【連載小説】「好きが言えない」#1 退部届

 玄関の一番目立つところに飾られたトロフィーは父の自慢だった。
「県大会で準優勝ってのは、埼玉じゃすごいことなんだぞ? なんせ出場校が多くて、予選を七回も八回も戦わないと決勝に進出できないんだからなぁ」
 県内で甲子園の土を踏めるのは、百以上ある高校の中の一校だけ。その、一枚のカードを手にするためにみな、血のにじむような練習を重ねる。そして日々の努力を継続できた者たちだけが栄光を手にすることができるのだ。
 父は知っている。野球のすべてを。そのうえで、幼いころから私にこう言い続けている。
「詩乃(しの)。お前ならきっと行ける。甲子園にだって、きっと」と。


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 手渡した「退部届」を、部長はしばらくの間静かに見つめていた。
 私は沈黙に耐えかねて退部の理由を告げる。
「もう、みんなと一緒にやれる自信がないんです。体力差も広がる一方ですし、これ以上足手まといになる前に身を引きたいんです」
 それを聞いた部長は小さく息を吐いた。
「確かに、男ばかりの中で一人、最後まで戦いきるというのは難しいかもしれないね。君の、さっぱりしていて潔いところはみんなも気に入っていたと思うが、春山クンが自分をそう評価し、結論を出したのなら仕方がない」
「受理していただけるんですか?」
「僕は君の考えを尊重するよ。ただ、みんなは止めようとするだろう。それは織り込み済みだよね?」
「……はい。でも、私の気持ちは変わりません」
「春山クンらしいな。退部届は確かに受け取ったよ」
「ありがとうございます」
「……いつでも、戻っておいでよ」
「……短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございました」
 この部でだれよりも優しいのは部長だった。その部長に、こんな最後の別れを告げられたら、なんだか後ろ髪をひかれてしまう。
 でも、もう決めたのだ。私の意志は固い。

 中学一年生から続けてきた野球部生活に、私は今日、終止符を打った。
 なんということはない。今日から「普通の女の子」に戻る。それだけのことだ。
 きっかけは二つある。
 一つは、高校男子との体力差を如実に感じるようになったということ。
 もう一つは、姉にメイクアップされてすっかり感化されてしまったということ。
 そう。父の影響で野球をやっては来たけれど、私はやっぱり女子。肌を黒く焼き、泥にまみれ、汗だくになりながらボールを追いかけるようにはできていないのだ。
 二学期最初の登校日。夏休みが明け、気持ちを新たにスタートするにはちょうど良い。私は晴れ晴れとした気分で、一年C組の教室に向かった。
「おはよ、祐輔(ゆうすけ)。相変わらず眠そうな顔してるね」
 始業式の今日は朝練がない日だ。彼は私の顔を見るなり近づいてきた。
「そっちこそ、相変わらず能天気だな! 一週間も部活休んで、最初の挨拶がそれかよ? 何かほかに言うことないわけ? 休んでた理由とかさ」
 先週一週間、私ははじめて部活を休んだ。どうしても足が向かなかった。
 理由はわかっている。夏の大会で私が凡ミスを連発し、敗退を喫したせいだ。最悪なことに五回コールド負け。あまりにも惨めな結果だった。
 みんなは慰めてくれたし、励ましてもくれた。だけど、深く刻み込まれた傷は、そう簡単にはふさがらない。敗退後の練習は全く身が入らず、一週間休み、ついに退部届を出すに至ったのだった。
「奈々ちゃんの……お姉ちゃんのところに行ってたの。気分転換よ、気分転換」
 事実を言ったところで、野球以外に興味のない祐輔が反応を示さないことはわかっていた。それでも、休んだ理由は知りたいだろうから教えてやった。
「それで、気分転換できたんだろうな? 例の試合のこと、引きずってるんだろうけど、あれはいろいろ運も悪かったんだし、気持ち切り替えていこうぜ」
 案の定、反応は薄かった。彼はまだ知らない。私が辞めたことを。さて、いつ伝えようか?
 その時、同じ野球部の仲間が教室に飛び込んできた。
「は、春山! 辞めるって、まじかよ!」
 野上だった。ポジションはライト。部で一番声がでかい。
 さっき部長に届けを出したばかりなのに、なんでそのことを知っているのよ? それに今日は朝練がないから先輩と顔を合わせることもないはず。
 詮索をする間もなく、真実を知ってしまった祐輔が「はぁ?」と怒りの声を漏らし、説教を始める。
「誰にも相談しないで辞めたのか? おまえ、相変わらずせっかちだな。一人で勝手に気落ちして辞めるなんて。
 いいか? 野球ってのは連帯責任なんだ。一人のミスはみんなのミス。そんなことは知ってるはずだろう? おれだって強豪相手に手足が震えてた。その時点でおれらはもう負けてたんだよ」
「そうそう。それにさ、負けて悔しいなら『次こそは勝つぞ』って気持ちで、毎日練習積み重ねたほうがいいとおれは思うね。辞めたらおしまいだぜ?」
 二人は必死に説得しようとしている。部長の言った通りだ。けれど、その程度で考えを変える私じゃない。
「私はもう、限界なのよ。男子と一緒にやるのは。いくら頑張っても追い越せない、この辛さは男子のあんたたちにはわからないでしょうよ!」
 はっきり言い切ると、二人はそれ以上言ってはこなかった。
 これでいいのだ、これで。私はもう、野球から卒業するのだ。


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