【連載】チェスの神様 第三章 #11 アキとエリー

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 どこへ向かっているのか。まるで見当もつかなかった。人通りの多い商店街を、危なっかしげに走り抜ける。
 自転車を止めたのは、川越駅東口前。そこから歩道橋を駆け上がり、駅通路を通り抜け……。どうやら西口のデッキに向かっているようだ。
 商店街から離れる方向のため、東口の高架橋と違って人通りはそれほど多くない。だが、通路は広くて開放感があり、ちょっと話し込んだり、ギターの弾き語りをしたりするのにはちょうどいい場所だ。鈴宮はそこで足を止めた。
「なぁ……」
 デッキの手すりにもたれ、彼はあか抜けない西口の景色に目をやる。
「どうして映璃を好きになったんだよ。俺が先だったのにさ……」
「好きになるのに理由なんていらないだろ」
 僕もその隣に立ち、鈴宮の横顔に向かってきっぱりという。
「鈴宮と付き合っていようが、泣き虫だろうが、体に問題があろうがそんなのは関係ない。僕はこの世にたった一人しかいない『吉川映璃』を好きになった。エリーだから好きになったんだ」
「……そっか。お前はそんな映璃が好きなんだな? ほかの女じゃダメなんだな?」
「ああ」
「……付き合ってたのに、俺は映璃の体の問題に真剣に向き合おうとしなかった。笑顔の裏に隠れた悩みに気づけなかった。そして強引すぎた。勝敗を分けたのはそこなんだろうな、きっと」
 彼はそういうと何度かうなずいた。
「野上。明日のテストだけどさ……。こんなことになったけど、それでも勝負するか?」
「テスト……」
 僕が駆け引きに使おうとしたあのテストが明日ある……。正直な話、勉強なんて大してできてない……。
「鈴宮が僕らの交際を認めてくれるならやる必要はないよ。……。大体、勝負したってどっちの結果も散々なのは目に見えてるし」
「だよなぁ」
 鈴宮はやけにほっとした様子で、
「よかった、そこだけは意見が一致して」
 と言った。
「ってことは、認めてくれるの?」
「さっきの時点で認めてるよ、ちゃんと。ただ……聞きたかったんだ。映璃を好きになった理由を。一対一のほうが、言いやすかっただろう?」
 エリーに対する想いを打ち明けた一分ほど前のことを思い出し、僕は顔が熱くなった。
「真面目なやつだなぁ」
 鈴宮はそう言って笑った。
 三年間、同じクラスになるという腐れ縁でつながった僕ら。まさか好きになる人まで同じになって争うことになるとは想像もしていなかった。
 鈴宮をキングに見立て、ナイトに扮した僕がチェックメイトするつもりだった。クイーンのエリーを守りきるつもりだった。でもそれ自体が、奪い合う行為自体がばかな発想だったと今頃理解する。恋愛は、ルールとゴールの決められたゲームじゃないのだと。
「さて、話は済んだ。映璃のところに戻ってやれよ。きっと待ってると思うぜ」
 さっきまでの執念深さが嘘のように彼は言った。
「気持ちの切り替えが早いんだな。もっと突っかかってくるもんだと思ってた」
「終わったことはいつまでも引きずらねぇ男だ。それに、映璃の笑顔が見られるなら、もう相手がお前でもいい。そう思えてきた。だから、行ってやれよ。そんでもって笑わせてやれよ」
 振られて、かつ目の前にいる恋敵に向かってそんなふうに言えるものなのか。今まで女たらしの嫌な奴としか思っていなかったから、新鮮な感覚だった。
「鈴宮って……いいやつだね」
「野上も、単なるチェスオタクじゃなかったな、見直したよ。ただし、ちょっとだけな」
 互いに穏やかな表情になる。初めて分かり合えた気がした。
「そうだ。映璃のところに行くなら、これやるよ」
 鈴宮がポケットから小さな包み紙を出した。どこにでも売っているガム。だけど苦手なミント味だった。ちょっと考え、その真意を汲み取った。
「親切はありがたいけど、自分で買うよ。味が苦手で」
「うまいんだけどな。まぁ、おまえの好きな味のガムを買えばいいと思うよ」
 そんじゃ、俺はここで。
 引きずらない性格だと言った通り、彼はさわやかな笑みさえ浮かべて帰っていった。
 僕はすぐ近くのコンビニでさんざん悩んだ末にレモンキャンディーを買い、三つ口の中へ放り込んだ。そしてエリーの家へ向け自転車を走らせる。

   *

 夜の住宅街は静まり返っている。自分の呼吸や鼓動、自転車を漕ぐ音がやけに大きく聞こえる。
 家の前でブレーキをかけると、整備不良のせいで大きな音がしてしまった。家の中にまで聞こえたかもしれない。案の定窓が開き、エリーが顔をのぞかせた。
「アキ……!」
 彼女は慌てて窓を閉め、外に出てきてくれた。そしてすぐに僕の体に飛びつき、腕を回した。
「大丈夫だった? 心配してたんだよ? この前みたいに殴られてるんじゃないかって」
「うん、もう大丈夫。鈴宮はちゃんとわかってくれたよ」
「よかった……」
 ぴったりと体を寄せるエリー。制服の下のぬくもりがはっきりと伝わってくる。緊張が最高潮に達する。
「エリー……」
「うん?」
 彼女が顔をあげたその時、僕はそっと唇を重ねた。ずっとずっと求めていたこの柔らかな感触を僕はついに確かめてしまった。
 時間が止まったように感じた。いや、このまま止まってくれたらいいのにと思った。
 長い長い口づけをし、ゆっくりと唇を離す。エリーの瞳に映っているのは僕。これまで何度も見つめあってきたはずなのに、今はこうしているだけで呼吸が止まりそうになる。
 僕は「ごめんね」と小さな声で告げた。
「どうして謝るの?」
「お互いに夢を見つけて頑張ったらキスしてくれるって約束だったのに……。これ以上、気持ちを抑えられなかった。だから、ごめん……」
 そう。僕はまだ、夢と呼べそうなものを見つけたに過ぎない。エリーのそれも聞いていない。にもかかわらず自分の気持ちを優先させてしまった。
 約束を守れなかった僕をエリーはずっと見つめている。何を言われても言い訳できないと覚悟を決める。しかし、エリーは微笑んだ。
「それだったら、心配ないよ」
「えっ……」
「私は悠と別れた。アキはやりたいことを見つけた。私も……見つけた。見つける努力をした。だから、キスはそのご褒美よ」
 今度はエリーから。ためらいながらも、求めるような、ちょっと大人なキス。鈴宮が教えたかもしれないキス。だとしても、そんなことは、どうでもいい……。
 長い抱擁とキスは僕たちの心の距離を一層縮めた。春の優しい夜風がほてった頬をなでていく。夢か現実か区別がつかないほどに、僕たちは二人の世界に浸っていた。
「……エリーの見つけた夢ってなに?」
 心と体が満たされた時、僕は耳元でささやいた。彼女も僕の耳に唇を寄せて答える。
「……子どもを育てる仕事。産めなくても、子供に携わることはできる。それが私の役目なんじゃないかって。……アキの言葉が、また私の背中を押してくれたおかげよ」
「素敵な夢だね。エリーならきっとなれる」
 ずっと自分を否定し続けてきた彼女が、己を見つめ、未来への一歩を踏み出すことができたのだと思うと嬉しくなった。
 ところが、エリーはすっと体を離し、うつむいた。
「どうしたの……?」
「私ね、ずっといい子でやってきたの。周りの大人や、先生の言うとおりに生きていれば幸せになれるんだって信じてた。だから、自分では何も考えてこなかった」
「何も考えてなかったところは僕と一緒だ」
 エリーは、くすりと笑った。
「信念がなかったの、私の場合。ただ漠然と、将来は幸せになりたいって思ってただけ。でもね。私はずっと、『幸せじゃない自分』を盾に逃げてただけだった。空っぽの自分を隠すために。
 南高を選んだのも、中三の時の担任が薦めたから。学びたいことも特別なかったし、部活動にも興味がなかった」
「えっ、じゃあなんでチェス部に?」
「同じクラスに、チェス部に入るために入学したって豪語してるオタクがいたから」
「それって、僕のこと……」
 エリーは微笑み、うなずいた。
「正直な話、チェスなんて日本じゃ将棋よりマイナーなボードゲームでしょって高をくくってたの。将棋はおじいちゃんとやってたからルールはだいたい知ってたし、そんな動機で高校に入った野上彰博を馬鹿にしてやろうと思ったのが最初」
「なに、それ。ひどい……」
「でもね。実際にやってみてアキの本気度を知ったの。何度やっても勝てない。悔しくて仕方がなくて必死に勉強して……。そのうちにチェスの魅力にどっぷりはまってしまったってわけ」
「そうだったんだ……」
「チェスは私の居場所を作ってくれた。そして、それはアキがいてくれたから。私にとってチェスは……。そう、神様みたいなものね」
 神様、と聞いて何度も見た夢を思い出す。
 チェスの神様は、「私のいうとおりの道に進めばずっと好きなチェスをしていられるよ」と言う。けれど、僕は迷い立ち止まった。そしてエリーの病気と向き合い、人生の大先輩の話を聞いて結論を出した。
 未来を見通せる「チェスの神様」は所詮、ボード上と夢の中だけの存在。夢で見た二本の道のどちらを選ぼうが、歩くのは僕。そしてその道が満足するに足るものかどうか判断するのも僕。ならば僕は、今日を一生懸命生きて自分の足で道を作っていくだけだ。
「僕は自分のことをナイトだなんて言ったけれど、本当はポーンだと思ってる。一歩ずつ、着実に前にだけ進む。弱い駒だけど、戦略次第では昇格して強くなれる。いかにも僕らしい駒だってね」
 エリーはどう? 尋ねるとすぐに答えが返ってくる。
「クイーン……だなんていうわけないでしょう? 私もポーン。臆病者で、目の前に敵がいても立ち向かえないんですもの」
「でも、斜め前の敵をとれる。弱くてもちゃんと戦う力を持ってる」
「……そうね。ポーンが進まなきゃ、ほとんどの駒は前進することができない。そしてすべてのゲームはポーンを動かすことから始まる。ちっぽけで役立たずだなんて、言っちゃいけないね」
 エリーは顔をあげた。その顔はどこか自信に満ちているように見えた。
 僕らの人生はチェスに似ている。戦略通りにはいかないこともある。ドローに終わることもある。そしてまた一からやり直して違う攻め方、生き方をすることもできる。
 答えはない。ただ、「今」がずっと続いていく。そうやって僕らは生きていくのだ。


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いろうた@「今、ここを生きる」を描く小説家
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