【連載】チェスの神様 第三章 #2 親子
#2 親子
日はすっかり暮れていた。
家の前まで来たとき、玄関の前でしゃがみ込む人影を見つけた。暗かったせいですぐに誰かは判別できなかったが、煙草の火が見えた。
父だった。私に気が付くと、
「よお、帰ったか」
と言って煙草を捨て、立ち上がりながらもみ消した。
「話がある」
どうやら向こうから話し合いの機会を用意してくれるようだ。
父は一歩だけ私に近づいた。下がりかけてとどまる。
一人で何とかすると言った以上は、そして血のつながった親子であるからには、ちゃんと話しあわなければならない。これまで避けてきたけれど、これ以上避けられないところまで来たのだと覚悟を決める。
「話」はなかなか始まらなかった。固唾をのんで待つ。少しの沈黙の後で父は深く息を吸い込み、話し出した。
「この前、加奈子に会った。……乳がんなんだと。まだ初期の段階らしいけど、長い治療が必要になるだろうって」
加奈子というのは実母の名だ。別れて久しいはずだが、まだ連絡を取り合っていることに驚いた。
「……それで?」
できるだけ冷たく言い放つ。
「加奈子がお前に会いたがってる。一度でいいから会ってやってくれないか」
「いまさら何を……」
「加奈子もそう思ってる。今更って。でも、もしかしたら死ぬかもしれないと思ったら会いたくなったんだと。……住所と電話番号はここだ。気が向いたら連絡してやってほしい」
「どうして私から? 会いたいのは向こうでしょ?」
「のこのこと、離婚した男の実家に来られると思うか? 映璃の電話番号を知ってたら教えてやったんだが、あいにくとそれもできなかったからな」
「たとえ教えてあったとしても、母親からの電話なんて出たくもない。一度だって顔を見せない女なんて、親でも何でもない」
「気持ちはわかる。だけど俺と加奈子がいなけりゃお前は存在してないんだ。俺たちが親なんだ」
「じゃあどうして捨てたの?」
私は長年感じていたことを初めて吐露する。
「離婚した挙句、養育することを放棄したのに、どうして加奈子と会ってるのよ? おかしいじゃない。再婚相手も迷惑してるでしょうに。あの子だって可哀そうよ」
「ユリに加奈子のことを話すつもりはないし、会ってるといっても、おまえに会ったことの報告をしてるだけだから、数年に一度だよ。向こうから連絡があったのも今回が初めてだ」
「……どうして私に会ったことを教えてるのよ?」
「そりゃあ、親だから」
「育ててないくせに」
私の言葉を聞くと、父は煙草を一本取り出そうした。が、迷った末にやめ、代わりに箱をもてあそび始めた。
「……育て方が分からなかったんだ。あの頃は俺も加奈子も二十そこそこで、やりたいことがたくさんあった。そんな中でおまえの存在が……重かったんだ」
「無責任」
「そう。分ってる。……だからもう一度、やり直したいと思って今、ユリを育ててる。もし、やり直せるなら……。お前が嫌じゃなけりゃ、一緒に暮らしてもいいと思ってる」
父が今回、一番話したかったのはこれだ、と直感する。あまりにも自分勝手な内容に、怒りよりむしろ呆れてしまう。
「あんたたちの家庭に突然、私が入っていけるわけないじゃない。あの子が大事に育てられてるのを知っただけで十分。それ以上かかわる気はないわ」
「まっ、そういうだろうな、普通は。でも、こっちは割とマジで誘ってんだよ。嫁さんにも映璃のことは話してある。会いたいとも言ってる。ちょっと考えてみてくれないか?」
「映璃は渡さん!」
上空から低い声が降ってきた。
「親父……」
ベランダからおじいちゃんが一部始終を見聞きしていたらしかった。
「渡さんぞ」
おじいちゃんはもう一度言った。
「黙って聞いてりゃ都合のいいことばかり言って。誰が十七年間も映璃を育てて来たと思ってる? 若い時に子育ての苦労を知ろうとしなかった野郎に、今になって横取りされてたまるか。どうせ今度も、育てきれずに育児放棄するにきまってる! さっさと自分で育てるのはあきらめてここへ置いて行け」
「俺はもう子供じゃねぇ! あれから人生経験も積んだ。今回はちゃんと育ててく!」
「一度失った信用は簡単には取り戻せないぞ! 親子であってもな!」
すごみのあるその声に、私も父もたじろいだ。
「映璃。安心しなさい。お前はじいちゃんの子だよ。ずっといていいからな」
父には厳しい口調のおじいちゃんが、私にはいつもの温かい声で語った。思わず涙腺が緩む。
「もちろんよ」
「そういえば、映璃をここまで送ってくれた青年は優しそうだな」
「えっ。その時から見てたの?」
「ここはじいちゃんの特等席だからなぁ。川越の町並みが見える、最高の場所だ」
そう言って街灯のともる市街を見つめた。
抱き合っているところもしっかり見られていたに違いない。思い出しただけで顔がかあっと熱くなる。
「ふぅーん。映璃にも男ができたのか。家の前まで来てたのに見物しそびれたとは、残念だ」
面白くなさそうに父は言い、今度は煙草に火をつけた。
「で、どんなやつ? インテリ? スポーツマン?」
「ウザイ。あんたには教えない」
「そういう口ぶり。加奈子そっくりでほんっと、嫌になる」
たびたび登場する加奈子という名前に、こっちだっていい加減うんざりだ。
「冷えてきたな。映璃、中に入りなさい。じいちゃんと一緒に夕ご飯にしよう」
そういっておじいちゃん自身も室内に入った。
「俺のことは誘ってくれねぇのかよ。ひでぇ親父だ」
「……ここはもうあんたの家じゃない。私と、おじいちゃんおばあちゃんの家よ」
父の脇をすり抜け、私は玄関のドアを開けた。
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