時の鐘

【連載】チェスの神様 第二章 #7 小江戸川越

#7 小江戸川越

 時の鐘には病院から歩いて十五分ほどで着いた。一番の名所ということもあり、平日ながらもにぎわっていた。
 改めてしみじみ見上げてみると、ここだけ時間が戻ってしまったかのような錯覚に陥る。百年前の人もこうして、時が告げられるたびに見上げたに違いない。
 神社に一歩踏み入ると、そこにはほとんど人がいなかった。静かに祈りをささげるのにちょうどいい。運よく小銭があったので賽銭箱に入れ、エリーの体がよくなるよう祈った。
「……実はね、ずいぶん前から知ってたの、病気だってこと」
 祈りながらエリーはつぶやいた。
「病名までは知らないよ? でもきっとそうだって思った。だけど病院にはいかなかった。周りの同級生がこんな私の容姿をかわいがってくれたから、何不自由なくやってこれたのも幸いしてね。生理が来ないのも、楽だわぁなんてずーっと思ってた。それなのに……」
「鈴宮と付き合って、そうも言っていられなくなった……?」
 エリーはうなずいた。
「……恋人同士って、本当に体を見せ合ったり重ねあったりするものなのね。テレビドラマの中の話とばかり思っていたのに。悠もそうしたがった。すぐ体を押し付けてきたし、触ろうともした。そして実際触ってみて、ぺしゃんこの体に驚いた……。あの時の顔は今でも脳裏に焼き付いているわ。
 変わりたい、変わらなきゃ……。そう思えば思うほど、私の体は一歩も動けなくなった。そして迫られては嫌になり、自分を責めることの繰り返し。……もしアキが助け舟を出してくれなかったら今頃、私は泥沼でおぼれていたかもしれないね」
「溺れる前に助け出せてよかったよ」
 ゴーン……。
 ちょうどその時、時の鐘が正午を告げた。
「この鐘の音(ね)ってさ、地味だけど、川越らしい感じがして僕は好きなんだ」
「私もそう思うよ。なんでだか、落ち着くんだよね」
 話しているとまた一つ、鐘が鳴った。
「日本の音風景百選の一つに含まれてるらしいよ」
「へぇ。アキって、川越のことよく知ってるよね。歴史も得意だもんね」
「まぁね。だけど、実際に見たり聞いたりしたことがないものも多いんだ。ずっと川越で暮らしてるのにね」
「そうね。私も何となく暮らしてるだけで、寺院を巡ったり、歴史を知ろうとしたことはないなぁ」
 僕らはみんなそうなのかもしれない。毎日、与えられた環境で、与えられたことだけを淡々とこなしている。住んでいる街のことだけじゃない。自分のことさえちゃんとは知らないのかもしれない。

 一番街通りを行く人の波をかき分け、菓子屋横丁に向かう。うっかりすると見過ごしてしまいそうな路地。狭く、短い通りではあるが昔ながらの商店がずらりと並んでいる。
「おなか、空いたね。……麩菓子、買う?」
「うーん……。じゃあ、一本」
 ここは思い切って、一メートル近い麩菓子を購入する。値段はたったの四百円だ。
「わぁ、本当に買ったね。食べきれる?」
「残ったらあげるよ」
「えー、私は遠慮しとくー」
「買わせといてひどいなぁ」
 そこのお兄ちゃん、お姉ちゃん! 大きな声で呼び止められ、見てみると僕の好きな甘酒ののぼりが目に飛び込んできた。

菓子屋横丁2


「あっ、甘酒! 飲みたい!」
「私も好き!」
 麩菓子を持ったまま、僕らは店先の赤い敷物がかけてあるベンチに腰掛け、甘酒を飲んだ。
「あったまるね」
「うん」
 曇天で少し肌寒い、今日みたいな日にはうってつけの飲み物だ。
「麩菓子食べながらでいいよ! ゆっくりしてってね!」
 お店のおばちゃんがニコニコしながら言った。言われた通り食べていると、何を食べているのかと人が集まり、甘酒が売れていく……。僕はいい宣伝役になっているらしい。
 結局、同じ味のものを食べるのに飽きてしまったので、通りにある団子やソフトクリームなどに手を出し、結局ここで腹を満たしてしまった。
「食べすぎたぁ。……お金も使ったぁ」
「アキってば、甘いもの好きなんだね」
「エリーだって、結構食べたじゃん」
「だって女子だもん。甘いものだーい好き」
「はいはい。……で、このあとどうする? まだ昼過ぎだけど」
「じゃあ、氷川神社」
「疲れてない? バス、乗る?」
「ううん。近いから歩いて行けるよ」

 エリ―の発案で次は川越氷川神社に足を向ける。
 大宮にある氷川神社から分祀されたものだが、約千五百年の歴史があるとされる。高さ十五メートルの木造鳥居はやはり目を見張るものがある。
 縁結びのお守りが人気で、時々チェス部の後輩たちの間でも話題になる。
「うちはいつも、初詣はここでするの。ものすごく混むから、三が日は外すけど」
「へぇ」
「老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪」
「……何?」
「太田道灌(おおたどうかん)が読んだ和歌だよ。ここ、氷川神社に奉納したの。……歴史は得意でも、和歌までは知らないんだ?」
「古典は苦手で……」
「じゃあ、今の和歌も覚えておくといいよ。予備知識として」
「……えーと、なんて言ったっけ?」
「もう! チェスの定跡は一発で覚えるのに、こういうのはダメなんだから!」
 エリーは持っていたバッグからメモ帳を取り出すと、そこに和歌を書いてくれた。
「はい。これでいいでしょう」
「ありがとう」
「太田道灌っていえば、うちのおばあちゃんが神様みたいにあがめていてね。市役所前の道灌像の前に来るといつも手を合わせるのよね」
「道灌が神様かぁ。川越城を築いた人だものねぇ。っていうか、おばあちゃんと暮らしてるんだ?」
「父方のね。捨てられて不憫に思ったおじいちゃんおばあちゃんが引き取ってくれたの」
「そうだったのか……」
「二人には感謝してるの。ただでさえ、親がいないことで手を掛けさせているから、あまり心配かけさせたくないんだよね」
「なるほど。それを聞いて今日、僕を頼ってきたのもしっくり来たよ。だけど……」
 僕は改まって言う。
「今日のことはちゃんと話したほうがいいと思うな。僕も人のこと言えないけど、朝早くから、おそらく何も言わずに出てきたんでしょ? 心配してると思うよ」
「……そうね。家に帰ったらちゃんと話す。でも、もう少し一緒にいさせて」

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いろうた@「今、ここを生きる」を描く小説家
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