、二人に家まで送ってもらった。両親はわたしの顔を見るなりほっとした様子だったが、「大事な話がある」と聞いた瞬間、パパは表情を失った。

「……今日はもう遅い。大事な話なら、なおさら日を改めたほうがいい」
 そう言って二人を追い返したのだった。

 週末までパパはその話題に触れなかった。こちらからも触れちゃいけない雰囲気だった。「とにかく週末に話し合おう」という言葉を信じて待つしかなかった。

◇◇◇

 迎えた土曜日の朝一番で男子たちが訪ねてきた。普段は温厚なパパだが、話が始まる前から腕を組み、怖い顔をしている。悠くんと翼くんでさえ、パパの前に立つなり表情を硬くしたほどだ。

「……それで? 大事な話っていうのは?」

 テーブルを挟んで向かい合うパパと男子たち。わたしとママはリビングのソファに浅く腰掛け、三人の様子を見守っている。

「……二人してスーツで来るなんて。まるで結婚の挨拶をしに来たみたいじゃないか。めぐの成人までまだ日があるって言うのに、ずいぶんと気の早いことだ」

「そうじゃない。おれたちは……結婚しないと決めたんだ。その代わり、三人暮らしをしようと……。そういう結論に至った」
 パパはしばらく黙り込んだ。じっと、睨むように二人を見ている。

「……三人暮らし」

「ああ。それが、三人の気持ちに折り合いが付けられる最良の答えなんだ」

「……いつから?」

「すぐにでも……と言いたいところだけど、めぐが高校生だからな。そこは親である彰博たちと相談して決められたらと思ってる」

「つまり、卒業までは待てない、と?」

「まぁ……はっきり言ってしまえばそういうことになる。……認めてもらえるだろうか。……どうか、お願いします」

「お願いします!」
 二人は頭を下げた。

「……納得できないことがいくつかある。一つずつ、確認させてもらおう」
 パパは一度座り直し、再び二人を凝視した。

「……鈴宮も翼くんも、めぐとの結婚を望んでいたはずだ。翼くんに至ってはプロポーズまでしたと聞いている。その二人が……ライバルであるはずの二人が、めぐと一緒とは言え共同生活をするなんて正気とは思えない。いや、出来るはずがないと僕は思う」

「それを乗り越えるんだよ、おれたちは。出来ないと決めつけるのは簡単だ。お前の言うとおり、難しいとは思う。だけど、おれたちは誰一人として自分の気持ちを押し殺す気がないんだ。だったらもう、こうするしかないじゃないか」

「なるほど……。三人とも強情がゆえの三人暮らし、ってわけか」

「ああ」

「オーケー。じゃあ次は翼くんに聞こう」
 パパは淡々と話を進める。

「三人の中では君が一番結婚願望があると思っていたんだけど、違うのかな? プロポーズも単なる恋の駆け引きの手段で、お遊びだったと?」
 その口調は相変わらず冷たい。しかし、翼くんは物怖じすることなく答える。

「遊びなんかじゃないよ。めぐちゃんに選んで欲しいからこそのプロポーズだったに決まってるじゃないか。単純に、指輪とキス一つじゃ決め手に欠けた、ってだけの話さ。なにせ、相手は鈴宮だからな。それだけで決着がつくようなら、俺だってライバルとは認めてないよ」

「そのライバルと共同生活をしようと思った訳は?」

「一つはめぐちゃんのため。二つ目は鈴宮の目付役めつけやく。三つ目は……」

「三つ目は……?」

「フツーに、鈴宮と一緒にいると楽しいから」

「えっ?」

「俺、鈴宮のこと、嫌いじゃないよ。最初こそ病的だったけど、付き合ううちに素のこの人は――若さを取り戻した鈴宮悠斗って人は――、冗談も通じる面白い人だとわかった。だから、一緒にいたいんだ」

「二人が冗談を言い合う仲だったとは知らなかったな。正月に顔を合わせたときは、今にも喧嘩が始まりそうだったけど?」

「あれから何日経ったと思ってるの? 膝を突き合わせて話し合えば、誤解なんてすぐに解けるもんだよ」

「なるほど。翼くんの考えは概ね理解できた。じゃあ最後の質問」
 そう言って、パパがちらりとわたしを見る。

「めぐ。ママと少しだけ席を外してくれないかな。男同士で話したいことがあるんだ」
 男同士、と聞いて嫌な気持ちになった。

「わたしを仲間外れにするの? 嫌よ。絶対にここから動かないんだから!」
 憤慨すると、パパは深いため息をついた。

「……分かった。それじゃあこのまま話を続けるよ。ただし、聞いて不快になったとしても責任は取れないよ? いいね?」

「うん……」
 三人暮らしをすると決意した時点で、どんな困難も三人で協力して乗り越えると決めたのだ。家族なら尚のこと、隠し事は無しだ。

「……ここからは少々、猥談わいだんになる」
 前置きしたパパは、わたしを気にしながらもゆっくりと話し始める。

「……一つの家に健康な男が二人いる。それはつまり、めぐにとっては性交渉の機会が二倍になることを意味する。僕が懸念しているのはそこだ。三人で暮らしたいと言うからには、当然何らかの策を講じるつもりなんだよね? それを是非とも二人の口から説明してもらいたいんだ。もし、ここで納得のいく答えが聞けなければ、いくら三人の総意とはいえ、めぐの父親としては三人暮らしを許可するわけにはいかない」

「セックスの時はちゃんと避妊するよ」
 真っ先に悠くんが言った。しかし、パパは懐疑的だ。

「ちゃんと……? 君が言っても説得力がないな」

「うっ……」

「じゃあ、夜は男二人で寝るってのは? これならめぐちゃんは安全だろ?」
 今度は翼くんが意見を出す。

「それは却下」
 すかさず悠くんが否定する。
「めぐが安全でも、おれの身に危険が及びそうで嫌だ」

「まさか。俺が襲うとでも? イヤらしいなぁ、鈴宮は」

「お前ならやりかねない。とにかく、その案は無し」
 二人のやりとりを聞いていたパパが一つ、咳払いをして注目させる。

「……一般的に、、、、、男が女の、女が男の身体を求めるのは自然なことだ。交際期間が短ければ短いほど、情熱的であればあるほどね。現に、翼くんの両親も鈴宮も、結婚を決めた理由は子どもが先……」

「それをここで言うなって……!」
 過去話を持ち出された悠くんは慌てふためいた。翼くんも恥ずかしそうにうつむいている。パパは続ける。

「……とにかく、めぐの身体を守るためにも明確なルールを設けて欲しい。そして僕を安心させて欲しい。オーケーを出すのはそれからだ」

「……父親の言い分はわかる。けど、将来的にめぐと結婚して欲しいと言ってきたのは彰博だったよな? なのに今頃になってセックスはダメって、どういうことなんだよ?」

「そうは言ってない。三人で暮らすって言うから問題視してるんだ。 ……どちらかがめぐを妊娠させた時点で三人の関係は確実に変わる。いや、崩れる。そうなったらどうするつもり? ちゃんと考えてる?」

「……だけど、おれたちはめぐを愛してる。愛し合った末に子どもができるなら、何も悪いことはないじゃないか」

「なら、仮に翼くんとめぐとの間に子どもが出来たとして、君はそれを心から喜べる? それでもなお、三人暮らしを続けていける? 翼くんも考えてみて欲しい。子どもが出来たら結婚すればいい、という単純な話でもないはずだ」

「うーん……」
 二人は揃って頭を抱えこんでしまった。なんとか力になりたいが、わたしでは尚のこと、パパを論破することはできない。

 場の空気が重くなる。静まりかえった部屋で秒針の進む音だけが聞こえる。このまま誰も口を開かないのではないか、と思うほどに静寂の時が続く。

 ところが、沈黙を破ったのは意外にもパパだった。
「僕から一つ提案がある。性の問題が解決するまで男性諸君はこの家で生活する、というのはどうだろう? 目付役は僕とエリー。ちょっと狭くはなるけど、家具の配置を換えるなり整理するなりすればもう一人くらいは暮らせると思う。それなら君たちが共同生活をする様子を見ることができるし、君たちも『三人暮らし』を擬似体験できる」

『この家で?!』
 二人は声を揃えた。

「何か不満が? 嫌だというのは構わない。だけど、僕の提案を拒否するなら、さっきの問いに対する答えを明示してほしいな」

「パパは意地悪ね」
 思わず口を挟んだら睨まれた。あまりの怖さに縮こまる。

「めぐ」
 パパは椅子から立ち上がると、わたしの隣に腰を下ろした。

「これはとっても大事なことなんだ。めぐもよく考えてごらん。二人とじっくり話し合うのもいい」
 恐る恐る顔をあげる。そこにはいつもの、優しく微笑みかけるパパがいた。

「パパとママは長い間、二人暮らしをしていたんだ。だけど決して楽しいことばかりじゃなかった。ママの不妊に正面から向き合っては何度となく悲しみに暮れたし、そのせいでうまく愛し合うことさえ出来なくなって、互いを信じられなくなることもあった。
 ……二人でもそうなんだ。三人で暮らすと決めたら尚更、そういう困難にぶち当たると思ってる。
 ……血は繋がっていなくても、パパはパパだからね。口うるさいと思っているだろうけど、娘の将来を考えると、どうしても心配になってしまうんだよ」

「ママもパパの提案に賛成するわ。少なくとも、めぐはまだ高校生なんだもの。まずは複数の男性との共同生活がどういうものかを知ったほうがいいと思う。仮に問題が発生しても、ママとパパがいればその都度対処できるだろうし」

 二人の説得を聞いて冷静になる。

 そうだ、決して浮かれてはいけない。本能にはあらがわなければならない。男二人と女一人が一緒に暮らす。それが非常識である以上、全く新しい方法を取り入れる必要がある。そしてその「新しい方法」を今、パパが提示してくれた。

 わたしはソファから立ち上がり、さっきまでパパが座っていた椅子に座った。身を乗り出し、向かい合う二人に顔を寄せる。

「……ここでの共同生活、わたしはありだと思う。二人はどう?」

「……正直な話、おれは居候させてもらってたから何の問題もないよ。そこに野上翼が加わるだけの話だ」

「……俺も、めぐちゃんと寝食を共にしていいって話なら賛成だよ。三人暮らしに一歩前進、だな」
 さすがは大人である。話はすんなりまとまった。

 三人揃ってパパとママの前に立つ。そしてわたしから順に、悠くん、翼くんと一言ずつ告げる。

「パパの提案を受け容れることにしました」
「またしばらくの間、世話になります」
「共同生活を許可してくれてありがとう、アキ兄、エリ姉」

 わたしたちの言葉を受けて、パパとママはにこやかに笑った。

「男が三人、女が二人の五人暮らし、か。ますます賑やかになるね」

「そうね。笑顔が増えるって、いいわね。ああ、そうだ。作りかけになってる花壇をみんなで作りましょうよ。五人でやればあっという間に完成するはず。そうしたらいろんな花を植えましょう」
 ママの提案に全員が賛成する。

「花に詳しい人間が三人もいるんだ、いっそ、珍しい花を植えて他の家と差をつけたいな」

 翼くんの言葉に悠くんが応じる。
「そうだな。その前に、この庭の日当たり具合を見極めないと」

「それなら私が分かる。ふふ。春が待ち遠しいね」

 ママがカーテンと窓を開けて庭に顔を出した。冬の柔らかな日差しが室内に差し込む。そこにみんなが集まる。ここだけ春が先にやってきたみたいに温かい。

「その前に君たち……」
 にこやかに笑う男子たちにパパが声を掛ける。
「うちに来ると決めたなら、今日、明日中にでも荷物をまとめて来るように」

「えっ! 早速?!」

「アキ兄、それ、マジで言ってる?」

 驚く二人にパパが言う。
「提案したのは僕だよ? 早く五人暮らしを始めようじゃないか」

◇◇◇

 パパの一声のおかげで、悠くんと翼くんとの共同生活はあっさりスタートした。

 もちろん、課題はたくさんある。翼くんのお父さんの反対や、男子の寝室問題、生活費をいくら出すかという細かい点に至るまで、数え上げたらきりがない。

 それでも、五人で迎えた最初の朝は格別だった。
 
「おはよう」の挨拶から始まる新しい一日。
 大好きな人に、目覚めてすぐに会える幸せ。
 それだけで最高にハッピーな気持ちになれる。

 月曜日だっていうのに、学校へ行く足取りも軽い。

「いってきまーす!」
「待って」

 いつものように挨拶すると、翼くんに呼び止められた。
「なに?」

 振り返るなり、キスされた。唐突すぎて声も出ない。
 驚くわたしを見た翼くんは嬉しそうに笑う。
「行ってらっしゃいのキス。家族なら、いいでしょ?」

「こいつ……! 抜け駆けしやがって……!」
 そこへ悠くんが大股でやって来た。
「またしても、おれの前でめぐの唇を……」
 
「何を怒ってんのさ? 怒るくらいなら、あんたもすればいいじゃん?」

「お前のあとにするのはご免だね。その代わり……」
 悠くんはそう言って、わたしを強く抱きしめる。

「今日はおれが学校まで送るよ。めぐの友だちに、四十六歳の彼氏が現役高校生にも負けないくらい、イイ男だってところを見せてやる」

「きゃっ♡ それ、いいね! ゼファーで送ってくれるなら、もう少しゆっくりしていようかな?」

「はー……。自分で自分をイイ男だなんて。言ってて恥ずかしくないの?」

「ふん、負け犬の遠吠えにしか聞こえないな……」

 わたしたちのやりとりを、両親が遠巻きに見ている。その顔は半笑いだ。けれどもこれは想定の範囲内なのだろう。何も言わずに見守っているだけだ。

 学校に着いたら、早速木乃香このかに話してみよう。この前話した二人の彼と実家で暮らし始めたって。

 今度はちょっとどころか、ドン引きされるだろうな。でも、いいんだ。これがわたしの決めた生き方だから。

<翼> 

十二

 バットを振りかざした父に「出て行け!」と言われた。理由はもちろん、「五人暮らし」を始めると言ったからだ。

 父は、俺が従妹いとこのめぐちゃんを愛しているってだけでも嫌な顔をしていたのに、一緒に暮らし始める――それも、あろうことかアキ兄の家で――と聞いて大いに憤慨しているのだ。

 長らく実家ぐらしの俺が、家を出て新生活を始めようというのだから応援してくれたっていいようなものを、どうしてああいう態度しかとれないのだろう。実父ながら本当に嫌になる。

 ちなみに母は、アキ兄なら信頼できる、と新生活を始める俺の背中をそっと押してくれ、少ない荷物をまとめる手伝いをしてくれた。おかげで暗い気持ちを引きずることなく、もう一つの「野上家」に合流することが出来たのだった。

 いつのころからか、俺の本当の親はアキ兄とエリ姉なんじゃないか、と思うようになった。顔立ちも性格もアキ兄に似ているとよく言われるし、こっちの家にいるほうがずっと落ち着くからだ。

 その、居心地のいい方の「野上家」で暮らせる――。アキ兄の夢のような提案に乗っからない手はなかった。

「兄貴は昔からああなんだ。説得は僕がしておくから、翼くんは気にせずに暮らせばいい」

 荷物をまとめてやってきた日の晩、アキ兄はそう言ってくれた。が、そんなことをして余計にこじれるのは嫌だった。

「説得なんてしなくていいよ。父さんのことだ、俺が何をしても文句を言う。いつものことだよ」

「それもそうか……。まぁ、何か言ってきたときは僕らが間に入るから」

「ありがとう。やっぱりアキ兄たちのほうが優しいなぁ。なんで二人の子どもじゃなかったんだろう。めぐちゃんが羨ましいよ」

「何言ってるのさ。君だって僕らの子どもみたいなもんだよ。この家で暮らす以上はね」

「うわぁ、涙でそう……。じゃあ、めぐちゃんと一緒に寝るのも許可してくれる? 子ども同士ってことで」
 うまいこと話を誘導できると思いきや、ここはアキ兄。感情で動く人じゃない。あっさり断られる。

「それはダメ。我が家の部屋の都合上、君には鈴宮と同じ部屋を使ってもらうと決めたんだから。何度頼まれても、これだけは譲れないよ」

「鈴宮は嫌がってるけど?」

 そう言うと、アキ兄は俺を玄関の外まで連れ出した。他の家族には聞かれたくない話が始まるんだろうか。それとも父の時のような仕打ちを受けるのだろうか。身構えていると、アキ兄が小さな声で言う。

「……一緒に暮らすって決めたんでしょ? それが君の望みなんでしょ? だったら、鈴宮相手に表出ひょうしゅつする人格をちゃんと手懐てなずけなきゃいけないよ」

 ドキリとした。俺の中に存在するいくつもの人格のことは、誰にも明かしたことがない。これまで何度か多重人格を疑われることはあった――そしてそのたびに誤魔化ごまかしてきた――けれど、こんなふうにはっきりと言われたことは一度もなかった。

「……いつから気づいてたの?」

「これでも心のプロだからね。今の仕事に就き始めた頃からそうじゃないかと思ってたよ」
 なるほど。アキ兄の前では一つも嘘がつけないって訳か。アキ兄は続ける。

「心配するほどのことじゃないからえて伝えてはいなかったんだけど、コロコロと性格が変わると信頼が得られないのも事実だ。わかってるとは思うけど」

「そこで演劇が役に立つんだよ。おかげで、めぐちゃんの前では『従兄の野上翼』を、職場では『幼稚園の先生』って役を演じ切れてる。……でも、どういうわけか鈴宮の前ではブレちゃうんだよなぁ。おじさんのくせに、あの美顔は反則。時々口説きたくなっちゃう……」

「なるほど。人格が不安定になるのは、鈴宮限定か……」

「……なぁ、アキ兄。この話はめぐちゃんとエリ姉にはしないでもらえる?」

「もちろん。でも、鈴宮には?」

「……俺から話す。だって、同じ部屋で寝起きするんだぜ? 昨日も話したように、鈴宮のことは人として好きだから嘘はつきたくないし、自分を偽りたくもないんだ。前もって事情を話しておけば、『ライバルの野上翼』を演じている時に『男を口説き落としたくなる野上翼』が現れても変な誤解を招くことはないはず」

 納得してくれたのか、アキ兄は頷いた。

「わかった。僕は黙っているよ。ただし、君でも手こずるようなら――つまり、人格が暴れ出して止められなくなってしまったら――、そのときは容赦なく止めに入る。場合によっては、僕の口から女性陣に真実を告げることになるかもしれない」

「……オーケー。そうならないように頑張るよ」

「大丈夫。鈴宮だって自分の中の『悪魔』をコントロールできるようになってきたんだ。役者を志していた君に出来ないはずがない。僕は信じてるよ」

 鈴宮の話になって、少し気が楽になる。
「なぁんだ。やっぱり気づいてたんだ」

「うん。……同類だから気になるんでしょ、鈴宮のこと。だから、放っておけないだよね?」

「アキ兄は何でもお見通しだなぁ」

「君も鈴宮も『心の闇』を抱えている。その二人を、僕は引き受けると決めた。だから我が家では安心して素の翼くんをさらけ出すといい」

「……信じて、いいんだよね?」

「もちろん」

 その力強い言葉に勇気づけられる。ほんの一時間ほど前、バットで殴られそうになったときに感じた恐怖や不安はもうなくなっていた。

 この家の居心地の良さは、なんと言ってもアキ兄の心の広さにある、と改めて思う。決して怒らず、うろたえず、何が起きても冷静に話し合ってくれるとわかっているから、アキ兄の周りには人が自然と集まるんだ。

 宣言した以上、俺も自分の中の『傍若無人な人格』をなんとかしなきゃいけない。それが解決しなければ、めぐちゃんと家族を続けることも出来なくなってしまう。それだけは勘弁。

「なんだ、外にいたのか。映璃とめぐが探してたぜ?」
 そこへタイミングよく鈴宮が姿を現した。

「分かった、今行くよ。あー……。鈴宮はこのまま残ってくれる? 翼くんから話があるみたいなんだ」
 アキ兄は俺と鈴宮が話す場をうまいことセッティングして、自身は室内に戻った。

「何だよ、話って」
 鈴宮は腕を組んだ。
「中で話せないのか?」

「そうだよ。これはまだ……めぐちゃんたちには言えないことだ」

「……長い話は苦手なんだ。手短に頼む」

「オーケー」
 こっちだって長々と話すつもりはない。

 俺は本当に重要なことだけを端的に伝えた。話を聞いた鈴宮は「ようやく腑に落ちたよ」と言うと、なぜか俺を風呂に誘った。

 風呂って言っても、近所にある銭湯だ。とはいえ、自宅に風呂があるのにわざわざ入りに来たこともなく、訪れるのはこれが初めてだ。鈴宮もそうらしい。

「一度来てみたかったんだよなぁ」

「で、誘うのは俺なの?」

「お前だからいいんじゃないか」

「うわっ、マジでイヤらしいんだけど!」

「早速でたな。だけど、お前のそういう発言は、いわば『演技』なんだろ? 『野上翼』の本心じゃないんだろ? だったら、おれは何も気にしないよ」

「……俺を信用しようってわけ?」

「……お前もおれを信じてくれたからな。お互い様だよ」
 そう言って脱衣所に向かう。

 浴槽は思っていたより広く、客もそこそこ入っていた。
 身体を洗い、肩を並べて湯船に浸かる。寒さと緊張でコチコチだった身体が、熱い湯の中でほぐれていく。

 俺が風呂の縁に肘を掛けてリラックスしている隣で、水泳のコーチをしている鈴宮が潜水を始める。いつ上がってくるのかと思うほど、長い間潜っている。ようやく上がってきたと思ったら、顔が真っ赤になっていた。

「……こんな熱い風呂でよく潜水が出来るなぁ」

「水中にいるのが好きなんだよ、おれは」

「前世は魚だな、きっと」

「ああ、たぶんな」

 冗談を言い合い、さらに緊張がほぐれた俺は、さっきまで聞けなかったことを尋ねてみようか、という気になる。

「……なんで風呂になんか誘ったんだよ?」

「ざっくばらんに話せるだろ? それに……」

「それに?」

「今日からおれたち、家族だしな」

「ああ、そうか……」
 妙に納得してしまった。

 これまで、実の親にだって自分の腹の内をきちんと伝えたことはなかった。あんな親だし、話したってまともに聞いてくれないと決めつけてもいた。だから、実家での居心地は悪かった。なのに、他に行く場所もないからと、仕方なく家にかじりついていた。

 自分は変わり者で、受け容れられないのは仕方のないこと。長い間、そう思って生きてきた。でも、勇気を出してアキ兄と鈴宮に俺の「核心」を語ったら、とたんに居場所が出来た。身体と心、両方とも安心できる場所が。

(ありがとう、アキ兄。やっぱり、俺の居場所は「野上家」だ。)

 提案した三人暮らしは実現しなかったけど、アキ兄の話がなかったらきっと風呂に誘われることはなかっただろう。そして、俺がいくつもの人格を持っていることも伝えられずにいただろう。アキ兄には感謝の言葉しかない。そして、鈴宮にも。

「家族になったんなら、あんたのこと、悠斗って呼ぶわー」

 安心しきったまま、軽いノリで言う。彼は少し驚いた様子だったが、「まぁ、いいけど」と了承してくれた。

「じゃあ、そっちも翼でいいよな? 野上家で世話になるのに、お前のことを野上って呼ぶのは違和感しかなくてさ」

「だよなー。決着つくまでって言ってたけど、もういいよな?」

「ああ、構わないよ、それで」
 熱いな、出るか。悠斗はそう言って立ち上がった。

 身体が冷めないうちにと、急ぎ足で家路につく。隣を歩く悠斗をちらりと見る。昨日までライバルだった彼と、今日から同じ家、同じ部屋で生活するのかと思うと、なんだか不思議な感じがする。

「めぐと映璃にはまだ伝えないのか? えーと……。『複数役者』だってこと」
 悠斗が唐突に言った。

「そのうちに。今日あんたに伝えたのはほら……。同じ部屋で寝なきゃいけないから。お互い、変な気持ちで一晩を過ごしたくはないだろ?」

「そうだな……。うん、話してくれてよかったよ」

 家が見えてきた。今日からあそこが俺の「居場所」。悠斗と、野上家四人で暮らす新しい生活は一体どんな日々なのだろう。想像したら、今からワクワクしてきた。

 しかし悠斗の一言のせいで、一気に現実に引き戻される。
「そう言えばお前、引っ越しの割にずいぶん身軽だったけど、寝床はどうするつもりだ?」

「え? そんなの、アキ兄が用意して……」

「あいつに甘えは通用しないぞ? 言っとくけど、おれは自分で持ってきてるからな?」

「マジ?」
 それは盲点だった。

「じゃあ、今晩だけ来客用の布団を……」

「あいつが首を縦に振るかな……」

「それがダメならしょうがない。……悠斗くん、一緒に寝よ♡」

「100%断る」
 つい、甘え声ですり寄ったら案の定、全力で拒否される。

「どうしてー? たった今、裸の付き合いをしたばっかりじゃないか。今度は肌と肌を……」

「よーし。そんなに肌と肌がいいんだったら、明日にでもプールに来い! おれが手取り足取り、泳ぎ方を教えてやる!」

 そんなのは冗談と分かっているはずなのに、悠斗は真面目な顔で言い迫った。さすがの俺もたじろぐ。

「プ、プール……? いや、俺、泳げないんだけど……」

「ほう、それは鍛え甲斐があるな」

「それだけは勘弁してー!」
 逃げるように家に駆け込む。後ろで大笑いする悠斗の声が聞こえた。

十三 

 新しい生活にはすぐ慣れた。一日一日が楽しく、これこそが本当の家族のあり方なのだと実感する毎日を過ごしている。

 二月に入り、街がチョコレートで甘ったるくなり始めた頃、アキ兄とエリ姉が揃って家を空けることになった。エリ姉の実の母が出演するお芝居をに行くのだという。

 若くしてエリ姉を産んだとはいえ、女優の「加奈子」さんは、まもなく七十歳を迎える。にもかかわらず、美しさ・演技力ともますます磨きがかかっていると聞く。エリ姉に誘われて演劇部員時代に一度だけ観に行ったことがあるが、あれはすごかった。憧れを通り越して、役者になりたいという夢を諦めたほどだ。

「今みたら全然違う感想を持つと思うけど? 翼くんも一緒に行こうよ」
 エリ姉はしつこく誘ってきたが、俺は頑なに拒んだ。

「いやいや、二人だけの時間を楽しんでおいでよ。こっちのことは心配しなくていいから」

「そう? まぁ、加奈子の舞台はこの先も観られるとは思うけど、なにせもう、年だからね。観るなら早いほうがいいよ?」

「まぁ、いつか気が向いたら行くよ」

「舞台を観て、夕方には帰ってくるつもり。それまでは留守を頼むよ」
 アキ兄はそういうなり、俺と悠斗の肩に手を置く。
「……君たちのことは信頼しているからね」
 そう言いながら、ちっとも信頼していないのが伝わってくるような物言いだった。

「大丈夫だって。任せとけ。なぁ、翼?」

「そうそう。男子高校生、、、、、ならともかく、俺たち、大人なんだぜ?」

「……今言った言葉を忘れないように」

 こんなふうに釘を刺してくるのは、俺たちを三人きりにしたくないと思っているからに違いなかった。でもこれは両者にとっての「テスト」だと思っている。俺たちにとっては家族としての信頼を揺るぎないものにするための、アキ兄にとっては子離れするための。

「大丈夫だよ、アキは心配しすぎ。そんなに顔怖い顔をしないで、お芝居を楽しんでこようよ。ね?」
 エリ姉に顔を覗かれると、アキ兄はようやく表情を和らげた。

「……そうだね。ごめん。それじゃ、いってきます」
 いつもの穏やかな顔つきに戻ったアキ兄は、エリ姉の手を取って家を出て行った。ドアが閉まり、靴の響く音が聞こえなくなるのを待つ。やがて二人の気配はなくなった。

「……それじゃあ、おれたちも出かけるか!」

 悠斗が、待ってましたとばかりに号令を掛けた。おれとめぐちゃんはハイタッチをして応じる。

 二人の前ではああ言ったが、家でおとなしく過ごしているはずがない。なにせ、三人だけの休日は、五人家族になってから初めてなのだ。

「わーい! 早く着替えよう! デート、デート♡」
 めぐちゃんは大はしゃぎで自室に向かった。俺と悠斗も共有の部屋に行き、それぞれ着替える。

「こっそり取ってきたのはいいけど、これ、着れるのかなぁ?」

 俺は約十年前に着ていた学ランを広げた。今日は三人で「制服デート」をしようという話になっている。

「お前、川越学院高カワガクだったのかよ?! 父親と不仲だって言ってたのに、高校は同じなんだ……」
 俺の制服をみた悠斗は、予想通りの反応を示した。

「校風が気に入ったのが、たまたま父さんと同じ学校だったってだけだよ。家からも近かったし。ちなみに、推薦入学ね」

「……くっそぉー。頭がいいのを鼻にかけるような言い方しやがって。提案しといてなんだけど、制服デートするのが嫌になってきた」

「いいじゃん。そっちはめぐちゃんと同じ、城南高校なんだから」

「っていっても、制服は替わっちまってるけどな……」

 お互い、卒業してから結構な年月が経ってしまっている。もはや、懐かしさより恥ずかしさが先に立つが、今日は三人デートをとことん楽しむと決めている。恥も外聞も捨ててハッチャケるつもりだ。

 着替えが済んだ時、ちょうど部屋のドアがノックされた。入ってきためぐちゃんはニコニコ顔で俺たちの手を取る。

「ステキ♡ 恋人二人と制服デートだなんて、まるで夢を見ているみたい! 早く街に行こう!」

 街と言っても、繰り出すのは俺たちのホームグラウンドである地元の市街地だ。派手さはないが、全員ここで生まれ育っていることもあって、デートする場所もすんなり地元ここと決まった。

 めぐちゃんを真ん中に、右と左で手をつなぐ。人によっては親子だと言うかもしれないし、兄妹に見えると言うかもしれないが、他人からどう見えようが構わない。

 繋いだめぐちゃんの左手薬指には、俺のあげた指輪がはまっている。今日はデートってことでつけてくれたみたい。その指輪の存在を確かめるように、絡ませた指にぎゅっと力を込める。めぐちゃんは応えるように握り返してくれた。

「……あー、めぐ。ちょっと翼とその辺で待っててくれる? 見たいものがあるんだ。すぐ済むから」

 小洒落た小物店の前に来た時、悠斗が急に立ち止まって言った。何を見るのか気にはなったが、めぐちゃんが斜向いのフルーツジュース屋に足を向けたので、引っ張られる形で同行する。

「濃厚ピーチジュース、おいしそう! あっ、こっちのもいいなぁ!」

 めぐちゃんは店の前で、見本の商品に目移りしている。こういう姿を見ると、やっぱり十六歳の高校生なんだなぁと思う。

「もう、可愛すぎるよぉ……」

 かわいさに負けて、濃厚ピーチジュースを一つ買ってしまう。ストローは二本つけてもらった。めぐちゃんはニコニコ顔で商品を受け取ると、早速ストローに口を付けた。

「うーん、おいしー!」

「じゃあ、俺も」

 めぐちゃんと額を付き合わせながら、もう一方のストローをくわえる。一気に量が減るのをみて「ああ、二人で飲んでるんだなぁ」と、悦に入る。

「ストローを交換っこしない?」
「えー? ……もう、しょうがないなぁ」

 俺の提案に、めぐちゃんは照れながらも応じた。同じように見つめ合って最後までジュースを飲みきる。二人だけの秘密を共有しているみたいで、何だかくすぐったい。

「……ってめぇ! めぐとの距離が近すぎるだろ……!」
 そのとき、悠斗の声がした。ゆっくり振り返る。

「邪魔するなよぉ。もっとゆっくり買い物しててよかったのに」

「お前にだけ、いい思いをさせる訳にはいかないからな」
 そう言うと、悠斗はめぐちゃんの右手を取った。

「めぐに似合いそうなのを見つけたんだ。おれからのプレゼント」

 それは、ピンクゴールドの指輪だった。それほど高価なものではないだろうが、小さな石もついている。悠斗の言うとおり、めぐちゃんの細い指によく似合っていた。

「わぁ……! ステキ……! サイズもぴったり! 悠くん、ありがとう!」

めぐちゃんは悠斗に抱きついて嬉しさを全身で表現した。そのあとで、両手の薬指に着けた指輪をしげしげと眺めた。

「わたしの左手は翼くんのもの。わたしの右手は悠くんのもの。ああ、なんて贅沢なんだろう!」

 普通の男が聞いたらがっかりするのかもしれない。自分への愛情は半分だけなのか、と。でも俺は素直に嬉しい。目の前の彼女の微笑みは、紛れもなく俺に向けられているのだから。

「今日の悠斗はなかなかやるな」

「今日の、ってのは余計だ。言っただろ? 今年のおれは手強いって」

「そうだったな。まぁ、いいさ。デートは始まったばかりだ。俺の見せ場はいくらでもある」

 三人で記念写真も撮影し、昼過ぎまでデートを楽しんだ俺たちは、帰宅するなりその格好のまま並んでソファに身体を沈めた。

「あー、楽しかった! パパとママがいないときはまた制服デートで決まりね!」
 めぐちゃんはご満悦だ。彼女を挟んで座る俺たちも、その顔を見て満足する。

「あっ、そうだ! わたし、紅茶を淹れるね。さっき買ってきたチョコレートを食べよう!」
 今座ったばかりなのに、彼女はさっと立ち上がって台所に向かった。その後ろ姿を二人して目で追う。

「元気だなぁ、めぐは。あんなに歩いたのにピンピンしてる」

「その格好でその台詞はマズいだろ。おじさん臭いぜ?」
 悠斗はむっとしたが、構わず彼の前を通ってめぐちゃんのあとについて行く。

「手伝おうか?」

「ううん、大丈夫。翼くんはチョコレートの包みを開けておいてくれる?」

「オーケー」

 老舗の和菓子屋が出している、バレンタインデー期間限定のチョコレート菓子を見つけ、満場一致で購入を決めた。三人とも、ここの菓子が好きなのだ。

 小箱の包みを開けているうちに、紅茶のいい香りが立ってくる。
「ああ、おいしそうだ。早く味わいたいな……」

「うん。もうすぐ三人分淹れ終わるから。……はい、できた」

「ありがとう。お礼に、一番に食べさせてあげる」
 そう言って菓子の個包装を開けた俺は、めぐちゃんの唇にチョコを押し当てた。

「……そのまま、じっとしてて」

 めぐちゃんと目が合う。直後、チョコレートごと唇にかぶりつく。チョコレートが甘いのか、キスが甘いのか……。そして柔らかいのはチョコなのか、唇なのか……。とにかくとろけそうだ。

「お・ま・え・ら……!」

 ようやく異変に気づいた悠斗が台所にやってきて俺たちを引き剥がした。

「悠斗おじさんが休んでる間に、お先にいただいちゃいました♡」
 舌を出してはぐらかしたら、顔に台拭きを投げつけられた。

「なにすんだよっ!」

「お前はそれで汚れた口でも拭いてろっ!」
 そう言い放った悠斗は、すぐにめぐちゃんの方を向いた。

「めぐ。そんなにこいつとのキスがいいか? さぞかし、甘かったんだろうな?」

「…………」

 めぐちゃんはばつが悪そうにうつむいたが、悠斗はその顔を上げさせると、口の周りに付いたチョコレートを舐めるようにキスをしはじめた。

 悔しいと言うより、恥ずかしい。今し方、俺と重なっていた唇を奪う悠斗のキスがあまりにもイヤらしいせいだ。

(これが、鈴宮悠斗の本気なのか……。これが、一度でも結婚して子どもをもうけた男の……。)

 見たくないと思うのに目が離せない。それは俺の中の、悠斗を口説きたくなる部分が顔を出しかけているせいだ。今にも「俺にもそんなふうにキスしてくれよ」と二人の間に割って入りそうになるのを必死に押さえつける。

 内なる自分と葛藤しているうちに、悠斗の方からキスをやめた。

「……早く止めろよ。なんでこういう時に限っていつものスピードでツッコんでこない?」

「……なんていうか、見惚みほれてた」
 そう言ったら呆れられた。

「ごめんな、めぐ。おれのキスって、こうなんだ……。嫌だった……?」

「……うん、少し」

「……ごめんな。……せっかく淹れてくれた紅茶が冷めちゃうな。今度こそ、お茶の時間にしよう」
 悠斗は真顔になったかと思うと、ティーカップを二つ持ってダイニングテーブルへ運んだ。

 俺は自分の分のティーカップと、さっき味わったチョコレート菓子を持って二人の後についていったが、どっちに座っていいか分からずに立ち尽くす。呆然としていると、悠斗が自分の隣に座るよう指示を出したのでそれに従う。椅子と椅子との距離は空いているものの、なんとなく気まずかった。

 俺とめぐちゃんが黙ったまま手元を見ていると、見かねた悠斗が話し始める。

「……おれが今回の付き合いで自分を抑えてるのは、さっきみたいにならないためだ。……自分で言うのもなんだけど、酷かったよな。ホントにごめん」

「……ううん。びっくりしたけど、その……やっと悠くんの想いに触れられた気がして嬉しかったよ。もちろん、翼くんのキスも……。あんなに甘いのは初めて」

 そう言ってめぐちゃんは、チョコ菓子の個包装を開けて頬張った。
「この味、ずっと覚えておくね。二人とした、キスの味だもの」

「めぐ……」

「ねぇ……。食べ終わったら……次は二人とハグしたいな。……ダメ?」

十四

 

 上目遣いで見つめられて断れる俺たちではなかった。
「それはいいけど、どっちが先って話になると争いが起きるぜ? めぐはそこまで考えてるのか?」

 悠斗が指摘すると、めぐちゃんは「いい方法があるよ」と言って立ち上がった。そして、さっき空けたチョコの小箱に掛けてあったリボンを持ってくるなり四等分にし、二本に「♡」、もう二本に「☆」を描いた。

「同じマークを引いた人同士がハグするの。くじなら、わたしが指名するよりずっと公平でしょ?」

「なるほど、確かにいいアイデア」
 俺はうなずき、早速めぐちゃんが握るリボンの一本を引き抜いた。
「おっ、俺は『♡』マーク。二人も早く引きなよ」

 急かしてやると、次にめぐちゃんが引く。
「あー、わたしは『☆』だった」

 最後に残った悠斗に視線が集まる。
「……おれは嫌な予感しかしない」

 ため息交じりにそう言うと、悠斗は迷いに迷って一本を選んだ。そして、がっくりとうなだれた。彼の引いたリボンには「♡」が描かれていたからだ。

「ってーことは……。悠斗と俺……?」

「めぐ……。この可能性を考えていたか? もう一回やり直していいよな? いや、やり直させてくれ……」
 悠斗は懇願した。しかしめぐちゃんは楽しそうに俺たちを見ている。

「きゃっ♡ 二人のハグするところ、見てみたーい!」

 めぐちゃんの反応を見て悠斗は天を仰いだ。それから俺に「頼むから拒んでくれ」と目で訴えた。俺がそうしないのは分かってるくせに。

「ハグするだけだろ? いいじゃん別に」

「……お前が相手だから躊躇ためらってんだ、分かってくれよ」

「えー? キスなんてしないよ」

「……そういう台詞を吐くから躊躇うんだ」
 悠斗はどうしても抱き合いたくないらしい。少し考えて、いいアイデアを思いつく。

「んじゃ、こうしよ。俺が悠斗の彼女役、、、をする。役なら、いいだろ?」

「……俺にも役者になれ、と?」

「そ。悠斗が彼氏役。俺が彼女の役を演じる。どうしてもって言うなら目をつぶってもいいよ」

 俺の言葉を聞いて考えてみようという気になったのか、悠斗は少しの間沈黙した。そして「……最初で最後と誓うなら、おれも覚悟を決めよう」と言った。

「ただし、条件がある」

「条件?」
 首をかしげる俺に、悠斗が耳打ちをする。

「……お前がおれにしたように、おれもお前を……お前の中の『悪人』を殺しに行く。もう二度と、表に出てこないように、だ。それを受け容れるなら抱いてやる」

「え……」
 想定外の台詞に戸惑う。悠斗は続ける。

「お前の中の『悪人』は欲求不満なんだ。だからいつまでも求め続けるんだ、とおれは思う。愛されたかったけど愛されなかった、その不満がねじ曲がっちまった……。そんなふうに見えるんだ」

「……そうかもしれない」

 その指摘は俺の深層心理を完全に見抜いていた。そうだ、俺は父親に見捨てられたと感じ始めた頃から自分の中にいくつもの人格を持つようになって、相手に好かれる役を演じ続けてきた。

 でもそれはやっぱり役であって俺自身ではない。だから本当の俺が表に出た時「裏切られた」「嘘つき」と言われて信頼を失ってきたのである。

 演じるのは楽しい。だけど心の深い部分では、真に心を許せる人との繋がりを求めていたのだと気づく。いや、今の悠斗の言葉で気づかされた。

(そうだな……。少なくとも家族の前では素の俺でいたい。アキ兄だって言ってたじゃないか。ここにいる間は素の俺をさらけ出せばいいって。そのためにも、俺の中の別人格とはいい加減、決着をつけなきゃいけない……。)

「……ありがとう、悠斗。俺のために親身になってくれて」

「……まぁ、これでも一応家族だし」

「うー……。マジで泣きそうだ……」

「おぅ、泣け泣け」

 そう言いながら悠斗は抱いてくれた。あれ? なんか思ってたのと全然違うけど、なぜだろう。優しく抱きしめられたらすーっと心のトゲが解けていくような、凍り付いていた心が温かくなっていくような、そんな感じを覚える。

「お前も頑張ってきたんだよな。この、理不尽な世の中で生きていくために必死に知恵を絞って生きてきたんだよな。うん、よくやったよ、翼は。これはおれからのご褒美」

 強く抱きしめられ、悠斗の体温が、匂いが、そして優しさが全身に染み渡る。内なる人格が、まるでおにぎりみたいにぎゅっとされて一つの「俺」になっていく。

(ああ、本当の俺はこんなにも弱くて泣き虫だったんだな……。)

 ずっと強がって生きていたんだ。でもそうすることで本当の俺を隠してもいたんだ。泣きたい時に泣きたいと言えず、甘えたくても甘えられず……。そのうちに大人になってしまって泣きも甘えも許されなくなって……。

 偽り続けてきた俺の心を悠斗が救い出してくれる。家族だから……? それとも……。

 いや、悠斗はきっとそんな関係に縛られてはいない。俺が俺だから助けてくれたのだと、今は信じたい。

 そこへめぐちゃんも加わる。

「そっか。翼くん、いろいろ大変だったんだね。詳しいことは聞かないけど、もう大丈夫だよ。ここには悠くんもいるし、わたしだっている。パパやママもいる。翼くんの居場所はちゃんとここにあるんだよ。いつでも泣いていいんだよ」

「うん……。ありがとう、ありがとう……」
 
 ――何だよ、悠斗もめぐちゃんも子ども扱いして。二人ともこの身体を、愛し合うために抱いてくれるんじゃなかったのか? 翼もなんとか言えよ、イヤらしく抱けって。

 二人に抱かれていると「内なる俺」が声を発した。普段、内側の人格の声を聞くことはない。いよいよ別れの時が来たのだと悟る。

(……もう、いいんだよ。お前は頑張った。俺が俺であり続けるために頑張ってくれたよ。……俺はちゃんと居場所を見つけた。本当の家族と呼べる人たちと出会った。だからもう、見栄を張る必要もない。これからは、ありのままの俺で生きられる。お前の力無しでもちゃんと……。)

 素直な気持ちを伝えると、「内なる俺」は妙に納得した声で言う。

 ――そうか……。俺はもう、必要ないんだな……。でも、役に立ったのなら充分か……。二十年以上もの長い付き合いだったけど、これでさよなら、なんだな。

(さよなら……だけど、お前がいたことは忘れない。そのためにも、そうだな……。時々、お前を演じるよ。だってお前も「俺」だったんだから。)

 ――ああ、約束だぜ? ふぅ……。二人分の体温は熱いな……。まるで接着剤だ。別人格でいたくても、もう翼にくっ付きそうだよ。

(体温だけじゃない。これは二人の想いの熱だよ。……俺たちは救われたんだ。二人の想いによって。)

 ――……そうだな。……ああ、いよいよさよならだ。二人と仲良くやれよ……。

(ああ、きっと……。)

 内なる人格の一つが俺の中で統合された。その瞬間、悲しみと喜びと怒りと落胆とがいっぺんに押し寄せてきて混乱した。慌てて二人にしがみつく。そして今にも増して激しく泣く。

「つ、翼くん、どうしたの……? 何か、悲しい出来事を思い出しちゃったの……?」

 めぐちゃんが心配そうに声を掛けてくれたが、感情の整理が出来なくて返事をすることも出来ない。

「めぐ。翼は今、二十数年分の涙を流してるんだ。気の済むまで泣かせてやろう。その間ずっと、そばにいてやろう」

 悠斗の優しい言葉が降ってくる。それが余計に涙を押し出させる。悠斗は続ける。

「……ちょっと前まで、おれはいろんなことを年齢のせいにして逃げてた。でも今は違う。自分が四十六歳で、これまでいろんな経験を積んできてよかったなって本気で思ってる。だってこうしてお前の悩みにも気づけたし、男泣きも許容できるから。……あー、今のお前はおれの彼女だったか。彼女が泣いてるなら、彼氏としては慰めないわけにはいかないよな」

「……もう、演技なんかじゃない。これは俺の、心からの涙だ……」
 ようやく声を絞り出す。悠斗は、うんうんと何度もうなずく。

「そうか。じゃあもっと泣け。……おれもかつて、悲しみに暮れたとき彰博に言われたよ。涸れるまで泣けって。そうすれば必ず笑えるようになるって」

 なぜめぐちゃんが悠斗を好きになったのか、そしてアキ兄がめぐちゃんと結婚させてまで家族になりたいと言ったのか、その理由がようやく分かった。

 悠斗は、彼自身が感じやすい人間ゆえに人の痛みが分かるのだ。だから、彼から発せられる言葉には、なんとも表現できない優しさがある。そして、この家の人たちはみんな、そのことを知っている。鈴宮悠斗の、人としての魅力を……。

「ただいま……。って、どうしたの……?」

 ちょうどそこへアキ兄たちが帰ってきた。その台詞が俺たちの抱擁する姿に向けられたものか、はたまた制服姿でいることに対してかは分からない。どちらにしろ、悠斗にすがって号泣している俺は何のリアクションも出来ない。

 しかし、俺が心配せずとも悠斗がちゃんと答えてくれる。
「彰博。翼はいま、心のクリーニング中なんだ。だから、おれたちはもうしばらくこのままでいるよ」

「心のクリーニング……。そうか、鈴宮が彼の心の闇と向き合ってくれたんだね」

「……闇ってほどでもなかったけどなぁ。まぁ、それなりに手強い相手ではあった。なにせ、隙あらばおれを食おうとしてきたからな」

「ははは……。もうその心配はなさそうだね」

「たぶん……。大丈夫だよな、翼?」
 悠斗の問いにすぐに答えられない。

 俺を守ってくれていた強気の人格が前面に出てこなくなったことで、裸にさせられたような恥ずかしさを感じるせいだ。涙は止まったというのに、面と向かって悠斗を見る勇気も出ない。返事もせずにそのまましがみついていると、悠斗に笑われた。

「あーあ、まるで子どもだな。ま、おれにとって翼は子どもも同然の年齢だけど、これじゃあ子どもを通り越して赤ちゃんだな。……ん? ってことは、次に対峙しなきゃいけないのはこの人格か?」

「人格……? 何のこと?」
 めぐちゃんが首をかしげた。

「めぐ。人はね、相手によっていろいろな役を演じ分けるものなんだよ。パパだってそうだ。めぐの前では父親の役を、エリーの前ではよきパートナーとして、鈴宮の前では親友として。翼くんはその役が人よりちょっと多い。鈴宮はそのことを言っているんだよ」

 アキ兄が俺のことを簡潔に、且つやんわりとぼかして説明してくれた。アキ兄は俺の隣にやってきて、ぽんと肩に手を載せる。

「赤ちゃんだっていいじゃないか。うちの中は安全だし、わがままを言ったって僕は全然構わないと思ってる。そうやって自由に振る舞っておけば、外に出たときちゃんと自立できると信じてるから」

「アキ兄……」

「一つずつクリアしていこう。大丈夫、翼くんならすぐに出来る。僕もいるし、鈴宮もついてる。だから安心してね」

「ありがとう、アキ兄。……ありがとう、悠斗。俺はもう、大丈夫」
 泣き尽くした俺はゆっくり悠斗から離れた。

「ごめん、制服、汚しちゃったな……」

「気にするな。次までに綺麗にしとけばいい話だ。ま、クリーニング代は翼持ちだけどな」

「……だよねー」

 いつもみたいに鋭いツッコミが出来ないのは、泣き疲れたせいかな……。それとも、こっちが本来の俺なのかな……。

「次って……。君たち、また制服デートする気なの? すっかりハマってるねぇ」
 俺がツッコみたかったことをアキ兄が言葉にしてくれたが、その言い方では全く漫才にならない。悠斗もそう感じたようだ。

「彰博じゃ、ツッコミ力が足りないな。おとなしい翼は何だか気味が悪いぜ……。早いとこ、復活してくれよなぁ」

「へぇ? 悠斗は俺と漫才がしたいんだ? なら、久しぶりにまた風呂入りに行こうよ。少しは元気が出るかも」

 頑張って、いつもみたいにぶりっこスタイルですり寄ってみる。だけど、フリだとバレたのか、悠斗は避けずにむしろ肩を強く抱いてくれた。

「ああ、行こう行こう。だけど、そんなふうに無理すんな。自然に任せて、ゆっくりと本来の翼に戻ればいい」

「うん」

 今までだって無理してるつもりはなかったけど、一番厄介だった内なる自分を制御できたことで、我が家で、家族の前で、こんなにも自然体でいられる。それがすごく嬉しい。

「あ、そうだ。私たちからお土産があるの。あとでみんなで食べましょうよ」

 エリ姉が、ずっと手に持ったままの紙袋から何かを取り出した。それは奇しくも、俺たちがさっき食べたばかりのチョコレート菓子だった。三人で顔を見合わせる。

「考えることは一緒だな。なんつーか、家族っぽい」
 悠斗が笑った。

「ぽいって言うか、家族でしょ、私たち」

「だな」

 みんなで笑い合う。それが何だか可笑しくて、涙が止まらなかったときのように、今度は笑いが止まらなくなって転げ回る。

 許してくれるというのだから、今だけは赤ちゃんみたいにわがままに、そして大声で笑おう。そうしたらきっと俺は強く生きていける。この家の外でも、きっと。

 その晩、悠斗はなぜか添い寝してくれた。確かにひと月前には一緒に寝ようと誘ったし、それが叶って嬉しいはずなのに、付き物が落ちてしまった今となっては全く感動がない。おそらく悠斗も承知の上でこんな真似をしているのだろう。

「俺のこと、赤ちゃんだと思ってるんだろ……。一人で寝れるよ」

「あんなにしがみついてきたやつが何言ってんだ。強がらずに、今日くらいは自分の気持ちに正直になれよ」

「いや、これが本音なんだけど……」

「……信じらんねえな。とても同じ人間の台詞とは思えない。まぁ、だからこうしてるんだけど」

「ったく。からかいやがって」

「いつものお返しだ」
 そう言われたらぐうの音も出ない。黙り込むと、悠斗は笑って本当に赤子を寝かしつけるみたいに背中をトントンし始めた。

 こうなったらどうとにでもなれ、と開き直って、こっちも悠斗の胸に顔をうずめる。赤ちゃんにするには少々強すぎる力加減だったが、トントンとリズムよく背中を叩かれるうち、なんとなく心地よく感じてきて気持ちが落ち着き始める。

「眠くなってきた……」

「これでも寝かしつけは得意だったんだよ。……まぁ、おれの子育て歴は五年程度だけどなぁ」

「……いい父さんだったんだな、って思うよ。……娘さんのことは残念だったな」

「もう二十年近くも前のことだけどな。……生きてりゃあ、翼くらいの年齢だよ。それもあってさ、お前を見てるとどうしても世話を焼きたくなるんだ」

「…………」

「人生、何が起きるか分からない。別れだって唐突に訪れる。だから、あの時あんなことを言わなきゃよかったとか、想いを伝えておけばよかったとか後悔するくらいなら、今からでもちゃんと解決しておいた方がいい」

 それが、父親との関係について言われているのだとすぐに分かった。

「……もし、娘さんが生きていて、悠斗の想像とかけ離れた相手と結婚したいって言い出したらなんて言ってたと思う?」
 難しい問いをしたつもりだった。が、悠斗は躊躇ためらわずに答える。

「まぁ、まずはやめとけって言うだろうな。それでも聞かないようなら、おれの目の届く範囲に住まわせて様子を窺うかな。口には出さないけど、心の中ではいつでも帰ってこいよって言いながら待ってると思う。それが親心ってもんだよ」

(口には出さない、でも待ってる、か……。)

 悠斗は続ける。
「嬉しいけど、寂しい。そんな感じなんだろうと思う。子どもの自立を促すのが仕事と分かっていても、大事に育ててきた我が子を素直に送り出せないって言うか。おれが結婚したときの親がまさにそうだったからなぁ。親も葛藤してたんだと思うよ」

「葛藤……」

「まぁ、こっちが本気だって分かれば親も認めざるを得ない。そのうちに和解も出来るってもんだ。……もっともお互いに元気で再会できればの話だけど」

「……悠斗は和解できたの?」

「和解って言うか、親ははじめから怒っても嫌ってもなかったらしい。だから、若いときにちゃんと話し合っていれば、長い間誤解せずに済んだんだろうなって思うわけ」

「……話し合い」

「翼は逃げるなよ。ちゃんと正面から立ち向かえよ。もし結果が振るわなくてもお前にはちゃんと帰る場所がある。おれもいる。だから、その日が来たら安心していって来い」

「うん……。その日が来たらね。でも、それは今すぐじゃない……。今はもう……このまま……」

 悠斗の体温と優しさとに抱かれてすっかり安心しきった俺は、そのまますっと夢の世界に落ちていく。「おやすみ」の声とともに悠斗が額にキスをしたような気がしたけれど、それが夢だったのか現実だったのかは分からなかった。

十五

 翌朝目覚めてみると、隣にはまだ悠斗がいた。どうりで熟睡できたはずだ、と思いながらも、本当に一晩一緒の布団で寝たのかと思うと気恥ずかしくもあった。

 爆睡していても、悠斗の寝顔はやっぱり整っている。

「……ありがと、悠斗」

 かすかに記憶に残る、夕べのキスのお返しをしようと唇を寄せる。と、ものすごい速さで手が伸びてきて顔を押しのけられた。

「今、キスしようとしただろ! 口はめぐ専用なんだからやめてくれ!」

「……なんだ、起きてたのかよ。寝てる間ならキスできるかと思ったのに」

「ふんっ、お前が起きるまでそばにいてやったんだよ。起きたときにいなかったら寂しがると思って」

「俺は赤ちゃんか?!」

「そうだよ。寝てるときに何度もおれの服を掴んできてたぜ?」

「え、うそ!?」

「嘘に決まってんだろ」

「こいつー!」

 腕を首に回して締め上げる。なのに悠斗は笑った。
「……よかった。いつもの翼に戻ったな。やっぱりお前はこうでなくっちゃ」

「…………」

「さぁて、そろそろ起きないと。今日は月曜日。お前は朝から仕事だろ?」
 悠斗が時計を指さす。いつも起きている時刻より二十分ほど遅い。

「やべっ、遅刻しちゃう!」
 俺は慌てて布団から飛び出し、朝食を摂りにダイニングへ向かう。野上家の面々はすでに食事を始めている。

「みんな、なんで起こしてくんないんだよぉ」

「……翼くん、もう大丈夫なの? 心の調子が悪いときは休んでもいいって、パパが言ってたよ?」

 慌てて席につきパンをかじる俺を見て、めぐちゃんが声を掛けてきた。
「へーき、へーき。悠斗が添い……」

 夕べの出来事を話そうとしたとき、背後から悠斗がやってきて大げさに咳払いをした。そして俺の代わりに答える。

「翼なら大丈夫。朝から俺の首を絞めようとしたくらいだ。心配ないよ。なぁ?」

「ああ、もちろん。俺はいつも通りさ」
 そう言って、さっきし損ねたキスをもう一度しようと悠斗に近寄るが、またしても拒まれてしまった。

「……それは、やりすぎ」
 俺たちのやりとりを見た三人は、ほっとしたように笑う。

「じゃあ、めぐちゃんに」

 何度も拒まれるのも面白くないので、気持ちを切り替えて本命にすり寄る。こっちは悠斗みたいによけることなく、さっと近寄ってきて唇へのキスを受け容れてくれた。しかしながら、一つ注意を受ける。

「翼くん。朝一番のキスはわたしにしてよね? 悠くんが好きなのは分かるんだけどさ」

「気分を悪くしたのなら謝るよ。今日は、俺がいつも通りってところを見てほしかっただけ。明日からは、起きてすぐと出かける直前の二回、キスしてあげるから許して」

「うん。約束だよ?」

「ほらほら、翼くん。早く食事を終えて支度しないと間に合わないよ?」

 のんびりしてたらエリ姉に急かされてしまった。ちょっと寝坊しただけで朝が忙しい。だけど今日の目覚めは、これまでのどんな朝よりもすがすがしかった。それもこれも、悠斗がそばで見守っていてくれたおかげ。

 今日帰ったら、悠斗になにかお礼をしよう。そう胸に誓い、朝の支度を始めた。

 一日の仕事を終えた俺は、その足で街にバイクを走らせた。悠斗へのお礼の品を探すためだ。

 人混みをかき分けながら、昨日のデートで歩いた道をなぞる。夜の街は昼とは違う顔をしていて、きらびやかなネオンの下に集う仕事上がりの人々、カップルたち、客引きをする人などがひしめいている。

 その、賑やかな人々に目を奪われているせいか、肝心の品探しはなかなかはかどらない。そもそも俺は悠斗の好みを知らない。思いつきで街へ繰り出したことを後悔する。あらかじめ下調べくらいしてくればよかった。

 時間ばかりが過ぎていく。心配させるといけないと思い、めぐちゃんとエリ姉には帰りが遅くなること、夕食は外で食べる旨をメールで伝えたものの、このままぶらぶら歩き回っていて目的が達成されるとも思えなかった。

 一緒に暮らし始めて約一ヶ月。俺はあいつの何を見てきたのかと思い知らされる。ただ同じ家にいて飯をともにし、おしゃべりをし、めぐちゃんを二人で愛でているだけ。何よりもショックなのは、悠斗に興味を示しながらもその実、何も知ろうとしていなかったってことだ。

 よくよく考えてみれば、それはめぐちゃんにも言えることだと気づいてさらにショックを受ける。ただ、かわいいから一緒にいたい……。俺はそれだけの理由で一緒に暮らしているのか? 他にもっと明確な理由はないのか……。

 急に心細くなる。強気の俺を演じるための仮面が外れてしまったせいに違いない。

(悠斗に会いたい……。)

 二月の夜の冷え込みが、人恋しさを一層強くさせる。

 俺は急いでバイクを停めている場所まで戻り、エンジンを掛けた。そして家ではなく、悠斗の仕事場であるスポーツクラブへ向かった。

 到着すると、ちょうど水泳教室が終わったのか、中から子どもたちが出てくるところだった。

 楽しそうに話をしながら歩いてきた子どもたちは、迎えに来た親の顔を見てほっとしたように駆け寄ると、友だちに手を振って次々車に乗り込んでいく。

(ああ、あの子たちにはちゃんと居場所があるんだな……)

 安心したのもつかの間、その場に一人きりになったことで急に怖くなり、身体が震え始める。強気の人格を手放したのは間違いだったのだろうか。やっぱり俺は、自分の身を守るためにも別人格を持っているべきなのでは……?

 そんなことを考え始めたとき、悠斗が姿を現した。俺を見つけると、彼はびっくりした様子で駆け寄ってきた。

「どうした? ……その顔を見る限り、迎えに来てくれたわけじゃなさそうだな。待っててくれりゃ、俺はちゃんと家に帰るよ」

「…………」
 黙っていると、悠斗が顔をのぞき込んでくる。

「……本当に大丈夫か? 顔色悪いけど」

「……俺は悠斗のことを何も知らない。そんなことで本当に家族って言えるのかなって思ったら、急に会いたくなっちゃって」

 俺は、昨日のお礼の品を探すつもりで街に出てきたこと、そのうちに、悠斗の好みを何一つ知らなかったと気づいて狼狽うろたえたことをぽつぽつと語った。

 話を聞いた悠斗は優しく俺の肩を抱いた。
「飯はまだなんだろ? いいところに連れて行ってやる」

 連れて行かれたのは、悠斗とアキ兄が若い頃から贔屓ひいきにしているという、地元の駅前にあるバーだった。

「腹の内を明かすならここって決めてるんだ」
 悠斗はそう言って、慣れた様子で二人分のカクテルと軽食を頼んだ。

「えー、俺、明日も朝から仕事なんだけど」

「そんなに浮かない顔してるやつが何言ってんだ。仕事より大事なことだろ、これは」

「飲んで忘れろってこと?」

「そうじゃない。分かってないなぁ、お前は」

 食事とカクテルが揃ったところで乾杯をする。悠斗が頼んだのは「ジン・トニック」。カクテルとしては度数が低めらしい。どうやらいきなり酔い潰す気はないようだ。

 ピザやらサラダやらをつまみつつ、酒を口にする。一口ごとに頭がじーんと痺れてきていい気分になる。ホントに度数低め……? そんな疑いも、一杯飲みきる頃にはどうでもよくなっていた。

「グラスが空になってるじゃないか。今日はおれがおごってやる。遠慮しないで飲め」

 悠斗がドリンクメニューを差し出す。一応受け取ってはみたものの、名前を見ただけではさっぱり分からない。

「……悠斗と同じものでいいよ」

 迷った挙げ句にそういうことしか出来なかった。それを聞いた悠斗は「それじゃあ、ウィスキーをロックで飲もうかな」と言ってバーテンダーに注文した。

 酒が提供されるまでの間に悠斗が言う。
「……お前はさっき言ったな? おれのことを何も知らないって。だけど、それを知って何になる?」

 俺は少し考えてから、
「知っていれば安心できるし、繋がりを感じられる」
 と答えた。しかし悠斗は反論する。

「友人知人ならそれでいいと思うよ。だけど、家族も同じでいいのか? 表面的な部分だけを見て知った気になってるようじゃ家族とは言えないと、おれは思う」

「じゃあ、悠斗にとっての家族って?」

「弱さをさらけ出し合える。認め合える。それが家族だとおれは思ってる。それが出来る相手なら別に、あえて好みを知っておく必要もない。っていうか、そういうのって弱さを知った時点でわかるものじゃないか?」

「なら、悠斗は俺のこと、家族と思ってくれてるんだな?」
 昨日のことを思い出しながら言った。

「おうよ。お前のいけ好かない態度やふざけた行動、弱さを持っているところや、めぐを本気で愛するあまりおれにつっかかかってくるところ……。そういう、人間くさいお前と家族でいたいと思ってる」

「人間くさい俺、か……」

 ここでカクテルが運ばれてくる。オールド・ファッションド・グラスに注がれた琥珀色の酒。一口飲んでみると、フルーティーな香りが鼻から抜けた。カウンターに置かれたボトルを見て、これが希少な国産のウィスキーだと分かる。

「……悠斗の好み、一つ見つけた」

「……本当に嬉しそうに言うなぁ。そんなに好みが知りたかったんだ? お前、冗談抜きでおれのこと好きだろ?」

 からかうように顔をのぞき込まれる。ああ、この人はなんでこの年でもこんなに男前なんだろう。悠斗に口説かれて落ちない女はいないんじゃないかと思う。だけど俺は男だし、例の人格はもう表に出てこないので、そんなに見つめられても困るばかりだ。

「……好きだけど、あくまでも人として、だよ」
 かろうじて返事をすると、悠斗は「そう、それ」と言う。

「おれが言いたいのも同じことだよ」

「あ、そうか!」
 さっきの悠斗の話と繋がる。

「わかった?」

「うん」
 うなずくと、悠斗は嬉しそうに話し出す。

「野上一家と家族でいたい理由はたった一つ。それは――お前も同じだろうけど――彼らが泣くことを許してくれる人たちだからだ。もちろん、心から笑い合える人たちでもあるんだけど、それ以上に自分の、一番見せたくない部分をさらけ出しても大丈夫なんだって思わせてくれる野上家の人たちの、それこそ人としての素晴らしさに惹かれているからなんだよ」

「うん、うん」

「そういう人間味って、感覚的なもんだとおれは思ってる。だから翼がさっき言った、好みを知ってるかどうかってあまり重要じゃなくて、それを満たし合えば幸せってわけでもなくて、お互いの気持ちが伝わることの方が大事なんじゃないかっておれは思うんだ」

「やっぱ格好いいな、悠斗は」

「何を今更」

「いや、見た目はもちろんそうなんだけど、今日は言うことが神がかってるっていうか」
 褒めちぎると、悠斗はちょっと照れくさそうにグラスを見つめ、揺らした。

「これでも散々悩んできてるからな。……寂しくなったお前がおれを頼ってくれたこと、素直に嬉しかったよ。こんなおれでも、お前の心の支えになれるんだと思ったらさ」

「……みんなそう思ってるよ。野上家は全員」

「そうか……。それは有り難いな」
 悠斗は微笑んだ。

 今の話を聞いて、俺は弱くても大丈夫なんだと知る。強がっていた自分を失って少し気弱になっていたけれど、今の俺には悠斗が、めぐちゃんが、そしてアキ兄とエリ姉がいる。

「あー、やっぱりウィスキーって言ったらこれだよなぁ!」

 悠斗は照れを隠すように一気にあおった。その姿があまりにも絵になるので、俺も真似して一口で飲む。喉が焼けるように熱い。酔いが一気に回る。ふぅーっと息を吐き出すと、悠斗が水の入ったグラスを差し出してくれた。

「ここの店は水もうまいんだ。酔ったなと思ったら、胃の中で希釈すりゃあいい」

「ありがとう。でも今日は……もうちょっと酔いたいな」

「お? さっきは明日も朝から仕事だって言ってなかったか?」

「仕事より大事なことが何か分かったから。明日のことは、今日はもう考えない。今日はお互いのことを……、情けなかった過去を語り合いたい気分なんだ」

「そうかそうか……。そういうことなら、とことん付き合うよ。言っとくけど、おれは酒癖悪いから」

「えっ!! それ、自分でいうの?!」

「あー、今のうちに彰博に連絡入れといた方がいいな……」
 悠斗の呟きを聞き逃さなかったバーテンダーがくすりと笑った。

「で、お前は何杯いけるの?」

「知らない。普段、カクテルなんて飲まないし」

「そうだよなぁ。じゃあこれを機に限界知っとくか」

「うっわ、怖いんだけど!」

「大丈夫、酔い潰れたってちゃんと家に連れて帰ってくれる家族がいるから」

「……それ、なんか違う気がする」

「ま、とにかく、飲もう」
 そう言った顔はメチャクチャ楽しそうだった。

 それから俺たちは、深夜まで飲みながら互いのことを教え合った。幼少時代のこと、親子関係のこと、かつての恋人や悠斗の別れた奥さんのこと、そして、めぐちゃんへの想い……。酒が進むにつれ、どんどん口が軽くなっていく。

「おれたち、どんだけめぐのこと好きなんだ、って話だよなぁ」
 大いに酔っ払った悠斗が、俺に絡みながら言う。
「一言じゃ、めぐの良さは表せないけど、しいて言うなら『かわいい』。もう、これしかないよなぁ」
 
 そう。話せば話すほど、俺たちの口からはめぐちゃんへの愛があふれて出てくる。彼女の仕草、言葉、優しさ、笑顔……。とにかく、そのすべてに惚れている……。

「めぐちゃんのすごさって、こんな俺たちをまるっと受け容れてくれるところにあると思う。だからって媚びてるわけでもない。俺には真似できないよ」

「確かに、めぐは包容力があるよなぁ。でなきゃ今ごろ、おれたちのどちらかは切り捨てられてるところだ」

「うん」

 めぐちゃんは俺たちに優劣をつけなかった。単純に、甲乙つけがたかっただけだとしても、殊更ことさら家族になってからは差をつけることなく接してくれる。その懐の深さに二人とも救われているのは間違いない。

「俺たちが陰気な月だとしたら、めぐちゃんは陽気な太陽って感じ? 世に言われてる陰陽とは逆だけど、我が家はこうだよね」

「そうだな。めぐにも悩みはあるんだろうけど、めぐ自身の輝きでおれたちには見えないって言うか。でも、おかげで野上家は居心地がいい。陽だまりにいるみたいに」

「それがめぐちゃんの魅力だよね」

「ああ……」

「……めぐちゃんが中心にいれば、俺たちいつか三人で暮らせるかな」

「暮らせるさ。おれたちは三人揃ってようやく一人前って感じだけど、逆に言えば三人揃ってりゃいいわけだ」

「三人で一人前、か……」

 妙に納得する。それを言ったら家族っていうのは、全員揃って初めて一人前になれるのかもしれない。そう考えると俺たち三人は、未だ一人ひとりが力不足。今に至ってはアキ兄とエリ姉の助けを借りてようやっと一人前なのだから。

(まだまだ人生、修行が必要ってことなのかな。でも、このまま野上家で暮らしていれば心もタフになっていくのかな……。)

 色々考えていたら、急に頭がくらっとした。最後に飲んだ酒が効いてきたようだ。

 もう悠斗には何も感じないと思っていたのに、頭が朦朧もうろうとした状態で隣にいるとそれだけで妙な気持ちになってくる。彼が言ったように、俺はやっぱり悠斗のことが好きなのかもしれない。

 ふいに、イヤらしい映像が脳内で再生される。たぶん顔に出ていたんだろう、悠斗にツッコまれる。

「お前いま、イヤらしいこと考えてるだろ」

「うん。俺と悠斗とめぐちゃんの三人がベッドで絡み合う場面を想像してた」
 酔った勢いのまま口走ると、悠斗は飲んでいた水を思い切り吹きだした。

「ば、馬鹿っ! おれまで想像しちゃったじゃねえか!」
 狼狽うろえる悠斗もまた見ていて面白い。いつもの調子でからかう。

「悠斗が三人で一人前だなんていうからー」

「そういう意味じゃねえよ!」

「でもさ、出来る気がするんだ。ほら、俺たちは昨日すでに一夜をともにしてるわけだし」

「あれは添い寝だ! 子守こもりだ!」

「だとしても、けっこう嬉しかったんだよ。だから、今夜も一緒に寝て欲しいな♡」
 冗談のつもりで言ったのに、悠斗はさっと真顔になった。

「酔ってるおれに冗談は通用しねえぞ。そんなに一緒に寝たいなら、このあとマジで連れ込むからな」

「え……、え……? どこに……?」
 すごまれて怯える。が、悠斗はすぐに破顔した。

「馬鹿。家に決まってんだろ。いくらおれがいい男でお前に惚れられてると知ってても、肉体関係を持つのだけは無理。裸を見せ合うのは風呂だけにしてくれ」

「じゃ、このあと風呂に行こう!」

「泥酔状態で入ったら死ぬぞ……。おれはお前と心中する気もない」

「じゃ、今度混浴できる温泉に行くのは? それなら三人で風呂に浸かれる」

「おう。それが一番だな」

 話が一段落したところで、追加の酒を頼もうと悠斗が手を挙げる。が、バーテンダーは注文を断った。時計を見ると深夜一時。いつの間にか閉店の時刻になっていた。

「野上様が手配なさったタクシーが迎えに来ているようです。またのご来店をお待ちしています」
 

◇◇◇

 案の定、翌朝はいつも通りの起床時刻に起きられなかった。それどころか、頭痛と吐き気がひどくて動くことすら出来ない。今日は仕事を休みたいと言ったらエリ姉にひどく呆れられたが、酒飲みの気持ちは分かっているらしく「懲りないんだから!」と言われただけだった。

「翼くん、鈴宮と差し、、で飲んじゃダメだよ。飲む前に一声掛けてくれたら止めたのに」
 開け放したドアの向こうから説教してきたのはアキ兄だ。

「酒癖が悪いって聞いたときには手遅れだったんだよ。……まぁ、楽しかったけどね」

「やれやれ……。今夜はその件で家族会議をしなきゃいけないな。……さて、僕もそろそろ仕事に行かないと」

 そう言うと、二日酔いに効くドリンク剤を枕元に置いていってくれた。さりげないアキ兄の優しさにほっと心があったまる。

「やっと起きたの? もう! 朝一番でキスしてくれるって約束したのにぃ!」

 最後にやってきたのはめぐちゃん。ほっぺたを膨らましている。ひどくご立腹のようだ。俺が寝ている布団のそばまでやってきた彼女は、部屋の空気を入れ換えると言って窓を全開にした。

「こんなにお酒くさい部屋には居られないよ!」

「ごめん……」

 心が弱っているとはいえ、飲んだくれて大切な人との約束を守れなかったのは自分でも情けないと反省する。恥ずかしくて目を見ることも出来ない。なのにめぐちゃんはこんな俺に近寄ってきた。

「仕方ないなぁ。今日はわたしの方から『いってきます』のキスをするね」

「えっ?」
 ぽかんと口を半分開けている間にキスされる。

「……悠くんと仲良くなれた? 癒やしてもらえた?」

「え……、う、うん。かなり」

「大人はいいよねぇ、お酒の力を借りれるんだもの。それじゃ、いってくるね。悠くんに送ってもらえないんじゃ、いつもより早くでないと間に合わないから」
 そう言ってめぐちゃんは足早に部屋を出て行った。

 静まりかえった部屋。隣の布団で眠りこけている悠斗を見る。起きる気配すらない。たぶん、俺より飲んでる。

 一瞬、こういう時こそキスのチャンスじゃないかと思ったけれど、頭が痛すぎてとても実行できそうにない。アキ兄が持ってきてくれたドリンク剤を飲み、再び布団に横たわる。

 幸か不幸か、夕べ話したことはすべて頭に残っている。後半はぐだぐだで、今思い返してみるとメチャクチャ恥ずかしいことを言い合ったなぁと赤面する。

「うー……。気分わるぅー……」
 そのとき、悠斗が声を発した。

「やっと目が覚めた? 起きれる?」

「……無理ぃー。……って、お前だけドリンク剤もらってるのかよぉ。おれの分は?」

「さぁ。俺はアキ兄がくれたのを飲んだだけだから」

「差別だぁ……。彰博にはあとで文句を言ってやるー」

 悠斗がこんなふうに悪態をつくのは、まだ体内にアルコールが残っているせいだろう。その、なんとも子供じみた態度がかわいらしくてつい笑ってしまう。

「何笑ってんだよぉ」

「いや……。俺たち、馬鹿やったなぁと思って」

「…………」

「また連れてってよ。めっちゃ楽しかったから」

「懲りないやつだなぁ……」
 そう言いながらも顔は笑っていた。
「……いつか、めぐも連れて行きたいよなぁ」

「うん。……っていっても、早くて四年後か。長いなぁ」

「なに、あっという間さ」

「えー? 四十六歳と二十七歳の時間感覚を一緒にしないで欲しいんだけど!」

「そんなの、同じじゃね? って言うか四年後っておれ、五十歳なの? 信じらんねぇ!」

 きっと悠斗は今と変わらず若々しいのだろう。それでも、五十歳の悠斗の隣にめぐちゃんがいるイメージはどうしても湧かなかった。ましてや子どもなんて……。

「めぐちゃんが二十歳、か。……俺たち、その時には三人暮らししてるといいなぁ。どっちかの子どもが居たりして」
 想像したついでに呟いてみる。悠斗はしばらく黙り込んだ。

「……子ども、欲しいの?」

「そりゃあね。子どもはかわいいよ」

「……そうか」

「悠斗はどうなの?」
 問い返すと、彼は再び沈黙した。しばらくしてようやく、
「……今の頭じゃ、まともに考えられない。そういう大事なことは、しらふの時にしよう」
 と言って身震いした。

「……って言うか、寒くね? 誰だよ、窓全開にしたやつは!」
 今ごろ気づいた悠斗は布団をかぶり直した。あまりの鈍感ぶりにまた笑いが込み上げる。

「めぐちゃんだけど。送ってもらえないって怒ってたぜ?」

「……えっ? もうそんな時間? ってお前、仕事は?」

「休む。この体調じゃ無理っしょ。バイクだって駅前に置いてきちゃったし、家にあったとしても酒気帯び運転で捕まる気がするもん」

「あっ、バイク……!」
 諸々のことを思い出したのか、悠斗は額に手を置いた。
「あー、色々めんどくせーなぁ」

「仕方がないよ。あとで気分転換に二人で歩いてとりに行こう。……手を繋いでってもいいよ?」

「はぁ……?」
 悠斗は完全に呆れている。
「またまた子どもみたいなことを……」

「いいじゃん、別に。あと、悠斗と仲良くするのはめぐちゃんも公認してるから」

「マジかよ……。あーあ。その子どもっぽい人格も早いとこなんとかしねーと。……ま、愛情に飢えてんじゃしゃーない、手ぇ繋いでやるか。今日のお前は五歳児な」

「わーい」

「やれやれ……。だけどその前に水だ。水を持ってきてくれ……。このままじゃ、散歩どころか台所にだって行けやしない」

「オーケー、オーケー。五歳児だって水くらいは汲んで来れるから待ってて」

 これじゃあどっちが子どもか分かりゃしないな、と思いながらも今はこのやりとりを楽しもうと思う。これが俺たちにとって一番気楽な接し方だから。

 

第二部

 

<めぐ>
 一 

「ハッピーバースデー、トゥーユー! おめでとう、めぐちゃん!」

 翼くんがピアノ伴奏をしながら歌ってくれた。八月三日。今日はわたしの、十八歳の誕生日である。

 友人の木乃香このかの父親が営む洋菓子店「かみさまの樹」の特製ケーキをママが五等分する。木乃香によると、このケーキには特別なくじが仕込んであるらしい。自分のケーキにくじが入っていたら、その後一年間は神様のご加護が受けられるのだとか。

 いつもはわたしが淹れる紅茶を、今日はパパが淹れてくれる。カップに紅茶を注ぎながらパパが感慨深げに言う。

「ついにこの日を迎えたんだね。めぐ、誕生日おめでとう。そして、ようこそ大人の世界へ」

「ありがとう、パパ。ありがとう、みんな。やっと大人の仲間入りを果たすことができました。本当に嬉しい! だけど、まだまだ新米なので大人の作法を教えてください。よろしくお願いしまーす」

 かしこまってお辞儀をするとみんなが拍手をする。記念写真を撮影したあとは、いよいよケーキを食べる。

「いただきまーす!」

 わたしは特別大きく切り分けてもらったケーキにフォークを刺して一口頬張った。ここのケーキはいつ食べてもおいしい。月に二、三回は食べているのに全然飽きないのは、店主が日夜、味の研究をしているからだろう。

「ん……」

 おいしいおいしいと食べ進めていたら、翼くんが急に顔をしかめた。口の中から何かを吐き出す。それはハート型の飴だった。

「翼くん、それ、当たりじゃない? わたしのケーキには入ってないよ?」

「おれのにもなさそうだぜ?」
 悠くんもケーキを突きながら言う。どうやら、幸運を引き当てたのは翼くんだったらしい。当の本人は驚きを通り越して戸惑っている。

「うそっ、俺の、当たりだったの? 普段、くじ運なんて全然ないのに。めぐちゃんの誕生日ケーキで当たりを引いちゃって、何だか申し訳ないなぁ」

「いいじゃん! お祝いのお裾分けだよ。おめでとう、翼くん」

「えー? まぁ、めぐちゃんが言うなら、いっか」
 そう言いながらも翼くんは嬉しそうに笑った。

「それじゃあ、成人しためぐにプレゼントを渡そうか」
 ケーキを食べ終えると、パパはオススメのお堅い内容の本を、ママはハートが二つ重なったかわいらしいチャームのついたネックレスをプレゼントしてくれた。

「悠と翼くんは何をプレゼントするの?」
 何も手元に用意していないふうの二人にママが問うた。二人は顔を見合わせてにんまりと笑う。

「このあと三人で買いに行くんだ。残念だけど、映璃えりたちには留守番しててもらうぜ」

「えー? 私たちには内緒なの?」

「買ってきたら見せるって。だから、それまでは何を買うか秘密!」
 わたしも悠くんに合わせてもったいぶった言い方をした。

 実はこの後行く予定にしている場所はジュエリーショップ。翼くんがわたしの婚約指輪を買った店である。

 結婚はしない。だけど、三人が繋がっている証が欲しい――。

 そんなわたしの願いを叶えるために「三人おそろいの指輪を持つのはどうか」と二人の方から提案してくれたのだった。両親には申し訳ないけれど、そっちのほうが「物」よりもずっと嬉しい。わたしはワクワクしながらジュエリーショップに向かう。

 お店の人は男子二人がおそろいの指輪を選ぶ姿を不審がっているみたいだけど、気にしたら負けだ。二人が選んだのはシンプルなシルバーの指輪。翼くんのくれた婚約指輪の石がない版、とでもいえばいいだろうか。パッと見た感じ、三人おそろいに見えるのでわたしも大満足だ。

「いいね、いいね!」
 思惑通りテンションが上がる。翼くんも嬉しそうに微笑んでいる。

「悠斗と同じリングをつけてるってなんか……感じちゃうなぁ」

「感じちゃうって……。相変わらずお前の発言はイヤらしいな……。これは家族の絆を深めるためのものだろ?」

「分かってるってば。俺が言いたいのは、悠斗とおそろいのものが持てて嬉しいってことなんだけど……。伝わらなかった?」

「ぜんっぜん伝わってない……」

「んじゃあ、ちゃんと伝わるように、今夜はこの指輪をつけたまま二人で愛を語ろっか♡」

「……馬鹿っ! なんで、そうなるんだよっ!」

「だって、悠斗が好きなんだもん」

「……この指輪、返品していいかな?」

「ごめんごめん! 冗談だからそれだけはしないでっ!」

 二人の「漫才」は相変わらず面白い。お店の中で大爆笑したら、真面目に指輪を選んでいるカップルに冷ややかな目で見られてしまった。慌てて店の外に出る。

「あー、幸せすぎてニヤニヤが止まらないよぉ」
 指輪をつけた二人と手を繋ぐ。

「浮かれた拍子に三人暮らしの話をするなよ? 正式に伝えるタイミングはこれから見定めるんだからな」

「はーい……」
 悠くんに釘を刺されて慌てて口にチャックをする。

 わたしが成人したら三人暮らしをする、という想いは共同生活を始めた一年半前から変わっていない。そしてついにこの日を迎えたわたしたちは、いよいよ鈴宮家で暮らし始めようと、両親には内緒で計画を進めている。家賃がいらないこと、家具が揃っていること、この家からも近いことなど、総合的に判断した結果、それが今のところわたしたちの中では一番しっくり来る答えなのだ。

 とはいえ、わたしが高校に通っているうちは五人暮らしを継続した方がいい、と言うのが二人の考え。一日でも早く三人で暮らしたい気持ちはあるが、もう少しだけ我慢しなければならないのが辛いところである。

 まだ実家にいるならいっそ、開き直って料理くらいは覚えてみようか、と思ってはみるものの、始めたばかりの今は悠くんにさえ及ばない状態。慣れないせいもあって、日々料理をすることに楽しさを感じることもできず、どうにも本気になれないわたしなのであった。

 しかし、それではあまりにも申し訳ないし、情けない……。よし、と気合いを入れ直す。

「今日は指輪を買ってもらったお礼に、晩ご飯は二人の好きなものを作ろうかな。えーと……翼くんはスパイスたっぷりのカレーで、悠くんは牛肉ハンバーグだったよね?」

 誕生日でも、その週が当番の場合は料理をするのが我が家のルール。だけど、二人はわたしが無理をしていることくらいちゃんと理解している。

「気を遣ってくれるのは嬉しいけど……。めぐちゃんが作りやすいのでいいよ。いきなり背伸びしなくても大丈夫だから」

「そうそう。むしろ誕生日なんだから手抜きしたっていいと思うぜ?」

「そうだよねぇ……。まだ作れる料理の種類も少ないのに、いきなりハイレベルなもの作ろうとしたって無理だよねぇ、きっと……」
 しょげていると、翼くんに励まされる。

「そう落ち込まないで。誰だって最初は初心者なんだ。俺もいきなりうまく作れたわけじゃないし、たくさん失敗もした。でも、それでいいんだ。その分、上達するから」
 
「ありがとう。よぉし。おそろいの指輪を励みに頑張るぞっ!」

「うわぁ。今日のめぐちゃんは気合いが違うなぁ。誕生日だからかな?」

「それもあるけど、悠くんに気移りされたくないじゃない? わたしもやれるんだってところを見せないと……!」
 ジュエリーショップでのやりとりを引き合いに出すと、翼くんは慌て出した。
 
「お、俺はめぐちゃん一筋だってば」

「でもさっき、悠くんとラブラブの夜を過ごすって……」

「いやぁ、まぁ、そう言ったけど……」
 翼くんが視線を送る。が、悠くんはそっぽを向いてしまった。

「冷たいなぁ……。仕方ない。悠斗が拒むなら、めぐちゃん、俺とラブラブしよ~」
 わたしにすり寄る翼くんを見て、今度は悠くんが慌て出す。

「わかった、わかった! そんなにイチャイチャしたいならおれと一緒に寝よう! その代わり、覚悟しろよ……!」

「わっ! 楽しみ♡ ……ごめん、めぐちゃんとはまた今度ね」
 翼くんはまるで女の子みたいに喜んだ。その様子は本当に恋する乙女のよう。何だか複雑な気持ちになる。

 翼くんはライバル関係にあるときから悠くんには「気のあるそぶり」を見せてきた。そのたびに冗談だと言っては笑い飛ばしていたし、わたしもそう思ってきた。だが、このところ彼の発言や行動がエスカレートしている気がしてならない。冗談の域を超えているとしか思えないのだ。

 実はわたしの知らないところで男子二人が恋仲になっていて、夜な夜な愛を確かめ合っているのではないか? だからわたしの身体を求めることなく同居できるのでは? 最近、そんな疑念さえ抱き始めている。

 その日の夜、わたしは先に眠ったフリをして二人が寝室に入るのを待った。部屋のドアが閉まる音を確認し、足音を忍ばせながら二人の寝る部屋に向かう。

 二人が寝る間際まで話をしているのは知っている。今日はドアに耳をつけてその内容を聞こうというわけ。場合によっては、部屋に飛び込んで二人の関係を暴いてやろうとも思っている。

 ぼそぼそと聞こえる会話を聞き取ろうと、息をひそめて耳を澄ます。

「……お前は最近大げさに言いすぎる。あそこまで露骨に『おれき』をアピールしなくたっていいじゃないか」

「好きなもんは好きなんだから、しょうがないじゃん。……とはいえ、今日はちょっとやり過ぎちゃったかも。ごめんね、悠斗」

「まぁ、表向きはあれでもいいんだけどさ」

「あ、そう? じゃあ今後もあんな感じで……」

「こらっ! そんなに近寄るなって! ……お前、今日も相当たまってるだろ? 昼間の発言聞いたときから感じてたけど」

「あ、バレてる……。そりゃあ溜まりもするさ。だから悠斗には毎晩抱いてもらわないと」

「毎晩は勘弁してくれって言ったじゃねえか……。こっちだって身が保たねえよ」
 ここで一旦会話が途切れ、続いて衣擦れの音が聞こえた。

(もしかして……今、抱き合ってる……?)
 昼間、「感じちゃう」だの「イヤらしい」だのと言っていたのを思いだして赤面する。
 
 と、再び話し声が聞こえ始めた。わたしはもう一度ドアに耳を当てる。
「悠斗には感謝してるよ。おかげでなんとかめぐちゃんとの関係も維持できてる」

「感謝、ねぇ……。もしそれが本心なら、少しはおれの気持ちも受け取ってくれると嬉しいんだけど?」

「悠斗の気持ちって……?」

「例えばこんなこと……」

「えっ?! ちょっ! それは……ダメだってば……!」
 翼くんの嫌がる声が聞こえて動揺する。

(えっ……? 何……? 何が起きているの……?)

 もだえるような声に変わり、ますます聞いていられなくなる。わたしはついにドアを開け、中に押し入った。

「二人とも! わたしを差し置いてイチャイチャするなんて、一体どういう……」

『えっ』

 目が合って互いに固まる。わたしの目に映った光景は愛し合う二人……ではなく、プロレスのように取っ組み合う姿だった。わたしも彼らもしばらく目が点になっていたが、少し経ってようやく悠くんが口を開く。

「……用があるならノックくらいして欲しいもんだな。たとえ家族であっても、礼儀は守ってくれよ」

「……ごめんなさい。でも、どうしても知りたくて」

「……何を?」

「……翼くんの言葉の真意を……。二人がそのー……。肉体関係を持っているんじゃないかと思ったものだから」

 二人は顔を見合わせてため息をついた。
「……ほらみろ。お前がおれとラブラブな夜を過ごすだなんて言うから誤解されるんだ。こんなことになったのは、100%翼のせい」

 翼くんは「参ったなぁ」と言って、顔の前で両手を合わせる。
「……ごめん、めぐちゃん。誤解させちゃって。確かに俺は悠斗のことが好きだけど、決して、決して! めぐちゃんが思っているような関係は持ってない。どうか信じて」

「……じゃあ、どうして誤解を招くような発言を?」

「……めぐちゃんが好きだからに決まってるじゃないか」
 わたしの問いに、翼くんはちょっと怒ったように言った。

「めぐちゃんは大胆すぎる。夏のめぐちゃんの格好は……下着が透けて見えるような服や短いスカートは反則だよ。めぐちゃんのことだから無意識なんだろうけど、そんな格好をされてもこっちは困惑するばかりだ。ここで暮らす以上は、気持ちが高まっても我慢するだけ。それがどれだけ辛いか……」

「誘ってるつもりは……。ご、ごめんなさい……!」
 翼くんに無理をさせていた原因が実はわたしにあったと知り、深く反省する。が、翼くんは拳をぐっと握りしめ、それから悠くんの胸にすがった。

「……出て行ってくれ。これ以上一緒にいたらめぐちゃんを抱いてしまう……。そうなれば俺たちの、ここでの暮らしは終わってしまう……」

「…………」
 戸惑っていると、悠くんが冷たい口調で言う。

「いいか、めぐ。翼もおれもめぐと愛し合いたいって思ってるよ。それが本心だよ。だけど一度お前を知ってしまったら……。おそらくおれたちは敵対する。……分かってくれ。欲しくもない男の身体にすがらなきゃいけないおれたちの気持ちを。五人で暮らすために努力してることを」

「悠くん……」

「おれたちはめぐを愛してる。愛するがゆえに葛藤してる。……愛されたいというめぐの気持ちにはいつか応えるよ。ずっと先かもしれないし、案外近い将来かもしれないけれど。……おれたち二人の気持ちに決着がつくまで待てるか? もし待てないというのなら、おれたちの関係は今夜限りにしよう。おれと翼でお前を好きなだけもてあそんで終わり。三人暮らしの話もなし。五人暮らしも終了。そして永遠にさよなら、だ」

 あまりにも残酷な言葉だった。そして二人の深刻な悩みに気づけなかった自分にショックを受ける。

「どうする? めぐの気持ちに、おれは従う」
 悠くんが静かに言った。わたしの答えはもう決まっている。

「……待ちます。……どんなに先でも、わたしは待っています」

 ……おやすみなさい。小さな声で呟き、部屋を出る。自室に戻って布団に潜り込んだわたしの脳裏に悲しそうな二人の顔が浮かぶ。その晩はなかなか寝付くことができなかった。

◇◇◇

 ウトウトしているうちに部屋が明るくなってきた。どうやら夜が明けてしまったようだ。これ以上寝転んでいても埒があかない。わたしは寝るのを諦めて起きることにした。

 身支度を済ませ、外に出る。日は昇ったばかりだというのにすでに暑い。が、晴れ渡った空の下で散歩をしていたら憂鬱な気分も解消するかもしれないと思い、歩き始める。

 早朝の町に人影はない。目的もないまま、歩みを進める。

(こんなことじゃいけないよね……。二人はわたしの笑顔が好きなんだもの、ちゃんと笑って朝の挨拶ができるようにしておかないと……。)

 無理やり笑顔を作ってみる。だけどうまくいかない。落ち込んだ気分を引きずったまま散歩を続けているうち、気づけば春日部かすがべ神社に到着していた。

 神社の境内に生い茂る木々が作りだした木陰に入る。ほてった肌が冷やされてほっとする。いや、そう感じるのはここが神社だからかもしれない。

 周囲の木より背の低い「ご神木」と対面する。一度焼け落ちたあと再生したことから、復縁や再起を願う人々がご利益を求めるようになったと聞く。

(……わたしたち三人の関係が元の通りになりますように。神様、どうかお願いします。)

 目をつぶり、熱心に手を合わせて祈る。困ったときだけ神頼みをするようなわたしに神様が力を貸してくれるかどうかは分からない。だけど、今は祈らずにはいられない。わたしは二人なしでは生きられないのだから……。

 どれくらい、そうしていただろうか。額から汗が流れ落ちるのを感じて目を開ける。と、いつの間にかわたしの隣に女の人が立っていて、同じように手を合わせていた。

 驚いたわたしが凝視していると、向こうもこちらを見たので目が合ってしまった。気まずいなぁと思って目を逸らそうとしたら声を掛けられる。

「……おはようございます。朝から熱心ですね。ご近所の方?」 

「はい……。あまりよく眠れないうちに朝になってしまったので、起きたついでに散歩がてら参拝に来たんです」

「あら。それならわたしと同じね。……わたしも時々、眠れない夜を過ごすことがあってね。そんなときは気晴らしにドライブをするのよ。……今日はなぜだか急に、朝から『ご神木さま』に会いたくなって車を飛ばして来ちゃった」

「……ここへは良く来るんですか?」

「そうね。ここは高校生の頃から縁のある神社だから。実はわたし、この神社の宮司さんと知り合いなのよ」

「えっ? 木乃香のお母さんの知り合い?」
 こんな偶然があるだろうか。初対面の女性と身近な人物とが繋がるなんて。この人は一体……? わたしの問いに女性はうなずく。

「ええ、そうよ。凜さんとは高校時代の友人で。……もしかして、木乃香さんのお友だち?」

「はい」

(そうか、この人……。)
 木乃香のお母さんの友だち、と聞いてあることを思い出す。

「……あの、失礼なことを言っていたらごめんなさい。ひょっとしてお姉さんは、木乃香のお母さんの言う『複雑なカップル』さん?」

 その話は、わたしが木乃香に「恋人が二人いる」と告白した日に聞いたきりだった。が、話の流れから「この人に違いない」と確信したのだ。気になったことは聞かずにいられないのがわたしの悪い癖。だが、ぶしつけな質問だったにもかかわらず、女性は小さく微笑んで答える。

「……そうね。確かにわたしとパートナーとの関係は一般的ではないわね。……それが理由で早くに起き出した挙げ句、こんなところに来てしまったわけだし」

「えっ……。それならわたしもおんなじです。実は、恋人たちとの関係で悩みがあって……」

「恋人たち……?」
 女性はそう言って、ハッとした。
「あなたはもしかして凜さんの言っていた、年上の恋人が二人いるっていう……?」

「そうです」

「……ここで出会えたのも何かの縁ね、きっと」
 女性は妙に納得した。
「わたしのことは、かおりと呼んで。少し、お話しできるかしら?」

 わたしたちは神社の境内にあるベンチに腰掛けた。セミの鳴き声が響く中、かおりさんは自身のことをポツポツと――愛するパートナーが同性愛者であること、それでも一緒に暮らし続けていること、そして時々、愛が欲しくてどうしようもなく苦しくなることなどを――語ってくれた。わたしも同様に、三角関係を維持するためにそれぞれが遠慮し合い、苦しんでいる現実を告げた。

「……こんな話を二回り以上も離れたあなたに言うのは間違っているかもしれないけれど、同じような悩みを持っているならいいわよね……?」

「むしろ嬉しいです。悩みを分かち合える人に出会えて」

「わたしも嬉しいわ」
 かおりさんは微笑んだ。

「パートナーの努力があって一緒にいられるのはもちろん分かっているわ。だけど、わたしだって人間だもの。身体の仕組みがそうなっている以上、自分の力ではコントロールできないことだってある。……自分でいばらの道を進むと決めたんだから悩みも甘んじて受け容れなさい、と言われればその通りなのだけれどね」

「それ、分かります。彼らのことが好きな気持ちはどうしようもないですもん。でも、それが逆に自分や彼らを苦しめるって言うか」

「そうね……」

「だけどかおりさんは、それでもずっと一緒に暮らしているんですよね? 長続きの秘訣は何ですか? ぜひ知りたいです!」

「秘訣と言うほどのものはないけれど……」
 かおりさんは少し考えるようにして空を仰ぐ。

「今思えば、彼そのものではなく、彼の気持ちに寄り添ったことが自分の感情に折り合いをつけるのに役だったと言えるかもしれないわね。ちょうどめぐさんくらいの年齢だったっけ。当時のわたしは大学に通っていたけれど、彼の役に立ちたいと思って服飾の専門学校に入り直したのよ。がむしゃらに学び、ひたすら服を作り続ける日々は忙しかったけれど、おかげさまで舞い上がる気持ちは自然と淘汰されていったと記憶しているわ。……木乃香さんのお友だちと言うことは、めぐさんも今は高校生よね? それなら、恋愛もいいけれど、学びに集中するというのも一つの手だと思うわ」

 かおりさんの言葉には説得力があった。そうか、学びに集中する。当たり前のことだけど、もうすぐ三人暮らしができると浮かれていたわたしはそんなことさえ忘れかけていた。

「ですよね……。わたし、すっかり本業をおろそかにしていました……。でもわたし、特別やりたいこともなくって……」

「わたしだって、本当に目的を持って学ぼうと思えたのは彼のことを愛してからよ。……もしめぐさんに恋人たちの役に立ちたいという気持ちがあるなら、一からでも学んでみる価値はあるんじゃないかしら? 好きな人のために学ぶときと言うのは気合いが違うし、学びも楽しいものよ」

 それを聞いて「料理」だと思った。今のわたしの料理の腕は、残念ながら「お手伝い」レベル。彼らがおいしいと言って完食してくれるのが嬉しいから台所にも立つけれど、本音を言えば、お世辞ではなく心から「うまい」と言わせたい。そして彼らの笑顔が見たい。だったら本気で腕を磨けばいい。単純な話ではないか。

 わたしの前向きな気持ちが顔に出ていたのだろう、かおりさんが言う。
「……どうやら、めぐさんに出来そうなことを見つけたようね」

「わたし、料理がうまくなりたいと思っていたんです。でも、食事の支度って日常すぎて本気になれなくて……。だけど今、かおりさんの言葉を聞いて決めました。やっぱりわたしは彼らの笑顔が見たい。そのためにも料理を勉強しようって」

「素敵ね。……その気持ちがあればきっと恋人たちも喜んでくれるに違いないわ。そしていつの日にか……愛し合うことも叶うはず」

「そうだといいなぁ」

「頭の固かったわたしでも出来たんですもの、めぐさんにもできるわ」
 かおりさんはそう言って微笑んだ。

「そろそろ帰るわ。パートナーが待っているから」
 彼女はハンドバッグから車の鍵と一枚の名刺を取り出す。
「もし、また何か相談したいことができたらここへ電話して。木乃香さんのお母さん経由でも構わないわ」

「ありがとうございます。……わたしも帰ろう。きっと心配しているはず……」

「……また会いましょう。さようなら」

「さようなら、かおりさん」

 互いに微笑み、手を降って別れる。ここへ来たとき感じていた重苦しい気持ちはもうない。これなら二人に会っても大丈夫という自信を取り戻したわたしは、真夏の太陽の下をゆっくりと歩き出す。今のわたしが帰る場所は、やっぱり彼らの待つ家だ。

<悠斗>
 二

 めぐが突然アルバイトを始めると言い出した。一度決めたら意志を曲げないめぐ。まずは近所の小さな食堂で短期間雇ってもらい、社会勉強を兼ねて料理の修業をするのだという。

「わたし、もっともっと二人の役に立ちたい。そのためにも自分を成長させたいの」
 このままでは三人の関係は破綻する。めぐもそれに気づいたからこそのアルバイトなのだろう。

 前向きなめぐの言葉を受けて、おれも何か行動を起こさなければという気持ちになる。この、穏やかだが代わり映えのしない日常には、いくらかの刺激と変化が必要だ。

 めぐの夏休みも終盤にさしかかっている。夏が、終わる。そう思ったとき、胸がチクリと痛んだ。亡くした愛菜まなの顔が脳裏に浮かぶ。

 愛菜を亡くしたのは遠く離れた沖縄の海。母親の生まれ故郷だが、愛菜の死後は一度も訪れていない。当時の苦い出来事を思い出すのが怖かったからだ。

 愛菜の死は、ここ数年で乗り越えたつもりだ。でも、胸を張って乗り越えたと言い切るためにはやはりあの海を訪れ、花を手向けなければならない。

 その晩。翼はいつものようにおれの隣の布団に横たわった。進展のない日常。不満と苦悩を抱いているのは彼も同じはず。おれは思いきって相談を持ちかける。

「少しの間、家を空けようと思う。自分探しってやつをしてきたいんだ」
 寝るつもりだったであろう翼は、おれの発言を聞いて飛び起きた。

「マジかよ……。少しってどのくらい?」

「まー、五日くらいかな。仕事もあるし。五日で自分探しが出来るのか、分からないけど」

「そっか……」

「そこで一つ相談なんだけど、おれがいない間、翼もめぐと距離を取って欲しいと思ってる。お互いに一人の時間を作ろう。で、それぞれが三人のこれからについて考える。結論が出たら再会しよう」

「ひとりの時間……か。確かに必要だよな」
 翼はぽつりと言い、天井の隅を見つめた。

「分かった。たったの五日だろ? それだったら俺は……実家に戻るよ」

「えっ、大丈夫か?」
 翼はまだ父親と和解していない。その状況下で実家に戻るとはどういうつもりなのだろう。しかし翼の言葉を聞いて納得する。

「……俺もそろそろ成長しないと。……いい機会だ、ここらで親とはちゃんと話してみるよ」

「そうか」

「大丈夫。この一年半、悠斗を含めたこの家の人たちに助けてもらってずいぶん自信が持てるようになってきたから」

「ああ、そうだな。今のお前ならきっと大丈夫だ」

「……念のため確認しておくけど、そう言っておきながら出て行っちゃうなんてことはないよな?」

「大丈夫、ちゃんと帰ってくるよ。この指輪に誓ってな」

 心配性の翼の目の前に指輪を見せる。おれはもうかつてのおれではない。待ってる人がここにいる。だから、どこへ出かけていっても最後には必ずこの家に戻ってくる。

◇◇◇

 沖縄を訪れるのは実に二十年ぶりだ。おれと、おれを取り巻く環境は様変わりしたが、海は何一つ変わっていない。あの日と同じように美しく、波が寄せては返す。

 前日の晩のうちに沖縄入りしたのは他でもない、観光客や海水浴客がいない早朝の海を訪れるためだ。弔いをするなら静かな海に限る。沖の方まで泳いでいったおれは、愛菜を想いながら花束を海に預けた。しばらくぷかぷかと浮いていたそれはやがて波に呑まれて沈んでいく。

 恐怖は感じなかった。むしろ、比較的穏やかな波が、おれの意思を汲み取って死者のもとへ花束を届けようとしているように思えた。愛菜のため、そして海の神に幼い命を奪わないで欲しいと伝えるためにそっと手を合わせ、祈る。

「うんじゅん、たーがなうしなたるがやー?」

 海から上がると沖縄弁で声を掛けられた。顔に深くシワの刻まれた男性。八十代くらいだろうか。それが方言だと分かっても、さすがになにを言っているのかまでは分からない。失礼だと思いつつも聞き返すと、「あなたも誰かを亡くしたんですか?」と標準語で言い直してくれた。

「はい、娘を……。そちらも?」

わんは友人ですがね。……好きな人を奪い合って死に追いやってしまったんですよ」
 男性の言葉に思わず目を見張る。

「……なぜ、初対面の人間にそんなことを?」

「あなたを見ていたらふと、思い出しましてね。若い頃の話だから、わんの中でもケリのついていることだったのですが。……海が記憶を連れてきたんでしょうな」
 男性はしみじみと語る。

「……妻も分かっていましたよ。彼女もまた友人を追い詰めた、と。だからこそ……自分たちは友人の分まで生きなきゃいけない。奪い取った幸せを噛みしめなきゃいけないってね。……その妻も数年前に亡くなって、わんは今、一人になってしまいましたがね」

「……後悔してるんですか?」

「まさか……。人生はすべて、自分が最善だと思って選んできたことの積み重ねで出来ているのに。あなただってそうでしょう? でなきゃ、こんなひなびた海岸に朝早くから花を手向けに来るはずがない」

 悩みを抱えてここにやってきたことを見抜かれたような気がした。
「……あなたは超能力者ですか?」

「いやいや……。人生経験豊富な、ただの年寄りですよ」

「あー! オジイ! ここにいたんだ! うちに帰るよ!」

 声のする方をみると、ニコニコしている男性の後ろから、ちょうど翼くらいの年齢の男がやってきた。おれと話をしていると分かると、若い男は軽く頭を下げてから言う。

「……あの、変なこと言ってませんでした? 若い頃の話とか」

「えっ?」

「祖父はいつもこの海岸で若い人を見つけては話してるんですよ。祖母を亡くしてから寂しいみたいで。だから、気にしないでください」

「そうなんですか……。でも、心に響く話が聞けておれはよかったです」

「本当ですか……? ボケが始まってるからどこまで真実やら……。とにかく、オジイ、帰ろう。な?」
 孫とおぼしき男性は祖父の肩を抱き、ゆっくりとした歩みで去っていった。

 残されたおれは今聞いた話をじっくりと噛みしめる。
 多少の嘘が混じっていたにせよ、自分の幸せを選んだことで友人を死に追いやった、とあの人は言った。なのに、後悔してはいない、と。

(例えばおれが翼を押しのけてめぐと結ばれたとして、心から幸せを感じられるだろうか。そもそもおれは、あいつを傷つけてまでめぐと結婚したいのか……?)

 出会ってすぐの時ならイエスと言っていただろう。めぐを勝ち取った暁には心から喜んだに違いない。だけど今のおれにとって翼は息子のように大切な存在だ。だからこそ悩んでいるし、前に進めずにいる。

 ――もう、答えは出てるんじゃないのか?
 内なるおれが言う。
 ――悠斗は翼を傷つけたくない。傷つけるくらいならいっそ……。

(そうさ……)
 内なるおれの言葉を遮るように思いを告げる。

(おまえの言うとおり。たぶん、それが本心なんだと思う。だけど、翼がそれをよしとするかどうか……。問題はそっちだろうな)

 めぐとの結婚を打診された頃のおれは、自分が幸せになることを第一に考えていたし、そのためにももらった話を実現させなければと思っていた。めぐもそれを望んでいるから、と。しかし野上家の面々と接し、ともに暮らす中でおれは幸せを手に入れてしまったのだ。そして皮肉なことに笑うことが増えた結果、自慢だった若作りの顔には笑いじわが深く刻まれ、年相応になりつつある。

 さっき出会った老齢の男性もしわくちゃな顔をしていた。あれはきっとあの年齢まで幸せな人生を生きてきたからに違いない。話す口ぶりからは、亡き友人から妻を勝ち取った自信、そしてその後の人生を悔いなく生きてきたという誇りが感じられた。豊かな人生があのような顔を作るのだとすれば、そしておれもそれに近づいているのなら、年相応に老いていくのも悪くはないのかもしれない。

 その日は市内でバイクをレンタルし、一日ツーリングをした。海沿いの道をひたすらに走る。一人きりで走っていると、野上家で世話になる前の自分を思い出す。あの頃は本当に孤独だった。一切笑わず、ほとんど話さず、仕事と寝食をするだけの日々は無味乾燥だった。もしあのまま一人きりの暮らしを続けていたら、遅かれ早かれ死んでいただろう。

 今のおれには野上家の面々――めぐや翼――がいる。離れていても繋がっている実感さえある。これが家族ってやつなんだとしみじみ思う。

 途中、街中まちなかのコンビニに立ち寄って休憩を取る。店の外でスポーツドリンクを飲みながら点在する家々に目を向けると、ここで暮らす人々の日常が嫌でも目に入ってくる。

 周辺は観光地で方々ほうぼうから人がやってくるが、住人にとっては見慣れた景色。いつもの場所。そしてここでの暮らしがすべてだ。結局人は、自分が「ここ」と決めた場所で懸命に生きるしかないことを改めて知る。

 どんなに華やかな結婚式を挙げ、親戚や友人に祝福されたとしても、日常こそが、泥臭い毎日こそが人生の本番である。心から笑う時間より悩み苦しむ時間の方が長いし、同じことを繰り返すだけの日々に生きる目的を見失うこともある。

 おれだってそうだ。限られた人生をなんとかいいものにしたくて何度となく年齢に抗おうとした。が、過ぎていく時を止めることも巻き戻すことも出来ないと悟り、抵抗するのをやめたのはつい最近のこと。あの頃出来なかったことは永遠に出来ないまま。失敗したことも失敗したまま。ティーンになったつもりであれこれ挑戦もしたが、所詮四十代のお遊びでしかなかったと気づいてしまったからだ。

 どんなに気持ちが若くても、おれの人生は折り返し地点を過ぎている。そして終盤に向かって進み続けている。ならば、過去に叶わなかった人生のイベントを後半戦でこなすより、中年なら中年らしい生き方をするのが自然なのではないか。それこそが、真に幸せな人生と言えるのではないか。バイクを走らせれば走らせるほど、そんな思いが胸を支配する……。

 ツーリングを終え、今日泊まる宿に向かう。すると、受付に見覚えのある顔があった。向こうもそう思ったのか、お互いに「あっ」と声を出す。

「今朝、お会いした方……ですよね? オジイと話していた……」

「そうです。鈴宮すずみやって言います。……ここの宿の人だったんですね?」

「家族で民宿を営んでいまして。あー、ちなみに祖父が開業した宿なんですが、今は引退して父と母がメインでやっています」

「なるほど。……おじいさんもこの宿に?」

「いえ。祖父は宿の隣の自宅に。……お呼びしますか?」

「その必要はないよ」

 振り向くとそこには「オジイ」が立っていた。まるでおれが来るのが分かっていたかのようだ。その証拠に、オジイはおれを手招きした。荷物を預けたおれは黙ってオジイについていく。

 宿からちょっと行くとすぐに海が広がっている。オジイが砂浜に座ったのでそれに習って隣に腰を下ろす。

 海風が心地いい。ふと空を見上げると、関東とはまるで違う星空が広がっていた。聞こえるのも波の音だけ。つかの間、自然と一体化したような錯覚に陥る。

 と、目の前をオレンジ色の球体がゆっくりと横切った。一つかと思いきや、二つ三つと増えていく。

「ほーら、人魂が集まってきましたよ」
 オジイが静かに呟いた。

「人魂……。オジイが呼んだんですか?」

「さぁて、どうかな……?」

「やっぱりあなたは他の人とは違う」

「自分はただ霊感が強いだけですよ。……人魂が見えるあなたもね」

「……オジイといるから見えるんじゃないんですか?」

「いやいや。あの世の人と波長の合わない人には絶対見えない。そういうものですよ」
 嘘をついているようには思えなかった。つい、本音が口をついて出る。

「……成仏している家族の魂に触れることも出来ますか?」

「あなたが望めば。身体を持たない魂は移動も自由自在らしいですから」
 そう言ってオジイは微笑んだ。おれが何を望んでいるのか、分かっているに違いない。

 まるで夜の海を散歩するかのように、人魂たちは周辺をふわふわと漂っている。この中に亡き家族はいるのだろうか? ……しかし、会えたとして何を話す? ただ懐かしさに浸りたいだけなのではないか? それは生きているおれのエゴではないのか……?

 そんなことを思っているうち、三つの人魂がおれの前に集まってきた。そしてあっという間に形を変え、見覚えのある姿になった。

「お袋、親父……。愛菜……」
 在りし日の姿で現れた三人。微笑むその姿に思わず目頭が熱くなる。涙をこぼすまいとまぶたを押さえたらさっそく母にツッコまれる。

『なによぉ、悠斗。会いたかったんじゃないの? せっかく会いにきたんだから、ちゃんと笑ってくれなくちゃ。ねぇ、お父さん?』

『そうだよ。こっちはこっちで楽しくやってるから、悠斗も現世で楽しくやればいい。人の心配なんてしなくていいんだよ。悠斗が一番したいことをするのが一番幸せなんだから』

 まるで、最近あれこれ悩んでいるおれの内心を知っているかのような口ぶりだった。魂の状態になると、生きている人間の心にも簡単に触れられるのかもしれない。

 なぜおれを置いて先に逝ってしまったのか。みんな、別れが突然すぎやしないか……。言いたいことは色々あった。が、魂の姿の亡き家族にそんなことを言うのは無意味だと気づいて言葉を飲み込む。

 黙していると、愛菜が飛び跳ねるようにしておれの眼前に顔を寄せてきた。そして満面の笑みを浮かべて言う。

『聞いて、聞いて! おとーさんが前を向いて生きているおかげで、愛菜はもうすぐ生まれ変われそうなんだ。それを伝えたくて』

「えっ、生まれ変わる……?」
 愛菜の言葉に思わず身を乗り出す。愛菜は続ける。

『おとーさんと再会できるかもしれないってこと。ずっと神様にお願いしてたら、生まれ変われる順番が回ってきたんだー』

「そうか……。また、愛菜に会えるのか……」

『生まれ変わるとき、今の記憶はなくなっちゃうんだけどね……』

「えっ……。もし生まれ変わっちゃったら、こうして話すことは出来なくなるってことか?」

『うん……。だけど、新しい思い出は作れるよ!』

「新しい思い出、か……」

『前を向いて生きているおとーさんなら、愛菜と話せなくなっても大丈夫だよね? 新しい愛菜ともうまくやっていけるよね?』

「……ああ、そうだな」

 口ではそう言ったものの、まだしっくり来ていない自分がいた。生まれ変わるということは、赤子の状態でこの世に生を受けるという意味だろうか……。それはつまり……。

「愛菜は……おれの子どもとして生まれ変わろうとしているのか……? それを望んでいるのか……?」

 どうしても聞いておかねばならなかった。それが愛菜の望みなのかどうかを。答え次第では重大な決断を下さなければならなくなるからだ。

 ぼんやりとしか見えないが、それでも愛菜がおれを凝視しているのが分かった。愛菜ははっきりとした口調で言う。

『それは愛菜が決めることじゃない。生きているおとーさんが決めること』

 ハッとする。いつの間にか決断することを放棄していたと気づかされる。愛菜がおれの子どもとして生まれ変わりたいと言ってくれたらそれに従って行動すればいい、と……。

「そうだよな……。お父さんが自分で決めなきゃいけないよな……」

『そうそう。愛菜は、おとーさんが幸せならそれでいいんだから。おとーさんが、一番幸せになれる人生を選んで、ね?』

「ああ、分かった。お父さんはこれからも幸せに生きるよ。それだけは約束する」

『きっとだよ? ……また会おうね! あっちの家で待ってるから!』

 愛菜はそう言うと、両親の手を取った。そしてまたオレンジ色の光に戻ってふわふわと漂い始めたかと思うと、遠くの空に消えていった。

「……家族との対面を果たしたようですな」
 オジイの声が耳に入り、現実に引き戻される。他のオレンジ色の光ももう見えなくなっていた。

「……死んだ家族に改めて教えられました。自分の人生は自分で決めるのだ、と。ずっと迷いがあってこの地にやってきましたが、やっと決断できそうです」

「うむ。それはよかった。どんな人生でも、生きている限り決断の連続です。そして選んだ道が最善です。だから、どんな決断を下しても自分の決めたことに誇りを持っていいとわんは思いますよ」

「はい」

沖縄ウチナーにはいつまで?」

「三、四日はいるつもりです」

「なら、その間はまたオジイの話し相手になってくれますかな? あなたとは気が合いそうですから」

 どうやらオジイに気に入られてしまったらしい。泊まる宿は特に決めておらず、当日に決めるつもりで考えていたから、オジイの民宿に連泊するのは何の問題もない。

「わかりました。じゃあ、沖縄滞在中はここに泊めてもらうことにします。ぜひオジイの昔話を聞かせてください」

 おれが興味を示すとオジイはくしゃくしゃの顔に更にシワを作って笑った。

<翼> 
 三(改変あり)


 野球自体が嫌いなわけじゃない。野球と聞くと、強制された思い出がよみがえるから嫌なのだ。無論、子どもの頃のことだし、今となってはどうでもいいことのはずだが、野球と嫌な思いはいつだってくっ付いている。だから、今回の帰省では連絡をするかどうか、かなり迷った。が、結局何も告げないまま戻ってきてしまった。事前に言えば門前払いされるに違いないと思ったからだ。

 日曜の朝だというのに、父は玄関脇の庭で素振りをしていた。

(やっぱり野球、か……)

 一瞬、ここを追い出されたときの恐怖がよみがえった。が、直後に「これだ!」とひらめく。父と会話するにはこれしかない。ちょうど足元に転がっていたボールを手に取る。

(そうだ。いつまでも逃げてはいけない。俺は今回、父さんと和解するために帰ってきたんじゃないのか……?)

 近づくと、父は俺の存在に気づいて素振りをやめた。そして大股でこちらにやってくる。
「……何しに帰ってきた? 一年半、一度も顔を出さなかったお前の居場所がここにあるとでも思っているのか?」

 想定どおりの反応。しかし俺は手に持ったボールを顔の前に上げてみせた。
「……話がある。キャッチボールしながらだったら、できる?」

「お前がおれとキャッチボール……?」
 父はしばし考え込んだ。そして一旦部屋に引っ込むと、グローブを二つ持ってきた。

「翼はこれを使え。……ここじゃ狭いな。公園に行こう」

 まるで、小学生相手に言っているような台詞だった。でも、これでいい。いまの俺はまさしく「幼い子ども」なのだから。

 幸い、公園には誰もいなかった。互いに距離を取る。父はグローブを構え、いつでも受けるぞという姿勢を見せた。

 俺はためらった。正直、キャッチボールなんて二十年ぶりだ。父のもとまで届かない可能性だってある。そうなれば確実に笑われるだろう。それが怖いのだ。

「どうした? 話したいことがあるなら投げてこいよ。言葉っていうボールを!」

 言われてハッとする。父は、俺の手の内にあるボールが自分のところまで届かないことくらい百も承知なのだ。それでいて、キャッチボールの誘いに乗ったのだ。

(思ったとおり。やっぱり野球馬鹿だな、父さんは)

 ちょっと気が楽になる。その、肩の力が抜けた状態で俺なりのボールを投げる。そして言葉を発する。

「父さんになんと言われようとも、俺はめぐちゃんを愛し続ける。そしていつか家庭を築く!」
 ボールは父の前でワンバウンドしたが、ちゃんとグローブに収まった。

「構えろ!」

 声と同時に、目にも留まらぬ速さでボールが飛んでくる。顔の前でバシッと音がしてグローブに収まったが、手のひらがじんじんするほど痛い。

「……ちゃんと取れるじゃん」
 父は笑った。これでも手加減しているに違いないが、父のボールをキャッチできたことが素直に嬉しかった。

 そこから何球か、キャッチボールが続く。五回くらい往復したところで父から「言葉のボール」が届く。

「……お前は昔から何を考えてるかわからないやつだけど、それでもめぐちゃんは一緒にいたがってるのか? そんなお前に理解があるのか?」

「……そうだよ」

「……あの子は鈴宮くんのことも好きなんだろう? 実際のところ、どうなんだ? お前は選んでもらえそうなのかよ?」

「めぐちゃんは俺たち二人を優劣つけずに愛してくれている。どちらかを選ぶんじゃなくて、どちらも選ぶ。それがめぐちゃんの出した答えだ」

「……いかにも高校生らしい発想だな。だけどもし、めぐちゃんの気が変わってお前が見捨てられたら? その時お前はどうするつもりだ?」

「……それでも、愛し続ける。俺の元に返ってきてくれるまでアピールし続ける。最後の最後まで諦めない。絶対に」

 父は黙り込み、投げる手を止めた。
「……それが聞きたかったんだよ。お前の、めぐちゃんへの本気の想いが」
 思い詰めた様子でボールを見つめ、何度かうなずいた。そして静かに語る。

「すまなかった。バットを振り上げて追い出したりして。おれにはああすることしか……。野球を通してしか会話ができないおれを許してくれ」

 そんなことだろうとは思っていた。口を開けば野球の話ばかり。それについていけない俺と話が噛み合うわけがなかった。父は続ける。

「お前が野球に興味がないと知ったときは正直、残念な気持ちっていうか、落ち込んだ。彰博たちの家で楽しそうにしている姿を見たときもな……。だけど、心が離れてると感じながらも接し方は分からずじまい。
 そうこうしてる間に大人になっちゃって、ますます話しづらくなってるところでめぐちゃんと結婚したいだの、彰博の家で生活を始めるだのって聞かされて、どうしても込み上げる怒りを抑えることが出来なかったんだ。……でもあれは、今思い返せばおれ自身への怒りだった。お前と、面と向かって話すことが出来なかったおれに対しての」

 初めて聞く、父の想い。戸惑い。そして不器用な性格であることを改めて知る。父は俺のそばまで来ると肩に手をおいて微笑んだ。

「……あっちの家に行ってたせいかな。いい顔してるよ、翼は」

「えっ」

「大事にされてるんだな、きっと。なんていうか……満たされてるって顔してる」

「ああ。俺はいま、最高に幸せだ。あの家で、めぐちゃんや悠斗、アキ兄やエリ姉と一緒に暮らせて、馬鹿やって、笑い合って、毎日が最高に楽しいよ」

「……フッ。そんな顔は初めて見たよ。お前が幸せなら何も言うことはない。……気を遣わせたな。出来もしないキャッチボールをさせて悪かった」

 謝る父に首をふる。そしてようやく俺も自分の想いを伝える。

「……俺だって、父さんとの距離感が分からなくて悩んでた。野球以外に何を話せばいいか分からなかったのは俺も一緒。演劇を始めてからはあえて『息子』の役を演じてみたこともあったけど、それでもうまくいかなかった。だけど本当はずっと話したかった。ずっと舞が羨ましかった……」

「やっぱりそうか……。寂しい思いをさせたな。本当に申し訳なかった……」

「だけどもう大丈夫。こんな俺を鈴宮悠斗が救ってくれた。あいつは俺の、もう一人の父親みたいな人。ライバルであり、親友であり、家族の一員。あいつのそばで、俺の心はすっかり癒やされた。だから、何も心配しなくていい。……あー、その鈴宮悠斗の提案で俺たち、訳あって一週間ほど離れて暮らすことになってさ。それで今日は帰ってきたんだ。ちょっとだけまた厄介になるけど、構わないかな」

「当たり前じゃないか。ここは翼の家でもあるんだから、いつでも帰ってきていいんだよ。こんな親父のいる家だけど、それでも良ければ」

 その言葉の裏には、自分がいるときに帰ってきてくれと言う意味が込められているように感じた。しかし野球の話題なしで、俺はまともに父と会話が出来るのだろうか。いや、俺だけが歩み寄ってもダメだ。ならば、と一つ提案する。

「なら……。父さんのそばに俺の居場所を作ってくれる……? 俺のことに少しでも興味を持ってくれる……?」

 父は少し間を開けてから、
「……了解。居場所はちゃんと作るよ。そしてお前のことを知る努力をする。時間はかかっちまうかもしれないけど、必ずそうする」

「うん、それじゃ、よろしく」

「……そうだ。家に戻ってギターの弾き語りをしてくれよ。お前の歌声がないと家の中が静かすぎてなぁ……」

 ギターと聞いて、実家に置きっぱなしだったことを思い出す。あっちの野上家にはエリ姉のピアノがあるからすっかり忘れていた。

「まぁ、歌えって言うなら歌うけど。何を歌うよ?」

「お前に任せるよ。得意なやつでいい。お前の、本気の弾き語りを聴きたいんだ」
 父らしい、情熱的な表現を聞いて、相変わらずだなぁと思う。

「オーケー。そんじゃ、本気の弾き語りを聴いてもらおうか」

 父が野球に本気で打ち込んできたように、俺だって幼い頃から音楽を学んできたんだ。それを活かして今の仕事してんだ。それを知ってもらおうじゃないか。

 早速実家に戻ってギターを手に取る。何を歌おうか色々考えたけど、やっぱりレイカの『ファミリー』にしようと決める。

 レイカは地元出身の歌手。デビューはずいぶん前だけど、今でも地元中心に活動し、歌声を披露し続けている。中でも『ファミリー』は彼女の持ち歌で、俺も幼少期からよく耳にしてきた。楽譜はないけど、父親の前で歌うならこれしかない……。

 母もそばにやってきた。寄り添う二人の姿がなぜか、いつもより若く見えるのは気のせいだろうか。

「そんじゃ、野上翼のギター弾き語りショー、お楽しみください」
 ちょっと格好をつけてみる。二人の拍手が鳴り止んだところで弾き語る。

夢中でボールを追いかける 
その背中は小さく
ころんでばかり いつでも傷だらけ
守れる強さがほしかった
だけど 会えばけんかになって
互いに 意地っ張りでね

「君が好き」素直な気持ち
伝えられないまま 流れゆく時間とき
忘れないで ずっと
ともに過ごした日々を 家族の愛を

   ♯

夢中でボールを追いかける 
その背中は大きく
いつの間にか 私を追い越した
重なる 君の父の姿
似てる けれども同じじゃない
君は 大人になったんだ

「ごめんね」と「ありがとう」を言うよ
ごまかしてた気持ち 立ち止まって今
忘れないよ ずっと
ともに過ごした日々は いつまでも鮮やかに

愛をくれた人は いつでも心の中
君は生きていいんだよ 今を

   ♯

「君が好き」素直な気持ち
今なら伝えられるかな あふれる想い
歌に乗せて そっと
共に生きよう これからずっと……

 舞が不在の今、俺は両親を独占している。六歳までの、俺が世界の中心だった頃に戻ったみたいだ。両親の注目を浴び、幸福感を抱きながら歌声を響かせる。そうするうち、幼い頃に傷ついた心が少しずつ癒えていく。

 俺の中で、しくしくと涙を流す幼い人格に語る。

(今、はっきりと分かった。俺たち、、、はいつだって見守られてたんだって。だけど、父さんが伝える言葉を知らなかった。それだけのことだったんだって……。)

 ――それが分かった翼は、これから父さんとうまくやっていけそう……?

(たぶん、大丈夫。支えてくれる家族もいるし。だからお前は安心して俺の中で眠るといい)

 ――分かった。……だけど、時々は演じてよね? 忘れ去らないでよね?

(もちろん。俺は生涯現役の役者でいるつもりだよ)

 そういうと、幼い人格は安心したように俺の一部になった。直後、急に自信がみなぎってくる。おれはギターをかき鳴らして言う。

「今日は、二人のためにとことん歌うぜ!」
 両親は微笑むと、大きな拍手をしたのだった。

◇◇◇

 実家に戻って四日が経った。悠斗が予定していた自分探しの旅はもうすぐ終わるはずだが、朝の天気予報を見て心配になる。台風が沖縄を直撃すると報じられていたからだ。この様子では飛行機は飛ばないだろう。

 早く帰ってきて欲しいと願う一方で、「三人のこれから」について明確な答えを出せていない俺は、このままでは合わせる顔がないとも思っている。「策なし・答えなし」ではダメなのだ。三人の付き合いをやめるか、続けるか。続けるならそのための策は……? どんな形であっても、悠斗が戻る前に俺なりの「解」は見つけておかなければならない。

 昼休みにスマホをチェックすると案の定、悠斗から「飛行機が飛ばないからもう一泊する」と連絡が入っていた。

(やっぱり……)

 メールを見たついでに台風情報もみてみると、沖縄に上陸予定の他にもう一つ、新たに発生した台風の情報が追加されていた。しかもこっちは「前線を刺激しながら関東に上陸する恐れあり」と書いてある。その影響か、しばらく晴れだった予報も雨に変わっていた。それを見た俺の心にも雲が広がり、憂鬱になる。

 今日発生した台風は、急激に速度を上げながら関東に接近しているらしい。その証拠に、日中はいい天気だったのに、午後から雲が広がってきて今にも雨が降りそうな空になっている。ニュースによれば、ゲリラ豪雨の懸念もあるという。

 それを知った園長は、夏休み中の預かり保育の子どもが全員帰宅し次第、職員もすぐに退勤するよう指示したのだった。

 午後五時。帰宅しても両親の姿はなかった。どうやら仕事を早く切り上げたのは俺だけのようだ。音のない部屋に一人きりでいると息が詰まるから、真っ先にテレビをつける。しかしそのテレビも夕方のニュースばかりで面白くない。

「ああ、こんな時、めぐちゃんがいてくれたらなぁ……」

 普段、いかにめぐちゃんのおしゃべりが場を賑わせているかを痛感する。もちろん「寂しいから会いたい」と電話をかけることもできるだろうが、そんなことをすれば悠斗を裏切ることになる。ほんの数日我慢すればもとの生活に戻れるところを、一時の気の迷いのせいで台無しにしてしまっては元も子もない。

 結局、テレビは消した。その代わり、うろうろしながら寂しさを紛らわせるように「一人芝居」を始める。役者は俺Aと、ツッコミ役の俺B。最初の台詞は俺Aからだ。

「しっかし、何で俺はこんなにも遠慮してるんだぁ? めぐちゃんが好きなら悠斗のことなんて気にしないで愛し合っちゃえばいいじゃん? そう思わないか?

 ……馬鹿いえよ。今の翼がいるのは悠斗のおかげだろ? 悠斗に恩義を感じてないのか? よくもそんなことが言えるな?

 ……そりゃあ感謝してるさ。だからこそ、決断できずにいるんじゃないか。くっそぉ、悠斗があんなにいいやつじゃなけりゃ、とっくに決着はついていただろうに。

 ……悠斗のせいにするのかよ。単純に嫌われる勇気がないだけだろう?

 ……ああ、そうさ。俺は悠斗に嫌われたくない。めぐちゃんを愛する一方で悠斗のことも好きだからさ。失いたくないんだ。

 ……なら覚悟を決めるしかないな。友情を取るならめぐちゃんを諦めるってな。

 ……いやいや! それはない!

 ……じゃあ、悠斗を裏切るのか?

 ……んー、それもない!

 ……おいおい、それじゃ全然前に進まねぇじゃん! はっきりしろよ、翼!」

 一人芝居をしてみても、俺たちの関係改善のための妙案は残念ながらすぐには出てこない。

 椅子に腰掛ける。悠斗から追加の連絡はないだろうかとスマホをチェックしようとしたとき、壁紙にしている、三人で撮った写真に目が留まった。

(悠斗は沖縄でちゃんと自分探しが出来たんだろうか。めぐちゃんは実家でアキ兄たちと家族団らんを楽しんでいる頃だろうか……)

 唐突に、アルバムが見たくなる。おもむろに立ち上がり、自室から取ってくる。

 そのアルバムは俺が小学生から中学生ごろまでの写真が収めてあるものだ。学友と写る写真が続いたかと思うと突然、ぎこちない様子で赤ちゃんを抱く俺と、まだ幼かった妹の三人が写った写真が出てくる。これが、めぐちゃんとの初めての出会い。これぞ本物の記念写真だ。

 その後は定期的にめぐちゃんが登場する。俺もめぐちゃんも笑顔。時には俺がカメラマンになってめぐちゃんを被写体にした写真も。

(あの時はまるで俺自身が父親になったみたいな気持ちだったな……)
 それはアキ兄も同じで、一緒になってめぐちゃんにカメラを向けてはデレデレしていたっけ。

 調子よくアルバムを繰っていると、一枚だけ俺が野球のユニフォームを着ている写真が見つかった。すぐに飛ばしたが、一瞬にして嫌な思い出がよみがえる。

 その年は世界大会のせいで野球がちょっとしたブームになり、中一だった俺は学友(という名のいじめっ子)の誘いを拒めないまま野球部に所属したのだった。当然、嫌いな野球にのめり込めるはずもなく、一学期で退部。そのあとは精神的に不安定になったこともあって放課後は良くアキ兄の家に出入りしていた。めぐちゃんとの遊びを通じて「保育の仕事がしたい」と思うようになったのはこの時期だ。

 アキ兄やエリ姉が、俺とめぐちゃんを写した写真が何枚も続く。公園で遊んでいるとよく兄妹きょうだいに間違われたっけ。「翼くん」がなかなか言えなくて長らく「つっくん」と呼ばれていたのが懐かしい。

 俺が高校で演劇に打ち込むようになり、まためぐちゃんも小学生に上がると遊ぶ機会はぐっと減った。それでも、会えば必ず俺にすり寄ってきて「今どんな役を演じているの?」とか「新しい曲、弾けるようになった?」とか尋ねてくれた。興味を持ってくれるのが嬉しかった俺は、適当な理由を見つけては頻繁に遊びに行ったものだ。

 悠斗の話をするようになったのもその頃。話しぶりからめぐちゃんが彼を好いているのは薄々感じていた。だから当時は話題にされるのが本当に嫌だったし、結婚話も猛反対したのだが、今ではその悠斗と一緒に暮らし、おそろいの指輪までしているんだから、人生分からないものだ。

 ゴロゴロ……。

 そのとき、外から轟音がした。雷……? 窓の外を見る。するとにわかに大粒の雨が降り出して辺りはあっという間にけぶり始めた。

「こりゃあ、早めに帰らせてもらってよかったな……」
 こんな雨の中をバイクで帰ろうものなら、途中で立ち往生していたかもしれない。園長の機転には感謝しなければ。

「えっ……」
 けぶる窓の外を見ていたら、何やら動く小さな影が見えて目を疑う。子ども……? 慌てて玄関から飛び出す。

 傘はあまり役に立たなかったが、とにかく子どもが心配で傘を差し出す。
「こんな雨の中にいたら危ないよ! おうちの人はどこ?」

「わーん! おとーさん! おとーさーん!」
 三歳くらいの男の子は泣きながら父親を呼び続けている。

「とにかく、こっちへおいで。この雨の中でおうちの人を探すのは大変だ。雨がやむまで待とう」
 俺は男の子を悠斗の家に連れ帰った。

 玄関の中に引き入れてよく見てみると、数件隣の家に住む男の子だと分かった。職業柄、近隣に子どもがいるとつい目が行ってしまうので覚えていた。外から見た感じ、親は共働きっぽいけど、今日はどうしたのだろうか……。

 俺は玄関口に置きっぱなしの仕事かばんからエプロンを取り出して仕事モードになった。男の子はそれを見て表情を変える。

「実は俺、幼稚園の先生なんだ。つばさっぴって呼んで。お名前教えてくれる?」

「……もとき」

「へぇ、もとき君っていうのか。おうちの人が帰ってくるまで、先生と一緒に遊ぼうよ」

「…………」
 誘ってみたが、男の子は人見知りなのか黙り込んでしまった。

(困ったな……)

 幼稚園は集団生活の場だから、教師は子ども同士の遊ぶ様子を見守っていれば大抵はうまくいく。しかし今は一対一。絵本もおもちゃもない状況では教師も無力だ。

(こんなとき、悠斗がいてくれたら……)

 仮にも彼には子育ての経験がある。かなり前のことだとしても子育て経験があると無しとじゃ大違いだ。俺にはこの状況を打開する策が思いつかない……。とりあえず、無言はキツいので話しかけてみる。

「……さっき、お父さんを呼んでいたよね? 雨が降るまでは、もとき君と一緒だったの?」

「…………」

「それじゃあお母さんは? お仕事かな?」
 俺の問いに、責められていると感じたのか、もとき君は再び泣き始めた。

「ああ、ごめんね。おうちの人がいなくなっちゃって、寂しいよね。どこに行っちゃったのかな? 戻ってくるまで先生が一緒にいてあげるから大丈夫だよ」

 抱き上げて背中をさすってやるが、泣き止むどころかより激しく泣き始めてしまう。
(くそっ……。俺は幼稚園の先生だぞ? 保育のプロだぞ?)

 しかし所詮、教師は親には勝てない。それは仕事をしていて常に感じることだ。親と保育者は違う。めぐちゃんが小さい頃、エリ姉も常々言っていたっけ。子育ても幼稚園で出来たらいいのにって。

 エリ姉は生まれつきの病気で赤ちゃんを産むことが出来ない身体だった。だけど子どもを育ててみたいと望み、めぐちゃんをもらい受けたと聞く。お腹を痛めていない人間の前にある日突然、赤ちゃんが現れる。それが自分の子どもであり、その瞬間から親として接していかなければならないというのは、一体どんな気持ちなのだろう。

 男親にも通ずる体験をしているエリ姉に、いつだったか尋ねたことがある。そのときエリ姉はこう答えた。

「不思議なもので、この子が私の子どもなんだと思った瞬間には、もう親なのよね。男の人だってきっとそうだと思う。生物にはちゃんと、子育て本能が備わってるんだなって思ったものよ」

「なんとしても守りたいって思えるもの? 血が繋がってなくても?」

「自分の助けがなければ生きていけない赤子が目の前にいれば、誰だってそう思うものよ。子どもにとってもそう。育ててくれる人が唯一無二の親。血の繋がりなんてこれっぽっちも関係ない。守り、守られる。親子ってそういうものだと思ってる。特に小さいうちは、ね」

 エリ姉の言葉を思い出したら、もとき君の両親に対する怒りの気持ちが湧いてきた。この子を置いて親は一体どこへ行ってしまったのか……。まだ親が近くにいないと不安がる年齢なのに。

 そんなことを考えている間にも雷鳴が何度となく辺りに響く。そのたびにもとき君は大声を上げ、親でもない俺の胸にすがりついてくる。

「大丈夫、大丈夫……」
 俺はそうやって声を掛け、背中をさすってやることしか出来ない。

(もし俺がこの子の親なら、なんて声を掛けるだろう……)
 想像してみたが思いつくことが出来ない。

 俺は高校で野球部主将だった父親に厳しく育てられた。こんなふうに泣こうものなら「泣くな!」と一喝されもした。

 父にとって年少の俺は部活で言うところの「後輩」みたいなものだったのだろうと、和解した今なら想像がつく。だけど親子は、先輩後輩の関係とは違う。だからといって甘やかしたり、共感だけしていればいいかと言えばそれも違う。

(親子ってのは難しいな……)

 それでも俺は、いつか父親になりたいと願っている。……俺ならうまくやれる自信があるからなのだろうか。それとも……。

 二十分程あやしていると、雨の音が弱まってきたのに気づいた。

「雨、止みそうだよ。外を見てみようか」
 抱き上げて一緒に窓際まで行く。そのときヘッドライトの明かりが見え、一台の車が家の前を通り過ぎていった。

「あ、おとうさんの車だ!」

 辺りはとっくに暗いというのに、もとき君は父親の車とすぐに気づき、俺の腕をすり抜けて玄関に走って行った。慌てて後に続き、靴を履かせるのを手伝って一緒に外に出る。

「もとき?! どうやって鍵を……。家にいなさいって言ったじゃないか!」

 車から降りてきた父親は、もとき君の姿を見るなり戸惑いの表情を見せた。助手席からは母親が降りてきてやはり驚いた顔をしている。

「おとうさんを追いかけようとしたんだ。だけど、すぐに見えなくなっちゃって……。そしたらつばさっぴセンセイが……おとうさんがもどるまで、いっしょにいようって」

 もとき君が後ろにいた俺を指さした。
「先生……?」

「あ、幼稚園の先生をしている近所の者です。たまたま外を見たら雨の中にいるもとき君に気がついたので、安全のため保護させていただきました」

「ああ、そうだったんですか……。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
 父親は深々と頭を下げた。

「雨が降るから迎えに来て欲しいと妻に頼まれて車を出したのですが、ほんの少しの時間だし、もときはDVDに夢中だったのでつい家に置いていってしまいました。まさか、鍵を開けて外に出て行くとは思いもせず……。今後はこのようなことはしないようにします。保護してくださって本当にありがとうございました。……ほら、もときも頭を下げなさい」

 父親はそう言って嫌がるもとき君の頭を押した。親の事情も分からないではないが、ここは保育者として一言いっておかねばなるまい。

「……子どもだから分からないだろうと思って置き去りにするなど、言語道断です。子どもは親の不在を肌で感じるものです。今回は俺が見つけたからよかったけど、次に同じようなことがあったら無事でいられる保証はありませんよ」

「はい……」
 しゅんとする父親の横で、母親も平謝りする。

「私が迎えを頼んだのがいけなかったんです。雨がやむまで駅で待つか、タクシーで帰れば済むことだったのに、在宅勤務の主人につい頼ってしまい……。すみませんでした……」

「謝って欲しいんじゃありません。……自分のお子さんのことをもっと大事にしてやって欲しい。それだけのことです」
 俺の言葉に二人はうなずき、何度も頭を下げた。

「つばさっぴセンセイ、ありがとう。こんどはあそぼうね」
 親と会えて安心したのか、もとき君がようやく俺に話しかけてくれた。心を開いてくれたならこっちのものだ。

「よかったな、お父さんとお母さんが帰ってきてくれて。うん、今度は何か、おもちゃを持っておいで。一緒に遊ぼうな」

「うん!」
 もとき君は嬉しそうに笑った。やっぱり子どもは笑っていた方がかわいい。

 もとき君親子と別れ、再び一人の家に戻る。どっと疲れを感じ、椅子にもたれかかる。こんなときこそ、俺の奮闘ぶりを聞いてくれる相手がいてくれたらと思うが、両親は未だ帰らず、部屋はしんと静まりかえっている。

(やっぱり、家の中は賑やかな方がいいな。三人暮らしも楽しいんだろうけど、子どもがいればもっと……)

 子育ては大変だし、想定外のことだってきっと起きるだろう。そのたびにヒヤヒヤしたり、怒ったり謝ったり……。だけど、それがあると分かっていても俺は子どもを……自分の子を育てたい。今日の出来事でその気持ちが強くなった。そう。俺はようやく一つの解を導き出したのだ。

(二人にはちゃんと伝えよう。俺の想いを……。これは俺一人で実現できることじゃない)

 台風はじきに過ぎ去る。そうすれば悠斗が戻り、めぐちゃんとも会える。だけど次に三人が会うとき、俺たちの関係はきっと、変わる。俺は新しく始まるであろう日々に思いを馳せながら、最近撮ったスマホの写真に目を落とした。

<めぐ>
 四

「まさか、あの『野上センパイ』にこんなかわいい子どもがいたとはねぇ」

 面接を受けに行くなり、オーナーはわたしの顔をまじまじと見つめた。神社で会ったかおりさんにこの店を紹介してもらい「いざ面接!」と意気込んできたら、これである。

「あの……父と知り合いで?」

「知ってるもなにも……。野上センパイとは高校で同じ野球部だったんだよね。聞いてない? オレのこと」

 どうやら名字を聞いて、わたしを伯父の娘と勘違いしているらしかった。やんわり修正すると、オーナーは驚きながらも「だよねぇ、あの人の娘にしちゃ、おしとやかだと思った」と妙に納得した。

 オーナーはすぐに本題に入った。
「うちの店――『ワライバ』っていうんだけど――、いろいろ変わってるんだ。それでもやっていけそう?」

「変わってる……というのは?」

「一つは、双子の兄貴が哲学好きってこと。働いてもらうからには、兄貴の話し相手としてもふさわしくないと務まらないからさ」

「それなら大丈夫です。わたしの父も哲学的な話ばかりするので耐性はあります」

「マジ?! それだけで合格なんだけど! そんじゃ、さっそく明日から頼むわ!」

 ……そんな軽いノリで、わたしのアルバイト先はすんなり決まったのだった。

◇◇◇

 誰もが好きなときに立ち寄れて、好きなことができる、憩いの場を提供したい――。

 それがオーナーたちの想いだ。だからこの店には老若男女が集う。おしゃべりをする人もいれば、店内のテレビでスポーツ観戦だけをする人もいるし、もちろんご飯を食べに来る人、ただぼんやり座っているだけの人もいる。そんな彼らに共通しているのは「孤独を癒やしにきている」と言うこと。多くの人は理解者がいないと感じているか、一人暮らしをしていると聞く。

 そんな彼らのことをオーナーたちは親しみを込めて、名前かニックネームで呼ぶ。もちろん本人の許可を取った上ではあるが、呼ばれる側も客としてではなく、まるでここの「家族」であるかのようにくつろいでいるのが印象的である。ちなみにわたしは「めぐっち」。そしてわたしはオーナーたちを「理人りひとさん」「隼人はやとさん」と呼んですっかり心許している。

 料理の勉強がしたいとアルバイトを始めたわたしだが、ここでのメインの仕事は「くつろぎ空間を演出すること」。料理の注文が入ればオーナーが作ったそれをテーブルに運ぶし、愚痴をこぼしたい人がいれば聞きもするが、基本的にはわたしもここでのんびりと過ごしている格好だ。こんなことで仕事をしていると言えるのか……。二週間ほど働いてみて少し不安になりつつある。

◇◇◇

 そんな折に、悠くんの帰郷が延期になった。もう少しでまた会えると思っていただけに、先延ばしになったショックは大きかった。

(これも試練……。頑張れ、わたし……!)

 残りわずかとなった夏休みの名残惜しさと二人に会えない寂しさを紛らわせるためにも、わたしは今日も「ワライバ」で仕事をこなす。

 店でつけっぱなしになっているテレビのニュースが、何度となく台風情報を告げる。この辺りの上空にも厚い雲が広がり始め、今にも激しい雨が降り出しそうな様子だ。ニュースキャスターが「帰宅困難者を出さないためにも早めの帰宅を」と言う脇で、「こんなときこそ、この店が役に立つのさ」とにんまりしているのは、オーナーの理人さんだ。
 
「悪いんだけど、閉店時間までいてくれる? 今日は来客が多い予感」

「本当ですか……? 悪天候が予想されているのに……?」

「だからだよ。今に分かるさ」

「?」

 小首をかしげていると、隼人さんがため息をつく。
「めぐっち、理人の勘はどういうわけか当たるんだ。閉店したら家まで送るから、理人の戯言たわごとに付き合ってくれると有り難いな」

「……もちろん、わたしがお役に立てるなら。家に帰っても寂しいだけですし……。あっ……」

 自分で言って、理人さんの言葉の意味が分かってしまった。そうか、わたしみたいな人が「こんな日だから」やってくるのか……。わたしの反応を見た理人さんは「そういうこと」と嬉しそうに笑う。

 そのとき早速、一人のお客さんがやってきた。目が合い、互いに微笑む。
「いらっしゃいませ、かおりさん」

「パートナーは今、ウェブミーティング中で……。長くなりそうだから、遊びに来ちゃった」

 かおりさんはそう言って肩をすくめた。前回は一人でゆっくりしていたかおりさんだが、今日はしゃべりたい様子が伝わってくる。わたしはかおりさんの隣の椅子に腰掛け、話し相手を引き受ける。

「……彼、仕事熱心なのよね。最近は特にそう。部屋で二人きりの時間ができるとそわそわし出すというか……。もしかしたら、そろそろわたしと一緒にいるのが辛くなってきたのかなって勘ぐっちゃうわよね」

「それで今日はここへ来たんですね……。好きな人と一緒にいるのに辛い……。その気持ち、分かる気がします」

「……あなたには『恋愛以外に目を向けなさい』って言ったのにダメね、わたしがこんなことでは。わたしも新しいことに挑戦しなければ……」

「何か挑戦したいことがあるんですか?」

 かおりさんは答えなかった。こんなわたしでも、かおりさんの悩みに寄り添う発言が出来ればいいのに。残念ながら、うんと年上の女性に助言できるほどの人生経験がわたしにはない。

 沈黙の時が流れる。と、突然、テレビの音をかき消すほどの激しい雨が降ってきた。同時に、雨宿りをするかのように数人が店になだれ込む。彼らは貸し出したタオルで服のしずくを払いながら口々に「開いてる店があって良かった」と言って笑顔を見せる。

「ほぉらね」
 理人さんは、ほくそ笑んだ。

 一見いちげんさんたちは雨しのぎの間、飲み物や軽食を摂ってつかの間の休息を楽しんでいる。が、和やかな店内とは対照的に外は雷を伴う大雨。仕事をしなければと思う一方、外の様子が気になってつい、注意散漫になってしまう。

 窓の外を眺める。と、店の軒下で立ち尽くす人影を見つけた。雨宿り? なら、中に入ってもらおう。軒下にいても、この雨ではずぶ濡れに違いない。

「ちょっとだけ店の外を見てきます!」
 オーナーの返事も待たずに飛び出したわたしは、わずかに開けたドアの隙間からすっと外に身体を出した。

 軒下にいたのは、わたしと同じくらいの年齢の女の子。が、そのお腹はふっくらしている。もしかして、赤ちゃんが……? わたしはすぐに声を掛けた。

「雨宿りなら、中に入ってください。ゆっくり出来ますよ。大丈夫、何も注文しなくてもOKなお店ですから」

「…………」

「とにかく、入りましょ!」
 なかなか動かないので腕を引っ張り、無理やり店内に連れ込む。

「めぐっち?!」

 びしょびしょのわたしたちが入ってくるのを見た理人さんたちは目を丸くした。すぐに店の奥からタオルを出してきてくれる。それを使って全身を拭くが、わたしはともかく彼女の服はびしょびしょで、着替えが必要なほど濡れていた。けれども、さすがに替えの服の用意はない。

「あの、よかったらこれ……」

 防寒になればと、冷房対策で持ってきていたブランケットを差し出す。少し震えていた彼女は小さな声で「ありがとう」というとすぐにそれを肩から羽織った。そして大きなお腹の上に手を置いた。わたしの目は自然とそこに向く。

「赤ちゃん……。もうすぐ生まれるの……?」

「……うん。でも、じきに赤ちゃんと対面するんだ、と思ったら急に怖くなっちゃって。ここまで来たら引き返せないって言うのに、毎日毎日、不安でたまらないの」

「オーマイゴッド! 今日は珍客が来る予感がしてたけど、まさか出産直前の女の子が来るなんて!」
 彼女の言葉を聞いた理人さんが天を仰いだ。

「理人! 店に来た人に対してそういう発言は控えろっていつも言ってるだろ!」

「おっと、つい本音が……。あー、気を悪くしないでよ? ここは悩みを抱えた人こそ歓迎する店だから。ほんとだぜ?」

「……お前が言っても説得力ないって」
 オーナー兄弟の掛け合いを聞いても、女の子は無表情のまま下を向いている。

(わたしが役に立てるとしたら、きっと今だ……!)

 かおりさんの相談には乗れなくても、同年代の女の子の話し相手なら務まるはず……! そう直感したわたしはまず自分の名前を告げる。

「わたしはめぐ。高校三年生でこの店のアルバイトをしてるの。もしよかったら、話を聞くわ。名前を教えてくれる?」

「高三……? なら、あたしと一つしか変わらないね」
 女の子はそう言ってわたしの顔を見る。
「あたし、クミって言うの。……ここ、何のお店かずっと謎で入りにくかったんだけど、お悩み相談室なの?」

「誰もが好きなときに立ち寄れて、好きなことができる、憩いの場。それがここ、ワライバよ」

「そう……。誰もがってことなら、あたしみたいな人間も立ち寄っていいってことね」

「もちろん」
 自信を持って答えると、クミさんはようやく笑顔を見せた。そこへ隼人さんがさりげなくホットミルクを差し出す。

「雨に濡れた身体が冷えては毒です。温かいものを飲んでください」
 隼人さんの優しさに触れたからだろうか。クミさんはマグカップを受け取るなり目に涙を浮かべた。

 詳しい話を聞くと、クミさんは高校時代の同級生との間に子どもを授かり卒業後に結婚。しかし友人たちが大学生活を謳歌している話を聞いたり、高卒で働いている夫が疲れて帰ってくるのを見たりする中で、次第に妊娠している自分を否定するようになったという。しかしお腹の子どもはすくすくと育っていき、気づけば臨月。このまま産んでいいものか。産んでもちゃんとやっていけるかどうか毎日、自問自答していると、彼女は語った。

 他人事とは思えなかった。もし悠くんと翼くんが自制心を欠いていたら、わたしも今ごろクミさんと同じ運命をたどっていたに違いないと思うと、身につまされる。

 確かに、年齢だけ見ればわたしも立派な大人だ。けれどもやっぱり高校生である以上、経験不足だし、未熟なまま親になっても教えられることはきっと、少ない。たとえわたしの愛する二人が子どもの世話に慣れていたとしても、だ。

 一通り話し終えたクミさんは、マグカップに残っていたミルクを飲み干して言う。

「……愛する人と結婚すれば幸せになれると思ってた。お腹が大きくなる様子を語り合いながら生まれる日を待つ。そういう日々が幸せなんだと……。なのに、どうしてあたしはこんなにも毎日不安なんだろう? 幸せのはずの自分が嫌いなんだろう? こんな気持ちになるくらいなら、赤ちゃんが欲しいなんて望むんじゃなかった。そんなふうにさえ思ってる。……そうは言っても、もうすぐ生まれちゃうんだけどね」

 わたしにはクミさんに共感しようと頷きかけた。が、それより早く発言したのはかおりさんだ。

「ふざけないで……! どんなに願ってもパートナーとの子どもが望めない人間もいるというのに……! あなたは盲目よ。そして世間知らずよ。あなたは自分だけが苦しいと思っているかもしれないけれど、周りをよく見てご覧なさい。ここに集う人々を見てご覧なさい。いかにあなたが恵まれているかが分かるはずだわ!」

 いきなり、かおりさんから責められる格好になったクミさんは動揺して縮こまった。が、なんとか声を発する。

「……ここにはどんな人が集まっていると言うんです? どうしてそんなにあたしを責めるんです? それほどまでにあたしのことが……羨ましいんですか?」

「……そうよ。あなたのお腹には愛する人との子どもがいるんでしょう? それを幸せと言わずして何というの? ……もし、あなたが母親になる自信がないというなら、その子をわたしにちょうだい。わたしが、育てる」

「えっ……。あなたは一体……?」
 戸惑うクミさんに、かおりさんは毅然とした態度で言う。

「わたしのパートナーは同性愛者。子どもが欲しいと願ったこともあったけれど、彼は決して首を縦には振らなかった。それでも愛し続けてきた……。そういう、一途な女よ。ここにいる、めぐさんだって深い悩みを抱えている一人。そうでしょう?」

 話を振られたわたしは、しどろもどろしながらも自分の境遇を話す。

「……わたしは、二人の男性に愛されているがゆえの悩みを持ってる。実は彼氏同士が固い友情を築いているために互いに遠慮し合っちゃってね。本当はわたしと大人の関係を築きたいとそれぞれが願っているにもかかわらず、進展を望めば関係が壊れてしまう……。何よりもそれを恐れているのよ。そんな優しい心を持つ彼らのことが大好きなわたしも、どちらか一人に決められずに悩んでるってわけ」

「オレたちだって、この年まで独り身なのには訳があるんだぜ? 聞きたい?」

「理人、その話はやめておけ……」

 女たちの話に便乗して、おしゃべり好きの理人さんが口を開きかけたが、そこは双子の兄である隼人さんがぴしゃりと制した。クミさんはふっと息を吐く。

「……あたしは好きになった人とあっさりゴールインしちゃったから、恋愛で苦しむ人の気持ちが分からなかったんだけど、二人の話を聞いて分かったよ。自分の感情を我慢してでも相手を思いやる。そういう愛し方もあるんだ、ってね。……やっぱりあたしは自分勝手で世間知らずな女。そういうことなのかな……」

 クミさんの発言を受けて隼人さんが自慢の哲学を披露する。

「エーリッヒ・フロムはこう言っています。

ある婦人が花を愛していると口では言っても、その花に水をやるのを忘れているのを見たとするならば、我々は彼女が花を愛しているということを信じないであろう。愛とは、愛するものの生命と成長に積極的に関係することなのである、と……。

つまり、愛するということは、互いを尊敬し、関心を持って観察し、成長していく努力をし続けていくと言うことです」

 わたしには難しくて理解できなかったが、かおりさんは深くうなずいた。隼人さんは続ける。

「そして何よりも大事なのは自分を信じることです。すべてはそこから始まります。だからクミさんも、めぐっちも、かおりさんも、自分の愛を信じてください。愛する想いが、行動が、相手の中に愛を生じさせると信じてください」

「えっとぉ……。愛するってことは能動的な行為ですよね? 愛されるよりまず、愛するってこと?」
 わたしの問いに隼人さんはうなずく。

「そう。愛すると決断するんだ。感情からではなく、自分の意志で愛するとね。もし、感情で愛そうとするならば、二人が末永く愛し合うことは出来ないだろうとフロムは言っているよ」

「決断……」

 今のわたしに一番足りないもの。それがなければ真に愛し続けることは出来ないと言われて困惑する。そんなわたしの横で、今度はクミさんが疑問をぶつける。

「それは……子どもに対しても……?」

「もちろん、同じことですよ。生まれてくる子どもが一番求めているのは母親の愛情ですからね。母親の方から子を愛すると決断する。愛を与える。それによって子は安心して生きていけるのですから」

「……そうですよね。赤ちゃんは母親がいなければ生きていけない。……あたしが、ちゃんとしなきゃいけませんよね」

 うつむきっぱなしだったクミさんはいつの間にか顔を上げ、背筋を伸ばしていた。クミさんが明るい表情で言う。

「自分の気持ちを吐き出して、それに対して色々アドバイスを頂いたおかげで出産に前向きになれた気がします。特に……お姉さんの厳しい一言で『お腹の子はあたしが育てなきゃ』って気にさせられました。ありがとうございます。……また、遊びに来てもいいですか?」

「いつでもどうぞ」

「隼人のちんぷんかんぷんな話が聞きたけりゃあね」

「り・ひ・と……!」
 隼人さんが拳を振り上げると、理人さんは「ひぃっ……!」と言って店の隅っこに逃げた。が、その顔は笑っている。

「うちの店に来る人はみんな、悔しいけど隼人の話も楽しみにしてる。分かってることだろうが。冗談の通じない奴め」

「だったら、僕にも分かるような褒め言葉を使って欲しいもんだね」

「人前で兄貴を褒めるのは苦手でね……」
 理人さんはそう言って店の奥に引っ込んだ。

 そのとき、スマホの着信音が鳴った。クミさんが慌ててポケットに手を突っ込んで電話を受ける。

「もしもし?」

『おいっ、今、どこにいるんだよ? 部屋にも実家にもいないから心配で……。迎えに行くから居場所を教えてくれ』

 相手の声が受話器から漏れ聞こえた。旦那さんからのようだ。クミさんはワライバにいることを伝え電話を切った。

「……彼には悪いことしちゃったな」
 クミさんは肩をすくめ、ゆっくり椅子から立ち上がった。

「めぐさん。声を掛けてくれてありがとう。それからこのブランケットも。酷い雨に降られて最悪の日だと思ってたけど、今では雨が良い出会いをもたらしてくれたと感謝してる。 ……あれ? 雨、止んでる? なら、歩いて帰るって言えばよかったかな。実はすぐそばに住んでいるんだ」

 数分経って、傘を二本持った男性がやってきた。クミさんからここでの話を聞いた旦那さんは何度も頭を下げ、その後、彼女の肩を大事そうに抱いて帰って行った。雨宿りのため滞在していたお客さんたちも同じタイミングで帰路につく。

 店にはオーナー二人とわたし、そしてかおりさんだけになった。

 クミさんはもう産むことを迷ってはいないだろう。そしてきっと、旦那さんと生まれてくる子どもを愛し、これからの人生を歩んでいくのだろう。

 翻ってわたしは……? クミさんを見送ったあとで、がっくりとうなだれる。

 二人と愛し合いたいと願いながら、その結果として母親になる可能性があること、そしてそうなった時はちゃんと産む、という決心が出来ていなかったことを思い知らされたからだ。

 隼人さんも言っていた。感情から愛し合ってもその愛は永遠には続かないって。愛すると決断しなければならないんだ、って。

(もしかしたら、悠くんと翼くんは気づいていたのかもしれない。わたしにはまだ、母親になる覚悟が出来ていないって。その資格すらないって……)

 加えてわたしは「二人に愛される」ことを望んでいる。完全に受け身。真に愛し合うつもりがあるならやっぱり「どちらか一方を愛する」覚悟をしなきゃいけない。

(ママが苦しみながらも悠くんではなくパパを選んだように、わたしもどちらかを……)

 奇しくもママがその決断を下したのは十八の時。しかし今のわたしに、甘やかされて育ったわたしにそんな決断が出来るのだろうか……。

 悶々と悩んでいると、理人さんに声を掛けられる。

「さて、と。今日はそろそろ店じまいにするか。めぐっち、手伝ってくれる?」

「はい」
 そうだ、今はまだ仕事中。考えるのはあとにしよう。

 一旦外に出て、お店のドアに「CLOSED」の札を掛けようとした。と、一人の男性が店を目指して一目散に走ってくるではないか。

「待って! まだ閉めないでっ!」

 男性はわたしを押しのけるようにして駆け込んだ。常連のお客さんだろうか? 戸惑っていると、かおりさんが顔色を変えた。男性と見つめ合っている。

「純さん……」

「やっぱりここだったんだ……。何度電話しても繋がらないから、こっちから来ちゃったよ。会えて良かった……」
 二人の様子から、男性はかおりさんのパートナーだと推測する。

「やれやれ。閉店の時間だけど、ジュンジュンが来ちゃったんなら仕方がないな……。めぐっちはこれで上がっていいよ。隼人に送ってもらって。あとはこっちで引き受けるから」

 理人さんがわたしに帰宅を促した。隼人さんも車の準備をしようと動き出す。しかしわたしは、かおりさんたちのことが気になって仕方なかった。

「理人さん。わたし、もうちょっと残ります。……二人の話が聞きたいんです」

「めぐっち……。いくら知り合いだからって……」

「大丈夫よ、オーナー。聞かれて困るような話はしないから。その代わりこれ以上、人の出入りがないようにしていただけるかしら?」

「……かおりさんの許可が出たならオーケー。じゃあ、めぐっち。今度こそ『CLOSED』にして鍵を掛けておいて」

「はい」
 言われたとおりにすると、理人さんが店のテレビを消した。店内から突然音が消え、重苦しい空気になる。

「……どうしてここだと分かったの?」
 かおりさんの言葉をきっかけに二人の会話が始まった。

「長年の勘ってやつ? そうとしか言いようがない」

「車もないのに、どうやってここまで……?」

「どうって……そりゃあ電車で来たんだよ。ここを紹介したのはおれだしね。かおりさんに送ってもらわなくたって、ちゃんと来られるさ」
 純さんと呼ばれた男性は、半分笑ったような表情で言った。
「……ごめんね。かおりさんの気持ち、分かってあげられなくて」

「いいえ。純さんに無理を言っているのはわたしの方だもの。愛想を尽かされても当然だわ……」

「まさか! おれにはかおりさんが必要だって言うのに!」
 純さんは声を荒げ、かおりさんの手を取った。けれどもかおりさんは眉をひそめている。

「なら、どうして最近、素っ気ないの? 話しかけても上の空だし、仕事も忙しそうだし」

「……忙しくしていないと。トルテが死んでから、どうも気持ちが沈んじゃってダメなんだ。もちろん、トルテの子どもや孫たちはかわいいよ? だけど、トルテはおれたちの心を繋ぐ架け橋だったから。三十年も生きたこと自体ギネス記録級だし、奇跡だったと思うべきなんだろうけど、それでも……。わかるでしょ、かおりさんなら。トルテ以上の猫は……家族はいないってことくらい」

「ええ、もちろん。わたしだってトルテの死を未だ受け容れられていないわ。でもね……。トルテがいないからこそ寄り添いたい気持ちが強いのよ。なのに純さんの気持ちは他へ向いている。それがとても悲しい……」

「ごめん……。かおりさんとちゃんと向き合えなくて。仕事に打ち込むことでしか気を紛らわせることが出来ないおれを許して」

 再び謝った純さんは、悲しみをたたえた表情でかおりさんを抱きしめた。

「……トルテに教えられたよ。一緒にいることが当たり前になっていたけど、家族との暮らしは永遠じゃないんだってことを。いつか必ず別れの時が来るってことを。死の直後にはトルテを失った悲しみの感情しか湧いてこなくてうまく表現できなかったけど、たびたび『家出』されてようやく、かおりさんに対する気持ちを言語化できたんだ。やっぱりおれはこの先もかおりさんと一緒にいたいんだってね。だから、勝手にいなくならないで。せめて、いなくなる理由を聞かせて。お願いだ、おれを一人にしないでよ……」

 少しの沈黙の後でかおりさんが答える。

「……もちろんいるわ。あなたのそばに。でも、今までわたしたちを繋いでくれていたトルテがいなくなっちゃって、このあとどうなるのかな。ちゃんとうまくやっていけるのかな……?」

 不安そうなかおりさんの言葉を受けて、純さんが「そうだ!」と声を発する。

「旅行しようよ、京都に。おれたちが互いを深く知るきっかけになったあの場所へ」

「京都……」

「うん。原点回帰って言うか、初心を思い出すって言うか。日常に慣れきって忘れがちなことってあるじゃない? そんなときこそ思い出の地に足を向けるのもありなんじゃないかな」

 かおりさんは少し考えていたようだが、ようやく表情を和らげた。
「そうね。気晴らしという意味でも必要なことかもしれない。……また旅程を考えるわ。ふふ、想像しただけで楽しくなってきた」

「よかった、笑顔が見られて。……最近、全然笑ってなかったから心配してたんだ」

「それは純さんだって同じよ。……ねえ、純さん? この先もずっと家族でいてくれる? そしてわたしを笑顔にしてくれる?」

「笑わせるのは得意じゃないけど……。一緒に笑うことなら出来ると約束するよ。そうだな……。ここは一つ、オーナーたちに漫才でもやってもらう?」

 急に話を振られた理人さんは大げさに否定する。
「ちょっ……! 隼人と漫才が出来るわけないっしょ! っていうか、コンビ組むとしてもめぐっちの方が何百倍もマシだわー」

「めぐっち……?」

 理人さんに話を振られたわたしは自己紹介をする。

「少し前から働き始めた、アルバイトの野上めぐです。実はこのお店のことはかおりさんに紹介してもらったんですよ」

「えっ? かおりさんに?」

 不思議そうな顔をする純さんをみて、かおりさんが、わたしとの出会いからここを紹介するに至るまでのことなどを簡単に話す。

「そっか……。めぐさんも愛し合う難しさを痛感してるんだね……。それでおれたちの話が聞きたいって懇願したわけか」

「はい……。何か良い方法はないものでしょうか」

「残念ながら、こればっかりは精神的な話だから……」
 答えになりそうな話が聞けるかと期待しただけに落胆する。「でもね」と純さんは続ける。

「一つだけ言えるのは、相手を想いやる気持ちも大切だけど、それよりもまず自分の幸せを願っていいんだってこと。めぐさんが本当に望んでいることは何か、胸に手を当ててじっくり聞いてごらん。表面的なことじゃないよ? もっと深奥にあるもの。めぐさんの心の奥底にある想いを探ってごらん」

「心の奥底にある想い……ですか」

 純さんに言われるがまま、両手を胸に当てて目を閉じる。そしてじっくりと思いを巡らせる。そのうちに、一つの想いが浮かんできて胸が痛んだ。これが、本当の気持ち……?

「……わたし、どちらも同じくらい愛しているつもりでした。でも、よくよく心に聞いてみたら『好き』の意味がそれぞれに違うのかもしれないって……。今、そのことに気づいてしまいました……。ショックです……」

 うつむくわたしに純さんが優しい言葉をかけてくれる。

「その気づきを大切にして。そして腑に落ちるまで何度でも自分に問いただしてみて。すぐには無理かもしれない。でも、ちゃんと納得できるときが訪れる。最適なタイミングで」

「……はい。その言葉を胸に、今夜はもう少し自分と向き合ってみたいと思います。純さんって、知的なおじさまって感じで素敵。またお目にかかりたいです」

「うん。また遊びに来るよ」

 そう言って純さんは再びかおりさんの手を取り、帰って行った。

 かおりさんたちの話をじっくり聞いていたら帰るのが遅くなってしまった。けれど、両親には社会勉強をしていたと連絡済みだし、オーナーの一人、隼人さんが家の前まで送ってくれたのだから文句はあるまい。

 ようやく休めると思ったのもつかの間。リビングにはパパとママ、そしてなぜか伯父の姿があった。こんな時間に訪ねてくるなんて珍しい、と思ったが、よくよく話を聞いてみればパパではなく、わたしに会いにきたというではないか。

「いやぁ、めぐちゃんが大津兄弟の店で働き始めたって聞いたもんだから、どんな様子か知りたくなってさ。急だけど、寄り道させてもらったってわけ」

 伯父には「ワライバ」でアルバイトを始めたことは伝えていない。言うとしたらパパくらいのものだ。

「しゃべったの?」
 問いただすと、パパは困ったような顔をした。

「店の名前を言っただけだよ。パパだって、まさか兄貴の野球部時代の後輩が経営してる店とは知らなかった」

「おれの後輩は理人の方だけどな。店を開いたときに一度だけ顔を出したことがあるんだけど、まさかそこでめぐちゃんがアルバイトを始めるなんてびっくりだぜ。相変わらず、口は悪いんだろうなぁ。めぐちゃん、あいつの下でやっていけそう?」

「あはは……。ご心配なく。理人さんも隼人さんも気のいい人たちですし、やってくるお客さんもそれを知ってて訪ねてきてるので、わたしも居心地がよくって。……気になるなら、今度伯父さんも遊びに来て下さいよ。きっと大歓迎されますよ」

 わたしがそう言うと、伯父は「そうだなぁ」と呟いたきり黙り込んでしまった。

 「ワライバ」の話を聞きに来たわけじゃない、と直感する。それにこの程度の雑談なら、わざわざ仕事帰りに我が家に寄ってわたしの帰りを待ったりはしないはずだ。

 案の定、色々寄り道をしながらやっと切り出したのは、翼くんのことだった。

「翼のやつ、急に帰ってきたんだけど、喧嘩でもしたの? それとも、あいつが何かめぐちゃんの気に触るようなことをしちゃったのかな?」

 どうやら伯父は翼くんとわたしのことを心配してやってきたらしい。わたしは誤解のないよう、正直に告げる。

「……翼くんは何も悪くありません。わたしに、いろいろと覚悟が足りてなかったのが原因なんです。むしろ、わたしが翼くんを傷つけてしまった……。本当に申し訳ないと思っています。今回翼くんと離れたのは、お互いに冷静になって、自分を見つめる時間が必要だろうという悠くんの考えからです」

「なるほど……」
 伯父はほっと胸をなで下ろした。そしてこう続ける。

「めぐちゃん。翼は頼りないところもあるだろうけど、本当に心の優しい子なんだ。一度決めたことはやり通す男でもある。そこはぜひ評価してやってくれないかな」

 それは暗に「翼と結婚してくれないか」と言っているようなものだった。戸惑っていると、パパが横から助け船を出す。

「兄貴。二人の……いや、三人の問題に親が口出しするのはやめよう。みんな大人なんだ、それぞれの考えで動いているし、結論だって彼ら自身で出すはず。僕たちは見守ることしか出来ないよ」

「何だよ、息子の幸せを願ってなにが悪い? それとも何か? 翼が鈴宮君に劣るとでも?」

「そんなことは言ってない。親がなんと言おうと、最後に決めるのは当人たちだって言ってるんだ」

「なら、別におれが翼を推薦したって構わないだろう? 押しつけてるわけじゃないんだし」

「……これ以上、めぐを混乱させるのはやめてくれないかな。めぐは今、悩みを抱えてうちに戻ってきてるんだから」
 パパがわたしを擁護した。しかし伯父は引かない。

「翼もいい年だ。親としては、相手がいるならそろそろ身を固めて欲しいってだけの話だよ。それが従妹のめぐちゃんって言うのはすぐには受け容れがたいけど、あいつがそう決めたならおれは応援するまでだ」

「めぐが高校生だってことを忘れないように」

「高校生だろうが、大人であることには違いないだろう? おれだって結婚は早かったけど後悔はしてない。何ごともタイミングってのはある」

「兄貴は今がそのときだって言いたいわけ? そんなのは親のエゴだ」

「んだとぉ? お前だって鈴宮君とめぐちゃんを結婚させようとしてるじゃないか。自分のことは棚に上げて、よくもそんなことが言えるな!」

「ちょっとお義兄さん、落ち着いて! 子どもの前で喧嘩はよしてください!」

 ママが仲裁に入った。それでも、一度言い出したら止まらないのが伯父だ。なおも続けて言う。

「めぐちゃん。翼は君を一途に想っている。愛を貫こうとしている。めぐちゃんも翼を愛してるというのなら、あいつの気持ちを受け止めてやってくれないか」

「どうして伯父さんがそこまで……?」

「……これ」
 伯父はそう言うと、かばんの中から何かを取り出し、テーブルの上に広げた。

「……家の中を整理してたら見つかったんだ。こんなものを見ちゃったら、黙ってられなくてな。まぁ、読んでやってくれよ」

 伯父が持ってきたもの。それは「めぐちゃんへ」と書かれた大量の手紙だった。

「……読んでも……いいんでしょうか?」

「翼からめぐちゃんに宛てたラブレターだ。渡すつもりがなかったのだとしても、ここにはきっと翼の想いが詰まってるはず。……もし、読んだことをとがめられたら、そのときはおれが謝るから。じゃ、頼むよ」

 そう言って伯父は椅子から立ち上がり、支度を済ませるとあっという間に帰って行った。

「やれやれ……。兄貴の強引さにはついて行けないよ」
 伯父を見送ったパパはため息をついた。

「めぐ。兄貴は読んでくれって言ってたけど、読むかどうかはめぐ次第だ。分かってるね?」

「うん……」

 しかし、わたしの心はすでに決まっていた。温かみのある翼くんの文字がテーブルいっぱいに散らばっているというのに、どうしてこれを読まずにいられるだろうか。

 わたしは手紙をかき集め、自室に持っていった。そしてその中から一つ選び、封を開ける。

『めぐちゃんへ――

 ああ、めぐちゃん
 君は俺の太陽だ
 太陽がなければ生きられないように、
 君がいなければ俺は生きていくことができない

 君の声はまるで鳥のさえずりのよう
 ああ、いつか君の声で目覚めることが出来たなら……

 愛し君よ
 君のさえずりに
 俺も歌で応えよう
 新しい曲を携えて

 君が笑えば俺も笑う
 君は俺の世界、いや宇宙だ
 
 どうしようもなく愛してる
 俺の想いをどうか、受け取って下さい

 翼』

 その言い回しに、思わず笑ってしまう。他の手紙も同様に、どれも翼くんらしい表現でわたしへの思いが綴られており、次第に心が満たされていく。

 読んで行くにつれ、彼と過ごした楽しい日々や思い出もよみがえってきた。遊園地や動物園に連れて行ってもらったこと。教科書に載っているお話を、一人で演じ分けて朗々と読んでくれたこと。わたしも役者になりきって一緒に演劇の練習をしたこと……。

 わたしにとって翼くんは兄であり、憧れの人であり、一緒にいるだけで楽しい気持ちにしてくれる人だった。特に演劇部に入ってからの翼くんは「かっこいい」としかいいようがなく、当時小学生だったわたしは彼が遊びに来るのを心待ちにしていたものだ。

 それから数年。気づけば翼くんのことが好きになっていた。ただ、中学生の「好き」が大人の翼くんの「愛してる」と同レベルであるはずもなく、このときはまだ彼の想いに気づくことが出来なかった。彼の本気度を知ったのは言わずもがな、彼が悠くんと恋敵になったあとである。

 憧れから生じる「好き」が「愛」に変化したのもこのとき。

 彼は一歩も引かなかった。むしろ、悠くんというライバルの登場後はより積極的にわたしを愛そうとしてくれた。伯父の言うとおり、一途に、わたしだけを……。

 その瞬間、はっきりと分かった。わたしが心から恋い慕っているのがどちらなのか……。

 迷いはなくなっていた。何度問い直しても、わたしの中で一つの答えが出てしまった以上、それが覆ることはもう、ない。

 ――ちゃんと納得できるときが訪れる。最適なタイミングで。
 ――何ごともタイミングってのはある。

 奇しくも、二人の「おじさま」が同じことを言った。これはもう、受け容れるしかあるまい。

 わたしが「ワライバ」で働き始めたことも、そこのオーナーが伯父の後輩だったことも、そして伯父が翼くんの書いた手紙を見つけてわたしに見せたことも、すべてが最適なタイミングで起きた結果だろうから。

(神様。これからもどうか、わたしたちを見守っていて下さい。お願いします……)

 最適なタイミングで出会いをもたらしてくれた神様だ、私のこの想いも聞き届けてくれるはず。そう信じ、長い間祈り続けた。

<悠斗>
 五

 結局、当初の予定より二日遅れで家路についた。自然相手ではどうしようもないが、一人でいる時間が増えた分、それぞれが自分探しに充てる時間も延びたと前向きに考えたい。

 台風が去ったあとの、最初の便に乗った。それでも東京に到着したのは夕方。西日は肌を焼くほどに暑く、野上家に帰り着く頃には汗だくになっていた。沖縄との暑さの違いに、ああ、帰ってきたのだと実感する。

「悠斗。先に帰ってたのか」
 最初に帰宅したのは翼だった。

「たった今、着いたところだ」

「お帰り」

「……映璃と一緒じゃないのか?」

「買い物するから先に帰ってくれって」

 翼のことだから熱烈に歓迎してくれるものと思っていたのに、今日はいつもと様子が違う。きっと、各々がこれから告げるであろう「決断」のことを思い描いているに違いない。

 結論次第では、こうして一つ屋根の下で暮らすのも今夜限りになるかもしれない。おそらく翼も同じ想いでいるはず。でなければ、おれを前にして神妙な顔で黙り込んでいるはずがない。

「……沖縄土産をたくさん買ってきたんだ。あとでみんなで食べよう」
 沈黙に耐えかねて話題を提供する。しかし翼の表情は硬いままだ。

「……どうした? 一週間ぶりに顔を合わせたんだ、いつものお前らしく振る舞ってくれよ」

「……悠斗は自分探しが出来たのか?」
 翼は深刻な顔つきのまま言った。

「……ああ。だから戻ってきたんだよ。お前も見つけたんだろ? 自分なりの答えを」

「……うん。ちゃんと出したよ。三人が揃ったら言うつもりだ」

 そのとき玄関から「ただいま!」と明るい声が聞こえた。

 笑顔でリビングに飛び込んできためぐは、立ち尽くすおれたちを見て一瞬表情を失ったが、すぐに「悠くん、お帰り! 無事でよかったぁ!」と抱きついてきた。そうかと思えば、すぐに身を翻して翼の胸に飛び込む。

「翼くんにもずっと会いたかった……。何度、会いに行こうと思ったことか……」

「俺も会いたかった。今日は久々にみんなで食べる晩ご飯が楽しみで仕方がないよ。……もっとも、それぞれの決断次第では憂鬱な食事になる恐れはあるけど」

 翼は厳しい顔つきのまま「座ろうか」と促した。
 全員が一定の距離を取ってソファに座る。しかもおれと翼は向かい合う格好だ。
 緊迫した空気が場を支配する。大事な話し合いが始まるとは言え、正直、こういうのは苦手だ。

「じゃあ、まぁ、おれから話そうか」
 和やかに事が進むよう、出来るだけ明るい声で話し始める。

「長い間留守にして悪かった。だけど、おかげで自分の思いにケリをつけることが出来たよ。

 ……おれは、翼とめぐが好きだ。だからこそ、二人が結ばれることを望む。二人が幸せでいることが、おれにとっても幸せなことだと分かったんだ。……おれは実家に戻る。そこからお前たちを見守る。これが、おれの出した結論だ」

「それはダメだ!」
 翼はすぐに反論した。
「俺の生活には悠斗が絶対に必要なんだよ。だから、一人で実家に戻る案は認めない! 絶対に!」

「そこまではっきり言うのなら、翼の『決断』を聞かせてもらおうじゃないか。意見を受け容れるかどうかはそのあと決めさせてもらう」

「なら言うよ」
 翼はおれを一瞥し、めぐに視線を移した。

「……俺の想いは後にも先にも変わらない。やっぱりめぐちゃんと結婚したい。将来的には子どもも欲しい。それが俺の出した答えだ。……もう一度言おう。めぐちゃん、俺と結婚して下さい。お願いします」

 翼は隣に座るめぐの方を向き、深々と頭を下げた。
 改めてプロポーズされためぐは翼の手を取る。

「はい。喜んでお受けします」

「めぐちゃん……? 本当に俺を……?」

「うん。……翼くんとの日常には『ときめき』があった。わたしの人生を振り返ってみても、ドキドキする瞬間がそこかしこに。 ……翼くんが学生時代に書いた、わたし宛の手紙を読んだの。伯父さんが持ってきてくれたそれを読まずにはいられなくて……」

「うえぇっ?! あれ、読んじゃったの?! 誰にも分からないところに隠してあったはずなのに……! 父さん、やってくれたなっ……!」

 翼は赤くなった顔を両手で覆った。「でもね」と、めぐは続ける。

「嬉しかったんだ。あんなにもわたしのことを想ってくれてると知って、ますます翼くんが好きになったよ……。本当だよ?」

「めぐちゃん……」

「二度目のプロポーズをしてくれてありがとう。わたしも翼くんのことを愛しています。まだまだ至らない点ばかりだけど、一生、翼くんの太陽でいられるように頑張る。ただし、子どもを持つという話だけは、まだまだ先って考えてる。それを許してくれるなら……」

「そりゃあ、もちろん!」

「よかった……。翼くん、これからもよろしくお願いします」
 めぐは、かしこまって挨拶した。

(挿絵4)

 その様子を見て妙に心が穏やかになる。長年の心配事が解消されたときのように、晴れやかな気分だ。

「いい決断をしたな。うん、これでおれも安心だ」
 うなずきながら告げると、めぐは今にも泣きそうな顔で「ごめんなさい」と謝った。

「……もちろん、悠くんが心から想ってくれてるのは知ってるし、そんな悠くんのことがわたしも大好きよ。だけど、だけどね……? この先、悠くんと二人で家庭を築く未来を思い描くことがどうしても出来なかったの……。

 パパから結婚話をもらったときの悠くんは本当に衰弱していたから、わたしがそばにいてあげなきゃって気持ちが強かった。だけど、一緒に暮らす中で悠くんは元気を取り戻していったよね? 結婚していなくても、笑い合う日々が悠くんの心を回復させた……。

 それに気づいたとき、はっきりと分かったの。悠くんに必要なのはわたしとの結婚生活じゃない。共同生活だ、って。同時に、悠くんに抱いている『好き』の気持ちは、実は『恋心』ではなくて『友情』や『家族愛』だった、ってことにも……。

 ショックだった……。悠くんを愛してはいなかったんだと分かったときは。でも、一度気づいてしまったら、もうそれ以前の気持ちには戻れなくなってしまった……。わたしはもう、悠くんを恋人として愛することができない……。許して下さい……」

 めぐは頭を下げた。

「謝るのはよせよ。おれの気持ち、聞いただろ? おれだって……めぐとは愛し合えない。そうするのは違うって気づいたのはおれも同じだよ。お互いの幸せのために必要なことがなにか、おれもめぐも自分で気づけた。それでいいじゃないか」

「それは、そうなんだけど……」

「翼、めぐ。末永く幸せにな。……うん、やっぱりおれはここから出て行く。その方がきっと……」
 
「おいっ! なんでそうなる? 勝手に締めくくるなっつーの!」
 すべてが丸く収まった。この話はめでたしめでたし、のはずが、翼にツッコまれる。

「そうよ。どうして出て行っちゃうの? 今の話、ちゃんと聞いてた?」
 めぐにまで憤慨される。

「何だよ、お前ら。二人の気持ちが一致したんだから、はみ出したおれはこの家を去る。自然な流れだろ?」

「いやいや、違うって! 言っただろ? 俺もめぐちゃんも、悠斗とは一緒にいたいんだって。なのに悠斗は出て行くなんて言う。それって、俺からすれば単なる逃げにしか聞こえないんだよ。俺たちの幸せを願うと言うなら、そう決断したんなら、最後まで見届けろよ!」

「そうだよ。恋愛感情は抱けないって言ったけど、一緒に暮らせないなんて一言もいってないんだから!」

 めぐはそう言って指輪を目の前に差し出した。それを見た翼も同じようにする。

「めぐちゃんの言うとおりだ。俺は、俺とめぐちゃんが結ばれても三人暮らしはできる、と思ってる。……悠斗。本当は間近で俺たちのことを見守りたいと思ってるんだろ?」

 すぐに否定しようと思ったのに、声が出なかった。翼は続ける。

「格好つけたつもりかもしれないけど、強がってるのがバレバレなんだよ。何年一緒に暮らしてきたと思ってる? あんたが寂しがり屋だってことは俺もめぐちゃんもよく知ってるよ。だから、変な気を遣わなくていい。……大丈夫。悠斗とはこれからも裸の付き合いを続けていくつもりさ。悠斗のことは友人として好きだからね」

「やれやれ……」
 寂しがり屋であることは事実だし、それと知ってて一緒にいようといってくれるのは嬉しい。が、これまで以上に愛し合う二人のそばで暮らすのは正直、気恥ずかしいとの思いがあった。しかし、翼もめぐも、おれを手放してはくれないようだ。

「少し離れたところから見守ろうと思っていたのに。そこまで言われたんじゃ、仕方がないな……。裸の付き合いは構わないけど、めぐに嫉妬されない範囲で頼むよ。この前みたいに、部屋に乱入されるのは勘弁だからな」

 先日のエピソードを思い浮かべながらそう言うと、二人は顔を見合わせて苦笑したのだった。

 翼の言うようにおれたちの暮らしはこれからも変わらずに続いていくんだろう。
 それぞれがはじめから抱いていた想いを見つめ直し、けじめをつけただけ。しかし、それをしたことによってこの先も一緒に暮らしていける。彰博に心配されたようなことが――めぐの妊娠を機におれと翼の関係が崩れるようなことが――起きる事はおそらく、ない。

「お帰り。翼くん、鈴宮」
 いつ帰ってきたのか、突然彰博が姿を現して会話に加わった。
「……水を差すようで申し訳ない。今、三人暮らしって聞こえたんだけど?」

 相変わらず迷惑そうな表情。だが、今回ばかりは引き下がるわけにはいかない。
「ちょうどいい機会だ。日を改めるまでもない。今すぐ話そう」

 おれは二人に目配せをして彰博の前に立った。しかし詳しい説明をしなくとも、彰博にはおれたちの考えが分かったようだ。彼から話を切り出される。

「……時が満ちた、と? そういうことかな?」

「ああ……」
 おれの返事を聞くと、彰博はため息をついた。

「で、三人暮らしを始める具体的な時期は?」

「めぐは十八になった。そして今し方、翼とめぐは結婚の約束を交わした。これ以上待たされる理由は何一つない」

 即答すると、彰博は目を伏せた。

「……分かってたことだろ? 子どもを持つ以上、いつかは巣立ちの日が来ることくらい。それを承知で引き受けたんじゃなかったのか?」

「もちろんそうさ。だけど……」
 彰博はそこまでいうと、おれたちの脇をすり抜けて外へ出て行った。

「パパ……!」
「待て」
 追いかけようとするめぐを制する。

「おれが話をつけてくるから。翼、めぐを頼む」

「オーケー。めぐちゃん、ここは悠斗に任せよう」

「うん……。悠くん、お願いね」

「ああ」
 父を思うめぐを残し、彰博の後を追う。

 やつは庭にいた。庭の花々をじっと見つめている。おれは隣に立って語り始める。

「……らしくないな。そんな顔をするなんて」

「……自分でもこんなに心が動くとは思っていなかったよ。子どもの巣立ちっていうのは……守ってきたものが離れていってしまうときっていうのは、想像以上に悲しいものだね。もっとも、君と僕とじゃ胸の痛みは比べものにならないだろうけど」

「同じようなものさ……」
 おれは娘を亡くしたときのことを思い出しながら答えた。

「まぁ、お前は日頃あまり感情を出さない人間だから、こういう時くらいは思いきって吐き出しちゃってもいいんじゃないかと思うよ」
 辛い気持ちがあるなら言って欲しい、そう言ったつもりだったが拒まれる。

「……鈴宮の前では弱音を吐きたくないな」

「ふん。強がるのか? 家族の前でも泣き顔は見せられないと?」

「……確かに君は家族だ。でも同時に、永遠のライバルでもある」

「ライバル……?」

「僕は親としてめぐのことを愛している。そういう意味で、君は立派なライバルだ。翼くんも同様にね」

「なるほど。それなら納得。だけど残念ながらお前はおれにも翼にも勝てない。どんなにめぐを愛していたとしてもな」

 毅然とした態度で言うと、彰博は顔をしかめた。

「……どうしてめぐとの結婚を諦めたんだ? めぐのことは心から愛していると言っていたのに……」

「……諦めたんじゃない。愛しているからこそ結婚しないと決めたんだ。それに翼のことも大切にしたいからな。お前がなんと言おうと、この気持ちは変わらないよ」

「……君にとって翼くんはどんな存在?」

「ライバルであり、息子であり、弟であり、友人。……とにかく大事な存在、かな」

「……まさか、君たちがそんな関係になるなんてね」

「おれもびっくりだよ。人生、何が起きるかほんとに分からないよな」

 おれが言うと、彰博は深くうなずいた。

「……分かった。そういうことなら近日中にも三人暮らしの準備を手伝おう。引っ越し先が君の実家なら、車を往復させるのもそれほど苦ではないからね」

「えっ、なんで知ってるんだよ?」

「僕は家長だからね。この家で話されていることはだいたい把握しているよ」
 やつはそう言って小さく笑った。

◇◇◇

 数日後。日が落ちて少し涼しくなったところでおれたちの引っ越しが始まった。引っ越し、と言っても荷物はそんなに多くないが、寝具や衣類などのかさばるものは彰博が車で運んでくれたので、その日のうちには予定していた荷物の運び込みを終えることができた。

「ちょくちょく帰るから。そんなに寂しがらないでよね、パパ?」
 めぐが慰めるように言った。

「大丈夫だって……。僕にはエリーが……ママがいるから。二人の時に戻っただけ。そう思えば寂しいことはないよ」

「本当に?」

「……いや、そんなことはなかったな。やっぱり、めぐがいなかった頃には戻れないよ。家のそこかしこにはめぐの痕跡が残っているんだもの。……いつでも帰っておいで。パパもママも待ってるから」
 そう言って彰博はめぐの頭を撫でた。

「心配すんな。めぐが帰りたがらなくてもおれたちが帰ってやる」

「それは嬉しいな。でも……やっぱり一番会いたいのはめぐかな……」

「えー?」

「悠斗。俺たちとめぐちゃんとじゃ、愛され度が段違いだ。諦めよう」

 さりげなく拒まれたおれを翼が慰めてくれた。まぁ、おれが同じ立場でも同じことを言うだろうけどな。父親ってのは、とにかく娘がかわいいものなのだから。

 彰博と別れ、いよいよ三人だけになる。おれにとっては住み慣れた実家だが、ここにめぐと翼がいて一緒に暮らし始めるってだけで新鮮な感じがする。

「ああ、そうそう。これを渡しておくよ」
 おれはあらかじめ用意しておいた合鍵を二人に渡した。

「わぉ! 合鍵だって! これだけでワクワクしちゃう!」
 めぐは飛び上がって喜んだ。翼もほくほく顔だ。

「……特別な関係が始まるって感じするよね。まぁ、悠斗の実家ではあるんだけど」

「何だよぉ。古いけど、ちゃんと手入れはしてるよ。さて、と。まずはあいさつ、あいさつ」
 おれはそう言って二人を和室に案内する。亡き家族に引き合わせるためだ。

 仏壇の前には母と父、そして愛菜の写真が置いてある。おれが最初に手を合わせて報告をする。
「お袋、親父、愛菜。今日からおれたち、三人で暮らすよ。またこの家に戻ってきたよ。だから安心してくれよな」

「賑やかな毎日になるよう頑張ります。よろしくお願いします」

「どうかわたしたちを見守っていてください。お願いします」
 翼とめぐも手を合わせた。

「……あれ? ってーことは、実際のところこの家には六人いるってこと?」
 翼が妙な気を回して言った。

「あー……。おれの死んだ家族のことは、時々思い出して手を合わせてくれりゃあいいよ。ありがとな」

「わたし、お仏壇にお花を手向けるよ。悠くんのうちの庭にも季節の花がたくさん咲くから」

「めぐもサンキューな。今の言葉を聞いて、きっとあっちの世界で喜んでると思うよ」

 二人の優しさが身にしみる。やっぱりここでの三人暮らしを提案してよかったと改めて思う。

 仏壇に手を合わせたあとは布団を敷く。近い距離とはいえ引っ越し作業は疲れたし、日没後に行動を開始したからずいぶんと遅い時間になってしまっていた。

「今日から念願の三人暮らしだ。お前ら、婚約したんだし、一緒に寝ろよ。おれのことはいいからさ」

 気を遣って言ったつもりだったのに、二人は顔を見合わせていつものようにおやすみのキスをしたかと思うと、別々の部屋に寝具を移動し始めた。

「おいおい、親の目はもうないんだぜ? それともおれに遠慮してんのか?」

 念を押してみたものの、二人の行動は変わらないままそれぞれ床についてしまった。

「……本当にいいのか?」
 慌てて後を追いかけ、横になろうとしている翼に声を掛ける。しかし翼が無理をしている様子はない。

「めぐちゃんとはこれからいくらでも一緒に寝れるからいいんだよぉ。だけど、そうなっちゃったら悠斗とはもう寝れないだろ? だからもうしばらくは悠斗のそばで寝させてくれ。……めぐちゃんと婚約できたのも、三人暮らしが実現したのも悠斗のおかげだ。ありがとう。俺は今、メチャクチャ幸せだ」

「礼なんていらねえよ。おれはおれが幸せだと思う道を選んだだけなんだから」

「でもさ……。俺は思うんだ。アキ兄が悠斗に結婚話を持ちかけること無しに俺がめぐちゃんにプロポーズしていたら、きっとこういう結果にはなってなかっただろうって。悠斗と俺が争って、二人ともめぐちゃんに愛されて、それぞれの想いを再確認する時間を持つことが出来たから最終的に選んでもらえたんだ、って。だからやっぱり、悠斗には感謝すべきだと思ってる」

「……そう言われればそうだな。遠回りに思えても、そうしなければ得られないことがある。……おれの人生がまさにそうだ。五十近くまで生きてようやく、これが本当の幸せってやつなんだと実感できるようになったんだから。彰博と映璃を巡って争っていたときも、お前に『殺してやる』って言われたときも、まさかこういう結果に繋がるなんて思いもしなかったさ」

「だよなぁ。俺だっておんなじさ」

「……めぐを幸せにしてやってくれ。頼んだぜ」

「おいおい、俺たち二人でめぐちゃんを幸せにするんだろ?」

 『二人ひと組』を強調され、改めて翼の優しさを知る。いや、翼はおれと協力すればめぐを二倍幸せにしてやれると思っているのかもしれない。

「ああ、そうだな。おれたちでめぐを幸せにするんだったな」

 翼と相まみえるまでは、喧嘩別れすることも覚悟していた。だけど、翼もめぐもおれを放り出すどころか、三人で暮らすことを提案してくれた。

「翼。おれと家族になってくれてありがとう。おれも今、メチャクチャ幸せだ」

「何言ってんだか。俺が悠斗と一緒にいるのは、純粋にあんたが好きだからだよ。人柄に惚れてるから。でなけりゃ、家族になんてなってないって」

「……なぁ、一つ聞いていい? いまの翼にとって、家族って何?」

 聞いてみたかった。一つの区切りがついた今、翼が家族をどう捉えているのかを。しかし翼はおれの問いを笑い飛ばした。

「はぁ? 家族の定義なんてどうでもいいだろ? 俺たちが心地よく一緒にいられればそれでいいじゃん? 今が幸せなら、その感覚を大事にすればよくね?」

 それを聞いて、おれは「家族」にこだわっていたのかもしれないと思った。天涯孤独になってしまったおれをこの世に留めてくれる、それが「家族」であるかのように思い込んでいたのかもしれない、と。

 どうやらおれという人間は、生きる理由を何らかの言葉に置き換えてしがみついていなければ不安らしい。だけど、今おれが心地よく生きていると感じているのであれば、あえて言葉にしなくたっていいのだと翼に教えられた。

「……そうだよな。おれがあーだこーだ考えるなんて、らしくないよな。これからも行き当たりばったりで生きてきゃ、それでいいんだよな」

「そうそう。あんたは考え込むとネガティブ思考になる癖があるからいけない。脳天気で頼むぜ。そっちの方が俺も好きだし」

「分かったよ。じゃあ、まぁ、そうやって暮らしていけるようにこれからもサポートよろしくな」

「オーケー。こっちこそ、よろしくー」
 おれたちはそう言って互いに突き出した拳を合わせた。

<翼> 
 六

 めぐちゃんの誕生日ケーキで当たりくじを引いた時から幸運体質になったと思う。めぐちゃんが俺を選び、また悠斗が俺たちの結婚を後押ししてくれる……。俺が思い描いていた最善の未来が現実のものになったのだから。

 もっとも、迷うめぐちゃんの気持ちを固めた決定打が俺の書きためたラブレターにあるのなら、それを手渡してくれた父には感謝しなければなるまい。

 その父の元を訪れてかしこまった挨拶をするのは週末に……と考えていた。が、その前にあちらから電話がかかってきた。

 ――じいちゃんが倒れた。いつ最後になるか分からないから、早めに顔を見せて欲しい。

 そういう内容だった。

◇◇◇

 祖父はすでに九十歳を超えている。あんまり元気だから、このまま百まで……などと考えていただけに、急な知らせには驚いている。が、悠斗の両親がすでに他界していることを思いだし、いつその日が来てもおかしくはない年齢に達しているのだと再認識する。

 祖父の入院した病院にはめぐちゃんと一緒に向かった。父からは余命幾ばくもない状態だと聞かされていたからかなりの覚悟をしていたが、俺とめぐちゃんが声を掛けると、閉じていた目をぱっと開いて笑顔を見せた。

「おお……。翼に、めぐか。相変わらず、仲良くやってるのかい? 彰博の友だちの……なんとか君とは決着したのかい?」

(開口一番に聞くのが、それか……)
 祖父の中で目下、一番の心配事なのだろう。俺は笑顔を作り、めぐちゃんの肩を抱いた。

「うん。喜んでよ。俺たち、婚約したんだ。アキ兄の友だちの悠斗も祝福してくれてる。だから、安心して」

「そうか……。やったな、翼。じいちゃんは嬉しいよ。……結婚が決まったなら、ひ孫もすぐだな? よーし。こんなところはすぐに退院だ。ひ孫の顔を見るまでは、じいちゃんも頑張らないと!」

『えっ……』

 俺たちは同時に声を発した。祖父の気持ちは分かるし、叶えてやりたいのは山々だが、俺は「子どもはまだまだ先」と言っためぐちゃんの意思を尊重しようと決めたばかりだ。

「……とにかく、早く元気になってよね? 結婚披露宴にはおじいちゃんも招待したいから。入院してたら呼べないじゃん?」

 めぐちゃんは「ひ孫」から話を逸らそうとした。が、祖父はめぐちゃんの手を取ったかと思うと、じっと彼女の顔を見つめる。

「めぐ。子どもは早く産んだ方がいいぞ? じいちゃんとばあちゃんは結婚も子どもも遅かったから、子育て期はなかなかしんどくてな。彰博の時はとりわけ苦労したもんだよ。めぐにはそんな思いをして欲しくない。分かるな?」

「う、うん……」

「翼。早くめぐに赤ちゃんを抱かせてやりなさい」

「いやぁ、じいちゃん、こればっかりは……」

 困惑していると、ドアを叩く音とともに看護師さんが入ってきた。検温の時間だという。
「じいちゃん、また来るから」
 俺たちはこれ幸いとばかりに部屋を抜け出した。

 父とアキ兄はロビーで待っていた。
「じいちゃん、元気そうだったよ。ひ孫の顔を見るまで頑張るんだって。あれならすぐに退院できるんじゃないの? あー、心配して損したー」

 おちゃらけて言うと、父とアキ兄は顔を見合わせた。
「話が出来たのか……? 昨日までは声も出せない状態だったのに」

「えっ……」

「ひょっとしたら、二人の結婚報告を聞いて元気を取り戻したのかも。……おじいちゃんは二人の結婚を密かに楽しみにしてたからね」
 アキ兄までそんなことを言う。今度は俺とめぐちゃんが顔を見合わせる番だった。

 バイクで帰宅する道中、いつもはおしゃべりのめぐちゃんが一言も話さなかった。じいちゃんのことを考えているに違いないが、言われた「あのこと」に思いを馳せているのか、長くはないじいちゃんとのこれからについて思い巡らせているのかは分からなかった。

 悠斗の家には程なくして着いた。
「おじいちゃんを喜ばせてあげたいよね……」
 バイクを降りためぐちゃんがようやく声を発した。そして俺の胸に身体を預ける。

「……後悔したくない。おじいちゃんの、最後の願いを叶えてあげたい。だけど、わたし……」
 気持ちが揺れているのが分かった。めぐちゃんをぐっと抱きしめる。

「……何も子どもの顔を見せることが、じいちゃんを元気にする唯一の方法ってわけじゃないだろ? これからちょくちょく俺たちが顔を見せに行くのでも、じいちゃんはきっと喜んでくれるんじゃないかな」

「翼くん……」

「……じいちゃんだって、本気であんなことを言ったんじゃない、と俺は思う。大丈夫、めぐちゃんは自分の気持ちを……」

「…………!」
 言葉の途中でめぐちゃんは泣き出し、家の中に入ってしまった。

(どうして……)
 理由が分からず途方に暮れる。が、後を追いかけようとしてハッとする。

(もしかして、めぐちゃんは俺が子どもを作ろうと言うのを期待していた……? まさか、な……)

 その晩、仕事から戻った悠斗に今日の出来事をすべて話した。俺の気持ちもすべて。

「翼は正しい判断をしたとおれは思う」
 悠斗は、落ち込んでいた俺を励ますかのように言った。そしてこう続ける。

「どれだけ他人の幸せを願っても、自分が幸せじゃなかったら意味がない。……今の話を聞く限り、めぐは自分の気持ちよりオジイの願いに重きを置こうとしている。それで子どもを作ったって本当の意味で幸せにはなれないよ」

「うん」

「めぐは誰からも愛されて育ってきたから、受けた恩を返したいって思いがあるのかもしれない。だけど、受けた恩ってのは、残念ながら直接本人に返すことはできない。そういうものだ」

 相変わらず、悠斗の言葉は深く、重みがあった。うなずいていると、悠斗が俺をじっと見据えた。

「翼の気持ちは決まってるんだろう? まさか、めぐがオジイの言葉を聞いて考えを変えたらお前の気持ちも変わる、なんてことはあるまい?」

「……どういう意味?」

 俺の問いに、彼は言うかどうか迷っているそぶりを見せたが、やがてゆっくりと語り始める。

「……先日、沖縄で娘の魂と対話したんだけど、そのとき『もうすぐこの世に生まれ変われる』と聞かされてな。一瞬、おれの子として生を受けたいと言う意味じゃないか? と思って尋ねてみたんだよ。そうしたら……」

「そうしたら……?」

「娘に怒られた。それを決めるのはお父さんだって。……おれは娘に決めて欲しかったんだ。めぐとのこれからを。娘が『そうだ』と言えば、おれは娘の願いを叶えるという大義名分のもと翼を切り捨てられるからな……。おれは自分が傷つかないための一言が、隠れ蓑が欲しかった。娘の言葉でそのことに気がついたんだ。

 ……おれはずっと、愛菜にはこの世で生き直して欲しいと願っていた。可能ならばおれの元で。でもその願いの裏側にあるのは、失われた時を取り戻したつもりになって『これでよかったんだ』と、つかの間の安心感を得たいという思いではないのか……。そんなことのためにめぐを利用し、翼を傷つけていいのか……。沖縄で一人旅をするうちにそう思うようになったんだ」

「悠斗……」

「娘はこうも言ったよ。おれが幸せでいることが一番大事なんだって。だから一生懸命考えたよ。おれの幸せってやつを。で、真っ先に浮かんだのは何だったと思う?」

「……めぐちゃん?」

「惜しいな」
 悠斗は苦笑した。

「めぐと、お前の笑顔。そこにおれが加わって一緒に笑ってる。それが何より幸せなことなんだって気づいたんだよ。その瞬間、お前にめぐを託そうと……。そう、決意することが出来たんだ」

「決意……」

「だから翼にも、自分の幸せを第一に考えて行動して欲しいと思ってる。もちろん、めぐやオジイを喜ばせたいのは分かるけど、それ以前にお前自身を大切にしないと」

「うん」

「もう一度聞こう。オジイの言葉を聞いて、お前の気持ちは揺らぐのか、揺らがないのか」

「俺の心は決まってる。めぐちゃんが真におれと『子育てしたい』と願い、心と身体を預けてくれたとき、俺も彼女を愛すると。……決して、じいちゃんの願いを叶えるために焦って子どもを作ったりはしない」

 そう。悠斗に言われるまでもなく、これは年の差が十一あるのを承知の上で結婚を申し込んだときから決めていたことだ。彼女が自らの意思で子どもを持ちたいと望むその日まで待つ、と。

 おれの返事を聞いた悠斗は何度もうなずいた。
「……翼。今すぐめぐのところに行ってこい。そしてちゃんと話し合ってこい」

「…………」

「どうした? そこまで固い意志を持っているなら、めぐがなんと言おうと押し通せるはずだろう?」

「……そうだな」

 俺は長年の想いを成就させてめぐちゃんと婚約したのだ。今回のことは、今までの困難を思えばなんと言うことはない。きちんと話し合えばわかり合える。そう信じてぶつかるしかない。そう。逃げちゃ、いけないんだ。

「わかった。それじゃあ行ってくるよ」

「ああ。……そうだ、一応渡しとくぜ」
 手渡されたものは避妊具だった。

「……なんで悠斗がこんなものを持ってんだよ?」

「ま、細かいことは気にすんな。だけど、今のお前らには必要なものだろう? その気がなくたって、ほんのちょっとのきっかけで理性なんてぶっ飛んじまうものさ。持っておいて損はない」

 黙ってポケットに押し込むと、悠斗はにやりと笑った。

 悠斗に妙なものを握らされたせいか、めぐちゃんの部屋をひとりで訪れるだけで心臓が高鳴ってしまう。しかし、ここまで来た以上、引き返す訳にもいかない。

「めぐちゃん……。話があるんだけど、入っていいかな?」
 返事を待つ。程なくしてドアが開いた。

「話って、なに……?」

「二人の、これからの話」

「……入って」
 
 一人でめぐちゃんの部屋を訪れるのは、実は初めてかもしれない。ベッドと勉強机、本棚の周囲を埋め尽くすように飾られた家族写真は、めぐちゃんがいかに愛され育ってきたかを物語っている。そして一番のお気に入りなのだろう、親族の集合写真が目立つところに置いてあるのを見て「ああ、めぐちゃんは本当に家族を大事に思っているんだなぁ」と実感する。

「……このときはまだ、じいちゃんもシャキッとしてたんだけどなぁ」

 写真を見ながら呟くも、めぐちゃんは何も答えず、俺の後ろに立ち尽くしている。俺は振り向き、彼女を抱きしめる。

「めぐちゃんはじいちゃんと俺と……どっちが好き?」

「どっちって……。そりゃあ翼くんよ……」
 しかし、見上げた顔には明らかに迷いがあった。

「本当に……?」

 めぐちゃんの本心を確かめたくて、ちょっと強引にベッドに押し倒す。悠斗ならこうするだろうか……と想像しながら、恥じらう彼女を無理やり抑えつけて唇を奪い、舌を絡める。

「つ、つばさ……くん……。や、やめて……!」

 嫌がっているのが分かった。それでも俺はやめずに、彼女の服を無理やり脱がせようと引っ張った。

「やめてっ……!」
 ものすごい力でベッドから突き落とされる。

「いってぇ……!」

「あっ……」

 彼女は気まずそうな顔で俺に手を伸ばしかけたが、にらみ返すとその身を縮めた。俺はぶつけた背中をさすりながら言う。

「……これで分かっただろ。じいちゃんのことを思いながら俺に抱かれようだなんて、百年早いってことが」

「…………」
 高揚しためぐちゃんは、更に顔を赤くしてうつむいた。

(くっそー。かわいすぎるぜ……)

 俺は一度深呼吸をして身なりを整え、めぐちゃんの隣に腰かける。そしてその唇に今度は優しくキスをした。

「……俺はね、めぐちゃんとは穏やかな気持ちで愛し合いたいんだ。じいちゃんの想いに応えたいのは分かる。だけど、それを理由に焦るようなことはしたくない。……そっちの方が後悔するって分かってるから」

「……ごめんなさい」
 めぐちゃんは声を震わせ、俺の胸に顔を埋めた。

「おじいちゃんの死が迫っていると知って、怖くなったの……。おじいちゃんのために何も出来ないままお別れするなんて考えられなくて、それで……」

「ひ孫を作ればって考えたんだよね? うん、そうだと思った」

「だけど……。翼くんに強引に迫られて、改めて分かった。やっぱり私にはその覚悟がなかったんだって。……ごめんね、突き飛ばしたりして。痛かったよね?」

「ううん、大丈夫。俺の方こそ、怖がらせてごめん。ああいうのは全然趣味じゃないんだけど、めぐちゃんの本心を引き出したくて、ちょっぴり演技させてもらった」

 頬を染めた彼女と見つめ合う。無理に笑った彼女の目から一筋の涙がこぼれ落ちる。それを、そっと拭う。

「めぐちゃん。君には笑顔がよく似合う。ずっと笑っていて欲しいとも思う。だけどね、もし、じいちゃんとの別れを想像して悲しくなっちゃったなら、我慢せずに泣けばいい。めぐちゃんには、俺たちがいるんだから」

「翼くん……」

「大好きな人にぎゅっとしてもらったら笑顔になれる。……これ、めぐちゃんの言葉だよ?」

「あっ……」

「だから、ね? 無理しないで。それにさ、じいちゃんは俺たちが会いに行ったら元気が出たみたいだし、きっとこのまま良くなってくれる。……そう、信じようよ」

「うん。そうだね」
 彼女はようやくいつものように笑った。

<めぐ>
 七

「……何だか二人きりでこうしていると、ずぅーっと昔を思い出すよ。まだ幼かった頃、眠れないって泣きついたわたしに寄り添って絵本を読んでくれた日のことを」

 唐突に、保育園の頃の記憶がよみがえってきた。確かあれは三、四歳くらいの時。当時、中学生だった翼くんが本当に大好きで「帰らないで! ずっとうちにいて!」と言ってはよく困らせたものである。そんなわたしの言葉を聞いても、翼くんは嫌な顔一つせずそばにいてくれた……。

「あの頃から好きだったなぁ、翼くんのこと」

 ずっと大好きだった人もまた、わたしをずっと好きでいてくれた。それだけでも奇跡的なことなのに、その彼と結婚の約束まで出来たわたしはなんて幸せ者なんだろう。

 翼くんは照れくさそうに笑った。
「……もっと聞かせてよ。俺のことをどう思っていたのかを。……ラブレター、読んだんでしょ? 俺にもめぐちゃんの率直な想いを聞かせてほしいな」

「えー……? 恥ずかしいよぉ……」

「渡すつもりのなかったラブレターを読まれた俺の方が恥ずかしいんだけど!」

「むぅー……」
 仕方なく、照れながらも彼に抱いていた想いを一つずつ語っていく。

 甘酸っぱい、初恋のお話。本人を前にしてするのは本当に恥ずかしかったけれど、翼くんの喜ぶ顔が見られたからまぁ、いっか……。

「ねぇ……。また明日もまたこの部屋に来てくれる?」

 恥ずかしい話をしたついでに、もう一つ勇気を出して聞いてみる。翼くんはちょっとよそ見をしたあとで「うん、もちろんいいよ」と言った。

「いま、悠くんのことを考えた? もちろん相談してからで構わないけど、出来れば……」

「あー……。悠斗はたぶん大丈夫だよ。……そうだろう? そこで立ち聞きしてる悠斗君?」

「えっ?!」
 わたしが驚きの声を発したのと同時に部屋のドアが開いた。

「……なんで分かったんだよ。息をひそめてたのに」

「あれ? 本当にいたんだ? 当てずっぽうだったんだけど」

「こいつ……! おれをはめやがったな?」

「けっ、妙なものを掴ませてくれた仕返しだっ! こいつは返すぜ!」

 翼くんはポケットから何かを取り出すと悠くんに放り投げた。が、軽い「それ」はわたしたちと悠くんとの間にポトリと落下する。

(コ、コンドーム……?!)

「馬鹿っ、恥の上塗りをするなっ!!」
 悠くんが顔を真っ赤にして「それ」を拾い、慌ててポケットに押し込む。

「……返されても使い道がねえんだよ! 分かれよ、馬鹿っ!」

「こっちだって、使用期限内かどうかも分からないものを手渡されて使えるわけがねえ! もし、本当にそいつを使う場面を想像して聞き耳立ててたんだとしたら、悠斗は相当な悪趣味だな!」

「……んなわけねぇだろ! ちょっと夕涼みにでも行こうと思って部屋の前を通りかかっただけだよっ!」

「本当かねぇ? まぁ、そういうことにしておきますか」
 翼くんは「やれやれ」と言った様子で手のひらを天に向けた。

「……夕涼みに行くなら、わたしも一緒に行こうかな。なんだか……暑くって……」
 暑い原因は恥ずかしい思いをしたからに他ならないが、気分転換もしたかった。

「めぐちゃんが行くなら、俺もついてく。悠斗、いいだろ?」

 翼くんも何だか暑そうにシャツの襟をひらひらさせている。今度は悠くんが呆れたようにため息をつく。

「おれはただ散歩に行くだけだぜ? 別に、めぐを取って食おうなんて気は……」

「いや……。ついでに、ばあちゃんの様子も見て来ようかと思って。実は今、あの家に一人なんだ」

「えっ? 嘘だろ?」
 翼くんの言葉を聞いた悠くんは目を丸くした。

「それがさ。じいちゃんが入院している間は自宅に来るようにって、父さんもアキ兄も誘ったらしいんだけど、じいちゃんはすぐに戻ってくるから、って聞かないっぽくて」

「それは心配だな……」

「おばあちゃん、頑固なところあるからねぇ。わたしも心配」

「よし、じゃあ散歩がてら、見に行ってみるか」

 *

 祖母の住む家までは歩いて向かうことにした。月明かりのおかげで周囲は比較的明るく、歩くわたしたちの足元には影が出来ている。が、近づくにつれ、周辺の家々の明かりが一つ、また一つと消え、辺りは次第に暗さを増していく。

 祖母の家は暗かった。時間が時間だけに、もうとっくに寝ているのだろうと推察する。

「……静かだな。緊迫した空気は感じない。今日は異常はなさそうだ。また明日、明るい時間に訪ねて……」
 言葉の途中で悠くんが何かに気づいたようだ。
「なぁ、あそこにいるの、オバアじゃないか?」

 悠くんの指さす方に目を向ける。そこには祖母の姿があった。縁側に腰掛け、じっと月を見上げている。わたしたちはそっと庭に足を踏み入れた。

 相変わらず手入れが行き届いた庭には、ペチュニアなどの花々が夏の暑さにも負けず元気に育っている。あんどん仕立ての夕顔も美しく花開く。ただ、ひまわりだけはすでに咲き終わったのか、重そうに頭を垂れていた。

「ばあちゃん……?」
 翼くんが声をかける。と、祖母はパッとこちらを向き、

「あっ、おじいさん! やっぱり帰ってきてくれたんだ!」
 と声を弾ませた。そして立ち上がるなり突っかけを履き、こちらにやってくる。

「そんなところに立っていないで、早く中へ……。あれ……? つばさっぴじゃないの……。やだぁ、おばあちゃん、見間違えちゃったわ」

 祖母は本当に恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
「どうしたの? こんな時間に訪ねてきて」

「いや……。ばあちゃんのことが心配で」
 翼くんの言葉を聞いた祖母は本当に嫌そうな顔をした。

「もう……。つばさっぴまでわたしのことを年寄り扱い? ちょっとの間なら一人でいるくらい、なんてことはないわよ。本当よ」

 しかし、それが強がりであることは明白だった。翼くんを祖父と見間違えたのが何よりの証拠。そうでなくてもこんな時間まで縁側で月を眺めていたのは、寂しくて眠れなかったからではないのか……?

 悠くんも同じことを思ったのだろう。しかし彼は、翼くんとはまるで違う文句で祖母に語りかける。

「……彰博のお母さんに頼みがあります。親父さんが戻ってくるまでの間、我が家の庭の手入れをしてくれませんか? 夏の庭の手入れの仕方が分からず、困ってるんです」
 
「お庭の……お手入れ……? 鈴宮君ちの……?」

「はい。二人も……翼とめぐも一緒に暮らしています。つい先日、二人が植えた木々や花々もあるんですよ」

「孫たちの植えた花ですって? それは心配。ちゃんと見てあげる必要がありそうね……」

 わたしと翼くんは互いに顔を見合わせた。いくつになっても、祖母からすればわたしたちはいつまでも「幼い孫」なのだろう。

 祖母は少し考えていたが、やがて決意したように言う。
「明日、迎えに来てちょうだい。一度、お庭を見せてもらうわ」

◇◇◇

 祖母の送迎はパパにお願いした。パパは、てこでも動かないと思っていた祖母が出かけると知って大層驚いていたが、理由を聞いて納得し、車を出してくれたのだった。

「彰博、このままあなたの家に向かったら怒るからね?」

「……はいはい」
 二人のやりとりを聞いて苦笑する。さすがのパパも祖母には敵わないようだ。

 鈴宮家に着くなり、祖母は早速庭に向かった。
「あらあら、こんな場所に植えちゃって。お花も植木もかわいそう……。夏の間だけでも日陰を作ってあげないと」

 祖母はわたしたちに廃材を持ってくるよう指示すると、あっという間に簡易な日陰を作り上げた。そして満足げに縁側に腰掛け、庭を眺める。

「うん。これでよし。……ところで、お水やりは誰がしてるの?」

「えーと、一応わたしがやることに……」

「いつ?」

「朝、出かける前に時間があったら……」

「えぇっ? めぐちゃん、夏場のお水やりは毎日、朝夕欠かさずやらないと! お花たちは植えた場所から動けないのよ? どんなに暑くたって、水が欲しくたって、そこにいるしかない。ガーデニングを楽しむと決めたら、何よりもお庭の木や花に気配りしないとダメよ!」

「は、はい……」

 いきなり説教されて萎縮する。本人が言うとおり、祖母は確かに一人でもやっていけそうなほど元気にみえる。しかし、今入院中の祖父もつい先日までは元気だったと聞く。やはり祖母のそばには誰かしらついていた方が安心というものだろう。

「ところで、鈴宮君とつばさっぴ、どっちがめぐちゃんと結婚することになったの?」
 説教が終わったかと思えば、今度は三角関係のその後を聞いてきた。さすがはおしゃべりな祖母。一時いっときだって黙っちゃいない。

「そう言えば、まだ言ってなかったね」
 祖母の問いを受け、翼くんが代表してわたしたちの婚約を伝えた。祖母は「まぁ!」と言って目を輝かせた。

「つばさっぴならきっと勝つと信じてたわ。……またまたうちの子が勝っちゃって、鈴宮君には申し訳ないけれど。あれ? それならどうして孫たちは鈴宮君の家で暮らしているのかしら?」

「おばあちゃん。悠くんはわたしたちの家族なの。だから、これからもずっと一緒に暮らす。これは三人で決めたことよ」
 わたしが言うと、祖母は目を細めた。

「……そうねぇ。鈴宮君は彰博が高校生の時から知っているし、めぐちゃんが小さいときにはよく遊び相手にもなってくれてたものね。その頃からもう、家族みたいなものよね」

「おれを家族と認めてくれるんですか……? ありがとうございます」
 悠くんがお礼を言うと、祖母は小さく微笑んだ。

「わたしこそ、しばらくここでお世話になります。鈴宮君、つばさっぴ、めぐちゃん、よろしくお願いします」

「母さん……?」

「彰博。悪いけど、自宅から私の布団一式をここへ運んでちょうだい」

「んー?」
 祖母の顔を見るパパの顔は明らかに困惑していた。

「それ、本気……? 母さんの面倒なら僕が……」

「彰博、おれたちは構わないよ。むしろ、はじめっからそのつもりで声をかけてるんだから」

「鈴宮まで……!」

「いや、うちの方が絶対いい」
 戸惑うパパに、悠くんは毅然とした態度で言う。

「だってお前ら、日中はどっちも仕事でいないけど、うちなら日中はおれがいるし、バイトがなけりゃ、めぐも夕方には戻る。翼だってそう遅くない時間には帰ってくる。面倒を見るって言うなら断然、誰かが家にいた方がいい。そうじゃないか?」

「……確かに、そうだけど」

「迷惑だって思ってんのか? それなら心配無用だ。今し方、おれも家族って認定してもらったからな」

 悠くんが胸を張るとパパは「やれやれ……」と言いながらも反論するのをやめた。

「分かったよ……。強情な母さんがこの家で厄介になりたいって言うなら、その気持ちは尊重しよう。ただし、週末は僕か兄貴がここに顔を見せに来る。それでいいかな?」

「いいわ。そのタイミングで、おじいさんのお見舞いに連れて行ってちょうだい。そうすれば用も一度で済むし」

「……って、母が言ってるんだけど、鈴宮たちは大丈夫?」
 三人揃ってうなずくと、パパは「母を……おばあちゃんをよろしくね」と言って祖母の布団を取りに車を走らせたのだった。

「わーい! おばあちゃんとしばらく一緒に暮らせるんだ!」
 祖父のこともあってか、祖母のそばにいられるだけで安心しきったわたしは、思わず歓声を上げた。

「まぁまぁ。まるで小学生みたいにはしゃいじゃって」
 祖母は呆れたように言ったが、その顔は笑っていた。

「ついこの間まで小さかっためぐちゃんとつばさっぴが結婚だなんて……。ほんっと、時間が経つのは早いものね。どうりでわたしも、こんなにおばあちゃんになったわけだわ」

 しみじみと呟いた祖母の言葉に、わたしと翼くんは顔を見合わせ、寄り添った。

「めぐちゃん。つばさっぴ。末永くお幸せにね。……孫同士の結婚を見届けられて、おばあちゃんは幸せよ。本当におめでとう」
 祖母はそう言うと、手提げの中から財布を取り出し、一万円札を翼くんに握らせた。

「これ。少ないけど、何かの足しにしてちょうだい。結婚式を挙げるにしても、おばあちゃんはきっと出られないだろうから」

「おばあちゃん……!」
「ばあちゃん……」
 わたしたちは同時に声を上げた。

「そんな、おばあちゃんまで死んじゃうみたいなこと言わないでよ……。嫌だよ……」

「やあねぇ。死ぬから出られないって意味じゃなくって……」
 祖母は笑いながら言う。

「そりゃあ、結婚式で二人の着飾った姿が見られたら誇らしく感じるとは思う。けれどね、おばあちゃんは、今ここで二人が自然に笑い合う姿を見る方が嬉しいの。おばあちゃん、おばあちゃんって言ってくれる方がずっといいの」

「おばあちゃん……」

「だからね、鈴宮君がここに招いてくださってこと、本当に嬉しく思ってるのよ。……これ、彰博には内緒ね」

 人差し指を口の前に立てた祖母は「そうだ、めぐちゃんにもお祝いのお金を……」と言って再び財布を取り出そうとする。

「おばあちゃん、いいって……! 別に、お金が欲しくて結婚報告したわけじゃないんだから!」

「それはそうかもしれないけど、おばあちゃんにはこれしか出来ないから、せめて受け取ってちょうだいな」
 わたしの反論をものともせず、祖母はお金を差し出す。

「もらっておけ」
 そう言ったのは悠くんだ。
「それが、彰博の母さんの気持ちの伝え方なんだ。受け取らないほうが失礼だ」

「そういうこと」
 祖母はうなずいた。悠くんに「失礼だ」と言われてしまっては貰わないわけにもいかない。わたしは差し出されたお金を素直に受け取ることにした。しかし、もらいっぱなしも申し訳ない。何か、わたしにできることはないだろうか。

(おばあちゃんがわたしたちの笑顔を見たいというのなら、それでおばあちゃんが喜ぶのなら、わたしにできることはきっとこれしかない……)

「おばあちゃん。お礼にわたしがおいしい冷茶を入れてあげる。最近、アルバイト先で覚えたの。結構、好評なんだよ?」

「それならぜひ、いただくわ」

 台所に向かうわたしの背中に祖母の嬉しそうな声が届く。そう、わたしは笑顔を向けることでしか、恩を返せない。だったら、可能な限り最後の最後まで笑顔で居続けよう。背伸びもしない。泣くのだって、最後でいい……。

「じゃあ俺は、ちょっとひとっ走りしてばあちゃんの好きな和菓子を買ってくるよ。みんなの分も。ばあちゃんが鈴宮家にやってきた歓迎会をしようぜ」

 そう言って玄関に向かいかけた翼くんに、祖母が声をかける。
「待って、つばさっぴ。おばあちゃんが好きなのはあの、あんこたっぷりのやつだからね?」

「ぷっ……!」
 まるでお遣いに行く孫に、買ってくるものの最終確認をするみたいな言い方に思わず笑う。翼くんも笑いを堪えながら返事をする。

「分かってるってば! じゃ、行ってきまーす!」

<悠斗>
 八

 一時的に引き受ける、とは言ったものの、正直、なんて呼べば良いか分からなかった。おれからすれば「彼女」は三通りの顔を持つ人――彰博の母、めぐの祖母、そして翼の祖母――だからだ。相談すると、「彼女」は「鈴宮君が一番呼びやすいので良いわよ」という。

「母親の出身地の沖縄では、おばあさんのことを『オバア』と呼ぶんですが……」

「なら、それでいいわよ。何だか、かわいらしい響き。気に入ったわ」

「えっ、本当に良いんですか?」

「彰博のお母さんって毎回呼ぶのは長くて大変でしょう? オバアなら三文字で済む」

「わかりました、じゃあ、それで……」

 確かに名実ともに「オバア」ではあるのだが、そう呼ぶのにはいささか抵抗もあった。しかし「○○のお母さん(おばあさん)」と呼ぶのも煩わしいと思っていたので、一時いっときならばと、その申し出を有り難く受け入れることに決めた。

「ねえ? わたしもあなたのことを『悠斗君』って呼んでいいかしら? 彰博が鈴宮って呼ぶから合わせてきたけれど、家族になったなら名前で呼ぶのが礼儀というものよね?」

「もちろん。好きに呼んでください」
 おれの返事を聞いたオバアは、嬉しそうに笑った。

「彰博にも、いい加減名前で呼ばせようと思っていたのよ。家族だと言いながらいつまでも『鈴宮』って……。失礼よねぇ?」

「いえ、大丈夫です。それで慣れてるんで」

 オバアの申し出を丁重に断る。高校生の時から名字で呼ばれ続けているから、今更名前で呼ばれても正直、違和感しかない。それに、あいつに似た顔の翼からは悠斗と呼び捨てられている。そこへ彰博からも名前で呼ばれるようになったら何だか混乱しそうだ。

「はい、おばあちゃん。めぐちゃん特製の冷茶でーす」
 二人で話していると、オバアの前に冷茶が提供された。そのタイミングで翼も戻ってくる。

「出来たての粒あん最中をゲットしてきたぜ。それから、めぐちゃんの好きなニッキ菓子と、悠斗の好きな芋あんのやつ。ちなみに、俺のは水ようかん」

 テーブルに広げられた和菓子は、どれも冷茶とよく合いそうだった。全員が席に着いたところで手を合わせる。

「いただきます! うーん、おいしい!」
 それぞれが和菓子を本当においしそうに頬張り、笑みを浮かべる様は日常のワンシーンでありながらも格別だ。

「ああ、やっぱりおばあちゃんはめぐちゃんの笑顔が大好き」
 オバアもおれと同じ感想を持ったようだ。めぐの顔をしげしげと眺めている。
「この顔が見られるなら、おばあちゃんは毎日和菓子を買いに行ってもいいわ」

「えー? 毎日食べたら太っちゃう!」

「めぐちゃんくらいの年の子は、ちょっぴり太ってるくらいでちょうどいいのよ。今の子は痩せすぎだもの。ねぇ、つばさっぴもそう思わない?」

「うえぇっ?! お、俺は今のめぐちゃんが一番好きだから……。でも確かに、笑顔見たさに和菓子を買いたくなるばあちゃんの気持ちは分かるかも……」

「えー? それじゃあわたしが食いしん坊みたいじゃないの!」

「実際、めぐは食いしん坊だろ?」

「もう! 悠くんったら!」

「ははっ、そうやって怒った顔もかわいいぜ。な、翼?」

「おいおい、悠斗まで俺をからかって……」
 赤面する二人を見て、俺とオバアが笑う。と、そこへ彰博が戻ってきた。

「母さんの布団を持ってきたよ。……鈴宮、どこへ運べばいい?」

「この部屋へ。仏壇はあるけど和室が一番明るいし、庭も見渡せるから」

「了解」

「手伝うよ」

 一足先に食べ終わったおれは彰博の後についていって、布団の荷下ろしに手を貸すため、一旦外へ出る。

「そう言えば、お前から下の名前で呼ばれたことってないよな」
 布団を運び出しながら、さりげなく話題を振る。彰博は「そうだね……」と小さく呟く。

「……実は、君がめぐと結婚したら、その時は名前で呼ぼうと決めていたんだ――娘の夫を名字で呼ぶのもおかしな話だからね――。だけど、君はそうしなかった。だから僕はこれからも君のことを鈴宮と呼び続けるつもりだよ。……どうして急にそんな話を?」

 問われて、オバアが「家族なら名前で呼ぶのが礼儀じゃないのか」と、ぼやいていたことを話した。

「ま、おれに言わせりゃ、呼び方を変えるのは今更感しかないけどな。しっくりこないだろうし」

「あはは……。それを言ったら僕だって、君から名前で呼ばれるようになってすぐは違和感しかなかったけどね。そのせいで、君を名前で呼ぶタイミングを失ったままここまで来てしまった。……めぐとの結婚は、君を名前で呼ぶ最後のチャンスだと考えていたんだけど……」

「ふぅん」

 本当は早くからおれを名前で呼ぶつもりがあったと知って驚いた。同時に、間の悪さが彰博らしいとも思った。

「……ここ数年でも、きっかけなら何度もあっただろうに」
 思わず愚痴をこぼすと、彰博はばつが悪そうにうつむいた。

「アキ兄、悠斗。布団を運び入れやすいように、居間を片付けておいたぜ?」
 玄関で靴を脱ごうとしている矢先、翼がおれたちを名前で呼んだ。

「おう、サンキューな」

 テーブルが端に寄せられて広くなった居間に布団を降ろす。そこへオバアが「ありがとう」と言いながら歩み寄ってくる。

「彰博、家とここまでを往復して疲れたでしょう。少し休んでいきなさい」

「いや、僕は自宅に戻るよ。エリーもいるし。それじゃ、また週末に」
 そう言って彰博は背を向け、静かに玄関から出て行こうとする。おれはすぐに追いかけてその肩を掴んだ。

「おい、何か言いたいことがあるんじゃないのか? 前にも言ったが、お前はもうちょっと自分を出した方がいいぞ。……おれを名前で呼べないのも、そのせいじゃないのかよ?」

「……どうかな」
 彰博はぽつりと呟く。そして少し間をおいたあとで、
「……鈴宮。今日の夜九時にあのバーで落ち合おう。久しぶりに二人きりで飲みたい」
 そう言い残して帰って行った。

◇◇◇

 仕事を終え、約束の時間に行くと、彰博はすでにバーカウンターの前に座っていた。
「もう飲んでるのか?」

「いや、早く着きすぎたんで涼んでた」

 どうやらバーテンダーと話していたようだ。彰博は立ち上がり、隅の二人席に移動する。そこはおれとあいつが長い話をするときに座る場所だった。

「二人でここに来るのはいつぶりかな」

「十年ぶりじゃねえか? お前が誘ってくれないうちにずいぶん時間が経っちまったぜ」

「……あれからそんなに経ってしまったのか」

 年若いバーテンダーが注文を取りに来る。それぞれにカクテルとつまみを頼む。が、彰博はカクテルの名を告げると口を閉ざしてしまった。

「……お前が誘ったんだろうが。話があるなら何か言えよ」
 ちょっと突いてみたが、効果はなかった。

「……酒を口にしないと、言えるものも言えないな」

「……不器用だなぁ、お前は」

「……鈴宮だって同じだろ?」

 程なくして頼んだカクテルとつまみがテーブルに届けられた。乾杯し、ロンググラスに入ったトム・コリンズを半分ほどを減らしたおれに対し、彰博はオールド・ファッションド・グラスに注がれたカイピリーニャを一息で飲み干してしまった。

「……そんな飲み方して大丈夫か? おれたちはもう、若くないんだぜ?」

 しかし彰博は答えずに、空になったグラスを握りしめたまましばらくの間うつむいた。ようやっと重い口を開いたのは、おれのグラスの酒がなくなった時だった。

「僕は君を救いたかった。友人としてどうしても。そのためならば、娘のめぐを差し出してもいいとさえ思った。それが結婚話を持ちかけた本当の理由」

 予想だにしない言葉に戸惑った。慌ててグラスを傾けたが、酒は残っていない。

「差し出すって……。どうしてそこまでして……?」
 なんとか問い返す。しかし、またしても想定外の答えが返ってくる。

「……めぐと君が結婚すれば、カウンセラーとして、友人として、またライバルとしても優位に立てる。そして弱り切った君を救ったのは僕の一言だと威張れる。心の奥底で僕はそんなふうに思っていたんだよ。

 ……僕はエリーを勝ち取ったときから、君に対して妙な優越感を持っていた。そしてそれを失いたくなくて必死になっていたんだと思う。……君を名前で呼べない理由はきっとそれだ。僕は永遠に君の上に立っていたかった。同列になりたくなかった。……これが真実。どう? こんな話を聞かされてもなお、僕と友人で、家族でいたいと思う?」

 その目は挑戦的だった。奇しくも、めぐの唯一の恋人になろうと競り合っていたとき翼が見せた表情にそっくりだった。

 おれは鼻で笑った。そしてもっと本音を引き出してやろうと、この店自慢のマティーニを二杯注文した。

「おかげさまで、お前が優越感に浸っていた間、おれはずっと劣等感にさいなまれてたよ。それでもおれは、心からお前を頼り、慕い、本当の家族になりたいと願ってめぐを愛そうとしてきたんだよ。……まさか、お前の優しさが偽善だったとはな。翼がお前に、めぐとおれとの結婚を反対してくれなかったら……と思うとぞっとするぜ」

「だろうね。嫌われても当然のことを言ったという自覚はあるよ」

「……お前に一つ、言いたいことがある。友人として、家族として」

「……何?」

「もう、強がるのはやめろ。少なくともおれの前では素のお前で居ろ」

「…………」
 彰博は沈黙した。その間にマティーニが運ばれてきておれたちの前に置かれる。

「ぬるくなる前に飲めよ」
 そう言って先に口をつける。彰博はおれを一瞥し、表情を変えないまま目の前のカクテルを一口含んだ。

「……分からないんだ、僕にも。素の自分の出し方が。そもそも、本来の僕がどんな人格だったのかさえ忘れてしまっている。……出しようがないんだ」

 ようやく本音らしき言葉を聞けてほっとする。おれはもう一度カクテルを口にしてから言う。

「……お前は職業柄、過去に目を向けるんじゃなくて未来を見て生きる人生を、自分でも実践しているのかもしれない。だけどな、人は過去の積み重ねで出来てるんだよ。だからどんなに過去から目を背けようとも、前だけを見て歩もうとも、ここに立っていられるのは間違いなく過去が、生きてきた歴史があるからなんだよ。

 ……もしかしたらお前は、チェスしかしてこなかった十八年の人生を無価値に思って、その後の三十年を、映璃えりや多くの悩める人のために捧げてきたのかもしれない。だけど、よく考えてみろよ。チェスに打ち込んできた十八年があったから高校時代、お前はチェス部で映璃と出会ったし、うまくやってこれたんじゃないのか? チェスがお前の十八年を支えてきたから、その後の人生も頑張って来れたんじゃないのか?」

「…………」

「お前の奉仕の精神は立派だよ。おれには真似できない。だけどそろそろ誰かに、背負った荷物のいくつかを預けてもいいんじゃないか? ……おれは、お前とは心の底から家族になりたいと思ってる。そのためだったらお前の荷物だって持つ。いや、持たせて欲しいんだ」

「この僕に価値があるのは、誰かの心を癒やし、支えているからだ。人の役に立てているからだ。それを君が肩代わりしてしまったら、僕の価値は半減してしまう」

「だからって、背負いすぎなんだよ。何でもかんでも自分で解決できると思い込みすぎてる。本当は柔なくせに、頑張りすぎ」

「…………」
 彰博は再び黙り込んだ。逆に、強い酒を飲んだせいで勢いづいたおれの口は止まらない。

「人には頼れって言っときながら、お前自身がちっとも人を頼ってない……。おれにはそう見えるんだ。どんなに頑丈な大木だって、大勢で寄りかかったらいつか倒れてしまうものさ。確かにお前には包容力があるし、頼られることにも慣れているんだろうけど、自分の力にも限界があることを知るべきだ」

「…………」

「お前が言ったんだぜ? 人は弱い。だから頼っていいんだって。……それはお前にも当てはまることだろ。カウンセラーにも心の支えは絶対に要る。そしておれは……おれたち家族はお前の支えになりたいと思ってるよ。あとはお前が寄りかかるだけだ」

「……ふふっ」
 彰博はくすくす笑ったかと思うと、腹をかかえて笑い出した。

「な、なんで笑う?」

「僕の負けだよ……。いや、君に言った言葉が丸々自分に返ってきたことを思えば勝ちなのかな。ま、どっちでもいいか。とにかく君の想いは、言葉は、僕に届いたよ」
 そう言って残っていたカクテルを飲み干すと、グラスをおれに差し出した。

「これまでずっと、弱くって情けなくって泣き虫だった君の面倒を見るために頑張ってきたけれど、もうその必要はない……よね?」

「あ、ああ……」

「だったら今日は、僕の面倒を見てもらおうか。へべれけになるまで飲ませてよ。帰れなくなったら君が僕んちまで送ってよ。ってことで、もう一杯」

「お、おう……」
 何だ、情けなかったのはやっぱりおれの方か、と思ったけど、彰博がようやくおれを頼ってくれたことが素直に嬉しかった。

「おれはもう大丈夫。長い間、負担をかけさせたな。これからはお前の好きなように振る舞っていいぜ。おれが、家族がちゃんと支えてやるから」

「……ありがとう、悠」

「おっ?」

「信頼の証に、そう呼ばせてくれないかな……」

 違和感があると思い込んでいたが、実際に名前で呼ばれてみると意外なほどにすんなりと受け容れられる自分がいた。

「お前にそう呼ばれるの、ずっと待ってたんだぜ」
 おれは早速店員を呼び、ウィスキーのロックとチェイサーを注文した。

「マティーニを飲んだあとで何杯いけるか、勝負しようぜ!」

「……君にだけは負けないよ」

 馬鹿な争いを始めたおれたちの様子を、カウンターの向こうの店主バーテンダーが呆れ顔で見ていた。

<翼> 
 九

 祖父の元へは、俺とめぐちゃんとで毎日のように通った。その効果か分からないが、祖父は自力で起き上がれるまでに回復し、宣言通り退院を果たしたのだった。

 そうは言っても、以前のように歩き回ることは出来ない。そこで祖父にも、鈴宮家で過ごすことを提案した。話し相手や介助者がいれば、祖父母もこちらも安心、と言うわけだ。

 反対されるかもしれないと思っていたが「ばあちゃんが世話になっているなら」と、すんなり受け容れてくれたのは有り難かった。

 祖父も分かっているのだろう。元気に振る舞っていても、身体が思い通りにならず、誰かの手を必要としなければならないことを。そして俺たちもまた、祖父の荒い息づかいや、歩くのもやっとの姿を見て思う。この暮らしがそう長く続かないってことを。

 めぐちゃんとの結婚は焦らない、つもりだった。だけど、少しだけ焦りの気持ちが生まれてきている俺がいた。

 祖父が鈴宮家にやってきた日の午後、めぐちゃんと久々にバイクで出かけた。まだ日中は暑いけれど、日差しや空気に秋の気配を感じる。

 山頂は地上よりも涼しい風が吹いていて気持ちが良かった。展望台から眼下に広がる町を二人で見下ろす。

 どう切り出したものかと思案していると、めぐちゃんが先に言葉を発する。

「……ねぇ、翼くん。やっぱりわたし、おじいちゃんにはわたしたちの結婚式を見てもらいたい。こんなことを言うのは、わたしのワガママだって分かってる。だけど……」

 その顔は真剣だった。俺は彼女の手を取って答える。
「大丈夫。俺も、今は同じ気持ちなんだ」

「えっ……?」

「本当は、夫婦になるのも結婚式を挙げるのもめぐちゃんの高校卒業後にって考えてたんだけど、形だけなら……いや、式だけは前倒ししてもいいかなって、今は思ってる」

「翼くん……」
 めぐちゃんはほっとしたように微笑んだ。

「だけど、問題はじいちゃんをどうやって式場に連れて行くか、だ。たとえ車椅子に乗せたとしても、連れて行くのは結構大変だと思うんだよなぁ」

「それならわたしにいい考えがあるの!」
 めぐちゃんはにっこりと笑う。
「実は、友だちのお母さんが春日部神社の宮司さんでね。神前式なら悠くんの家で婚礼の儀式をしてもらえるんじゃないかと思ってるの」

「鈴宮家で結婚式!?」
 その発想はなかった。しかしそれならば、祖父母に無理を強いる必要もない。
「で、でも確か、神前式って神社でやるものじゃ……?」

 戸惑いまくりの俺に対し、めぐちゃんは余裕の笑みを浮かべている。
「たぶん大丈夫。友だちのお母さんは神様と繋がれるらしいから、きっと家にも神様を呼べるよ。……信じるかどうかは翼くんに任せるけど」

 めぐちゃんの話が事実なら、その人は本物ってことになる。まぁ、神様を呼べるかどうかはこの際関係ない。本物の宮司が来てくれるなら、それだけでこっちとしては有り難い話だからだ。

「じいちゃんとばあちゃんの前で結婚式が出来るなら何でもいいよ。早速、頼んでもらえるかな?」

「オーケー。善は急げ、だよね!」
 めぐちゃんはそういうなり、本当にスマホを取り出して電話をかけ始めた。

◇◇◇

 十月十五日は地元の秋祭りであると同時に俺の誕生日でもある。実はその日は、アキ兄がエリ姉にプロポーズした日でもあるらしく「とにかくおめでたい日だから」と、めぐちゃんはその日に式を挙げたいと主張している。

 もちろん異論はなかった。式までちょうどひと月。祖父の体調を思えば、その日と言わずに一日でも早く式を挙げたいくらいだが、先方の都合もあるからこればかりは仕方がない。

「誕生日に挙式とは、お前はとことん、氏神様とご縁があるんだなぁ」
 実家に顔見せがてら、挙式日を伝えると、父がそんなことを言った。

「……あれから二十九年も経つのか。早いものだな。あの日は仕事が忙しくて出産の瞬間には間に合わないかもしれないと思ったんだが、ぎりぎりセーフでなんとか立ち会うことができてなぁ。あの感動は今でも忘れないよ」

「ふぅーん」

「九回裏まで無得点だったところでサヨナラ勝ちしたみたいな感動っていうか、手に汗握る、最高の試合をした時の気分っていうか……」

「……ごめん、そのたとえ、わかりにくいわー」

「おっと……わりぃ。いつもの癖でな……。じゃあ違うたとえにしようか。……初めて赤ちゃん時代のめぐちゃんを抱いた日のことって覚えてる?」

「そりゃあ、もちろん」

「それが、お前の誕生の時におれが感じた気持ちだよ」

「あっ……」
 そのたとえなら、俺にも分かる。

 少し前に、ぎこちなく赤ちゃんを抱いた俺の写真を見たときにも思い出した、あの感覚。ちょっとでも力を入れたら壊れてしまいそうに感じて動けなかったこと。そして透き通る瞳で見つめられ、一瞬にして赤ちゃん独特のかわいさに魅了されてしまった時のことは今でもはっきりと覚えている。

(そうか、父さんも親になったときはそう感じたのか……)

 父はうなずく。
 
「もっとも、生まれたてのお前は、彰博たちのもとにやってきた当時のめぐちゃんよりずっと小さくて繊細だったけどな。……そんなお前が、自分の力で羽ばたいていけるようにと願ってつけたのが『翼』だ」

「うん……」

「……お前はよくここまでやってきたよ。自分の翼で羽ばたいている今、おれから伝えられることはもう何もない」

「……二十九年間、ありがとうございました」
 自然とそんな言葉が口から飛び出した。父ははにかむ。

「おれは何もしてやれなかったから、礼なんていらねえよ。……お前ならめぐちゃんを幸せにしてやれると信じてる。結婚式の当日を楽しみにしてるよ」

◇◇◇

 今日という日をどれほど待ちわびただろう。街に一歩出ればそこはお祭り騒ぎをする人で一杯だが、俺たちは親族揃って鈴宮家に集まっている。

 今日の主目的は祖父母に俺たちの晴れ姿を見てもらうこと。だから親族以外で呼んでいるのは春日部神社の宮司とその娘であるめぐちゃんの友人、それからプロのカメラマンの三人だけだ。それでも、鈴宮家の一階はぎゅうぎゅう。皆、指定された席で身体を寄せ合うようにして座っているようだ。

「……緊張するね」
 玄関から居間に続く廊下で控えていると、めぐちゃんが小さな声で言った。

「そうだね。でも、親戚全員、見知った顔なんだから大丈夫。……そう感じるのは、普段と違う格好だからだよ、きっと」

 めぐちゃんは白無垢姿、俺は羽織袴と、神前式に合わせた出で立ちをしている。

「……確かに、袴姿の翼くんはいつもよりずっと格好良く見える。ドキドキするのはそのせいかぁ」

「めぐちゃんもだよ。ほんっと、いつもの何倍も綺麗」

「やだなぁ、褒めすぎだって。……氏神様が翼くんの目にいたずらしたんだよ。だからそう見えるだけ」

「そうだったとしても……」
 思わずその頬にキスしようとしたとき、中からお声がかかった。にわかに気が引き締まる。
「……じゃ、いこうか」

 ふすまが開けられ、一同の前に進み出ると同時にわっと歓声が上がる。親族ばかりとはいえ、視線を一手に引き受けるこの状況下ではさすがに緊張する。部屋の奥に向かうと宮司が待っていた。目が合うと宮司がうなずく。

「これより、お二人の結婚式を執り行います。本来ならば、本殿におわす神の御前で行うのが正式なのですが、今回は特別に、わたくしがここへ神の力を引き寄せてお二人を祝福いたします」

 宮司が一礼し、手に持っていた大幣おおぬさでおはらいを始めた途端、部屋の中にどこからともなく光が差し込んできた。

(この人、すごい……。めぐちゃんの言っていたことは本当だったのか……。)

 一瞬にして神聖な空間が生み出され、「ここに神が降臨したのだ」と確信する。なんとも言えない神々しさを感じながら、指輪の交換や玉串奉奠たまぐしほうてんなどを行う。最後に巫女に扮しためぐちゃんの友人による舞いが披露され、式は滞りなく執り行われた。

 儀式を終えて一息つく。と、役目を終えた宮司がめぐちゃんの前にやってきた。先ほどまでとは違い、穏やかな表情をしている。これが本来のこの人の姿なのだろう。

「めぐちゃん。ご結婚、おめでとう。これ、うちの神社のご神木さまから頂いた葉のしおり。良かったらお守りにしてね」

「わぁ! これって特別な物ですよね!? ありがとうございます!」
 そこへ、巫女さんもやってくる。

「まさか、あんなに悩んでいためぐが、こんなにも早く結婚するとはねぇ。しかも、イケメンのおじさまじゃなくて、オトメンの従兄さんを選ぶとは。無難すぎてつまんなーい」

木乃香このか、それ、どういう意味?!」

「あー、えーとぉ……。三十歳も年上の彼氏さんと結婚したら面白いのになぁって思ってただけ。ほ、ほら、他と違う恋愛してるってだけで話が盛り上がるじゃない?」

「おれは別に、面白がられるためにめぐと付き合ってたわけじゃないんだけどな……」

「ハッ……! イ、イケメンのおじさま。いつのまに……?」
 背後から静かに現れた悠斗に巫女さんはたじろいだ。彼は怒っているのだろうか、少々冷たい口調で言い放つ。

「普通の十八歳の女の子には、めぐのような恋愛結婚は出来ないだろうさ。めぐもおれたちもずいぶんと葛藤した。その結果がこれなんだ。……巫女の格好をしてるなら、二人とおれの決断を見抜いて、今日くらいはそういう発言を控えてもらいたいもんだな」

「ご、ごめんなさい……!」

「娘が失礼なことを……。申し訳ありません」
 宮司が深々と頭を下げた。

「お三方のお話は、めぐちゃんから伺っておりました。娘はただ、羨ましいだけなのです。あなたや新郎があまりにもめぐちゃんに一途だから妬いているだけなのです。どうか、婚礼の席に免じてご容赦くださいませ」

「妬いてるだけ、ですか……。まぁ、おれも翼もイケてるメンズなんで仕方がないですよね……。とはいえこの勝負、アラフィフのおれが勝っちゃってたら、若い翼は生涯自信を失っていたでしょう。彼の将来を考えれば、年長のおれが一歩退くのは当然のこと。そういう姿勢こそ、いい男の証だと思いませんか?」

「…………! こんなに格好いいおじさまを振っちゃうなんて、やっぱりめぐはもったいないことしたなぁ……!」

 巫女さんがそう言いたくなるのも無理はない。それくらい彼は、ここ数年で心身共に格好いい男になってしまったのだから。しかし俺も、悠斗に「イケてるメンズ」と言ってもらった以上は、まためぐちゃんと結婚したからには、悠斗に負けないように、いや、悠斗の上を行く男にならなくてはと、気持ちを新たにする。

 その時、祖父が俺の名を呼んだ。手招きされ、車椅子に近づく。と、しわくちゃな手で両手を握られた。

「ありがとう。じいちゃんの願いを聞き届けてくれて。こんなに嬉しい日を人生の最後に迎えられて、じいちゃんは幸せ者だ」

「何言ってんの。こっちこそ、じいちゃんと一緒に今日を迎えられて嬉しいよ」

「……急かしてしまって、すまなかったね」

「急かされてなんか……」
 首を横に振るが、祖父は目を潤ませてうなずいている。

「分かってる。分かってるさ……。じいちゃんが最後のワガママを言った。それを孫たちが叶えてくれたということくらい……。翼もめぐも、本当に優しい孫だよ」

「じいちゃん……」

「末永く、幸せにな……。いつか子どもが生まれたら、天国から様子を見に来る。だから、この前じいちゃんが言ったことは気にするんじゃないぞ? もう幸せは充分にもらったんだから」

「おじいちゃん。そんなこと、言わないでよ……」
 俺たちの会話を聞いためぐちゃんが涙ぐみながらやってくる。
「こうして元気になったじゃない。おじいちゃんはこの後もっともっと元気になって、百歳まで生きるんだから!」

「長生きしろとは。めぐはそんなにじいちゃんが好きか。はっはっは……!」
 祖父は目尻にシワをつくって豪快に笑った。

「めぐ、綺麗になったな……。これからは、じいちゃんじゃなくて翼のために笑いなさい。そして翼を支えなさい。それがじいちゃんの願いだ」

「…………」

「翼もだよ。めぐの笑顔を絶やさないように、翼自身も笑顔を忘れずにな。笑っていれば、どんな苦境も乗り越えられる」

「……分かった」

「さぁ、しんみりするのはおしまいだ。今日は二人が疲れるまで笑わせるぞー」
 祖父はそういうなり、俺の脇の下に手を突っ込んでくすぐり始めた。

「えーっ!? 笑わせるってそっちかよっ! ぎゃはっは……! くすぐりは苦手だって知っててそれは反則だろー!!」

「オジイ、おれも手伝います!」
 すかさず悠斗もくすぐりに参戦する。

「ちょ、まっ……! ゆ、悠斗くーん……! それ以上くすぐられたら息ができないって……! ひーひーっ……!」

 俺が顔を引きつらせながら笑っているのを見て、女性陣が笑う。それを見た父やアキ兄も笑っている。

(笑う門には福来たるっていうけど、これだけ笑っときゃあきっと、しばらくはいいことずくめのはず。じいちゃんだってもっと元気になるはず……。)

 そのためならば、死ぬほど笑ってやろうと決める。めぐちゃんを笑顔にするために。そしてこれからもここで家族と幸せに暮らすために。

 親戚同士の結婚とあって、親たちは飲めや歌えの大騒ぎ。いつの間にか俺たちのことも忘れ酔い潰れてしまった。

「まったく、うちの息子たちはいつまでも子どもなんだから……」
「うーむ……。こんな姿を見てしまったら、まだまだ死ねんな」

 祖父母も呆れる体たらくの父親たちは、夕方頃に目が覚めたところでタクシーに押し込み自宅へ帰した。

 ようやく家の中が静かになる。外では祭りが最後の盛り上がりを見せている頃だろうが、さすがに今日は疲れた。今から見に行く元気は残っていない。めぐちゃんもそうらしく、親たちを送り出した直後に風呂を入れ、現在入浴中だ。

「お前とめぐは先に二階で休めよ。オジイとオバアの世話はおれが引き受けるから」
 俺の様子に気づいたのか、悠斗が気を遣うように言った。

「いや、それなら俺も手伝うよ。休むのはじいちゃんとばあちゃんが寝付いてからで……」

「翼。ここは悠斗さんの言うとおりにしなさい」
「そうよ。何せ、今日からつばさっぴとめぐちゃんは夫婦なのよ?」

 俺の言葉を祖父母が制する。なぜそんなにもかたくなに……と思っていたら、悠斗がかばんの中から何やらごそごそと取り出してきて、俺をひとり、廊下に呼び出した。

「な、なんだよ……?」

「年長者の有り難い言葉には素直に従っておくことだ。ほら。今度は新品だから安心しろ」

「今度は、って……?」
 疲れた頭で手渡された袋を見ると、箱入りの避妊具が一つ入っていた。

「おれからの結婚祝いだ。有り難く受け取れよ」

「……またまた要らぬお節介を」

「馬鹿が。結婚したんだ、もう遠慮する必要なんかないだろう?」

「…………」
 黙していると、めぐちゃんが風呂場から出てきた。

「あー、さっぱりした。翼くんも入ったら?」
 俺はとっさに袋を後ろ手に隠した。それを見た悠斗に小突かれる。

「ほら、お前もさっぱりして来いよ。めぐが待ってるぜ?」

 風呂に入ってリラックスしたのもつかの間、めぐちゃんの部屋に向かうべく階段を上るたび緊張が高まってくる。ドアをノックし、返事を待って中に足を踏み入れる。

「めぐちゃん、あの……」

「翼くんもこっちにおいでよ。お祭りの音が少しだけ聞こえるよ」

 誘われて窓から顔を出す。祭り会場からここまではずいぶん離れているが、確かにお囃子はやしの音がかすかに聞こえる。

「翼くん。誕生日おめでとう」

「えっ」

「もうすぐ今日が終わるって言うのに、今更すぎるかな……。でも、今日のうちに言っておきたくて」

 朝から挙式のことで頭がいっぱいだったから、自分の誕生日だったことをすっかり忘れていた。

「ありがとう。今日で二十九歳になりました」

「ふふっ。わたしと出会って十八年……。ずいぶん待たせちゃったかな?」

「まぁ、それなりには待ったかもしれないけど、必要な時間だったと思ってる」

「さすがは翼くん。言うことが大人だなぁ……」
 めぐちゃんはちょっと恥ずかしそうにうつむいたかと思うと、上目遣いで俺を見る。

「……わたしからの誕生日プレゼント、受け取ってくれますか?」

 そう言った唇が俺のそれに重なった。普段とはまるで違う、求めるようなキスをされて言葉の真意を知る。

「待たせたのは俺の方だ……。もちろん、受け取るよ。その身を預けてくれるというのなら、めぐちゃんのすべてを……」

 俺は彼女の背に腕を回して一度抱きしめた後、カーテンを引き、素肌に羽織っただけのパジャマを脱がせた。間接照明ルームライトが彼女の美しい上半身を浮かび上がらせる。

「やっぱり……恥ずかしい……」
 そっと正面を隠される。

「なら俺が……隠してあげる……」
 早くその体温を感じたくてシャツを脱ぎ捨て、身体を重ねる。そのままベッドに横たわり、甘いキスを繰り返しながら互いを丸裸にしていく。

 この先はもう、言葉を必要としなかった。身体と心の欲するままに、互いに何もかもが初めてのことだとしても、何をすべきかはすべて分かっていた。

 彼女がその身に俺を導き、俺はその導きに従って彼女の深奥に侵入する。「鎧」をまとった状態なら安心。ここは悠斗に感謝せねばなるまい。だが、狭き道を突き進むのは決してたやすいことではなく、彼女にいくらかの苦痛を味わわせてしまう。それでも彼女は俺と結びつくことを望んだ。むしろ俺に、自身のすべてを知ってほしいと誘ってすらいる……。

(めぐちゃんは悠斗ではなく俺を選んだ。つまり、彼女のすべてを知ることが出来るのは俺だけなんだ……。)

 その事実に気づいた瞬間、誇りと自信がみなぎってくる。

「愛してる……」
 それだけを呟き、彼女の中心に深く踏み込む。

「わたしも……愛してるわ……」
 彼女の囁き声にとどめを刺された俺は、彼女の中でついに長年の想いを成就させたのだった。

「こんなに素敵なバースデープレゼントは初めてだ。もう一生もらえないかもしれないって位に嬉しい。……めぐちゃん、俺と結婚してくれて、愛し合ってくれてありがと」

 息が整った後で、うっとりと俺を見つめる彼女に向かって礼を言った。彼女は、まだ夢を見ているみたいに微笑み、俺の頬に手を当てる。

「何の取り柄もないわたしを受け容れてくれてありがとう。……末永くよろしくお願いします」

「こっちこそ、よろしく」
 ちょっと淡泊な言い方だったかもしれない。けれどめぐちゃんはにっこりと笑い返してくれた。氏神様のいたずらか、それはまるで天使の微笑みのように見えた。

エピローグ

 懐かしい気配を感じて目が覚める。やはりそこには在りし日の娘の姿があった。
 起き上がろうとする、が身体は動かない。仕方なく意識だけをそちらに向けて語りかける。

(お帰り、愛菜)
 
 ――ただいま、おとーさん。やっと、帰って来れそうだよ。だから、最後の挨拶に来たの。

(そうか。いよいよ、なんだな……)

 愛菜がはっきり言わなくても、娘の言わんとしていることが手に取るように分かる。おれはもうすぐ、愛菜の魂と出会えるのだ、と……。

 ――だけど……。
 と愛菜は続ける。
 
 ――愛菜が生まれると言うことは、他の誰かが命を失うと言うこと。この世の命はそういうバランスでできてるから……。

(誰かが……死ぬのか……)

 ――誰か……。はっきり言えば身近にいる、大事な人ってことなんだけど。

(大切な人……)
 すぐに思い浮かんだのは翼とめぐだ。

(待て、二人の命だけは奪わないでくれ……! 二人のどちらかでも失ってしまったらおれは……。)

 ――大丈夫。おとーさんから一番大事な人たちを奪ったりはしないよ。

(……それじゃあ一体?)
 魂のままの娘はそれには答えずにすっと消えてしまった。

◇◇◇

 突然、目の前に光を感じた。オレンジ色の光は球状になったかと思うと、わたしの目の前で明滅を繰り返す。どうやらそれが光の主の話し方らしい。

 ――おとーさんの願いを叶えるためにやってきたの。

 姿なき光はそう語った。おとーさんって、誰のこと……? 疑問に思ったのもつかの間、光はわたしの身体をぐるりと一周する。

 ――私はあなたの赤ちゃん候補のひとり。あなたが会いたいと望めば、私はすぐにでもあなたのところへ来るわ。あなたの大切な人の命と引き換えにはなるけれど。

(それって、大切な人の命と引き換えに赤ちゃんを授かると言うこと……?)
 声には出さなかったのに、わたしの考えは「光」に伝わってしまったようだ。

 ――これは定め。おとーさんがあなたを愛した時からの。そう。おとーさんがあなたと結婚する道を選んでも選ばなくても、こうなることははじめから決まっていたのよ。

 それを聞いた瞬間、光の正体も、おとーさんが誰なのかも分かってしまった。

(あなたは……)

 名前を言おうとした瞬間に目が覚めた。辺りはまだ暗かったが、飛び起きた拍子に隣で寝ていた翼くんを起こしてしまう。

「……どうしたの? 怖い夢でも見たの?」

「……うん、ちょっとね」

「大丈夫だよ。俺がついてるから」
 そう言って翼くんが起き上がり、抱いてくれる。

「翼くん……。もし、誰かの命と引き換えに新しい命を授かるとしたら、どう思う?」

「…………」
 彼は黙り込んだ。そしてより強くわたしを抱きしめる。

「それが夢で見た内容なら、そんなのは忘れた方がいい。所詮、夢は夢だ。俺は誰かの命と引き換えてまで子どもを望んだりはしないよ」

「うん、そうだよね。それを聞いて安心だよ」

「めぐちゃんはまだ十八歳の高校生だ。俺くらいの年齢まではうんと遊んで、たくさん世の中のことを知るべきだと俺は思うよ。大丈夫、俺は待つよ。めぐちゃんが赤ちゃんを望むその時まで」

「ありがとう……」

「さぁ、まだ夜明け前だ。もう一眠りしよう……」
 翼くんは大あくびをして、わたしと一緒にベッドに横たわった。

(そうだよね……。今のはただの夢。気にすること、ないよね……?)
 自分に言い聞かせて眠りにつく。

 しかし翌朝、目が覚めてこの話を悠くんにしたとき、ただの夢で片付けることができなくなった。彼もまた同じような夢を見たと言ったからだ。

――第二部 完――
第三部へ続く


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いろうた@「今、ここを生きる」を描く小説家
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