【短編小説】ワライバでの、とある一日 ~K高野球部編~
「あっとほーむ~幸せに続く道~」番外編です
<前編・永江孝太郎>
――永江主将時代のK高野球部員を集めた飲み会を開催します。場所と日時は以下の通りです……。
「もちろん、永江さんも行きますよね?」
高校時代、そしてプロ入りしてからも長きにわたりバッテリーを組んできた相棒、本郷クンが見せてきたメールの文言を見てしばし思考する。
正直な話、プライベートに割ける時間はほとんどなかった。指定された日も球団関係者との仕事が入っている。だが、即答しない僕を見た彼は「仕事より大事なこともあるでしょう!」というなり電話をかけ、あっという間に仕事の予定の方を別日に変更してしまった。
「たまには肩の力も抜かないとダメっすよ。永江先輩」
笑ったその顔は高校時代の彼を思わせた。
二十三年間の現役生活を終えた僕は、その後の十年も解説者や指導者として野球に関わってきた。引退を決意した際、長年世話になった東京ブルースカイの一軍監督に……という話もあったが、純粋に野球と接したいとの思いから辞退した。時を同じくして現役を退いた本郷クンの方は数年間、同チームのコーチをし、現在は大学や高校野球の指導者として活躍する傍ら、なぜか僕のマネージャー的存在としてスケジュール管理をしてくれている。
◇◇◇
それから半月ほどが経ち、会合の日を迎えた。本郷クンはタクシーで自宅まで迎えに来てくれた。彼の妻でK高野球部員だった春山詩乃クンも一緒だ。
「迎えに来たのに、行かないなんて言いませんよね?」
お互いに五十代とはいえ、春山クンの笑顔は昔とちっとも変わっていなかった。彼女に微笑みかけられるとき、僕はつかの間、人間的な感情を取り戻すことが出来る。だけど、ほんのつかの間だ。勝つため、相手より抜きん出るため、がむしゃらに己を鍛え続けてきた僕は、人として持つべき心を再びどこかに置いてきてしまったようだ。気づいたときには自分が傷ついていることさえ分からないほど鈍感になっていた。
(彼女の言うことだけは聞いておけ……)
心の中で誰かが言った。僕が人として生き続けるなら絶対にそうするべきなのだろう。冷静に考えれば僕にだって分かる。
「ね、行きましょう?」
彼女はもう一度誘った。その顔で何度も微笑みかけられたら、さすがの僕も断れない。
「……春山クンには敵わないな。仕方がない、少しだけ君たちに付き合うことにしよう」
「……相変わらず素直じゃないなぁ」
本郷クンはそう言いながらも嬉しそうに笑った。
*
他愛ない会話をしているうちに目的の場所に着いた。店の看板にはカタカナで「ワライバ」と書いてある。道中で聞いた話によると、オーナーは僕が主将時代に素質を見抜いたキャッチャー、大津クンなのだという。
タクシーから降りて店のドアを開けると、中にいた大津クンと野上クンが駆け寄ってきた。
「本当に来てくれたんっすね! お忙しい中、ありがとうございます!」
「ご無沙汰してます。昨日の解説も面白く聞かせて頂きました。歯に衣着せぬ物言いはいつ聞いても痛快ですね」
少し離れたところで一礼した大津クンとは対照的に、野上クンは僕の手を両手で力強く握り、挨拶をしてきた。彼は僕が抜けた後のチームを託した人物で、紆余曲折はあったものの無事メンバーを統率し、甲子園出場に貢献した実績を持つ。
「健在で何より。……雰囲気は昔のままだな。懐かしいね。二人はたまに会ったりするのかい?」
尋ねると、大津クンが答える。
「いえ、会うのはホントに久しぶりで。あ、でもね、何の縁か知らないんですけど、野上センパイの姪っ子がうちで働いてるんっすよ。今回もそういう経緯でこの会を企画したってわけ」
「で、あそこにいるのがおれの姪っ子のめぐちゃん。実は、息子の嫁さんなんですよ。かわいいっしょ?」
野上クンが照れながら店の奥にいる女の子を指さした。
「……姪っ子で、息子の嫁さん? と言うことは、いとこ同士の結婚なのかい?」
「あはは……。最初は反対してたんですけど、おれに似たのか一度決めたら貫くタイプで。野球好きも似ればよかったのに、そっちのDNAは全部娘に行っちゃいました……」
そのとき、話題に上っていためぐさんがやってきた。
「いらっしゃいませ。永江さんのことは伯父から色々と伺ってます。東京ブルースカイでキャッチャーとして活躍していた永江さんと伯父が、高校時代に同じチームだったと聞いて驚きました。実際にお目にかかれるなんて光栄です。……サ、サインをもらっても?」
「今はもう引退しているけど?」
「構いません……! こ、ここへ……」
後ろ手に持っていた色紙とペンを見たとき、長年の経験から彼女が欲しているわけじゃないと直感する。
「……大津クン。店に飾るサインが欲しいならキミが色紙を持ってくるべきじゃないか?」
「あ、バレちゃいました? めぐっちが頼めば喜んで書いてくれると思ったんっすけど?」
「……ああ、書くさ。彼女のためならね」
いろいろな理由からサインを欲しがる人がいる。こういう事例も度々あったから今更驚くことはない。これも仕事のうちと割り切り、淡々と求めに応じる。プロ野球選手時代に身につけた術だ。
「ありがとうございます!」
彼女は両手で色紙を受け取ると、早速大津クンの元に向かった。
「ちゃんと仕事しましたからね! あー、緊張したー!」
「ありがとう、めぐっち。これがあれば少しは野球ファンのお客さんも増えるだろう。なにせ、うちの店は変わってるからね。使えるものは使わないと」
二人の会話が耳に入り、大津クンも昔と変わっていないなと思う。いや、彼に限らず、今日集まったメンバーは皆、あの頃の雰囲気を残したまま成熟している。
懐かしいと思う一方で、五十歳を超えてもなお子どもっぽい一面を見るとがっかりもする。僕が指導者だからそう感じるだけなのかもしれないが、もっとしっかりしろよと言いたくなるのをなんとか堪えている状態だ。
「永江さーん。顔が怖いですよー」
本郷クンの声で我に返る。目が合うと彼は呆れたように手のひらを天に向けた。
「今日はお仕事モードをオフにしましょう。ちょっとでも仕事っぽいこと考えるとそういう顔になっちゃうんだから。まぁ、ここにいるメンバーはそんな永江さんを知ってはいますけど、せっかくですし、今日くらいは日本一に輝いたときみたいな笑顔を見せて下さいよ」
「……球場以外で感情を表に出すのは苦手でね」
「嘘ばっかり。詩乃の前では笑えるくせに」
指摘されて苦笑いする。確かに彼女の前でだけは笑うことが出来る。だがそれは、彼女が僕の感情を揺さぶる存在だからに過ぎない。
チームメイトの前で見せる笑顔らしきものは仕事用に作り上げたもの。僕が笑っているように見えるとしたらそれは単に野球そのものが楽しいからだ。
「今日は鬼部長の顔をしていた方が、みんなにとっては懐かしいんじゃないのかい?」
そう言って、談笑している元メンバーの前に立つ。自然と視線が僕に集まり、一同が静まりかえる。この感じ。キャプテンをしていた頃を思い出す。
「変わらない君たちを見ていたら昔を思い出したよ。今日は飲み会と聞いていたが、予定変更だ。今からK高に行って野球をしよう。あの頃のように、投げて打って走ろうじゃないか」
『えぇーっ!!』
全員から予想通りの声が上がった。だけど僕は本気だ。むしろはじめからそのつもりでキャッチャーミットをカバンに忍ばせてある。
真っ先にぼやいたのは大津クンだ。
「せっかく店を貸し切りにしたのに……。飲み食いしてってもらわないと儲けが……」
「あれ、理人さん? 普段と言ってることが違いません? いつもは、お金は二の次だって……」
めぐさんが指摘すると、彼は開き直って持論を展開する。
「それは普段来るお客さんの話! 第一線で活躍した元プロ野球選手は別なの! 永江センパイには貧乏喫茶にお金を置いていってもらわないと困るんだよねぇ」
「ならば、僕が現役時代に着ていたユニフォームを一枚プレゼントしよう。僕にとってはもう袖を通すことのないただの仕事着だが、ファンの間では十万以上で取引されたこともある。お金に困っているというならそれを売ればいい。うまくやればかなりの金額になるはずだ」
「マ、マジっすか?! それ、欲しいっす!」
「帰宅したらすぐに送るよ。……交渉成立、かな?」
「はいっ! ランニングでも千本ノックでも、何でもします!」
おいおい、大津。勝手に返事するなよっ! 飲み会のつもりで来たから動ける服装じゃないぜ! 永江の言いなりになってんじゃねえよ! ……などなど、あちこちから不満の声が噴出し始める。このままでは飲み会がしたいメンバーが抜けかねない。ここへ来たのは彼らと野球をするためだと言っても過言ではないのに。
(やれやれ……。こうなったら、とっておきの一言を告げるしかないか……)
僕はもう一度皆を注目させた。そして渋々ながら顔を向けた彼らに言い放つ。
「みんな、なんだかんだ言って、仕事以外の時間はバットを振ったりボールを投げたり走ったりしてるんだろう? その体つきを見れば分かるよ。せっかくの機会だ、日頃の成果を見せてくれよ」
直後、全員の目が輝き始めた。そう。現在、どんな職業をしていようとも、元高校球児である彼らは、白球を追いかけなければ生きていけない人種であることを僕は知っている。ほかでもない、現役を退いたあとの僕がそうやって生きてきたのだから間違いない。
「みんなでわいわい飲めると思ってたんだけどなぁ。やっぱり永江さんが中心になったら野球が始まっちゃうんですね。ま、想定内ですけど」
本郷クンは野球で飯を食ってるから逆に離れたかったのだろう。しかし皆が乗り気になったからには、彼にもやる気を出してもらわなければならない。
「たまには勝ち負け無しの野球をしたっていいじゃないか。子どもの頃のように野球を楽しむ気持ちも大切だろう?」
「確かに……。その感覚、久しく忘れてましたよ」
彼は何かを思い出したようだ。にわかに目をキラキラさせ、エースらしく皆を鼓舞しはじめる。
「よっしゃあ! 久々にこのメンバーで楽しく野球やろうぜっ! 飲み会はその後だっ! 一汗かいてからのビールは絶対にうまいぞっ!」
『おーっ!』
僕は飲み会の代わりに野球を……と提案したつもりだったが、本郷クンの一声で野球プラス飲み会にすり替わってしまった。一番喜んでいるのは大津クンだ。
「やれやれ……。すべてが君達らしいな。幼稚なところまで懐かしいよ……」
小さく肩を落としている僕のそばにめぐさんが立つ。
「素晴らしい団結力ですね! 永江さんってやっぱりすごい方だなぁ! 理人さんや伯父が尊敬している理由が分かりました! ……個人的にサイン、もらっちゃおうかなぁ」
もじもじしている様子がかわいらしい、と思ってしまった。無意識のうちにテーブルの上のコースターを手に取り、彼女が持っているペンでサインを書く。
「君、野球は?」
「あー……。すみません、さっぱりで……。皆さんが野球をしに行っている間、もう一人のオーナーである隼人さんと飲み会の準備をしておきますね。帰りをお待ちしています」
「君は正直者だね。気に入ったよ。うん、必ず戻ってくる。その時はもう少しおしゃべりしよう」
「うっわ、永江さんが口説いてる! 珍しいこともあるもんだ。だけど、ダメっすよ? 人妻に手を出しちゃ」
端で聞いていた本郷クンが僕をからかった。
「野球がいかに面白いスポーツか、知ってもらいたいからね。野球人口を増やすのも僕の仕事だと思ってるから」
「……真面目すぎ。からかいがいがない」
「真面目で結構。……それじゃあ行こうか。なに、僕らが行けば顔パスさ」
「ですね。よーし、みんな、おれに続けっ!」
本郷クンが号令を掛け、一番に店を出る。かつてのエースの言葉に感化されたメンバーは喜々として彼の後に続く。
「永江さんの今の顔、まるで野球少年みたい。誘った甲斐がありました」
春山クンはそう言って僕の手を握った。
「いつでもその顔が見られると嬉しいな。……眉間にしわを寄せてばかりいると寿命が縮みますよ?」
「心配無用。この命、縮んでも微塵も惜しくはないから」
淡々と答えると、彼女はさっと目を伏せた。
僕の身を案じてくれているのは知っている。だが、僕の命は野球と共にある。これは生涯変わることのない信念だ。だから、いつかこの身体が思うように動かなくなったら、その時はこの命も終えるつもりでいる。白球を追いかけられない人生など、僕にとっては無意味も同然だから。
<中編・大津理人>
――コウをよろしくお願いします――
永江センパイに憑く霊の一人にそう頼まれた。誰にも気づかれないよう小さくうなずく。察するに彼の母親だろう。他にも何人かの霊が彼の周りを囲むように憑いている。これまで彼が最高のパフォーマンスを発揮し続けてこられた理由はここにあったのだと、ひとりで得心する。
がむしゃらに努力すれば誰でも成功者になれる、というのは嘘。幸運とは見えざる力が働いた結果得られるもの、と言うのがおれの持論だ。
おれと隼人が喫茶「ワライバ」を続けて来れたのもあっち側の人々のサポートがあればこそだ。
遡ること四十年前、ここには「シャイン」って名前の喫茶店が建っていて、同居していた祖母のお気に入りの場所だった。しかし店主の死去と共に店はなくなり、跡地には娘の手によって放課後児童預かり所が新設されたのだった。ただそこも経営者の体調不良により閉鎖が決まった。近々売りに出されるという話を聞いたのは、奇しくもおれたちが開業のための店舗探しをしているときだった。
祖母が大好きだった喫茶店の跡地で、今度は孫のおれたちが喫茶店を経営する……。運命を感じたおれたちは売りに出される前から交渉し、土地を買った。
その頃からだ。おれたちに亡き祖母の姿が見えるようになったのは。「シャイン」がよみがえったと大喜びの祖母は、今のワライバが完成し、開店するやすぐ常連客になった。ところが皮肉なことに「シャイン」での知り合いが多かった祖母の口コミにより「あっちの世界」の人ばかりが来店するという、嬉しくも悲しい状況が長く続いた。
肉体を持たない人に飲み物を提供する――。それは神社に賽銭を投じる行為に等しかった。当然、損失は増える一方。何度もやめようと主張したが、暢気な隼人は「誰もが好きなときに立ち寄れて、好きなことができる憩いの場。それがここ、ワライバだろう?」と言って聞かなかった。その結果、幾度となく経営難に陥った。
ところが不思議なことに、もう潰れそうだってとこまで行くと、必ず手を差し伸べてくれる人が現れた。最初の時は大手企業の社長。その次は引きこもりの息子を持つ資産家。どちらも病んだ心の持ち主もしくはその家族で、話を聞いてあげるとみるみる元気を取り戻し、お礼と称してかなりの額を寄付してくれたのだった。
そんなことが続いてからと言うもの、この仕事はおれたちの使命であり、生涯にわたって続けなさいという天からのメッセージだと思うようになった。
半分慈善事業みたいな格好で店を続けるうち、現実世界のお客さんも徐々にではあるが増えていった。安定収入が見込めるようになったはつい数年前のこと。めぐっちを紹介されたのはそんなタイミングだった。
まさか野上センパイの姪っ子と一緒に仕事をすることになるとは思ってもみなかったが、彼女を愛でるためだけに来店する客も現れ、ありがたいことに店の売り上げは右肩上がり。また彼女と野上センパイが「K高野球部OB会」を企画してくれたおかげで、野球ファンも増えそうな予感だ。これもまた一つの縁、天の計らいだと思っている。
*
K高にはタクシーで向かった。元気な連中は元プロ組と走って行ったようだが、今のおれにそこまでの体力はない。
「……もしかして、永江センパイとは『イイ感じ』なんです?」
春山センパイと同じタクシーに乗り込んだおれは、ここぞとばかりに質問する。
「さっき手を繋いでたっしょ? 旦那さんには黙っときますから、こっそり教えて下さいよ」
「えっ、見てたの? 残念だけど、想像しているようなことは一切ないよ。……放っておけないんだよね。永江さんって独身だし、野球のことしか頭にない人でしょ? 今日だって祐輔がスケジュール調整したから会合に出席してるけど、それがなかったら今ごろ仕事してたはずだもの」
「へぇ。そんなに心配なんっすか、あの人のこと。どうして? やっぱり特別な感情があるからじゃないんっすか?」
「んー……」
彼女はしばらくの間考えていたが、やがて観念したように話し出す。
「実は……頼まれたのよ。永江さんのお母さんが亡くなる前に、コウの面倒を見てほしいって。祐輔とはずっと同じチームで家族ぐるみの交流もあったから信頼されていたみたい。……永江さんなら何でもできそうなイメージあるでしょ? でも、家のことは全部お母さんがしてたらしくて、洗濯一つまともにできないと知ってびっくり。……一人じゃ生きていけないのよ、あの人は。だからお母さん亡き後は、私と祐輔とで身の回りの世話を引き受けてるってわけ」
話を聞いて再び納得する。どうりで死後も見守っているわけだ。それにしても、あの名捕手が家事の一つも出来ないとは面白いことを聞いた。
「……本人には言わないでよね?」
「言いませんよ。これでも店を持ってますからね。お客さんから聞いた話を許可なく言いふらすような真似はしません」
「へぇ。大津も大人になったんだ。お店、繁盛してるって聞いたよ? 今度、個人的に遊びに来ようと思ってるんだけど、いいかな?」
「もちろん。誰と一緒でも、いつでも歓迎しますよ」
幽霊でもね、と言おうとしたが、話が長くなりそうだったのでやめた。
*
K高についたおれたちは、先生の許可を得るなり現役高校生を退かせて野球を始めた。端からは、オジさんたちが遊びの野球をしに来たように見えたかもしれない。しかしその中には元プロが混ざってる。二人に刺激され、動けば動くほど昔の感覚がよみがえってくる。気づけばあの頃に返ったかのように身も心も軽くなっていた。
(やっぱ楽しいな、野球は。っていうか、この人たちと一緒にいるのが楽しい)
仲違いしたこともあった。横柄な態度をとったこともあった。それでも彼らはおれを許し、仲間と認め、共に戦おうと言ってくれた。そういう過去があるからこそ、今もなおわかり合えると信じたい。
隼人の言い分を聞き、善行を貫いてよかったと今ごろになって思う。店に戻ったらひと言だけ感謝の言葉を伝えよう。まぁ双子だから、おれがこう思った時点で何かしら感じ取っているだろうが……。
<後編・野上路教>
ずっと「鬼の永江」の印象を引きずっていただけに、めぐちゃんや春山と穏やかな表情で会話する姿には違和感を抱かざるを得なかった。ファン向けの顔なのかなとも思ったが、それにしてはあまりにも自然な笑顔に見えたのだ。
みんなで一汗かき、再び大津の店に戻る。すると、待ってましたとばかりに、めぐちゃんが笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさい! 準備万端です! すぐにでも始められますよ!」
「かわいい……」
おれをはじめ、いい年のオジさんたちは彼女の微笑みにメロメロだ。
(ひょっとしたら、相手がめぐちゃんだから永江先輩も……?)
その可能性は否定できなかった。この子は生まれながらに人を笑顔にする力が備わっている。事実、観察していると永江先輩が満面の笑みを浮かべて彼女に近づいていく。
「約束通り戻ってきたよ。……宴会が始まったらすぐにでも僕の野球論を語るとしよう」
今にも口説きそうだったのに、やっぱりこの人は野球のことしか頭にないようだ。しかし野球のことなどまったく知らないめぐちゃんが「はい、楽しみです」と言って自然に笑うのを見るにつけ、この子も人と話すのが好きなのだな、と思う。こういう子だから大津みたいな癖のある男の下でも働けるのだろう。世の中、実にうまくできてるものだ。
「ねぇ、見てよ野上。あんな顔の永江さん見たことない。あんたの姪っ子さんって何者? 私でもあそこまでの笑顔は引き出せないのに……」
同じく彼を見ていたらしい春山が、驚きを隠せない様子で言った。
「いや、フツーの女の子だけど?」
「そう……。まだあんなふうに笑えるなら大丈夫かな……」
「えっ?」
「ううん、なんでもない……。そんなことより、飲み会飲み会!」
彼女はそう言うなり自身も笑顔を作り、夫である祐輔のそばに向かった。
*
「んじゃ、皆さん。久方ぶりの再会を祝して、カンパーイ!」
ムードメーカーの祐輔が乾杯の音頭をとるや、宴会が始まる。一汗かいた後のビールは格別で、あっという間にビール瓶が空になっていく。
あまりにも久しぶりだから、当然「今なにしてる?」って話題になるかと思いきや、野球をしたせいか昔の話ばかりに花が咲く。
あの時の試合は誰それが打って点を取った、甲子園行きを決めたのはあいつのおかげだった、永江部長はやっぱりすごかった、などなど……。よみがえるのはおれたちが栄光を勝ち取った出来事ばかりだ。あの頃はよかったと言いたいわけじゃない。けれど、その感動を分かち合えるのはここにいる連中だけ。だから今だけは当時の興奮をもう一度味わわせてくれ……。ここにいる全員がそう思っているかのようだった。
*
「こんばんは……」
宴会が盛り上がってきた頃、貸し切りだといっていた店のドアが開いた。一同が一斉に顔を向ける。
そこにいたのは息子の翼だった。翼はおれと目が合うなり睨み付けてきたが、店の中に歩みを進めるごとにいつもの頼りなさげに見える顔に戻っていった。
「めぐちゃん、閉店の時間はとっくに過ぎてるんじゃないの? 電話にも出ないし、あんまり遅いから迎えに来たよ」
「あっ……」
彼女は慌てて店の時計を確認した。そして申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「ごめんなさい……。あの、理人さん、隼人さん。後のことはお願いしても……?」
「ごめん、おれたちも気づかなかったよ。余分に働かせて悪かったね。体に障るといけないから、明日は休んでくれていいよ。お疲れさま」
「はい、ありがとうございます。それでは失礼します。皆さんはこの後も楽しんでいって下さいね」
彼女は深々と頭を下げると、翼と一緒に店を出て行った。
まるで過保護な父親だな、といってやりたい気持ちを我慢して見送った。ちょっと前に彼女が流産してしまったから神経質になっているんだろう。おれ自身、翼と舞の間に生まれるはずだった命を亡くしているからよく分かる。母親本人の悲しみは計り知れないが、父親の方も精神的なダメージは大きい。妻に無理をさせないよう気を配るのは当然のことだ。
「優しい息子さんだね」
いつまでも二人の出て行った方を見つめていると、永江先輩に声を掛けられた。
「君と同じにおいを感じたよ。正義感もありそうだ。野球は好きじゃないと聞いたが、他は君にそっくりだと思うよ」
「あはは……。そんなに似てますかね……?」
気恥ずかしくて笑うと、先輩は深くうなずいた。
「さっきめぐさんが色々と教えてくれたよ。先日彼女が入院した際、寝ずに付き添ってくれた翼くんのために伯父さんが車を出してくれたってね。無事に自宅まで送り届けてくれて感謝してると言っていたよ」
酒のせいか、はたまたおれの弱みを握ったせいか、先輩はほくそ笑んでいる。おれは「やれやれ」とため息をつく。
「……子どもを持つと心配なことばっかりですよ。だけど、放っておく訳にもいかないじゃないですか」
「……僕の母親も世話焼きでね。コウは野球以外なにも出来ないんだから、って愚痴をこぼしながらすべてやってくれた。もういい年の男だって言うのにね。……しかしその母も亡くなってしまった」
「…………」
「僕が言いたいのは、人は心配事があればこそ自分がしっかりしなければと、この先も頑張って生きていかねばと思うものなんだろう、ということだ。……僕にはそういうものが一つもない。だから正直、いつ死んでもいいつもりで今この瞬間も生きている。僕が死んでも、困ったり悲しんだりする人はいないだろうからね」
いつだったか聞いたことがある。彼が甲子園出場に人一倍情熱を傾けていたのは亡くなった父親との約束を果たすため。それだけが生きる目的であり、その後の人生には何の興味もなかったと……。
それでもプロの世界に飛び込んだのはおそらく、「甲子園」のその先を目指してみようと思うような出来事があったからだろう。実際、現役時代は三度のリーグ優勝と二度の日本一を経験、個人でも華々しい成績を残している。
彼はチームのお荷物になってもなおユニフォームを着続けた。どの球団からも必要とされなくなるまでプレイヤーで居続けた。本当は引退なんてしたくなかったに違いない。しかし生きていれば誰しも身体は衰える。生涯現役はどんなに願っても叶わぬ夢なのだ。そんな彼にとっての「今」とはおそらく、おまけみたいなものなのだろう。そうでもなけりゃ「いつ死んでもいい」なんて言えるはずがない。
無性に腹が立った。たとえ冗談であっても自分の命を軽んじるような発言をした彼に。
カッとなったおれは椅子から立ち上がると、手に持っていたビールを先輩の顔にぶっかけた。
「今の発言、取り消して下さい! 自分の命を何だと思ってんですかっ!」
拳を出しかけたところで周りの連中が慌てて止めに入る。ところが、止めただけで叱る者はいなかった。むしろ「よくぞ言った!」と賞賛の声が上がる。
(なんだ。みんなもそう思っていたのか……)
そういうことならと、おれは更にまくし立てる。
「先輩は誤解してます! 自分が一人きりで生きてるって。だけど、ぜんっぜん違います。先輩はたくさんの人に支えられて生きてるんです。この意味が分かりますか? 先輩が死んだらその人たちが悲しむってことです! 他でもない、おれたちの尊敬する永江孝太郎の死を受け容れられない人たちがいるってことです!
……先輩、おれに言ったでしょう? 自分の真似は誰にも出来ないって。それと一緒。誰もあなたの代わりにはなれないんですよ。だから……簡単に『いつ死んでもいい』なんて言わないで下さい!」
「……厳しい言葉だな」
彼はうつむいたまま言った。なおも静まりかえる店内でもうひと言だけ付け加える。
「もし、生きる目的を見失っているなら、おれのうちに来て下さい。っていうか、親戚に会ってください。会えば、いつ死んでもいいだなんて気持ち、絶対になくなりますから!」
なぜこんなにも熱くなっているのか、自分でもよく分からなかった。らしくないって思ってる奴もいるだろう。だけど、おれだって変わったんだ。いや、変えさせられたんだ。子どもの結婚話に始まり、翼と和解し、結婚を認め、ユウユウと家族になるその過程において、本当に大切にしなきゃいけないものが何であるかを知ったんだ。
大事なのは、思い出でもプライドでもない。今この瞬間に一緒にいる人と過ごす時間だ。それは過去にとらわれず、現実を見つめながら生き続けることでもある。
だまり続ける先輩を見てしびれを切らしたのか、祐輔が言う。
「路教、任せろ。おれが必ず引き合わせる」
「おれも手伝いますよ」
大津も話しに加わる。
「野上センパイのうちがダメでも『ここ』があります。ワライバはね、心が疲れてる人の集まる場なんですよ。自宅に帰ったら一人きりって人もたくさん来ます。そういう人の、もう一つの家がここ。つまり、ここに来ればみんな家族ってことです」
「家族……」
「ですです。だいたいね、いつ死んでもいいなんて言ってる人は寂しいだけなんですよ。そういう人こそ、うちに来た方がいい」
「……なぜそこまで僕に生きろというんだ? 僕の人生なんだから、いつ終わりにしようが勝手じゃないか」
そう言った目はうつろだった。本当に野球をする以外に生きがいがないんだと確信する。
(何か一つ、この人に生きる目的を与えなければ……)
しかしこの年になって今更……それも永江先輩の心を動かすようなものなどあるだろうか。心を……動かす……?
「あっ!」
おれは声を上げた。大津も春山も同時に気づいたのか、目が合うと深くうなずいた。大津が代表して言う。
「そーだ、センパイ。例のユニフォームですけど、直接ここへ持ってきてくださいよ。そうだなぁ、出来ればめぐっちがいるときに。タクシー代くらい出しますよ。どうです?」
「僕が直接……? しかしそんな時間は……」
「じゃあ言い直します。めぐっちに会うために来て下さい。それがセンパイのためです」
「なぜ……?」
「はぁっ……? はっきり言わなきゃ分かりませんか? じゃあ言いますよ? ……めぐっちに一目惚れしたんでしょ? 好きになっちゃったんでしょ? だったら、適当な理由をつけてでも会いに来るべきです。大丈夫、うちにはめぐっち目当てのお客さんが多いですからね。そこに永江センパイがひとり加わったところで店的には何も問題ありませんから。っていうかむしろ大歓迎ですよ」
「……参ったな」
永江先輩は本当に困ったように目をキョロキョロさせた。こんなに動揺するところは初めて見た。彼は戸惑いながら言う。
「彼女が素敵な女性だというのは認める。しかしそれだけだ。決して一目惚れなどと言うことは……」
その場にいた全員が苦笑した。あまりにも言い訳じみていたからだ。
たぶんこの人は本当にこの年まで恋愛感情を持ったことがないんだろう。これじゃまるで中学生だ。いや、今時小学生だって恋愛の「れ」の字くらいは知っているだろう。
まだ、救える――。そう思った。別に翼とめぐちゃんの夫婦仲を裂こうなどとは微塵も思っていないし、出来ないと確信している。が、永江先輩に人間らしい感情を取り戻してもらうためには、めぐちゃんの力が絶対に必要なのだ。
そこに春山がダメ押しのひと言を告げる。
「永江さん。ひとりで来られないなら私が同行する。それなら、いいでしょ?」
「……わかった。君の言うとおりにするよ」
抵抗しても無駄だと分かったのだろう、彼はようやく首を縦に振った。
どこからともなく風が吹き込み、おれたちの脇をすり抜けていった。
「おっ、センパイの決断を喜んでる人たちがいますよ。それでいいんです」
大津が店の中をぐるりと見回しながら言った。
「……そうかもしれない」
永江先輩も天井を見やりながらぽつりとつぶやいた。
作者コメント:
唐突に彼らの『ワライバ』での話が書きたくなり、三日ほど集中して書き上げました。本編そっちのけ(笑)ですが、過去キャラたちの掛け合いを楽しんで頂ければ幸いです🥰感想、お待ちしています💕
💖本日も最後まで読んでくださり、ありがとうございます(^-^)💖
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