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【一氣読み・長編小説】「愛の歌を君に」


こちらは長編小説「愛の歌を君に」(全13話)を通しで読めるようにまとめた記事です(一部修正しています)。テーマは「愛と赦し」。読み応えたっぷりの物語となっております。人生を変えたい方はぜひ読んでみてください🥰

<<あらすじ>>

シンガーソングライターとして活動していた麗華のもとに昔のバンド仲間、拓海と智篤から連絡が入る。拓海は病を患っており死ぬ前にもう一度一緒に活動したいという。麗華はその思いを聞き入れ再結成に同意する。

拓海の余命のこともあり、三人は共同生活を始めることになる。その中で拓海は余命を大切な仲間と過ごす時間に充て、麗華は自分の内から湧く言葉を音楽に、そして智篤は閉じきった心を少しずつ開いていく。

そんな折、拓海が倒れた。二人は生還を信じ拓海のための歌を歌う。想いは届き、拓海は生還するが宝物である『声』は失ってしまった。声を失った拓海のためにみんなで手話を覚え、三人の原点である路上ライブを成功させた。

前編

1.<麗華れいか

 歌手、レイカとして活動するようになって三十数年。あたしは一人で歌詞と曲を紡ぎ、世に送り出してきた。誇りであり、自慢であり、生きがいでもある音楽活動を、これからもずっと、生涯やっていく。もちろん、一人で。

 最近ではネット配信のおかげで若いファンも増えている。年齢を理由にあれこれ断念してしまう人が多い中、あたし自身は衰えをまったく感じていない。

 まだまだひとりで歌える――。

 そう思っていた矢先、仕事用のスマホに一本の電話がかかってきた。電話の主は昔の仲間のひとりである拓海たくみ。彼はかすれた声で「また一緒にバンドを組んでほしい」と言った。

「何を今更。悪いけどお断りよ」

 一人でやっていくと誓いを新たにしたばかりだったので、あたしは迷わず答えた。しかし拓海は「もうすぐ会えなくなるかもしれないと聞いても、か?」と続けた。

「……ちょっと。脅しはやめて」

「脅しじゃねえよ。マジな話だ」
 真剣な口調に、それが冗談ではないと悟る。

「……詳しい話が聞きたいわ。返事をする前に一度どこかで会える?」

「ああ。その時はメンバーの智篤ともあつも一緒だからそのつもりで」
 予定を擦り合わせたあたしたちは一週間後、早朝の東京駅で落ち合った。

◇◇◇

 立秋が過ぎても秋らしさはちっとも感じられない。今日も朝からすでに暑い。駅ビルの壁面の液晶モニターに映し出された天気予報に目をやると、最高気温が三十五度を超えると表示されていた。それをみて余計に暑くなる。

 氣休めに扇子で扇いでいると、向こうから片手を挙げて近づいてくる人物が目に入った。

「よぉ。久しぶり。出てきてもらって悪いな」
 すぐに拓海たちだと分かった。

「何よ。元氣そうじゃない」
 
 先日の電話では深刻な様子だったから、ひょっとしたら顔も分からないくらい別人になっているかも……などと考えていただけに、予想はいい方に裏切られた。しかし、拓海の後ろに立つともくんの表情は硬い。

「強がってるだけで本当はちっとも元氣じゃないんだ。詳しいことは中で話すよ」
 智くんはそう言って、拓海が予約したというホテルのレストランに案内してくれた。

 *

 高層階のレストランはテーブルとテーブルの間が広く取られ、ゆっくり出来そうな雰囲氣が漂っていた。食事が運ばれてくるまで時間があったので、電話で話していた「もうすぐ会えなくなる理由」を見つけてやろうと拓海の顔を凝視する。

「……ガン見するなよ。緊張するじゃねえか」

「久しぶりに会ったんだもの、そりゃあ見るわよ。……ずいぶん老けちゃったね」

「そうかぁ? これでも若作りしてる方だと思うんだけど?」

「よく言うわ。目尻なんて皺くちゃじゃない」

「それはお前も同じだろうが」

「喧嘩はよせよ。……ったく、三十年ぶりに再会したってのに、なんで君たちは昔と変わらず、すぐに口論したがるんだ?」

「だって、こいつが……」
「だって、拓海が……」

「……やれやれ。それが原因で解散したのを忘れたとは言わせないよ」
 智くんに指摘されたあたしたちは口を噤んだ。

「……智篤ともあつ煙草たばこをくれ」
 拓海は氣まずさを紛らわせるようにそう言った。

「そんなものは持ってない。諦めろ」
 智くんはつっけんどんに言い、拓海が伸ばした手を払った。どうやら禁煙させられているらしい。ヘビースモーカーだったはずだが、健康のためにそうしているのだろうか。

 尋ねてみようと思ったところで朝食が配膳される。温野菜がたっぷりと載った厚切りトーストとスクランブルエッグ、それに合わせてブレンドされたコーヒーは数量限定メニューなのだという。

 口論していてはせっかくの料理も台無しだ。まずは落ち着こうと背筋を伸ばしたあたしは、美しい所作でフォークとナイフを持った。

「話は食べながら聞くわ。温かいうちにいただきましょう」
「そうしよう」
「いただきます」

 頷いた二人も落ち着きを取り戻したようだ。丁寧に手を合わせ、まずは目の前の食事に集中する。

 少し食べ進んだところであたしから話を切り出す。
「……ところで、またバンドを組みたいっていうのはどういう心境の変化なの? これまで一度だって連絡してこなかったのに」

「……ああ。もう一度、お前の後ろで弾きたくなってな。それが叶えばまぁ、死んでもいいかなと」

「え……?」
 思いがけない言葉に食べる手を止める。拓海は構わず話を続ける。

「実は、煙草の吸いすぎが原因で喉を病んじまってさ。手術が有効だが、その場合は声を出せなくなることもあるらしい」

「……がん、ってこと? でも、治療すれば良くなるんでしょ?」

「それは五分五分。病は氣からって言うし、好きなことしてたらよくなる人もいるって医者は言ってたけど、結構進行してるっぽいから最悪、死ぬかもしれない」

「それが再結成の理由?」

「そういうこと」

「…………」
 言葉を失っていると智くんが補足する。

「つまり拓海は、元気なうちにもう一度レイちゃんのそばにいたくなったって話さ。死ぬかもしれないとなったら、やっぱり昔好きだった女の元に帰りたくなるのが男ってもんだよ」

「……何言ってるのよ。あたしたち、いくつになったと……?」

「別に恋愛しようって言ってるわけじゃねえ。ただ……」
 拓海はそこで言葉を切り、自身の喉に手をやってうつむいた。

 智くんの言うように、あたしと拓海は若い頃に一度付き合っていた。けれど、あたし一人が歌手デビューの切符を手にしてしまったところから仲違いし、バンド解散と同時に別れ、それきり会っていなかったのだった。

 死。目の前にいるかつての仲間の口から飛び出した一語は、短いがゆえにあたしの心に鋭く突き刺さった。断る理由も思いつかないほどに。

「……そこまで言うなら、今でもちゃんと弾けるんでしょうね?」
 睨み付けるように言うと、目を落としていた拓海が顔を上げた。

「ったりめえだろ。これでも俺たち、インディーズだけど『ウイング』って名前でずっと活動してきたんだ。後悔はさせない」

 その言葉の真偽を問うように智くんを見る。彼は深くうなずいた。
贔屓ひいきにしているライブハウスもある。コネもある。レイちゃんに迷惑はかけない」

「……食事が済んだら音を聞かせて。返事はそのあとでするわ」

「ま、そう言うだろうと思って、ちゃんとギターは持ってきてる。聞いて驚くなよ?」
 拓海はそう言ってにやりと笑った。

2.<拓海>

 再結成したいと思ったのはほかでもない、俺の寿命が残りわずかだと知ったからだ。死ぬかもしれないと伝えることで繊細なあいつが曲を作れなくなる懸念はあった。それでも俺は、病氣であることを告白してでも再会したかった。理由はさっき智篤が言ったとおりだ。

 麗華のことはずっと好きだった。もしメジャーデビューできたらその時はプロポーズしよう……。そんなことを毎日ぼんやり考えてもいた。そう、麗華がスカウトされるまでは。

「音楽事務所から連絡をもらって、思わずオッケーしちゃった……!」

 あいつの弾むような声を聞いたときに湧き上がってきた殺人的な感情は今でもありありと思い出せる。智篤が止めてくれたから「解散」で済んだが、二人きりの時に聞かされていたらどうなっていただろうと、今でも時々思うことがある。そのくらいあの時は麗華に嫉妬した。

 自信がなかった。自分の歌声に。作曲に。でも麗華が作った曲をバックで弾いているときだけはなぜか自信がみなぎってきた。だから、俺には麗華が必要だとずっと思っていた。そんなときに聞いた、一人だけプロデビューが決まったという報告。それは裏切り行為に等しかった。

 解散も別れも必然だった。けれど、あとのことなんて何も考えずに解散した俺は、智篤と二人きりで活動する日が続けば続くほど不安に陥った。

「自信がないなら自信が付くまでスキルアップするしかない。僕らには音楽を捨てることなんて出来ないんだから、やるしかないよ」

 感情に左右されまくりの俺とは対照的に、智篤は状況を冷静に分析し、それまで以上に音楽の知識とスキルを身につけていった。そして勉強が苦手な俺にも丁寧に伝授してくれた。

「彼女への恨みはすべて音楽に向けろ。そして後悔させてやれ」

 その言葉通り、俺は麗華に復讐するつもりで今日まで曲を作り、歌い続けてきた。あいつが新曲を発表するたびにあの日の屈辱を思い出し、それを燃料に今日まで走り続けてきた。

 なのに……。なのに、だ。

 自分に死が迫っていると知ったら過去のことはすべてどうでもよくなってしまった。無性に会いたくなり、触れたくなった。あんなにも恨んでいたはずの麗華に……。

「馬鹿だね、君は。今更そんなことに氣付くなんて」
 再結成の話をしたとき智篤は鼻で笑ったが、会うなとも、やめろとも言わなかった。

「どうしても三人でやり直したいというなら君一人で交渉してくれ。そして僕の前に彼女を連れてきてくれ。それが出来たら再結成も考えよう」

「反対……しないんだな」
 俺の素直な感想を聞いた智篤は小さく息を吐いた。

「サザンクロスの解散に未練を持っているのは知っていたからね。いつか再結成したいと言い出すだろうとは思っていたよ」

「なんだよ、氣付いていながら黙ってたってのか?」

「僕自身は、サザンクロスを再結成しようがするまいが、どうでもいいと思ってるから。でも、長年一緒に活動してきた君が死ぬ前にそれを叶えたいって言うなら聞いてやらないでもない、ってところかな」

「…………」

「……さぁ、僕の考えは伝えた。君がどういう行動に出るか、楽しみにしてるよ」

◇◇◇

 
 あれから一週間。その麗華が今、目の前にいる。そして今まさに、俺たちが三十年かけて作り上げてきた音楽を聞かせようとしている。

「いくぜ……」

「いつでもどうぞ」

 腕を組む麗華の挑戦的な視線を感じながら、俺は智篤と目を合わせ、最初の一音を鳴らした。音楽スタジオ中にエレキの電子音が響き渡る。

クレイジー、クレイジー
今すぐお前を追っかけて
飛び込みたいぜ宇宙そらの海
クレイジー、クレイジー
鏡に映るのは誰?
狂喜乱舞しすぎて
本当の俺、見失ってる
ああ、全部お前のせいだ

クレイジー、クレイジー
お前の瞳に吸い込まれて
抗えないぜこの想い
クレイジー、クレイジー
心の奥に隠した秘密
暴かれそうで怖いよ
ああ、全部お前のせいだ

クレイジー、クレイジー
お前と一緒に走りたい
どこまでも行こうぜ
クレイジー、クレイジー
夢と現実このよの境界線
越えたいと言ってくれ
ああ、全部お前がほしい

 ギターをかき鳴らし、二人で歌う。歌いながら俺は、智篤は、麗華を凝視する。

(これはお前への恨み辛みの歌、だった……。ずっと言いたかった想い、だった……。)

 吐き捨てるように歌い、弦が切れるほどに強くギターをかき鳴らし、歌い終わった「クレイジー・ラブ」。麗華は瞬き一つせず、最初から最後まで俺たちを凝視していた。俺たちの思いを真正面から受け止めるんだ、と言わんばかりに。

 演奏を終えたとき、俺の中に残っていた黒い塊のようなものがすっかり消えてなくなっているのに氣付いた。歌と一緒に、麗華に対する負の感情のすべてを出し切ってしまったのだと分かった。

(今なら言える……。心の底からあいつに、戻ってきて欲しい、って……)
 俺は肩からギターを下ろし、放り投げた。そして床に大の字になって倒れる。

「拓海……?」
 困惑顔の智篤と麗華が俺を見下ろす。

「智篤。俺は決めたよ。麗華が戻ってくると言ってくれたら、エレキからアコギに持ち替えるって。またあの頃のように、心があったまるメロディーを奏でるって」

「…………」
 智篤は返事をしなかった。俺は返事を待たずに起き上がり、今度は頭を床につけた。

「麗華。もう一度、サザンクロスのメインボーカルをやってくれ。今の歌が氣に入らなかったとしても、プロのお前が聞くに堪えないものだったとしても、俺はお前とまた一緒にやりたい。だから……戻ってきてくれ……」

 麗華もまた、すぐには返事をしなかった。頭を下げ続けて数分、もうダメかと諦めかけたとき、頭上から歌声が聞こえ始めた。

聞こえますか? この声が
霧の中で僕ら さまよい続ける
寒い夜空の下で一人
耐えきれるはずもなく

ああ、空の向こうに投げられた声は
いつか、希望という名の光を
朝日と共に連れてくる

さあ、踏み出そう、新たな今日を
ともに歩こう、迷わずに……

 それはかつて俺たちが「サザンクロス」の名で活動していたときの曲だった。曲のタイトルは「未来へ」。それが麗華の答えだと直感する。

「ありがとう。もう一度、一緒に活動することを選んでくれて」
 俺は立ち上がって麗華を抱きしめた。

「……やめてよ、拓海。離れて」

「どうせ長くない命だ。最後くらい、全身で感謝の氣持ちを伝えさせてくれよ」

「もう……! だからって困るわ、こんなことされても」
 麗華は渾身の力を振り絞るようにして俺を押しのけた。

「弱音を吐くなんて拓海らしくもない。あの頃の拓海はいつでも粋がっていて頼もしかったのに。いくらギターや歌の技術が向上していても、そんな弱氣でいるんじゃお話にならないわね」

「…………」
 押し黙ると、麗華はふうっと長い息を吐いた。

「あの頃のサザンクロスに還るというなら、ちゃんとあの頃みたいに元氣を出しなさい」

「元氣だよ、氣持ちだけは」

「氣持ちだけじゃダメ。身体も元氣にするのよ」

「……つーても、どうやって?」
 腑抜け声で言ったら麗華に背中を叩かれた。

「あんたの病氣を、あたしの歌で吹き飛ばしてみせる。そういう歌を、たくさん作って聴かせてあげる。もう二度と、そんな弱氣な発言が出なくなるようにね」

「麗華……」

「もう……! そういう顔も厳禁!」
 麗華はもう一度、俺の背中を叩いた。
「拓海はサザンクロスのリーダーでしょ! ほら、あの頃みたいにあたしたちをまとめてちょうだい」

 俺の目をのぞき込んだ顔が一瞬、若い頃の麗華に見えてドキリとする。目まで耄碌もうろくしてきたのかもしれない……。俺は目を覚まさせるように自分の頬を叩く。麗華の顔が年相応に見えたのを確認し、手を差し出す。

「お帰り、麗華。また、よろしく」
 麗華はすぐに握り返した。

「こっちこそ、誘ってくれてありがとう。またいい曲を作りましょう。……智くん、これまで拓海を支えてくれてありがとうね。またお世話になります」

「……うん、よろしくね」
 握手を交わす俺たちの手を包み込むように、智篤が両手を重ねた。
「そうだ。サザンクロス再結成の記念に昔の曲を弾こうよ。ギターはこいつしかないけど、どうだろう?」

「いいな、それ。よし、やろう」
「そうね、楽しそう」

 智篤の提案に俺たちはすぐに頷いた。

「ああ、なんかワクワクする。こんな感覚になるのは本当に久しぶり……」
 麗華はそう言って胸に手を置き、まぶたを閉じた。


3.<智篤>

 拓海から喉を病んでいると報告される前から、薄々そうじゃないかという氣はしていた。しかし弾き語りをする僕たちにとって声が出せなくなると言うのは致命的なこと。だから拓海は僕にさえ、しばらく病氣のことを隠していたし、手術で一時でも歌えなくなることを嫌い、今のところは薬のみで治療を行っている。これはすなわち、死へのカウントダウンを意味する。レイちゃんにはもちろん言えないことだ。

 拓海はレイちゃんのことが好きだったし、信頼もしていた。だから裏切られたショックから、喫煙本数や酒の量が増えるのはある程度仕方のないことだった。しかしその姿はあまりにも惨めで、長くは見ていられなかった。

「そんなんじゃ、いい音楽なんて作れないぞ。目を覚ますんだ」

 拓海が荒れれば荒れるほど僕の頭は冷静になっていった。彼女の抜け駆けが原因の解散で自暴自棄になっては本末転倒だ。これをバネに見返さなければ、という思いが僕の思考をクリアにさせたらしかった。

 多少は効果があったのか、拓海は怒りをエネルギーに変えて数多くの人気曲を作った。大量の煙草を吸い続けながら。

◇◇◇

 レイちゃんへの恨み辛みが拓海をむしばんだ。だとしたら、拓海を病氣にした責任の半分は僕にあるとも言えよう。何しろ、未だに彼女を恨み続けているのだから。

 しかし、その人生もこれでおしまいだ。再結成が決まった今、僕は彼女への恨みを晴らし、音楽人生に幕を閉じる。拓海は死に、僕も社会的に、死ぬ。それで、いい。

 その第一歩として、拓海と二人でやっていたウイングの活動を終わらせた。ウイングにレイちゃんが加わるというより、かつてレイちゃんがいたサザンクロスを復活させる意味合いが強かったからだ。僕らを応援してきたファンには申し訳なかったが、三人でやると決めたからには、また拓海の余命を考えればそれが最善の方法だった。

◇◇◇

 サザンクロスを再結成する――。初秋に行われる小さなイベントで僕らはそれを声高に宣言する。毎日、レイカとしての仕事が何かしら入っている彼女は、イベントで披露する曲を練習する暇もないとぼやいたが「寝食の時間を削ってでも練習時間を捻出しろ」と拓海に言われ、明日の昼、なんとか三人で会う時間を確保してくれたのだった。

 事前に二度、メールで日時と場所を確認しているから、余程のことが無い限り連絡は無いはずだった。だから、真夜中にかかってきた電話の主がレイちゃんだと分かったときはドキリとした。拓海ではなく、僕に掛けてきた……。心当たりがありすぎる僕は通話ボタンを押すかどうか迷ったが、最終的には応答することにした。

「もしもし……。今何時だと思ってるの? もう寝るところなんだけど?」

 明日会うのだから今じゃなくても……、という雰囲氣を醸し出しながら言うと、『拓海の前では話せないことだから電話するしかなかったの』と直球の答えが返ってきた。

 勘づかれたかもしれないと思った。僕は覚悟を決め、「僕の行動で、何か氣になることでもあったのかな?」と問うた。レイちゃんは間を開けずに言う。

『智くんが再結成に乗り氣だとはどうしても思えなくて。……今度のイベントで正式発表する前に氣持ちを聞いておきたいと思ったのよ』

「なるほど」

『本当はどう思っているの? 拓海の病氣が理由で仕方なく動いているだけ?』

「いいや、再結成は僕の意志でもある。決して消極的な理由からではない。それだけは断言しよう」

『なら、一緒にいるときは、もう少し楽しそうな顔をして欲しいわね』

「それは無理な相談だ。なぜなら僕は未だに君を恨んでいるからね」

 レイちゃんは数秒黙った。
『……やっぱり。なら、どうして再結成に賛成したの?』

「君を苦しめるため、といえば分かってくれるかな? うまくやっていた僕らをメチャクチャにした君に、あの頃僕らが感じた心の苦しみを味わってもらうにはこれが一番だと思ったんだ」

『……そういう人じゃ、無かったのに』

「君が僕を変えたんだ。僕を、鬼に変えてしまった」

 電話の向こうの彼女を睨み付けるように言った。しばしの沈黙。僕の変貌ぶりに言葉も出ないのか。反論ならいくらでも聞いてやるぞ。そう思っていた矢先、想いも寄らない答えが返ってくる。

『……あたしが原因で智くんが冷徹になってしまったのだとしたら、あたしの歌で智くんの心を温める。それが、あたしに出来るせめてもの償い……』

「……やれるものならやってみるがいい。僕は拓海のようにはいかない。拓海がこの世を去り、君が自分の力のなさを心底思い知る姿を見届けるんだ、僕は」

『そっちがその氣ならこっちも本氣でいくわ。神の力を借りてでも、あの頃の二人を取り戻す』

「ふん、お手並み拝見といこうじゃないか」

『……絶対に改心させてみせるわ』

「なら僕は、その自信をへし折ってやるよ」

 突き放すように言うと、彼女は三度黙した。黙りこくった彼女を執拗に攻撃することは出来た。しかし一度怒りが噴出したら最後、夜通し恨みの念を吐き続けるに違いないと思った僕は、電話を終わらせる話題を提供する。

「……ああ、そうだ。拓海にはこの話はしないで欲しい。これは僕らの秘密だ」

『分かった。だけど、そう言うなら表面上は繕ってよね』

「オーケー。心に留めておくよ。……それじゃ、おやすみ」

『ええ、また明日』
 電話が切れ、明日どんな顔をして会えばいいだろうかと考えながら眠る支度を始めた。


4.<麗華>

 歌で人の心を変える。これまでは無意識のうちにやってきたが、目の前の一人、または二人を対象に、歌の力で現状を変えることが果たして本当に可能なのだろうか。自分で宣言したこととは言え、それは大いにあたしを悩ませた。

 二人の様子や発言から、拓海の病状が思わしくないことは容易に想像できた。再結成したサザンクロスの活動期間はきっと、長くはない……。そう思ったあたしは、今後しばらくはバンド活動に注力しようと決めた。それによってレイカとしての仕事がなくなる恐れはあるが、拓海と一緒に過ごす時間の方が圧倒的に大事。後悔は絶対にしたくなかった。

◇◇◇

 経歴に、過去にサザンクロスという名でバンドを組んでいたことは載せている。しかし、デビュー当時からのファンならともかく、今日のイベント――街中にある神社で開催される音楽祭――で集まる十代、二十代の子の中には、あたしの存在すら知らない人もいるだろう。そんな子たちを前にして、再結成した「オジさんオバさんバンド」が受け容れられるのか。不安は拭えなかった。

 そのことを拓海に話すと鼻で笑われた。

「これだからオバさんは困る。音楽に年齢は関係ないんだよ。神様から受け取るような、神聖な言葉うただけが心に響くと思ったら大間違いだ。特に若者は、ノリだけ、雰囲気だけがいい曲を好む。で、今日のはそういう曲。だから、大丈夫だ」

「何が大丈夫なんだか……」

「つまり、僕らを信じろってことさ」
 そう言った智くんは不敵に笑った。先日電話で話したとおり、こうして三人で会うときの彼は終始笑顔だ。たとえそれが偽物だったとしても、睨まれているよりはずっとマシ。あたしは彼の目を見つめ、小さく頷いた。

「そうね。事前練習はしたし、あんたたちもずっとファンに支えられて音楽活動してきたんだもんね」

「ああ、そうさ。ほら、見てごらんよ。僕らのためにあれだけのファンが集まってる。僕はいまワクワクしてるよ」

 指し示された方を見ると、小さなイベントにもかかわらずたくさんの人がステージの前に集まっていた。それがあたしたち目当てに集まった人でないとしても、確かにあれだけの聴衆の前に躍り出て歌うことを想像したら昂揚もしてくる。あたしは目を閉じ、これから歌う歌を口ずさみながらリズムを刻んだ。

「お前と再会してすぐに作った『マイライフ』。いい曲だろ?」

「うん」

「お前の作るのにだって負けてないだろ?」

「うん」

「だったら自信を持って歌ってくれよ。俺たちも全力で弾くからさ」

「分かった。そうする」

 目を開けて最初に飛び込んできた拓海の顔が一瞬、二十代のそれに見えた。慌てて目をしばたたく。もう一度見ると、年相応の顔に戻っていた。

(今のは一体……?)

 驚いている間もなく、拓海がリーダーらしく号令を掛ける。
「さぁ、いよいよ出番だ。準備はいいか?」

「ええ!」
「もちろん!」

「よっしゃ! それじゃ、サザンクロス再結成後の初イベント。張り切っていこうぜ!」

『おう!』
 三人で氣合いを入れたところで、イベント開始のアナウンスが入る。あたしはステージに意識を向けた。

「本日は高校生バンドの音楽祭ではありますが、母校の後輩を応援したいと言うことで、なんとなんと! スペシャルゲストが駆けつけてくれました! こちらの方々です! 拍手でお迎え下さい!」

 司会者のアナウンスを受けて真っ先にステージに飛び出す。老いも若きも、集まった聴衆が一斉に盛り上がるのを目の当たりにし、「レイカ」のスイッチが入る。

 マイクを掲げ、後ろの二人に合図を送ると二人はすぐにギターを弾き始めた。

曇り空を抜け あすへと続く道
心の箱に秘密をしまおう
新しい世界へ さあ

きのうの影にさよなら
主役は僕 全力で進め

夢を描こう 最高の未来
僕の世界を作るのは僕
世界は心で作られるから

雨が光る場所 君と一緒に歩こう
虹色の傘 広げてみよう
新しい日々へ ともに

今日の夜空にさよなら
主役は君 全力で笑おう

夢を描こう 最高のストーリー
君の世界を作るのは君
世界は心で変わってくから

5.<拓海>

 智篤と一緒にウイングの名で活動していたときは、一度もこんな歌詞を書かなかった。なのにというか、やっぱりというか、麗華とバンドを組んでいるときは不思議と明るい未来を彷彿とさせるような歌詞が降りてくる。これはもしかしたら麗華のそばにいる神様の影響なのかもしれないが、そういう歌詞を麗華が歌うのにはやはり意味があるのだと、バックで演奏しながら思う。

 意図したわけじゃない。でも、出来上がった曲は確かに麗華が歌うのにふさわしいものとなった。俺は満足している。麗華もいい曲だと言っている。だが、初めてこの曲を聴いた智篤はいい顔をしなかった。

 あいつはもの申したい様子で俺を睨み、ひと言「悪くはない」と評しただけだった。その反応を見て、智篤がまだ麗華を恨んでいると確信した。しかしここで「再結成したんだ、昔のような曲を作って何が悪い?」と言い放つべきではないと直感し、出かかった言葉は飲み込んだ。多分智篤は、残りの人生が限られている俺のわがままを聞き入れてくれている。本当は麗華と一緒になんかやりたくないが、我慢してくれている。その厚意を、俺のひと言で壊したくはなかった。

 隣でギターを弾く智篤を横目で見る。あいつは、麗華にいい感情を持っていないことなどおくびにも出さない様子できっちり仕事をこなしている。そう、これは仕事。ライブハウスで自分たちの曲を演奏するのとは違う。仕事用の顔で、仕事用の弾き方をする。こんなふうに、オンオフの切り替えがしっかりできる智篤のことを俺は心から尊敬している。

 目が合った。智篤は不敵に笑い「ほら、ちゃんと弾けよ」と目で訴えた。余計なことを考えるとすぐに弾き間違える俺に対するメッセージだと受け取る。たとえ小さなイベントでも、金をもらっている以上はプロ意識を持ってやれ。メジャーじゃないからって卑下するな、とあいつはいつでも俺に言う。

(わかっているさ、そんなことは。だけど、死ぬ直前までそうやって氣張ってなきゃいけないのか? 自業自得っちゃあそうだけど、死ぬ間際くらいもっと自由に、もっと氣楽に音楽やったっていいじゃねえか。いや、やらせてくれよ……。)

 麗華は俺に言った。自分の歌で俺の病氣を治すと。そして実際、麗華の歌を聴いている俺の心と身体は、確かに癒やされているような氣がしてくるから不思議だ。

(そうだ、「氣がする」ってのは大事だ。なんたって、音楽は感覚が大事なんだから。)

 そう言い聞かせながら、自分で作った「マイライフ」を演奏する。メチャクチャいい曲じゃねえかと、自画自賛しながら。

6.<智篤>

 小さいながらもライブイベントは大いに盛り上がっている。僕らのことなど知るよしもない彼らはしかし、レイちゃんの歌声と僕らの演奏を聴いて心から楽しそうに身体を揺らしている。これは、ウイングのファンとはまったく違う反応だ。

(何が違う? サザンクロスだからなのか……?)

 確かにギターは持ち替えたし、メインボーカルもレイちゃんに変わったが、理由はそれだけじゃない氣がする。アップテンポな曲のせいか。はたまた歌詞のせいなのか。そう思っていた矢先、拓海と目が合った。

 緊張しているのか、らしからぬ表情が氣になった。二人でやっていたときにはもっと大胆で、もっと荒々しくて、メチャクチャで……。それでも楽しそうにしていたじゃないか。なのに、三人でやろうと言い出した本人が、一歩下がったことで萎縮してどうする?

(メインボーカルじゃなくたって、バック演奏だからってそんな顔するなよ……。君が作った曲だろう? 堂々と弾けよ……!)

 目でそう言ってやったら、少しは分かってくれたのか表情がいい方に変化した。そう、それでこそ拓海。それでこそミュージシャンだ。

 しかしこの、いかにもかつてのサザンクロスらしい曲調と歌詞を、僕は氣に入っていない。恨む氣持ちがすっかり消え失せた拓海の中からこう言う歌詞しか出てこなかったのは理解できる。だけど、だからこそ、許せないのだ。この曲を聴いた若者たちが、純粋な心と顔を向けて飛び跳ねていることが。そして何より、そんな感情しか抱けなくなってしまった自分のことが。

 ――ずいぶんと擦れてしまったな、君は……。

 内側の、冷静な僕が今日もぼやいた。

 ――拓海のように素直になれば人生、もっと楽に生きられるのに……。君だってそんなことは分かっているだろうに。

(そんなことをしたらこれまでの人生を否定することになる。何のためにここまで彼女を恨み続けてきたのか分からなくなる。それが嫌なんだよ。)

 ――恨み続けてきた半生。それが君のアイデンティティだとでも言うのか?

(そうだ。今を楽しむこと、そして彼女を赦すことはすなわち、負けを認めるのと同義だ……。)

 ――強情だな、君は。そんなことはないのに。なぜそうまでして自分の首を絞め続けるのか……。

(たぶん、首を絞めながら見る世界が好きなんだろう。……イカれてるだろ?)

 ――そうだな……。まるで君が書いてきたウイングの歌詞みたいだ。

(そう。ウイングではそういう想いを貫いてきた。そして僕はその想いを未だに持ち続けている。だから、サザンクロスの再結成を心から喜べないんだろう……。)

 ――君はもっと今を楽しんだ方がいい。ほら、レイちゃんの歌声を聞いてごらん。心が洗われるはずだ。

(余計なお世話だ。って言うか、今はライブ中なんだ。さっさと消えてくれないか……。)

 コンセントを引き抜くように意識を遮断する。心の中の僕の声がぷつりと途絶える。直後に「マイライフ」の演奏もフィニッシュを迎え、僕らの仕事は終わった。

「メチャクチャ良かった、って言うか、最高だった! やっぱ、三人でやるのはいいな!」

 ステージから降りると拓海が真っ先に言った。レイちゃんも興奮気味に「ホントにそうね!」と言って自ら拓海に握手を求める。そんな二人のある種、純粋な姿を見てげんなりするが、湧き上がってきた氣持ちを押し殺して笑顔を作る。

「みんな、レイちゃんの歌に聴き惚れてたみたいだ。あの感じだと、サザンクロス単体でのライブをやっても集客できそうだ。僕は手応えを感じたよ」

「ああ……」
 拓海は頷いたが、直後に表情を曇らせた。

「どうした?」
 問いかけると拓海は迷うように空を見上げ、それからゆっくりと口を開く。

「……ごめん、付き合わせちゃって。もし、一緒にいるのが辛かったら正直に言ってくれ。俺は構わないから」

「……何を言ってるのか分からないな」

「本当は……本当はサザンクロスとして再出発したくなかったんだろう? 何年一緒にいると思ってる? 智篤が何を思ってここにいるのかくらい分かるよ」

「……ふっ、そうか。……そう、だよな」

 少し前に再会したばかりのレイちゃんでさえ氣付くのに、数十年一緒に活動してきた拓海が氣付かないわけがない。だけどレイちゃんを恨む氣持ちが強すぎるあまりそこに注意が向かなかったようだ。

 盛り上がる会場の隅で僕らは異様な空氣を纏ってそこにいた。レイちゃんの顔からも笑みは消え、その目が僕に向けられる。

 彼女は慈しむように僕を見ていた。先日の電話で言っていたように、きっと僕を救いたいと思っているんだろう。

(救う……? 僕らを裏切った君にそんなことが出来るとでも……? いや、たとえ出来たとしても僕は認めないし受け容れない……!)

 しかし口からは、内心の叫びとは正反対の言葉が飛び出す。

「確かに僕は、サザンクロスの再結成に百パーセント納得しているわけじゃない。でも、喉を患った拓海の願いを叶えてやりたいと思っているのは本当だ。もし……もし君が病を克服して以前のように歌えるようになったなら……。その時には本心に従ってサザンクロスを抜ける可能性は高いだろう。が、それまではこの三人でやっていくよ。……今の回答で納得してくれるかな?」

「やっぱり俺のために……。本当にそれでいいのか……?」

「おいおい、最初に言っただろ? 君がレイちゃんを僕の前に連れてきたら再結成を前向きに考えるって。僕はこれまでもこれからも拓海についていく。リーダーの君の決定に、僕は従うまでだよ」

「……まぁ、いい。それがお前の考えだというなら信じよう。ただし、そう言ったならやって欲しいことがある」

「何でもするよ」

「言ったな? よし。それじゃあリーダーとしてお前に命ずる。これからはサザンクロスのメンバーとして前向きな歌詞の曲を作ること。もうウイング時代のような、世界を憂うような歌詞は書くな。これはお前のためにもなる、と俺は思う」

「待て。何だよ、それ……!」
 思わずカッとなり、詰め寄る。が、拓海は「俺の決定には従うと言ったはずだろ?」と言ってほくそ笑んだ。

「ちっ……」

 何でもする、と言ったことを後悔した。しかしもう発言は取り消せない。かと言って、拓海の要求をまるっと受け容れるつもりもない。僕は拓海を凝視して言う。

「……分かった。君の言うようにサザンクロス向けの曲は作る。ただし、対極の歌詞も書く。これだけは譲れない」

「……それがお前の望み、、だからか?」

 望み、、と言っただけで、それがレイちゃんへの恨みを晴らすことだとわかり合えるくらい、僕らの付き合いは長い。

「そうだよ」
 
「……分かった。だけど『対極』の方はサザンクロスの名で発表したくない」

「それでいい。って言うか、そのくらいは心得てるよ。ウイングはもう消滅したんだし」

「ならどうしてまだ書き続けようと? ……再結成を機にやり方を変えたっていいんじゃねえのか?」

「それが魂の叫びなんだから仕方ない」

「魂の叫び……」
 拓海はぽつりと言い、黙り込んだ。

 秋の爽やかな風が吹き、汗ばんだシャツと髪を撫でていく。軽快な音楽が鳴り響く中、再び内なる僕のぼやきが聞こえる。

 ――魂の叫びなんかじゃない。それは君自身の叫びだ。もう、自分を赦そう。いい加減、楽になろうよ。

「……つまんねえ人生いまにツバを吐け。つまんねえ世界いまを終わらせろ。ホントの俺がいる、ニューワールド。自由の風が吹いたなら、善も悪もない。すべてがワンワールド」

 脳内の声に反論したくて、僕自身が作った「オールド&ニューワールド」の歌詞サビを吐き捨てるように歌った。


7.<麗華>

 サザンクロスとして再始動する――。そう高らかに宣言したが、思いのほかワクワク感はなかった。再結成自体が拓海の病に端を発しているというのもあるだろうが、智くんの心情を思うと氣が沈むのだった。

 イベントを終えて帰宅し、ひとり物思いに耽る。と、唐突にインターフォンが鳴った。出てみると拓海が神妙な面持ちで立っていた。

「確かに住所は教えたけど、独り身の女の部屋にいきなり訪ねてくるなんて。しかもこんな夜更けに」

「……智篤のことで話があるんだ。それと……やっぱり面と向かって話したかったからそう言われるのを覚悟で来た。帰れって言われても帰らねえぞ」

「……頑固ね。いいわ。あたしもちょうど同じことを考えていたから。上がって」

「サンキュ」
 拓海は小さく呟いて玄関で靴を脱ぐ。昔は脱ぎ散らかしたまま上がってきたのに、今日はちゃんと揃えるのを見て感心する。

「あんたもちょっとは礼儀のなんたるかが分かるようになったのね」

「馬鹿にするなよ。言っとくけど、俺だってお前と同じだけ年を重ねて来てんだぜ」

「……そうね」
 年月の長さと重みを痛感しながら拓海を部屋に通す。ワンルームに二人で立ってみて初めて、この部屋に一人分の用品しかないことに氣付く。

「……あー、拓海は椅子を使って。一つしかないの。あたしはクッションの上に座るから」

「……ホントに一人で暮らしてるんだな」

「何よ、いけない?」

「いんや……。俺も地べたに座るよ。目線が合わないのはしゃべりづらいから。幸い、クッションはいくつもあるみたいだし」

 拓海はそういうなり、勝手にあたしが一番氣に入っているクッションの上に腰掛けた。一言いってやろうとしたが、先に「お前ってあの頃もこういうかわいいの、好きだったよな」と言われ、反論する氣が失せた。

「……それで、智くんの話って?」
 適当なクッションを取り、拓海の正面に座りながら尋ねた。直後、彼の顔から笑みが消える。少しの沈黙の後、拓海は話し始める。

「お願いがある。どうか智篤を救ってやってほしい。俺のことはいい、とにかくあいつを……。頼む」
 深々と下げた頭はなかなか上がらなかった。

「もう顔を上げて。頼まれなくても救うつもりよ。智くんはもちろん、拓海のことも」

「サンキュ。そう言ってくれて嬉しいよ。だけど、俺としてはあいつを優先して欲しいんだ」

「どうして?」

「そらあ、俺より重症だからさ」

「えっ……? ちょっと待って。智くんもどこか具合が悪いの?」

「んー。身体が、ってことじゃなくて精神的にだけど、そういう意味では俺より重症だろうよ。たぶん今でもお前を心底恨んでる。毒づく俺をなだめる一方で、想いの一部を内に溜め、また一部を歌詞にしてきた男。それがあいつだ」

 ずっとそばで見てきた拓海の口から説明され、改めて自分の行動がどれだけ彼を傷つけたかを実感する。

「……ねぇ拓海。今日のライブ直後に智くんが口ずさんでいた曲って彼の作詞? もしそうなら通しで歌ってくれない? 彼の想いに寄り添いたいの」

「『オールド&ニューワールド』か……。分かった」
 返事をした拓海は呼吸を整えてから歌い始める。

嘘がホントでホントが嘘で
なにが真実? 悪こそが正義の世界さ

ピュアハートでは生きてけない
黒く染まったもん勝ちで
ホントの俺はもういない
いちゃいけねぇんだ、old world

つまんねえ人生いまにツバを吐け
つまんねえ世界いまを終わらせろ
ホントの俺がいる、new world
自由の風が吹いたなら
善も悪もない すべてが、one world

それが夢の中だけならばと
現実いまはなんて 残酷非道な世の中だ

スピリット 叫び続けてる
黒と白の狭間はざまでずっと
ホントの俺は見つからない
逃げ出せねぇんだ、no world

つまんねえ人生いまに問いかけろ
つまんねえまんま終わるのか?
探してぇんだ、my world
自分の道を進んだら
善も悪も超え すべてを、change the world

 自分を、そして世の中を憂うような歌詞。それでいて、すべてを諦めたわけではない締めくくりに希望を感じた。

「ほんとは智くんもこの世界を愛したいんだよね……? だから現状の世界を嘆き憂えているんだよね?」

「……麗華にはそう聞こえるか」

「……拓海にはどう聞こえるの?」
 拓海はしばらく黙ったあとで「寂しいだけなんだ、あいつは」と答えた。

「お前に裏切られたときから、俺もあいつも人間不信になった。信じられるのは自分と相方だけ。……俺たちは肩を寄せ合って今日まで生きてきたんだ。だから、特にお前には、俺たちが世界を愛そうとしてるなんて言って欲しくない。俺たちはこの世を恨んできた。お前とは違うんだ」

「……信頼を取り戻す努力をするわ。そのためなら何でも……します」
 智くんの歌詞から放たれた鋭い針が何本も刺さって胸が痛む。だけどあたしはその痛みを感じ尽くさなければならない。こんなことで罪が償えるとは思えないが、今はそうすることしか出来ない。

「何でも、ねぇ……。つーても、あいつの強情さは半端じゃねえぞ。それは分かってるよな?」

「うん」

「もしかしたら、お前の命をかけてもらわなきゃなんないかもしれねえ」

「それでも……構わないわ」
 正面から見据えると、拓海は一笑し、首を横に振った。

「何がおかしいのよ……?」

「……いや。お前とこうして話をしてたらあの頃を思い出してな。真面目な顔で言い迫った次の瞬間にはそっぽを向く……。そんな性格のお前に幾度となく振り回されてきたってのに俺と来たら、また性懲りもなく頼み込んでる……。馬鹿なのはやっぱり俺の方なのかもと思ったらおかしくってさ」

「…………」

「……まぁ、いい。それじゃあ救おうぜ。二人で命をかけてあいつを」

「拓海がいうと笑えない……。そこまでして智くんを救いたい理由は何?」

「仲間だから……っつーか、もうあいつとは家族みたいなもんだから」

「家族……」

「じゃあまぁ、そういうわけだからよろしく」
 拓海はそう言うなり立ち上がった。
「夜遅くに悪かったな。ほんじゃ、お休み」

「……もう帰るの?」
 あまりにもあっさりしているので思わずそんな言葉が飛び出した。案の定、拓海は笑った。

「なんだよ、その含みのある言い方は。引き留めてくれるわけ? お前が寂しいってんなら泊まってっても全然構わないけど」

「馬鹿言わないで、そんなんじゃないわよ……!」

「……ったく。相変わらず素直じゃねえんだから」
 玄関に向かいかけた拓海は頭をポリポリかいたかと思うと、急に振り返ってあたしの唇を奪った。慌てて顔を背けるも、拓海の唇の感触と体温はしっかり残ってしまった。

「何するのよっ……!」

「……それじゃあ、また」
 拓海はあたしの問いには答えず、さっさと部屋を出て行ってしまった。その後ろ姿が、どういうわけか若い頃一緒に暮らしていた時の背中に見えた。

(はぁ……。いい年して何やってんだか……。)

 麗華にキスをしてしまった俺は、帰路につきながら後悔の念と昂揚感を同時に味わっていた。俺がいなくなったあとでも智篤とうまくやってほしくて交渉しに来たはずが、どうしてというか、やっぱりというか、こういう終わり方になってしまった。

 無意識だったと言っても信じてはもらえないだろうが、人生の終わりが見えた人間は、死ぬときに後悔しないで済むような行動を取り始める……。そうでも考えなければ俺自身が自分の振る舞いを受け容れられそうにない。

(もう一回、恋愛するつもりなのか? 俺は……。)

 さっき麗華に正面から見つめられたとき、少し前と同じ現象が――若い頃の顔に見える現象が――起きた。最初の時は幻覚を見たのだと思ったが、二度目ともなるとさすがに無視できない。もしかしたらこういうのを「神のいたずら」って言うのかも……などと思いながらその場はしのいだが、意図しない行動のせいで俺は自分のことが分からなくなってしまっている。

(もしかしたら、死ぬ直前ってのは若返りを経験するのか……? いや、だとしたら麗華が若く見えるのはおかしいよな……。俺の目がおかしいだけか? それとも時が巻き戻ったのか……?)

 現実と非現実の間に残る、麗華の唇の感触を味わいながらもう少しだけ考えを巡らせる。

 年甲斐もない、と言われれば反論は出来ない。だけど、孫がいてもおかしくないような年齢の男女が恋愛しちゃいけないなんて法はないし、そもそもそんなことは誰も言ってない。そういうもんだって思い込んでるだけ、それを恥ずかしいと思わされてるだけで。

 俺は知っている。生殖機能が衰えたって人はときめくってことを。ウイング時代に応援してくれた年配のファンの姿を思えば断言すら出来る。

(そうか。ときめきが心身を若返らせるのだとすれば、やっぱり俺は麗華にときめいているのかも……)

 自分なりの解に到達した瞬間、智篤の顔が脳裏に浮かんだ。

 この事実を知ったら智篤はなんて言うだろう? きっといつものように「馬鹿だ」と言うだろう。そして馬鹿にしながらも俺の行動を許してくれるだろう。あいつは俺がずっと麗華に未練があったことを知っている。だからサザンクロスを再結成したいと告げたときからこうなることもおそらく想定している。もうすぐ死ぬんだったら好きにやらせてやろうと思っていることは、鈍い俺でも察してる。

 だからって、本当に好き勝手やる俺ではない。智篤の、本音の本音はそんなことを歓迎していないことも知っているからだ。アーティストでありながら自己表現が苦手。さっき歌った「オールド&ニューワールド」は、智篤が長い時間を掛けて作詞した数少ない曲のひとつだ。

 ウイング時代は主に俺が作詞を担当し、それに智篤が曲をつけることが多かった。が、あいつが氣に入らない歌詞を書けばたちまちボツにされたので、曲をつけてもらうにはあいつに氣に入られる必要があった。厳しい選別の効果か、共作した曲の多くはファンに受け容れられ、長く愛されることになったわけだが、皮肉にも恨みの念を歌詞という形で表現し続けた俺の内面は浄化され、積怨せきえんを表現し尽くさなかったあいつの内面は未だにくすぶっている。

「……出てきたついでだ、あいつのとこにも寄ってくか」
 駅に着いた俺は、ホームに滑り込んできた電車に乗りながら智篤にメールを送った。

9.<智篤>

 拓海がやってきたのは、メールに返信してから二十分後のことだった。普段は何の連絡もよこさずに訪ねてくるあいつから事前にメールが届いた時点で何かある、、、、と直感したが、開口一番「麗華に会ってきた」と告げられて、やっぱりそうか、とげんなりする。

「それなら話すことはない」
 無性に腹が立ったので思い切りドアを閉めた。慌てた拓海がドアの隙間につま先を突っ込もうとしたが間に合わなかった。

「そりゃあねえだろ! こっちは正直に話したのに!」
 門前払いされた拓海も苛立ちを顕わにした。

「どうせイチャついてきたって話なんだろ? そういう話はお断りだよ」

「……俺がしたいのはお前の内面の話だよ。麗華と再会したお前が……どうやって恨みを晴らそうとしてるのか、リーダーとしては知っておかなきゃならない。再結成した直後に解散したくはないからな」

「それを知ってどうする?」

「どうもしないよ。ただ、聞けば今日は安心して寝れるだろうなってだけ」

「…………」
 ドアの向こうで真剣に訴える拓海の顔が目に浮かんだ。ゆっくりとドアを開ける。

「……入れ。ただし、用が済んだらすぐに帰ってくれ」

「……オーケー」
 何か言いたそうな様子だったが、拓海はそれだけを口にして室内に入る。

 座卓の前にはギターと譜面が置いてある。片付けようと手を伸ばすより早く拓海に指摘される。

「作曲してたのか? ひょっとして、早速リーダー命令を実行してたの? どうよ? サザンクロス用の曲の進捗状況は」

「数時間前に指示を受けたばかりだぞ? そんなに簡単にできるもんか。何しろ三十年、毒づいてきたんだからね。君が望むような歌詞を生み出すには相応の時間が必要
だ」

「そのことなんだけど……」
 拓海は一度そこで言葉を切り、床の空いているスペースに腰を下ろした。
「さっき麗華に頼んできたんだ。どうかお前を救ってくれって」

「なぜ彼女にそんな頼み事を……」

「だってお前、俺が死んだら生きてけないだろ」
 まるで親が幼子おさなごを心配するような物言いに思わず笑う。

「……子どもじゃあるまいし。だいたい、なんで拓海に心配されなきゃなんないんだよ。分かんないな……」

「だって俺が死んだら……多分お前の理解者は一人もいなくなる。ファンはいるかもしれないが、ファンは応援者であって理解者じゃあない」

「……だからって、レイちゃんじゃ君の代わりは務まらない」

「務まるように今から言っておくんじゃないか」

「……くだらないな」

「本氣で言ってんのか?」

「ああ、本氣だよ。僕はいつだって」

「嘘だ。それはお前の本心じゃない。少なくともお前の中には別の想いが隠れてる。俺には分かる」

「君に僕の何が分かるってんだ!」
 テーブルを叩く。拓海は目を見開いたが、彼も彼で身を乗り出して言い迫る。

「分かるさ! 俺だってお前と同じくあいつに裏切られて傷ついたんだから!」

「そう言うならなぜまた歩み寄ろうとする?! 愛そうとする?! もうすぐ死ぬからか?! そうやって、死を理由に昔の感情を引っ張り出してきて何が楽しい?! 死を恐れる子どもが母親にすがるような行動はやめろ。いいか、君が彼女を愛していたのは過去だ。今じゃない。もし今、愛しているように感じるならそれは彼女が君に同情を寄せているからだ。君は勘違いしている! そんなのは愛じゃない! 目を覚ませよ!」

「……確かにお前の言うとおりかもしれない。だけど俺にも言わせてくれ。俺は、俺たちはそんなふうにしか世の中を見ることが出来ないお前を救いたいって本氣で思ってる。……智篤。世の中はお前が思ってるほどひどい場所じゃないよ。いい人もたくさんいるよ。お前が俺に、麗華を愛していたのは過去で今じゃないというなら、お前が裏切られたのもずっと前で今じゃないだろって言いたい」

「…………」
 痛いところを突かれ、瞬時に反論出来なかった。拓海は声のトーンを落として言う。

「俺には聞こえるよ。お前の魂の悲しむ声が。もういい加減、あの頃の傷をほじくり返すのはやめよう。もうとっくに治ってることを認めよう」

「……言いたいことはそれだけか」

「……ああ、そうだ」

「……話は聞いた。帰ってくれ」

「……分かった」
 少し考えてみてくれ。拓海はそう言い残し部屋を出て行った。

 拓海がいた場所に、なぜか煙草のにおいが残っている氣がした。もう吸っていないはずだが、僕の中で拓海と煙草のにおいはセットになっているのかもしれない。

 あいつの氣配を追い出そうと窓を開ける。
「ちっ……。どいつもこいつも」
 窓からすうっと流れる風は、部屋から煙草のにおいを追い出す代わりに、眠らない街に漂う排気ガスを引き込んだ。

 ――分かるだろう? これが君の、今の心情だよ。あり得ないくらい、ガスってる。淀んでる。君の考えが変わらない限り、現状は何も変わらない。

 内なる声が僕を批難する。

 ――傷ついている自分が好きだって言いたい氣持ちは分かるよ。でも、君が拓海に言ったように、君自身がそろそろ目を覚ますときじゃないのか? 過去を手放すべきなんじゃないのか?

「うるさい、うるさい、うるさい……! 黙れ、黙れ、黙れ……!」
 響く声を振り払うように頭を振る。

「僕の見てる世界こそがすべてだ……! 美しい世界なんて幻想だ……! この世はみんな腐ってる……! 信じられる人なんていない……! 誰も、いないんだ……!」

 ――だけど拓海はそんな君を心配している……。拓海のことも信じられないと?

「拓海は……拓海はレイちゃんに言いくるめられているだけだ。普段の拓海ならあんなことは絶対に言わない!」

 ――ほら、君がそんなだから心配するんだよ。自分が死んだら君の心の支えがなくなってしまうって拓海は本氣で考えてる。

「…………」

 ――こういうのはどうだろう? 拓海が心配しなくて済むような自分になる。サザンクロスのためじゃなく、彼のために。それだったら少しは出来そうじゃないか?

「…………」
 黙り込むと、内なる声はため息交じりに言う。

 ――それすらもしたくないって言うなら強硬手段に打って出るしかない。僕が君の精神を乗っ取って拓海の氣持ちが楽になるような行動を取る。世の中を、自分を愛する歌詞を書いたり、彼らに感謝の言葉を伝えたりする。……つまりは「君を潰す」ってことだけど、そうするより他に方法はないだろうね。

「……肉体を持たないお前に僕が殺せるものか」

 ――肉体を持たないからこそ出来ることもある。

「出来るわけない。この身体の支配者は僕だ。お前じゃない」

 ――さぁ、どうかな。試しにやってみたらいい。君の意志で僕をコントロール出来るかどうかを。

「……ちっ。さっさと失せろ」
 強く念じてみるが、内なる声はあざ笑った。

 ――まぁ、氣が済むまで抗うがいいさ。もし氣が変わって僕や拓海の言葉を聞き入れたくなったらいつでも言ってくれ。その時は全力でサポートするから。
 
「そんな日は来ない。永遠に……!」
 思い切り窓を閉め、カーテンを引く。
「何が僕を乗っ取る、だ。ふざけやがって……!」
 棚の上に置いてあったウィスキーボトルを手に取り、ふたを開けて直にあおる。一口でも喉が焼けるそれを二口三口と飲み下す。食道が、胃がキリキリと痛んだ。

 ――馬鹿だよ、君は。本当に馬鹿だ……。
 さっき僕をあざ笑った声が、今度は哀れむように呟いた。


10.<麗華>

 年の瀬に古い友人と会った。三十年ぶりの対面。彼はいわゆる「仕事の鬼」で長らく孤高の人だったが、再会した彼は「家族」と呼びあう人に囲まれており、終始笑顔。もう、あたしの知る人物ではなくなっていた。

 彼の、「鬼」と呼ばれるほどの冷え切った心を温め、感情を取り戻させたのは若い夫婦とその家族。彼に最も近い人物たちでさえ成し得なかったことをいとも簡単に成してしまった若夫婦たちは一見、どこにでもいる普通の家族だった。しかし言葉を交わし、信念を聞いてみて分かった。常識に囚われていないからこそ、彼を変えることが出来たのだと。

 歌うことで多くの人を、彼を支えてきたつもりだった。しかし歌の力だけでは彼を笑顔に出来なかったという現実があたしを打ちのめした。ありのままを受け容れなければと思えば思うほど嫉妬心に駆られ、そう感じてしまう自分に絶望した。にこやかに対応しようと努めれば努めるほど胸が押しつぶされ、また遠い人になってしまった彼に近づけば近づくほど空しくなった。

「また会いたいわ」
 思ってもいないことを口走り、営業用の笑顔を作って別れたが、背を向けた瞬間にどっと疲れを感じた。直後、駅に向かったあたしはその足で拓海に会いにいった。

 もともと今晩はライブハウスで歌う仕事が入っているから、時間が来れば彼には会える。しかしその前に、今すぐ話したかった。

 先日拓海がしたように、あたしも連絡せずに部屋を訪ねた。中途半端な時間だし、出かけている可能性はあったが、幸いにも彼は在宅していた。しかし、いきなりあたしがやってきたせいか、彼は何度も目をしばたたかせていた。

「このあとすぐに会えるってのに。一時間も待てなかったのか?」

「…………」
 そうよ、と言いかけたが恥ずかしさが先に立ち、言葉を飲み込んでしまった。結局何も言わなかったのに、拓海は嬉しそうに微笑むと部屋に通してくれた。

「来ると分かってたら片付けたんだけど。散らかってるのは大目に見てくれよな」
 拓海はそう言いながら床に散乱する衣類を回収し、部屋の隅に放った。

 立ち尽くしていると「座ってくれよ」と言って普段使っているであろう座椅子を提供してくれた。

「ありがとう。でも、ちょっと話したいだけだから」

「ちょっと? いきなり訪ねてきたってのに?」
 いぶかる拓海に顔を覗かれ、思わず目を逸らす。締め付けられるような痛みを感じて胸を抑えると「ほら、座っとけよ」と無理やり座らされた。

「午前中は用事があるって聞いてたけど、もしかしてそれのせいか?」
 目の前に腰を下ろした拓海にズバリ言い当てられたあたしは観念するように頷き、ことの詳細と今の心情を語った。一通りの話を聞いた拓海は「ふーむ……」と言って腕を組んだ。

「その男って確か、若い頃、お前が氣に掛けてた人物だったよな?」

「そう、コウちゃん。……って、ちゃん付けするような年齢でもないけどね」

「ああ、そんな名前だった。で、そいつと久々に再会したらもう、心配どころかこっちが羨むような存在になっててショックを受けてる、と」

「ショックってわけじゃ……」

「何言ってんだか。顔にそう書いてあるよ」
 拓海は「ったく……」と言って大袈裟にため息を吐いた。

「ショックを受けた理由を教えてやろう。それはお前が歌の力を過大評価しているからだ。万能薬みたいに思ってる。だから自分の望む結果が得られなくてがっかりしてるんだ」

「そ、そんなこと思って……!」

「いんや、思ってる。だからここへ来たんだろ?」

「…………」

「たぶんお前は、自分が特別だからプロデビュー出来たと、心のどこかで思いながら生きてきたんだと思う。だけど昔の友人の変貌ぶりを目の当たりにし、歌の力の限界を知ったお前は困惑してる。俺にはそう見えるよ」

「…………」

「お前の氣持ち、分かるよ。喉の病氣になってみて、俺には歌うことしか出来ないのにそれが出来なくなったらただのオッサンじゃん、ってマジで思うもん」

 それを聞いてコウちゃんが言っていた言葉がよみがえる。彼は、自分が若夫婦に心を開けたのは「何者でもない自分を受け容れてくれたからだ」と言った。プロの歌手であらねば、、、、と言い聞かせてきたあたしにとって、それは思いも寄らない発言であり、受け容れがたいものだった。

 おそらくあたしは「歌手・レイカ」の仮面を外すことが怖いのだ。「歌手・レイカ」には力があるが、「ただの麗華」には何の力もない。そう思い込んでいるから、素の状態で活き活きとしているコウちゃんを直視できなかったのだ。

 若夫婦との交流を続ければ、あたしも彼らに感化されて一皮むけるに違いない。でも、分かっているからこそ怖い。だから拓海の部屋に駆け込んだ……。

(そりゃそうよ。丸裸にされて怖くない人間なんていない……。)

 あたしは再び自分の力の無さを感じてため息を吐いた。

「ひどい話よね。『何者にならなくてもいい』って歌ってるくせに、それを歌うあたし自身がそれを怖がってるなんて」

「それがいわゆる、『神』に書かされた歌詞なんだとしたら、それはお前自身へのメッセージなのかもな……」

「あたしへのメッセージ……」

「お前はどうしたいんだ? 打ちのめされてもなお歌の力を信じる? それとも、そんなものはなかったと観念して、幸せそうに見えた友人のような生き方を目指す?」

 問われて数秒、考えた後に答える。
「……あたしは歌手よ。あたしには歌しかない」

「なら、迷うことなんてないじゃん」

「……拓海はどうなのよ?」

「俺は迷ってないよ。だから麗華に接近したし、こうして一緒に活動してる。俺にだって歌しかないから」

 即答した拓海が格好良く見えた。
 そんな彼は、何かを思いついたのかニヤニヤしながら言う。

「なぁ、麗華。迷いがあるなら一つ、試してみないか?」

「試すって?」

「今日のライブでウイングの曲を歌うんだ」

「え? サザンクロスのライブなのに? なぜ?」

「殻を破れってことだよ。多分お前が歌の力を信じられないのは、これまで歌ってきたのがお前の内側から生まれた歌詞じゃないからだと俺は思う。だから魂の歌を歌えば――つまりは俺たちの歌を歌えば――、お前の中で何かが変わるんじゃねえかと」

「でも、あんたたちの歌を歌って変わるものかしら?」

「だから、お試しだよ」

「自信があるってわけ?」

「んーまぁ、それもあるかな。お前、耳はいい方だろ? 何回か聞けば覚えられるだろ?」

「覚えるのは簡単だけど……」

 あたしを恨みながら書いたという歌詞をあたしが歌う……。拓海は善意から言ってくれているのだろうが、これも運命なのかと思うと笑えてくる。しかし直後に、そうすることが智くんを救うことに繋がるならやるべきではないか、という考えが浮かぶ。

 智くんはあたしにこう言った。サザンクロスの再結成に同意したのは、自分たちの味わった苦しみをあたしにも味わわせるためだ、と。それが彼の望みなのだと。

 彼を救うためなら何でもすると約束したのはあたしだ。今までと同じことをしていたのではきっと、あたし自身も変われない。仲間だって救えない。

 ここ数ヶ月模索していた方法がついに見つかった。覚悟が、決まった。

「いいわ。あんたたちの想いが一番詰まってる曲を提供して。それを歌う」

「言ったな? それならやっぱ『オールド&ニューワールド』かな。サザンクロスの再結成宣言をしたライブのあとに智篤が口ずさんだやつ。たぶん、あいつの想いが一番こもってるのはこの曲だと思う」

「あの曲ね……」

 あの日はいろいろなこと、、、、、、、がいっぺんに起きたのでよく覚えている。サビの部分を口ずさむと拓海は「さすがだな……」と言ってうなずいた。

「歌う曲を変更したら智くん、驚くかな?」

「ま、驚かせてやろうぜ。あいつにもカンフル剤は必要だ」
 拓海は言ってにやりと笑った。


11.<拓海>

この場に智篤がいたらきっと、ほくそ笑んだことだろう。やっぱりお前の歌に人の心を変える力などなかったのだ、と言って。

 だが麗華はそんなことで終わる女じゃなかった。これまでのやり方に限界を感じ、俺たちの「魂の歌」を歌うと決意した。そこに俺は麗華のプロ魂を見た。もちろんそういう信念があればこそ、ここまでやってこれたのだろうが、一度聴いただけの曲を覚えている点も含め、さすがはプロだ、と言わざるを得なかった。

 俺たちと麗華の違いが柔軟性の有無だとすれば、こだわりの強い俺たちはやはりメジャーで活動するのには向いてないんだろう。メジャーの世界は大衆に受けるか受けないか、またスポンサーの意向に添えるかどうかが最重要だと聞く。麗華の過去の活動は追っていないから分からないが、おそらく多岐にわたって仕事を受けてきたはずだ。サザンクロスとして活動を開始し始めた頃の麗華の忙しさを思い返してみても俺の推測は外れてないと思う。

 最近になって氣付いたことがある。それは世の中に溢れる音楽、とりわけテレビやラジオ、店内で流れる曲の歌詞があまりにも薄っぺらいことだ。自分が病氣になったことやサザンクロスの再結成を機に自分と向き合う時間が出来たことで、今までは聞こうともしてこなかった音楽に注意が向くようになったのは皮肉な話だが、そのとき俺は本氣で思ったのだ。メジャーの世界に足を突っ込まなくてよかったと。

 本来歌うって行為は、身体の内側から湧き上がる想いを表現したものであったはずだ。そこには魂の歓びや悲しみ、怒りが歌われていたはずだ。だけど残念なことに、今や歌も「ビジネスのいちツール」と化してしまっている。

 少なくとも俺と智篤は生活のために歌ってるわけじゃない。湧いてくる想い、伝えたい言葉があり、それを曲に乗せて歌ってるという自覚がある。智篤が麗華の歌詞を――良いことしか言っていないように聞こえる歌詞を――受け容れられない理由の一つにはそういうところもあるだろう。

 どちらかが優れていて、どちらかが劣っているなどと言うつもりはない。ただ、バンドを再結成した以上、違う世界に属してきた俺たちがわかり合うためには、どちらかが考えを変え、歩み寄る必要があるとは思っていた。そんな折、麗華がその役を買って出てくれた。

 最大の動機は自分自身のためかもしれない。だが、麗華の行動がひいてはサザンクロスの結束を高め、また仲間の智篤の心に平穏を取り戻すためにもなると俺は信じている。

 それから程なくして二人で部屋を出、ライブハウスに行った。智篤はすでに到着しており、談笑する俺らの姿を見て眉をひそめた。

「まるで恋人みたいだ」

「俺たち? どの辺が?」

「すぐそこでばったり出くわしたようには思えない雰囲氣と二人の距離感、かな」

「勘のいいやつだ。ああ、そうだよ。麗華が部屋にやってきたからここまで一緒に来た。だけど、それだけのことだ」

「へぇ……」
 智篤は俺らを信用していない様子だった。俺は不快に感じているであろう智篤に先ほど二人で決めたことを話す。

「ああ、そうそう。今日の一発目の曲だけど、『マイライフ』から『オールド&ニューワールド』に差し替えたいんだ。文句は受け付けない。これはリーダー命令だ。よろしく」

「……今日はウイングのライブじゃないだろ? なぜその曲を歌うことに?」

「ま、いろいろあってな」

「いろいろって……。そもそも急な変更でレイちゃん、歌えるの?」

「大丈夫。さっき拓海に歌ってもらって頭にたたき込んだから」

「だけど、『オールド&ニューワールド』だよ? 恨みがましく歌ってもらわなきゃ困るんだけど」

「あたしだって、やるときゃやるわよ」
 眼力を飛ばした麗華を智篤は睨むように見つめ返した。

「なるほど。よく分からないが、何かしら心情の変化があったようだね。ならばこっちもそのつもりでやるよ。レイちゃんがどんなふうに歌い上げるのか、楽しみにしてるよ」


12.<智篤>

 二人の間で何が話し合われたのか、僕には分からない。が、すでに決まっていた曲を変えてでも「オールド&ニューワールド」を歌いたいというからにはきっと、相応の想いがあるのだろう。

(プロの本領を発揮する、とでも言いたいんだろうか。まぁ、いい。今年最後のライブだ、思う存分歌って弾いて憂さを晴らしてやる。)

 ――ほう、ずいぶんやる氣があるじゃないか。
 最後の調律に取りかかると早速、内なる僕が話しかけてきた。ちょっとばかり氣分が良かったので応じる。

(そりゃあ、「マイライフ」より「オールド&ニューワールド」の方がずっといいからな。)

 ――彼女が歌っても?

(問題はそこだな。あの澄んだ声でどこまで歌えるのか……。)

 ――ワクワクしているように感じるんだけど?

(ワクワク? ……そうだな、レイちゃんに恥をかかせられるかもしれないという意味では、ワクワクしてるね。)

 ――素直じゃないね、相変わらず。

(僕が素直だったことがあるか?)

 ――……まぁ、いいさ。またライブのあとにでも感想を聞こう。
 内なる僕はこの状況を楽しむかのように鼻で笑い、消え去った。

 いよいよライブの時間が始まる。僕らは三番目の出演だが、一つ前は最近出てきた若い子らで構成された人氣バンド。大いに盛り上がっているのをステージ脇で感じながら心地よい緊張を味わう。

 彼らを注視していると拓海に声を掛けられる。
「怖い顔してるぜ。もっと肩の力を抜けよ」

「何言ってんだか。僕は出演を心待ちにしてるだけだよ。何しろ、一曲目はお氣に入りの『オールド&ニューワールド』だからね」

「俺たち以外の人間が歌うのは初めてだな」

「ああ」

「俺は麗華の歌に期待してる。きっと最高の夜になるって信じてる」

「…………」

「……さぁ、そろそろ出番だ。いつも通り頼むぜ」
 拓海は僕の肩を叩き、今度はレイちゃんに歩み寄っていった。

(僕だって期待してるさ、彼女の失態をな……。)
 少し離れたところに立つ二人の姿を遠巻きに眺めながら心の中で毒づいた。

 前のバンドがステージを降りた。最高潮に盛り上がる観客席。その、歓声が響き渡るステージ上に飛び込む。マイクを握った拓海がかすれた声でアナウンスする。

「今日はサザンクロスとしての出演だけど、一発目はウイング時代の曲でいくぜっ! これまでの俺たちの終わりと新しい俺たちの始まりにふさわしいこの曲『オールド&ニューワールド』!」

 出演時間の都合上、ギターを持ち替える時間がないため、本来はエレキギターで弾くところをアコギで弾く。これは初めての試みだった。

 拓海が最初のリズムを刻むのを待つ。しかし聞こえてきたのはいつもよりゆっくりとしたリズムだった。思わず拓海を睨む。が、彼は「このリズムに、麗華に合わせろ」と言わんばかりにあごで前方のレイちゃんを指した。

(ここでも『リーダー命令』、か……。)

 ステージ上でごねるつもりはない。急な変更でも対応できなければミュージシャンは名乗れない。僕は拓海の刻んだリズムに合わせてギターを弾き始めた。それに安心したのか、レイちゃんは僕らをそれぞれ見て頷いたあとで歌い始める。

嘘がホントでホントが嘘で
なにが真実? 悪こそが正義の世界さ

ピュアハートでは生きてけない
黒く染まったもん勝ちで
ホントの俺はもういない
いちゃいけねぇんだ、old world

つまんねえ人生いまにツバを吐け
つまんねえ世界いまを終わらせろ
ホントの俺がいる、new world
自由の風が吹いたなら
善も悪もない すべてが one world……


(なんなんだ、これは……。)

 のっけから鳥肌が立った。やさしい音色のアコギに持ち替えたせいもあるだろう。だけど、それにしたってこれが「オールド&ニューワールド」……? これじゃまるで……まるで癒やしの曲だ……。

 困惑しているうちに二番が始まる。

それが夢の中だけならばと
現在いまはなんて 残酷非道な世の中だ……

スピリット 叫び続けてる
黒と白の、狭間でずっと
ホントの俺は見つからない……!
逃げ出せねぇんだ、no world……!

つまんねえ人生いまに問いかけろ
つまんねえまんま終わるのか?
探したいんだ、my world
自分の道を進んだら
善も悪も超え すべてを change the world……!!

 所々彼女のアレンジが加わったことで、これはもう僕の歌ではなくなってしまった。

(まさか、本氣を出した彼女がここまですごいとは……。)

 僕は彼女を見くびっていた。いや、見下さなければ自分が保てなかったというのが本音だ。僕の自信作であるこの曲を、まるで自分の持ち歌のように高らかに歌い上げてしまった彼女を、これ以上さげすむことが出来なかった。

 観客たちも僕同様、彼女の歌声に聴き入り、まさに古い僕ら「ウイング」の終わりと新しい僕ら「サザンクロス」の始まりを実感している様子だった。

 今日、用意している曲はあと二つある。拓海が間を置かずに次の曲の出だしを弾き、ライブは途切れることなく続いていく。僕の指は勝手に弦をつま弾き演奏するが、心は最後の曲が終わるまでここではないどこかへ行ったきりだった。

「集まってくれたみんな、今日はありがとう! 良いお年を! そしてハッピーニューイヤー!」

 拓海が締めくくりの挨拶をすると、ライブハウスが揺れるほどの声援が響く。僕らはその声を浴びながらステージを降りた。

「ふーっ、サイコーッ!」
 拓海は満面の笑みを浮かべながらギターを肩から降ろした。

「ウイングのライブでもこんなに氣持ちよかったことはないよ。今日はホントに特別、いい氣分だ。二人とも、ありがとう!」

 差し出された手を、僕は自然と握っていた。そして彼の目を見つめた。僕の言わんとすることが分かったのか、拓海は深くうなずいた。

 そこにレイちゃんも加わり、手が重なる。
「ほんと、今日の一体感はすごかったわ。鳥肌立っちゃったもん。今でもぞわぞわしてるくらい。悩みだって吹き飛んじゃったわ」

 「そうだね」と言いかけて、すんでの所で言葉を飲み込む。そして、もう少しで手放しそうだった「恨みの氣持ち」を慌てて掴み直す。

 ――馬鹿だな、君は。あとちょっとで自由になれたのに……。
 内なる僕が呆れるように言うのを無視する。

 言われなくても分かってることを、ましてや「自分」に言われたくはなかった。そう。僕は、純粋な幼子おさなごが、集めたお菓子の包み紙を「宝物」と称して手放さないでいるようなことを未だにやっている。つまり、時が経てば自然と手放せるもの、この場合は「レイちゃんを恨み続ける行為」そのものに執着している。本当は、分かってる。

 現在の彼女、、、、、が尊敬に値する歌手だと言うことは認めよう。これはもう、素直に脱帽する。だけど、過去の彼女、、、、、を赦すかどうかは別の話だ。

「智くんの感想を聞かせてよ。あたし、聞きたい」

 たったいま尊敬の念を抱いた歌手「レイカ」から僕へ、問いが投げられた。挑戦的にも哀れんでいるようにも見える目を見つめて僕は言葉を選びながら答える。

「レイちゃんのアレンジには正直、驚いた。だけど、メチャクチャ良かった。本当だよ。見てよ。僕だって未だに鳥肌が立ってる。お客さんの反応もすごかったし、ライブのことを思い出したら興奮して今夜は眠れないだろうな」

「実を言うと、勝手にアレンジしちゃって大丈夫だったかなって心配してたんだ。でも、そう言ってもらえて良かった」

「あれは……反則だよ。僕の歌が君の歌になってしまった」

「……怒ってる? 正直に答えて」

「んー、怒りは感じてない。どちらかと言えば嫉妬、かな。うん、僕は君の才能に嫉妬してる」

「智篤……」
 心配そうに僕を見る拓海に「大丈夫」と言い置いて続ける。

「レイちゃんの中で何かが死に、何かが生まれた……。だからあんなふうに歌えたんだと思ってる。……何があったかは聞かないことにする。だけど、『オールド&ニューワールド』は僕の……ウイングの曲だ。君が歌うのは今日限りにしてもらいたい」

「……分かったわ。でも一つだけ、お願い事がある」

「何かな?」

「智くんや拓海の歌詞の書き方を参考にさせて欲しいの。……あたし、今後は歌詞の書き方を改める。天の神様からメッセージをもらうのではなく、自分の内側の素直な想いを歌詞にする。多分、それが今のあたしには必要なことだから」

「…………」

「そうか。麗華は智篤の『魂の歌』に心打たれたか……。作戦大成功、だな」

「作戦……?」

「あ、いや、こっちの話」

「拓海、隠すのはやめましょ。このことはやっぱり智くんにも知っておいてもらいたいから」

「えっ、だけど、いいのか?」

「仲間内で隠し事は無しよ」
 レイちゃんはそう言って深呼吸をし、ゆっくりと話し出す。

「智くんと拓海がそうであるように、あたしも智くんとは仲間以上の関係に、『家族』になりたいって思ってる。だから年が明けたら……明日になったらいっぱい喧嘩しよう。お互いに本当の自分を見せ合おう」

「なるほど、そうきたか」
 事情を知っているらしい拓海はすぐに言葉の裏側の意味を理解したようだ。しかし、何も知らない僕にはちんぷんかんぷんだ。

「家族……? 本当の自分を見せ合う……? 一体何の話だ?」

「これまでのあたしのままじゃ、智くんどころかもう誰も救えないことに氣付いたの。あたしはこれまでずっと『レイカ』の仮面をつけて生きてきた。逆に言えば、本当のあたしはずっと仮面の下で本音を押し殺しながら生きてきたことになる……」

「つまり?」

「いい顔をして生きるのはもうやめる、ってこと。智くんの書いた歌詞をなぞりながら歌ってみて、これはあたしの心の叫びでもあるんじゃないかと思ってね。もしそうなのだとしたら、あたしは心の、魂の声に耳を傾ける必要がある。そして、そうするためには二人と本音で語り合い、それを歌詞にするのが一番だと結論づけた、ってわけ」

「なるほど。ライブの前に拓海としていたのはそういう話か。だから『マイライフ』を『オールド&ニューワールド』に変更し、歌い、いまの心境に至ると。……だけど、何十年もつけてきた仮面を、新年を機に外せるものだろうか?」

「あたしはやると決めたらやる女よ。これまでずっとそうやって生きてきたわ」

 まっすぐに見つめる目からは言葉通りの信念を感じた。しかし僕は素直じゃないし、彼女に対しては未だ強い不信感がある。その目を睨みながら毒づく。

「そこまで言うなら教えてくれよ。どんなふうに『家族ごっこ』をするつもりなのかを。それ以前に『家族』でいいの? 『恋愛ごっこ』の間違いじゃなくて?」

「恋愛だと関係が近すぎるし、男一、女一になっちゃうじゃない。あたしは『つまんねえ世界いまを終わらせ』て、三人で一つの『ニューワールド』を築きたいのよ」

 ここであえて『オールド&ニューワールド』の歌詞を出してきた彼女の言葉選びに思わず唸る。

 ――いい提案じゃないか。乗ってみようよ。
 心の声がはしゃぐように言った。

(だけど、簡単には応じられない。何か絶対、裏がある……)

 ――彼女が嘘を言っているとでも? いつまで心を閉ざしているつもりだ?

(相変わらずうるさいやつだ……。僕のことは放っておいてくれ……)
 突き放すと、胸がきゅーっと痛んだ。心の声は鼻で笑う。

 ――そうもいかないんだよ。このまま心を閉ざされたんじゃ、こっちの命も危ないんでね。君が彼女の申し入れを頑なに拒むつもりなら、こっちもいよいよ本氣を出さなきゃいけない。

(何だよ、本氣って……)
 身構える間もなく急に呼吸が苦しくなった。めまいがし、ギターを支えに膝をつく。

「おい、大丈夫か……ってお前、どうしたんだよ……?」

 手を出しかけた拓海だったが、目を見開いたかと思うとその手を引っ込めてしまった。レイちゃんも同様に驚き、拓海と僕を交互に見ている。

「拓海にも同じように見えるの……?」

「それじゃあ麗華にも……? 一体どうなってんだ……。俺たちの目がイカれちまったのか、それとも本当に……」

 どうやら二人は僕を見て動揺しているらしい。どうなってんだ、と言いたいのはこっちの方だ。僕は倒れそうになりながらも、なんとか立ち上がる。と、出演待ちのアーティスト向けに用意された全身鏡が目に入った。そこに映っているのは僕のはずだが、どうも様子がおかしい……。

「何だよ、これ……」

 直視してみて驚愕した。丸まった背中に白髪頭、そして顔には深く刻まれたシワまで……。これが本当に僕の姿……? 狼狽ろうばいしていると、心の声が大笑いをした。

 ――どうだ、これで僕の力が分かったかな? 君は、肉体を持たない僕を馬鹿にしたが、精力を吸い、老化させるなんてたやすいことなんだよ。

(……彼女の提案を呑めばいいのか? そうすれば元の身体に戻してくれるのか?)

 ――おやおや? 君らしくない発言だね。さすがにこたえたのかな?

(いいから答えろ……!)

 ――そうだよ、君の言うとおり。彼女の提案に従った方が身のためだ。文字通りね。

(ちっ……。分かったよ、彼女の言うとおりにする。だから早く元の僕に戻してくれ……)
 胸の苦しさを押して懇願する。

 ――その言葉を待ってたよ。
 心の声が勝ち誇ったように言うと、胸の苦しさと全身のだるさが瞬時に消えた。そして鏡に映った姿も数分前の僕に戻っていた。


13.<麗華>

 家族のような関係になりたいと言った直後の出来事だっただけに、自分の発言がその現実――智くんが老人のような姿に見えた現象――を招いたような氣がして恐ろしくなった。

 しかしそれは数分のことで、氣付けば智くんは年相応の姿でそこに居た。夢を見ていたのだろうか。けれど、拓海も同じ反応だったことを考えると、あたし一人の身に起きたことではなさそうだ。

「……悪い、心配を掛けてしまって」
 智くんは目を伏せたまま言った。先ほどまではかなり苦しそうにしていたが、もう平氣なのか、すっと背筋を伸ばした。
「ちょっと楽屋で休むよ」

「なら、一緒に行くよ。ギターは俺が持つ」
「あたしも行くわ。一人にするのは心配だもの」

 拓海とあたしは同時に言って彼に寄り添った。拒まれることも覚悟の上での発言だったが彼は何も言わなかった。

 楽屋に入ると、これから出演するバンドが入念に身だしなみのチェックをしていた。軽く挨拶を交わす。若い彼らはあたしたちの様子を見て不思議がったが、そのうちの一グループにステージ入りの声がかかり、注意は自然と逸れていった。あたしたちは空いたスペースにギターを置き、小さく輪になって座った。

「……大丈夫か?」
 拓海が改めて問うた。智くんは小さく頷いたが、思い詰めた様子で自分の手のひらを凝視する。

「……いまは大丈夫だ。ちゃんと、いつもの僕に見える。君たちにもそう言ってもらえると有り難いんだけど」

「ああ、問題ない。いつもの智篤だよ」

「そうね。落ち込んでいること以外はいつも通りに見えるわ」

「それは良かった」
 智くんは少しホッとしたように口の端を緩めた。

「今の言葉を聞く限り、君たちにも僕の姿がいかにもな老人に見えたんだろうね。……さっきのはどうやら、僕を生かそうとする見えざる存在からの警告らしい。いつまでも過去の解散劇に囚われ続ければ、精神も肉体も何もかもを吸い上げて老化させてしまうぞ、と」

「なるほど。そういうことか……」
 拓海の返答に不満があるのか、智くんは首をかしげた。

「……笑わないのか? こんなにも非現実的な話をしてるってのに」

「笑うもんか。お前が苦しそうにしてた理由が分かってむしろ納得だよ」

「……体力の衰えを、作り話で誤魔化しているだけかもしれないぜ?」

「お前はそういう男じゃねえ。俺が一番よく知ってる」

「…………」

 智くんの心が、拓海の言葉でさえも受け容れまいと硬く扉を閉ざしているように思えた。
「あたしのことは信じなくてもいい。だけど、拓海のことは信じてあげて」
 見かねたあたしはそう言った。

「麗華……。だけどお前はさっき、智篤とは家族みたいな関係を築きたいって……」

「さっきのは最終目標よ。こちらが一方的に言ったものを、智くんがすぐに受け容れてくれるとは思ってない。そんなことはあたしだって分かってる。だからこそ、あたしへの不信感を拓海にも持ってほしくはないの。拓海は拓海。あたしはあたし。……でしょ?」

「……そうだね。君の言うとおり、今し方の出来事のせいでちょっと疑り深くなってしまってるのは確かだ。……ああ、外の空氣が吸いたいな。ここは少々、煙草の煙が多すぎて不快だ」

 楽屋内は基本的に禁煙だが、楽屋を出てすぐのところにある喫煙所から入り込んでくるのか、確かに室内は煙かった。

 あたしたちは各自の所持品を携帯し、足早にライブハウスをあとにした。


14.<拓海>

 外はすっかり暗くなっていた。大晦日おおみそかの空氣は凛と冷えている。思わずジャケットのポケットに手を突っ込み、肩を縮こまらせる。

「ねぇ、お腹すかない? どこか、お店に入ってゆっくり話そうよ」
 麗華も寒そうに手をこすり合わせながら言った。

「そうだな、確かに腹が減った。……智篤はどう? 食欲はあるか?」

「ああ……」

 返事はあったが、寒さのせいか氣持ちのせいか、智篤の立ち姿はどことなくさっき見た老人のそれに見えてしまった。早く落ち着いて座れる場所に連れて行かなければ、と思考を巡らせる。

「そうだ、この近くにダイニングバーがあったろう? 酒を飲みながらだったら智篤の口数も増えるんじゃねえか? 身体もあったまるし」

「ああ……」
 智篤は無感情に言い、店のある方に歩き始めた。俺は麗華と目を合わせた。

「……なんか、ヤバそうだな」

「うん……。あたしたちの力が役に立てばいいんだけど……」

「大丈夫、大丈夫さ、きっと……」
 自分に言い聞かせるようにつぶやき、智篤の後を追うように歩き出す。

 夕食時と言うこともあり店は混んでいたが、長居する客は少ないのか、席にはすぐに座れた。冷えた身体をすぐに温めたくて、注文を取りに来た店員に「ホット・バタード・ラム」を三つと適当な料理を注文した。

「あ、こいつの分だけラムを多めで」

「おい、余計なことを言うな! ……すみません、今のは冗談なんで」

「……では、すべて同じものをお作り致します。少々お待ち下さい」
 困り顔の店員はそう言って店の奥に消えた。

「……よかった。少しはいつもの調子が戻ってきたようだな」

「ちっ……。人前で恥をかかせるなといつも言っているだろうが」

 腕を組んでそっぽを向いた智篤を見てホッとする。
「そのくらい、さっきのお前からはヤバい雰囲氣が漂ってたってことだよ。……心配してんだからな、これでも」

「…………」

 程なくしてホットドリンクが提供され、まずは乾杯する。
「はい、それじゃあ今日のライブ、お疲れさま。そして来年もよろしくーってことで、カンパーイ!」

「カンパーイ!」
「おつかれさん」

 全員、カップを包み込むようにして持ち、一口ずつ飲む。じんわりと身体が温まっていくのを感じながら、俺から話題を振る。

「……それにしても、今日は不思議なことが連発する日だったな。もしかしたら、年が明けたら世界がまるっと変わっちまうんじゃねえか? 今日のはその前兆って氣がしてならねえ」

「ふんっ……。どうせ変わるなら、古い体制が全部ぶっ壊れて、一からすべてを作り直したいもんだね。僕はそのくらいの大変化を望んでるんだけどなかなか実現しない。所詮、歌の力なんてこんなもんさ」

 智篤がいつものように毒づくのを聞いて再び安心する。麗華も胸をなで下ろしたように微笑みながら言う。
「そんなことないわ。現にあたしは智くんの歌詞に心打たれたのよ? 過小評価は良くないよ」

「たった一人の心を動かしただけじゃ、世界は変わらないんだよ。僕はもっとデカいことがしたい」

「デカいことって?」
 俺の問いに智篤は少し考えてから、「世界征服」と答えた。ちょうど料理を運んできた店員がそれを聞いたらしく、驚いた表情を見せた。料理を分け合いながら話を続ける。

「世界征服、か……。いかにもひねくれ者の言いそうなことだ。だけど、そういう発言がお前らしくもある」

「そうね。智くんは昔から大望を抱いていたよね。いつも世界を見ていた」
 麗華が明るい方に話を持って行こうとしたが、酒が入った智篤の口からはネガティブな発言が続く。

「それは若い頃の話だ。あの頃はまだ世界に希望を抱いてた。だからレイちゃんの作ったサザンクロスの曲の弾くときもそういう思いで弾いていた。だけど、あれから三十年以上が経過したというのに、どうだ? 世界は良くなるどころか悪化の一途をたどっているようにしか思えない。老いも若きも、馬鹿ばっかり。本当に世界をよくしたいやつが現れても、そういうやつはすぐに消される。この世は矛盾だらけだよ……。ああ、すみません。ワイルドターキーの十二年をロックで」

 まだまだ毒づくつもりなのか、智篤は通りがかった店員に追加の酒を頼んだ。店員が足を止めたので、俺もついでに同じものを注文する。麗華はサイドカーとチェイサーを頼んだ。

「まぁ、お前が言いたいことは分かるよ。俺もそう思う。だけど……だけどさ、憂えていても世の中、変わらないんじゃないかな? もしお前が本当に世界を征服したいなら、命をかけてでも行動すべきじゃないか? それとも、自分は死にたくないが、世界は良くなって欲しい、と?」

「……もうすぐ死ぬかもしれない人間らしい発想だな。死期が迫ったからこそ命をかけて何かを成す。どうせ死んじまうならデカいことをして死にたい、と。……悪くはない考えだが、僕は征服した世界で生きたいんだよ。古い世界に別れを告げ、新しい世界で生き直したい」

「まさに『オールド&ニューワールド』ってわけか」

「そうだ。僕の居場所はここにはない。息苦しい世界だよ」

「それは……。それは、お前が一人だと思い込んで殻に籠もってるからじゃないのか?」

 言いにくいことだったが思いきって言った。目を伏せて黙り込んだ智篤を見て、やはり痛いところを突いたのだ、と自覚する。しかし、そう思っているなら話は早い。俺は一氣に話を進める。

「そーだ、新しい年を迎えたら新しい世界に飛び込めばいい。一人きりの世界から、俺たちの居る世界へ」

「……さっきレイちゃんが言っていた話に繋げるつもりだな?」

「そうそう。ここでようやく話が繋がる」

 追加注文したドリンクが提供される。智篤は無言でウィスキーを含み、麗華を睨むように見つめた。


15.<智篤>
 
 三十数年間、恨み続けた彼女と「家族」同然の付き合いをする……。どうしてすぐにそんなことが受け容れられようか。拓海は新年が変化にふさわしいタイミングだと言いたいんだろうが、僕が移行したいのは「ニューワールド」であって「ニューイヤー」ではない。

「そう言うなら聞かせてくれよ。レイちゃんの『魂の叫び』とやらを。神から降ろされたのではない、君自身の内側から湧き出す言葉を」

 僕が彼女を受け容れるための絶対条件。それは彼女の奥底に眠る想いが僕と共振すること。それ無しには家族になど、なれるはずがない。

 睨み付ける僕を、彼女もまた睨み返す。端からは火花が散っているように見えるかもしれない。しかしこれは彼女自身が望んだことだ。本音をぶつけ合いたい。喧嘩したい。大いに結構。僕はその要求に応えるだけだ。

「いいわ。お互いに本音で語り合おう。その代わり、覚悟しなさい」

 レイちゃんは手元にあったサイドカーをぐいっと飲み、ドンッとグラスを置いた。僕がぐっと身を乗り出すと、彼女も前のめりになって話し始める。

「前から言いたかったのよ。今の智くんは、そうやって毒づくことしか出来ない小さい男だって。あたしに対してもそうじゃない? ずっと恨んできたって言いながら一切連絡してこなかった。今回の再結成の打診も拓海からだった。そんな人が世界征服を目論んでる? ちゃんちゃら可笑しいわ」

「ほう、ずいぶんなことを言ってくれるじゃないか。それが君の本音ってわけか。面白い、面白いよ。もっと聞かせてくれ」

「まだまだあるわ。若い頃、あたしのこと好きだったでしょ。だけどあたしが拓海を好きだと知るや、気味が悪いくらい善人ぶっちゃって。そうしなければ三人でうまくやっていけないと思ったの? あのとき智くんが好きだって言ってくれてたらきっと、違う人生を歩んでいたって今でも思うの。本当よ」

「僕が君を好きだったって……?」

(馬鹿が、そんなわけないだろ……!)
 言いかけた口がきゅっと閉じた。

 ――智篤君、、、。酒の力を借りてもなお、自分を偽るつもりかい? 過去さえも捏造ねつぞうするつもりかい? さっき僕が見せた姿を忘れたというなら、何度でも再現してあげるよ。
 心の声が僕を揶揄からかうように言う。
 ――彼女の提案を呑むと約束したのは嘘だったのかな?

(……ちっ。分かったよ。素直になればいいんだろう?)

 ――それでよろしい。
 
 偉そうな口を叩く「自分」に嫌気が差したが、抵抗すればどうなるかも分かっているので従うことにする。こうなったらヤケクソだ。言いたいこと、思っていたことを全部言ってやる……!

「……あー、そうさ、好きだったよ。だけど取り合うなんて格好悪いじゃないか。大人しく身を引く方がクールだとその頃は思ってたんだよ。だけどあれは精神衛生上、よろしくなかったね。おかげで、君に裏切られたときの傷つき方も半端なかった。あんまり長い間傷ついたもんで、治る頃にはもう、傷があるのが当たり前の僕になってしまったほどだ。……今だから言うよ。あの頃の君はとても美しかった。特に声が素晴らしかった。もし時を巻き戻せるなら、あの頃の美しい君をいつまでも眺めていたい。あの頃のあの声でささやいて欲しい。そう思うほどに……」

「なら、巻き戻せばいいじゃない」

 そう言って僕の手を取ったレイちゃんの顔が、僕の理想とする彼女――すなわち僕が好きだった頃の彼女――に見えて思わず目を見張る。

(これは一体、どういうことだ……? またしても「お前」のいたずらなのか……?)

 心の中に問いかけるが、返事はなかった。
 返事がない。それが何を意味するのか、理解するのに時間はかからなかった。

(もしかして、僕の氣持ちが前向きか後ろ向きか、怒りに向いているか歓びに向いているかで見える世界が変わるのか……?)

 とっさに鞄から手鏡を取り出して自分の顔を見る。レイちゃんだけでなく、僕自身も当時の姿になっているのが分かった。にわかに胸がとどろく。

「……ひょっとしてレイちゃんは知っていたのか? 僕を『若返らせる』方法を……」

 自分の内ではなく外に、レイちゃんに問いかけたら「まぁ、一応ね……」と返ってきた。

「信じてくれるかどうかは分からないけど……。実はあたしと拓海の間でも今みたいな現象が起こってね……。さっきの智くんの姿を見たときも、逆だけど同じ現象だ、と思ったのよ。……どうして急にこんなことが起こるようになったのかは正直、分からない。でも、心のあり方次第で心身の年齢が決まるのだとしたら、若く見えるマインドでいた方がいいじゃない?」

「うん、まぁ……」

「だったら、あの頃のときめきを思い出そうよ。前向きでいようよ。そうすればさっきみたいに、智くんが年齢以上に老け込んで見えることもなくなるはず……!」

「本当に、たったそれだけのことで……?」
 すぐには信じられなかった。それこそ、氣持ちの問題で何もかもが変わるなら、誰でもとっくにそうしているはずじゃないか。その時、拓海が急に歌い出す。

「♪夢を描こう、最高の未来ー、僕の世界を作るのは僕ー、世界は心で作られるから……。そういうことだよ、うん」
 それは、拓海が再結成後に作った曲「マイライフ」のサビの部分だった。

 僕はこの歌詞が嫌いだった。僕の心情とかけ離れすぎていて、あまりにも綺麗すぎて……。だけど病氣になった拓海が、僕には見えていない世界の美しさや、宇宙の真理のようなものを感じ取って歌詞にしたためたのだとしたら……? 実はそっちが真実で、僕が偽りの世界を真実だと信じ込んでいるだけだとしたら……?

 ――そうだよ、智篤君。ようやくそこにたどり着いたようだね。

 心の声が満足そうに言った。

 ――君はずっと、恨みというフィルター越しに世界を見ていた。だから見るものすべてが淀んでいたのさ。しかし君は真実を知った。あとはフィルターを外すだけだ。

(だけどそんなことをしたらもう、これまでの自分を保てなくなる……。)

 ――それのどこがいけないって言うんだ? 保ってきた自分のせいでこれまで苦しんできたんじゃないのか? これを機に手放せば、君の理想とする「ニューワールド」にいける。僕はそう言ってるんだぜ?

(…………)

 ――ニューワールドに行くのが怖いのか……。ならば、彼女がさっき言ったことを繰り返してやろう。世界征服がしたいと言った男が聞いて呆れる、とね。

(それは僕にとっては死も同然なんだよっ……! お前は僕に死ねと言っている……!)

 息巻くと、心の声は哀れむようにため息を吐いた。

 ――前に言っただろう? 現状を変えないつもりなら君を潰しにかかる、と。……君は苦しみながら見る世界が好きだと言ったね。でも、別な言い方をすればそれは、変化を恐れている、ということでもあるんだよ。……一つ、教えてやろう。本当は、君は生きているだけで日々、変化している。その変化を小さいまま積み重ねるか、大きく変化させるか。違いはそれだけなんだよ。……言ってる意味が分かるかな?

(……これまでの自分を保ったまま明日にでも背中の丸まったじいさんになるか、「死ぬ」勇氣を振り絞って若々しい日々を手に入れるか……。お前が言いたいのはそういうことだろう……?)

 ――さすがの理解力だね。大正解だよ。……それで、どっちを選ぶ? まぁ、選択の余地はないと思うけどね。

(……僕も男だ。そこまで言うならお前に土下座させるつもりで行動してやる……! 絶対に後悔させてやるっ……!)

 僕は心の声に向かってツバを吐き捨てるように言い、残っていた自分のウィスキーと拓海の飲み残しを呷った。

「お、おい! 俺の分を勝手に……!」

 拓海の言葉を無視して半身、レイちゃんに身体を近づけた僕は、眼前に迫る彼女を見つめた。

「もしも……。もしも本当に僕の氣持ち一つで世界が変わるのだとしたら……!」

 酔った勢いに任せ、目の前の唇に自身のそれを重ねた。すぐに拒まれることを覚悟していたが、まるで時が止まったかのようにいつまでも二人の時間が続いた。

 ゆっくりと身体を離し、彼女を正面から見据える。頬を赤らめた彼女の顔は思っていたとおり、僕の理想とする二十代の彼女だった。

「本当に……世界は変わるのかもしれない……」

「変わるよ。ううん、変えるんだよ。三人で。ね、拓海?」

「お前なぁ、俺の時は突き飛ばしたくせに、智篤は受け容れるってどういうことだよ……? 酔ってるからって、そりゃあんまりじゃねえか?」

「んー? 酔った勢いとその場の雰囲氣はすごーく大事よ?」

「なにーっ?!」

 昔と変わらずレイちゃんに振り回されている拓海の姿が面白くて思わず笑う。笑ったからか、拓海に首を絞められそうになる。

「俺の酒ばかりか麗華の唇まで奪うとは、お前もやるじゃねえか……。やっとニューワールドに行く覚悟が……殻を破る覚悟が出来たってわけか?」

「この年齢で、さっきのような老人にはなりたくないからな……。だけど、それだけだ」

「はぁ……? それでどうして麗華の唇を奪うことになるんだよ……? それ以前に、まだ恨んでるんじゃなかったのかよ?」

「ふん……。君が言ったんじゃないか。あの頃の傷が治っていることを認めろ、と。……彼女は僕を救いたいと言った。その言葉が嘘偽りのないものだとするならば、そして本氣で罪を償う氣があるのなら一度だけチャンスをやろうと言うだけのことだよ」

「ありがとう、智くん。あたしを信じてくれて。このチャンス、必ずものにするわ」

「……だそうだ。確か、拓海がレイちゃんに頼んでくれたんだよな? 僕を救ってやってくれと」

「確かに言った。でも、麗華は俺のことも救うと言ったぜ?」
 不満げな拓海に、レイちゃんは堂々と応える。

「ええ。だからあたしは二人と『家族同然』になるつもりよ。言っとくけどあたし、今回は中立の立場を貫くから。もうあの頃みたいに、恋愛感情に振り回されたくないの」

「はぁ……? 智篤のキスを受け容れたくせに……」

「あら。家族同士ではキスしちゃいけないの? 誰がそんなこと言ったの?」

「……酔っ払った麗華は面倒くさいんだった」

「誰が面倒くさいって? ほらほら、ふたりとも。グラスが空っぽよ? 今日は今年最後の日だし、夜通し飲み明かしましょー! すみませーん! 注文お願いしまーす!」

 やたらといい声で店員を呼びつけたので、近くのテーブルの人が一斉にこちらを見たのが分かった。当然ながら、彼らからはただの騒がしいオジさん、オバさんに見えるだろう。しかし、こうして盛り上がる僕らの目にはそれぞれが若かりし頃の姿に見える。

 美しい彼女を見つめながら思う。果たして僕は、あとどのくらい彼女を恨み続けることが出来るのだろうか、と。

 ――君が恨めば彼女も恨まれ役を演じる。しかし、君が自分の氣持ちに素直になれば、彼女も相応の接し方をしてくる……。現実とはそういうものだよ。

 さっきまで僕をなじっていた心の声の口調が、今はやさしく感じられた。

(どうだ? 僕の男氣を見て感動しただろう? 参りましたと土下座してもいいんだぜ?)

 ――いやいや……。君なら出来ると信じていたさ。

(ふんっ……。謝る氣はなし、か。)

 ――君が彼女に謝ったら、さすがの僕も負けを認めて謝ろう。

(ちっ……。そうやって逃げるつもりか。)

 ――言っておくけど、僕は君だよ。つまり、謝ることから逃げているのは君も同じというわけさ。

(……屁理屈へりくつの多いやつだ。)

 ――君もね……。

「なぁ、智篤は何を頼む? 俺と同じでいい?」
 拓海に声を掛けられ、我に返る。

「ああ、いいよ」

 カクテルなんてどれも同じだろうと生返事をしたが、五分後に運ばれてきたカクテルグラスにセロリが刺さっているのを見てぎょっとする。適当に答えたことを後悔した。

「……なんだ、これは?」

「ブラッディー・シーザー。まぁ、トマトジュースみたいなもんだよ」

「いったい何を考えて……」
 指摘しようとしてやめる。これこそ、若い頃のノリではなかったか。そして拓海は昔からこういう男ではなかったか。

(思い返してみれば、三人でする馬鹿騒ぎは嫌いじゃなかったな……。)

 呆れつつも一度深呼吸をし、セロリをひとかじりして酒を口に含む。
「……さぁ、次は君の番だ。頼んだからには完食しろよ?」

「うっへぇー! ネタで頼んだのにマジで食いやがった!! ……その、勝ち誇った顔はなんか腹が立つなぁ。しゃーない。俺の本氣を見せてやる!!」

 拓海が張り合うようにセロリを三口みくちかじり、音を立てて酒を飲んだ。グラスを置くと、口の周りがトマトジュースで赤く縁取られていた。それを見て僕もレイちゃんも、心の声も笑う。

 ――なぁ、楽しいだろう? 

(ああ、悪くはない。)

 ――今なら彼女を赦せるんじゃないか? 酔った勢いで赦してしまえよ。
 さりげなく話題を挿入したつもりだろうが、僕はそこに、心の声の焦りを感じた。

(いや……。赦すのはまだ早い。僕らはまだ、ニューイヤーすら迎えていないんだ。ニューワールドに行くのはそのあとでいい。って言うか、やっと楽しくなってきたんだ、もうちょっと遊ばせてくれよ……。)

 頭の中にいくつかのプランが思い浮かんだ。僕はセロリを拓海のグラスに移して純粋に酒だけを楽しみながら、どのプランを採用しようか考え始めた。


16.<麗華>

 智くんの意外な行動に戸惑いはあったが、彼を救うためなら何でもすると公言し、家族同然の関係を築きたいと迫った以上、後には引けなかった。けれども、キスをして感じたのは、彼が迷いと葛藤の只中ただなかにある、と言うこと。口で言っているほどあたしのことを恨んでいるとはどうしても思えなかった。

(これならきっと、彼を救える……。)

 根拠のない自信が湧いてきた。氣持ちが大きくなっているのは酔っているせいかもしれないけれど、言葉では表せない「この感情」は大事にしたかった。

「なぁ、俺から一つ提案があるんだけどー」

 あたしよりも酔っているであろう拓海が、内緒話でもするかのようにテーブルの真ん中に顔を寄せて言う。

「『家族ごっこ』するってんならさ、いっそ今夜からでもそれぞれの部屋を転々としながら三人で暮らすってのはどうだ? 俺の病氣のことがあるから新たに部屋を借りるより、ある程度現状を維持ながら『家族ごっこ』した方がいろいろと都合がいいんじゃねえかと思うんだけど」

「なるほど。それは面白そうね。あたしは賛成。智くんは?」
 手を挙げたあたしとは対照的に、智くんは腕を組んで唸った。

「拓海が言っている『家族ごっこ』ってのは、寝食を共にするってことだろう? 僕と拓海の二人だけならともかく、そこにレイちゃんが加わるとなると事情は違ってくる」

「あら、あたしは大丈夫よ。うんと昔だけど、野球部だった弟の友だちと何ヶ月も共同生活したことあるし」

「……いやいや、僕も拓海も君が好きだと言ったばかりなんだぜ?」

「あたしだって言ったはずよ? 今度は恋愛感情を一切持つ氣はないって。たとえあなたたちが『恋愛ごっこ』を始めてもあたしは乗らない。断言するわ」

「それは安心材料であると同時に困った問題でもあるな」

「どうして?」

「これも君が言ったことだけど、僕らが若返りを体験するには昔の感情を思い出す必要がある。つまりは君への恋愛感情だ。それを封じられてしまっては一緒に暮らす意味も半減してしまう。たぶん、良い歌詞も書けない」

「へぇ、じゃあ智くんはあたしを思いながら歌詞を書いてくれるんだ?」

「まぁ……。リーダー命令も出てるしね」

「うふふ。嬉しい」

 たとえそれが本心からでは無かったとしても、彼の口からそういう言葉が出てきただけでも一歩前進だろう。彼らと恋愛ごっこをするつもりは微塵もないが、家族同然の関係を築くためにはまず、彼らの想いを受け止める必要がありそうだ。

「まぁ、あたしは氣分屋だから、あなたたちの行動次第では恋愛ごっこに発展する可能性もある、と付け加えておくわ。これなら納得してくれる?」

「オーケー、オーケー」

 にやりと笑った彼はとても楽しそうだった。何か裏で考えている氣もするが、今は彼の言葉を信じることにしよう。

「じゃあ、智篤も賛同してくれたってことでいいのかな?」
 拓海が総括するように言うと、智くんはこくこくと頷いた。

「これまでそれぞれに一人で生活してきた僕らが一つ屋根の下に住む……。いったい何が起こるか僕には想像も出来ないが、刺激的な日々になるのは間違いないだろうね。刺激は創作意欲をかき立てる材料になる。僕はそういう理由から君の提案を呑むことにするよ」

「相変わらずひねくれた返答だな……。でも、賛同してくれたならまぁ、いいか」
 拓海はそう言ってあたしたちを見回した。
「で……。誰んちからスタートする?」

「え? 本当に今晩から……?」
 あたしは戸惑いの声を上げ、智くんは呆れたように天を仰いだ。

「ったりめえよ。麗華が言ったんだぜ? 酔った勢いは大事だってな」

「酔った勢いにしろ、何にしろ、こういうのは提案した張本人が責任を取るものだよ」

「じゃあ俺んちからってこと?」

「それが筋ってもんだろう?」
 智くんの、至極もっともな回答を聞いた拓海は「それもそうか」と言ってうなずいた。

「そうと決まれば、早速俺んちで新年を迎えようぜ!」
 後のことなど何も考えていない様子で拓海はいい、勢いよく立ち上がった。


17.<拓海>

 三人でいる時間を最も長く作るにはそれしかない、と思った。俺には時間がない。麗華は奇跡を起こすつもりのようだが、そんなものを期待して漫然と過ごすより、タイムリミットを設けた方が人間、思いきった行動が出来るというものだ。

 俺の病氣に伴うサザンクロスの再結成、麗華に訪れた転機、智篤に襲いかかった異変……。これらは別々に起きたがここへ来て絶妙に絡み合い、一つになったように俺には感じられた。まるで誰かが俺たちを「ニューワールド」に向かわせるために仕組んでいるかのようにさえ。

 もしかしたらこの流れに乗ることは俺の死を確定させるものになるかもしれない。だが、流れに逆らったり止めたりしちゃいけないと魂が叫んでいる。むしろ流れを利用しろとさえ言っている。だからこそ、共同生活を提案したのである。

 とはいえ俺の部屋は、とてもじゃないが仲間を迎えられる環境ではない。だけど、仲間と真に打ち解けるためにはまず、言い出しっぺの俺がありのままの日常を見せる必要があるだろう。

 店を出て電車に揺られること二十分。二人を引き連れた俺は、コンビニで買った追加の酒とつまみの入った袋を引っ提げて帰宅する。室内に入ると智篤がまず「相変わらずだなぁ」とぼやいた。

「君の提案を受け容れてここまでやっては来たものの、この部屋の状況を見る限り、僕らの寝床はなさそうだ」

「……片付けるってば。だけど二人とも、一度はこの部屋を見た上でオーケーしてくれたんだろう? だったら文句は言わないこと!」

「……まぁ、いいさ。一生この部屋で過ごすわけじゃないし」
 そう言うと、智篤はすたすたとベランダに向かい、少しだけ窓を開けた。
「……もうすぐ年が明けるな。どこかから、除夜の鐘の音が聞こえる」

 耳を澄ますと確かにそれらしき音が聞こえた。

 新年を迎えることについて深く考えたことは一度もなかった。しかし今回は違う。もしかしたらこれが最後の年越しになるかもしれない……。そんな考えがよぎり、途端に氣分が落ち込んだ。

 窓を閉めた智篤がこちらへ向き直るのを見て、俺はビニール袋から缶チューハイを取り出して配った。

「……もう昔のように夜通し馬鹿騒ぎすることなんて出来ないけど、とりあえず乾杯しようか」

「あら、馬鹿騒ぎ、しないの? てっきりさっきの続きをするもんだと思ってた」

「そのつもりだったんだけど、自分の部屋に戻ってきたら、フーってなっちゃってな」

「……それは病氣のせい?」
 麗華が神妙な顔で言い、次に壁の一点に目を動かした。視線の先には通院スケジュールが貼ってある。
「……結構頻繁に通ってるんだね。知らなかった」

「まぁ……。それなりに進行してるからな……」

「手術はしなくても大丈夫なの?」

「…………」

「拒んでるのさ、拓海は。君とのおしゃべりを楽しむためにね」
 黙すると、智篤が余計なことを言った。睨み付けると「それが本心だろ?」と返された。

「家族ごっこするために自室を提供した以上、君は病氣のことを開示しなくちゃいけないだろうね。医者からなんて宣告されているかを」

「…………」

「教えて、拓海。あたし、ちゃんと病氣と向き合いたい」

「……分かったよ。言えばいいんだろ」
 麗華にまっすぐ見つめられては断れない。俺は観念して正直に告げる。

「……投薬中はメチャクチャ疲れやすい。免疫が落ちるから人の多いところにもあまり行かない方がいい。酒も本当は良くない。だけど俺はミュージシャンだし、麗華と一緒にバンド活動するって決めたから好きにやってる。それが実際のところだ」

「どうしてそんな無茶なことを……」

「救ってくれるんだろう、俺のこと。……奇跡が起きるのを待つ忍耐力はないけど、麗華がそう言ったなら俺は希望を抱きたい」

「…………」

「今の言葉はちょっと重かったかな……? まぁ、そんなに深刻に受け止めないでくれ。俺は頼まれたとおり、今まで伝えていなかったことを言っただけだから」

 麗華はうつむき、智篤はほくそ笑んだ。
「……何笑ってんだよ」

「生きたいのか死にたいのか、どっちなんだよ、と思ってね」

「それはお前も同じだろう? 麗華に対する氣持ちが揺れ動いてるように俺には見えるぜ」

「ふん……」

「まぁまぁ、とにかくさ……。乾杯しようよ」

 場の空氣を変えるかのように、麗華が真っ先に缶チューハイのプルタブを開け、食べるかどうかも分からないつまみの袋を破った。智篤が腰を下ろしたところで麗華が俺たちを交互に見ながら言う。

「二人が、三十年分の思いを今ぶつけたいって言うなら受け止めるつもり。そのためにあたしはここに居る。だけど、その前に! これまでのあたしたちにお疲れさまの意味を込めて、乾杯!」

「おう、お疲れさまー。仕切り直しと行こうぜ」

「やれやれ。第二ラウンドはお手柔らかに頼むよ」

 それぞれに缶を掲げ、交わす。身体が触れあうほどの距離で輪になった俺たち。他愛ない話をしながらちびりちびりと飲むうちに夜が更けていく。


18.<智篤>

 酒のせいか、病のせいか、その場でウトウトと寝てしまった拓海を起こさないようにして僕はレイちゃんをベランダに誘い出した。もうすぐ年が明けるからか、どこかから騒がしい声が聞こえる。うんざりしながら寒空に目をやった僕とは違い、話を聞く意思を示すようにレイちゃんがこっちを向いた。

「拓海に聞かれたくない話でもあるの?」

「ああ」

「……あまりいい予感はしないなぁ」

「酔っていても勘は鋭いね。当たってる」

「えー? 冗談で言ったのに」
 レイちゃんはわざとらしく言った。
「それで、話って?」

「うん。さっきの店で、君と家族同然の付き合いをするために僕がすべきことは何か、色々考えてみたんだ。で、最終的に手紙を書くことに決めた。君宛ての。もちろん、秘密の内容だから拓海には見せないで欲しい」

 そう。これがさっき思いついたプランの内容だ。たぶん、この先の「ニューワールド」に僕自身が向かうためには――つまりは急速な老人化を防ぐためには――表面上、レイちゃんとの距離を縮めるのが最善。これなら彼女らと「家族」として付き合っているように見えるし、若さを保つことも出来る。そして何より、サザンクロス再結成に賛同した最大の理由である、彼女を苦しめるという目的を果たすこともできる。一石二鳥ならぬ、一石三鳥と言うわけだ。

「手紙って、ラブレター?」
 その問いに、首を横に振る。

「期待を裏切って悪いけど、君は僕と喧嘩したいみたいだからね。君宛ての手紙には僕の本音を綴ろうと思う。つまりはこれまでの恨み辛みを書く。返事は要らない。ただ、受け取ってもらえればそれでいい」

「もし、手紙の内容について思うところがある場合は?」

「それでもただ、受け取るだけにして欲しい」

「……あたしを苦しめるつもりね? だけどそれじゃあ喧嘩とは言えないわ。あたしは智くんとぶつかり合いたいよ。さっきみたいに」
 その目が、心をのぞき込むかのように僕を見つめた。

「さっきみたいに……」
 一瞬、目の前の景色がにじんだかと思うと、彼女の姿が再び若返って見えた。
「……やっぱり美しいな、君は」

「だったら、あたしへの愛情を手紙に綴って。さっきあたしを想って歌詞を書いてくれるって言ってたじゃない? その延長でラブレターも書いてよ」

「それとこれとは別だよ。僕はまだ君を赦してはいない。君が僕に謝ってくれたら考えてもいいけど」

「……ねぇ、こうするのはどう? あたしが智くんに謝ったら、智くんも自分のことを赦すの」

「は? 僕が君を赦す、の間違いじゃない?」
 酔っているから言い間違えたのかもしれない、と思って問うたが、彼女は首を振った。

「あたしのことは……赦してくれなくてもいい。智くんが恨み続けたいというなら恨まれ続ける。だけど……そうすることで智くん自身が傷ついているように、あたしには見える。それがさっきの、老化現象に繋がってるって」

「…………」

「智くんは、本当は優しい人だってあたし、知ってる。あたしのせいで鬼になったって言うけど、根の部分は変わってないのが伝わってくるんだもの。……これはあたしの勘だけど、智くんが老化して見えたのは多分『智くんを生かそうとする存在』が、もう自分をいじめるのはやめなさいって伝えるためだったんじゃないかと思うの」

「……僕は、やさしくなんかない」

「嘘。本当に優しくなかったら、今ごろあたしを攻撃してると思う。ましてやキスなんてしなかったと思う」

「あれは……」
 自分のためだった、と言おうとしてぐっと堪える。と、彼女の顔が一層近づいた。

「……あの時のあたしはわがままだった。相談もせずに決めてしまって本当にごめんなさい。こんなにも長い間あなたを傷つけてしまったこと、心から謝ります」
 美しい瞳から一筋の涙がこぼれた。

 ――ほらほら、彼女が泣いて詫びてるよ。赦すなら今しかないよ!
 心の声が急くように言った。

(赦したら……。そうしてしまったら、なんのために生きてきたか分からなくなってしまう……。)

 ――恨みを晴らせなくなるからか? しかし、恨みを晴らした後の君もまた同様の喪失感に打ちひしがれるんじゃないかな。真に君が救われるには、彼女を赦すしかない。

(…………。)

 ――君には今、二つの選択肢がある。彼女を恨み続けて老化を早める道と、今すぐ彼女を赦し、心身共に健やかに生きる道。老化が進んだ姿に懲りたなら、君が取るべき道は一つしかないと思うけどね。

(またそうやって脅すつもりか……。)

 ――脅すも何も、僕は君のためを思って言ってるだけだよ。まぁ、今すぐ君を衰えさせては彼女がかわいそうだ。君の提案通りに謝罪した彼女にラブレターを書くなら延命してやってもいいよ。

(……ふん。どこまでも偉そうなやつだ。)

 彼女は僕の返事を待つようにその目をまっすぐこちらに向けている。謝った彼女に対し「今のは単なる言葉のあやだ」と突っぱねるのは簡単だが、それではあまりにもダサすぎる。

「その涙に免じてラブレターを書くことにしよう」
 観念した僕はそう言って彼女の涙を拭ってやった。
「最初からうまく書ける保証はないけど、それでも良ければ」

「そこら辺に転がる口説き文句なんて要らない。あたしは、智くんの気持ちが知れればそれでいい」

「それじゃあ気長に待っててもらおうか。拓海の目を盗まなきゃいけないし、きっと何回も書き直さなきゃいけないだろうからね」

「話は聞いちまったから俺の目を氣にすることはないぜ」
 いつの間に目を覚ましたのか、拓海が窓を開けながらベランダに顔を出した。

「あら。どの辺りから聞いてたの?」

「二人がベランダに出て行ったところから」

「じゃあ全部聞かれてた、って訳か」

「そういうこと。残念だったな」
 拓海はニヤニヤしながらレイちゃんを見つめた。それを見て、勘のいい彼女が提案する。

「ねぇ、今の話を聞いてたなら拓海も書いてよ。ラブレター」

「俺からも欲しいの? しゃーねーなぁ」

 拓海は僕らの話を聞きながら自分も書きたいと思っていたのだろう。やれやれ、ライバルが登場したことで「気長に」などとは言っていられなくなってしまった。ただでさえ言語化が苦手な僕が拓海と張り合える速度で手紙が書けるのか。少々不安になる。

 一方の拓海は手紙を書くことに抵抗がないようだ。
「ラブレターが欲しいって言うくらいだから、心に響いたときにはちゃんと応えてくれるんだろうな?」

「それは手紙の内容次第ね。拓海は返事が欲しいの?」

「返事っつーか、反応は欲しいかな」

「なら、あたしが行動を起こしたくなるような文言を綴ることね。歌詞にしても遜色そんしょくないような、詩的な表現を期待するわ」

「任せろ。そう言うのなら得意だぜ」

「うふふ。楽しみにしてるわ」
 
 彼女が微笑んだ直後、どこかで花火の上がる音が聞こえた。腕時計に目をやるとちょうど零時になったところだった。

「……僕らが迎えたニューイヤーは、ニューワールドに続いているんだろうか」
 呟くとレイちゃんが僕の手を取った。

「ニューワールドはあたしたちの手で築き上げるのよ」

「ああ、そうだぜ」
 拓海の手も重なる。
「もう、目に見える現実を嘆くのはやめよう。今日からはこの手で現実を、世界を変えるんだ」

「……この感じ。懐かしいな」

 あの頃は、レイちゃんも拓海も常に前向きで、向かう先には明るい未来しかないと思っているみたいに見えた。そんな二人の純粋さに引っ張られる形で過ぎていった日々には確かに、現実を吹き飛ばせそうな勢いと希望があった。

「本当にそれが可能だというのなら僕は……」

 一歩も二歩も踏み出してしまった僕はもう、このまま歩き続けるしかない。ニューワールドを作るであろう「この手」に力を込める。

「拓海の病氣が完治し、僕ら三人が若返り、サザンクロスが日本一のバンドになる未来を想像してみる。あり得ないと思うようなことこそ、実現したときの感動もデカいだろう?」

「いいな、それ。さすがは世界征服を目論む男だ」

「そうね。デカいことがしたいって言うなら、夢はそのくらい大きくなくちゃ」

「夢なんかでは終わらせないよ。きっと実現させてみせる。……夢を描こう、最高の未来、僕の世界を作るのは僕、世界は心で作られるから……。今度こそ、三人で叶えるんだ」

 二人は目を見開いたが、それを言った僕自身が一番驚いていた。なぜ「マイライフ」を口ずさみ、心にもないことを言ったのか、自分でも分からなかった。

 ――心にもないことなら、そもそも口から出てこないよ。君はずっとそんな未来を、この三人で『世界征服』する日を思い描いていた。二人に刺激されて今、ようやく言語化できただけのことだよ。

(三人で『世界征服』……。そうか、そういうことか……。)
 心の声に妙に納得している僕がいた。

(もしも本当に『世界征服』の夢が叶うなら、今の僕は『死ぬ』べきなんだろうな……。)

 ――そうさ。そうすりゃ、世界は変わる。間違いなくね。

 恐れていた変化が、少しだけ怖くなくなっていた。それはきっと二人がここに居て、僕の手をしっかりと握ってくれているから。

「……夜明けはすぐそこだ。昨日までの僕にさよなら。新しい世界が僕を、僕らを待っている」

「今の、歌詞になりそうね」

 レイちゃんが言い、拓海も頷いた。
「一曲作れそうじゃん。続き、考えてみてくれよ」

「気が向いたらね……。さて、寒くなってきた。部屋に戻ってもう少し飲もうじゃないか」
 
 言葉と共に出た白い息が星の見えない夜空に消えていく。拓海が死を覚悟して行動し始めたように、世界を変えるには僕もここから死ぬ氣でことを成さねばと思いながら、今夜泊まる「僕らの部屋」に戻った。


19.<麗華>

 拓海の厚意でベッドを使わせてもらえることになった。男性陣は暖房を掛けた部屋の床で、かき集めた掛け物と上着を纏って寝ている。日が高くなったら正月でも開いているホームセンターで寝袋でも購入しようという話になっている。もう遅いし早く寝なければと思い目をつぶるが、拓海の病氣のことや慣れないベッドで寝ているせいか、なかなか寝付けなかった。

 何度も寝返りを打っていると起こしてしまったのか、拓海が小さな声で「眠れないのか?」と尋ねてきた。

「大丈夫、そのうちに眠れるわ……」

 安心させるために嘘を吐いた。しかしすぐにバレてしまったようだ。拓海はため息を吐いたかと思うとベッドの端に腰掛け、その後あたしと背中合わせに横たわった。

 背中越しに拓海の呼吸音が伝わってくる。雑音が混ざったそれは苦しそうに感じられた。病んでいるのは喉だと聞いたが、ヘビースモーカーだったから肺も病んでいる可能性は充分考えられる。

 雑音交じりの呼吸音を聞いていられず、とっさに向きを変え、仰向けになる。すると拓海も動き出し、今度はあたしの方を向いた。

「いま、何考えてたんだ?」

「……あんたのこと。正確には病氣のこと、かな」

「そうか……。心配してくれてんだ?」

「……聞いてたよりずっと深刻みたいだから。三人でデッカい夢を叶えるつもりがあるなら、今からでもちゃんと手術した方がいいと思う。死んじゃったら何もかもおしまいだもの」

「そうだな。だけど、手術したらもう、こうして俺の声で話すことは出来ないと思う。あんまりうまくはないけど、この声を武器に歌い続けてきた自負もあるし」

「ミュージシャンだから?」

「そう。自分事と思って考えてみ? お前だってきっと声を残すと思う」

「……そうかもね。だけど、死ぬのはもっと怖いな。拓海は怖くないの?」

「……もし怖がってるように見えないなら、俺の作戦はうまくいってるってことだな」

 その発言を聞いて、見た目以上に強がっていることを知る。彼のプライドが許さないからか、あたしたちを心配させないためか。いずれにせよ、氣丈に振る舞っている彼に一層の不安を抱く。

「あたしは拓海の声が聞けなくなってもバンド活動を続けたいよ。拓海の弾くギターの音、作る曲、歌詞……。どれも好きだもの」

「好きなのはそれだけ?」

「えっ……」
 驚いた直後に抱きしめられた。

「俺は自分の声で想いを、お前が好きだってことを伝えたいんだよ。昔も今も。それが出来なくなったら死んだも同然。だから声は絶対に残す」

「……手紙じゃ伝えきれない?」

「そりゃあそうだろ。智篤に対抗して書くっていったけど、俺の気持ちを百パー伝えるにはこの声以外にあり得ない」

「拓海もあたしのこと、恨んでたんじゃないの? なのにどうしてまた好きだなんて……」

「……さぁ、どうしてかな。俺にも分かんない」

「分からないことに命賭けるの?」

「……変かな。でも、これが今の俺の氣持ちだから、それに従って死んだとしても後悔はしないはずだよ」

「……死ぬなんて、言わないでよ」

「じゃあ俺のこと、もう一回愛してくれる?」

「それは……」
 返事が出来なかった。しかし想定済みだったのか、拓海は小さく笑って「さぁ、そろそろ寝よう。おやすみ」と言ってベッドから降り、智くんの隣に横たわった。

 もう一度拓海を愛する。そう決意すれば拓海は手術に臨むのだろうか? しかし今の発言から、手術をしても治る見込みがないから薬で延命しているという見方も出来なくはなかった。

「ごめんね、拓海……。あの時ちゃんと愛しきれなくて……」
 か細い声で呟く。

「謝罪は求めてない。欲しいのは、今のお前の愛情だけだ……」
 拓海の迷いなき言葉が胸に突き刺さった。

(拓海は過去のあたしではなく「今」のあたしを愛そうとしている……?)

 起き上がって確かめようと思ったが、その後の振る舞い方が分からないうちは問う資格などないと考え改める。

(まだ少し時間はあるわ……。とにかく、新しい暮らしが始まったのだから、今はその中で自分の想いを固めていくしかない……。)

 室内でかすかに鳴る時計の秒針を聞きながらまぶたを閉じた。


20.<拓海>

 目覚めと同時に身体のだるさを感じた。夕べはずいぶん飲んでしまったからそのせいだろうか。それともやはりこの病が原因か。いずれにしてもすぐに起き上がれる体調ではなかった。

 幸いにして二人はまだ寝ているようだ。そのことに安堵し、目覚めた体勢のまましばらくじっとする。

 昨日は若い頃のノリを思い出して調子に乗りすぎた氣がする。医者に報告したら、死にたいのかと叱られるようなことをしたと言う自覚はある。しかし、バンド活動がしたいと言って動き出したのは俺自身だし、実際、二人と居るときは病氣だってことを忘れるくらい調子がよかった。ただやはり、羽目を外した翌日は反動で身体が動かなくなるのだと痛感する。

 ――死ぬなんて、言わないでよ……。

 麗華の呟き声が頭の中で繰り返される。麗華が生きて欲しいと願っているのは単純に失うことが怖いからだろう。俺もこうなる前は死を恐れていた。けれど、死が眼前に迫ってみると恐怖におののいてばかりはいられなかった。俺にはまだやりたいことがあったのだと氣付き、何が何でも行動し、達成しなければという氣持ちになった。身体より、そっちが優先。麗華が「死んで欲しくない」と願っても止まれないのは、そういう理由からだ。

 俺に止まれと言うことはそれこそ、今すぐ死ねというようなものなのだ。麗華には申し訳ない氣持ちもあるが、これも運命と受け容れてもらうか、最後まで抗って奇跡を起こしてもらうかのどちらかしかない。

 智篤の寝ている方に顔を向けて考え事をしていたら突然、あいつが目を開いた。とっさに、おはようと挨拶をする。

「……起きてたのか。こんなに早起きして身体は平氣なのか?」

「……平氣じゃねえけど、もうしばらく横になっときゃ大丈夫だよ、多分」

「……ったく、無茶しやがって」
 智篤はゆっくり起き上がると大あくびをしながら伸びをした。

「今日はゆっくりしよう。いくら氣持ちが若くたって、病氣を押してのライブは身体に堪えただろう。君の体力が戻るまで、二、三日はここに居てやるよ」

「それは有り難いな。……あぁ、もし腹が減ってたら適当に冷蔵庫の中のものでも食べてくれよ。ここに居るうちは好きにしてもらって構わない」

「いや、まだ空腹感はない」
 そう言って智篤はあぐらをかいた。隣に座ろうと身体を起こしてみるがうまく力が入らなかった。何度か咳き込んだら鼻で笑われる。

「ふん……。無理を重ねれば、手術の有無にかかわらず声が出せなくなるかもしれないぞ。分かってるだろうな?」

「ああ……。だけど俺はこの声に誇りを持ってる」

「医者に摘出されるくらいなら自分で使い潰すってわけか。実に君らしい。でも、そういうことなら少し急いだ方がいいな」

「急ぐって、何を?」

「僕ら三人で作り上げるんだろう? 新しい世界を。のんびりしている間にリーダーの君が抜けてしまったら意味がないじゃないか」

「え? ニューワールドはお前が行きたい世界じゃなかった?」

「僕にとっては、君たちと築き上げる世界が『ニューワールド』なんだよ。だからそこには拓海も居なくちゃいけない」

「お前の言う『世界征服』ってやつか……? 頂点を目指すってのはメジャーの世界に行くって意味?」

「まさか。メジャーには興味がない。だいたい、今や音楽も多様性の時代だ。僕は誰でも知ってる曲を作りたいんじゃなくて、あくまでもサザンクロスらしい音楽でたくさんの人の心を揺さぶりたい。つまりは僕らの音楽で聴衆の心を『征服』したいんだよ」

「なるほど。『サザンクロス色』に染めようってことだな?」

「そういうことだ」

「だけど、サザンクロスらしい曲って? イメージしてるの?」

「だからそれをこれから作るんじゃないか」
 智篤は少し怒った口調で言った。

「昔のサザンクロスはレイちゃんメインで作詞作曲していた。でも新生サザンクロスでは三人で作詞作曲する。これが今、ぼんやりとではあるが考えているプランだ。レイちゃんも今後は僕らの作詞の仕方を参考にすると言ってるし、もはや分業する必要はないだろう」

「三人で曲作り、か……」

 俺が再結成した一番の理由は、メインで歌う麗華の後ろでギターを弾くことだった。それが出来れば満足だった。しかし、実際に活動し、こうして語り合う中で俺自身も歌いたい、作詞作曲したいという氣持ちが芽生えていたのは事実だ。

「ありだな」

 今年の目標が出来たことで急にやる氣が湧く。重かった身体にようやくエンジンがかかる。ゆっくり起き上がってあぐらをかくと智篤が「いい顔だ」と言って微笑んだ。

「僕自身は、それぞれに歌詞を考えて出し合い、ミックスするのを想定してる。多分、これまでにない、いい曲が出来ると思う」

「いいわね、やりましょう」
 突然声がして振り返る。寝ていると思っていた麗華が俺たちの方に身体を向けて起き上がった。

「もしかして今の話、聞いてたのか?」

「今起きたばかりだから聞いたのは最後のところだけよ。三人で作詞作曲、素敵じゃない。今のあたしたちだからこそ出来る、素晴らしいアイデアだわ。すぐにでも取りかかりましょう」

「ずいぶんとまぁ、やる氣だな」

「実は今、浮かんでる歌詞があって……。あー、紙はある? 今すぐ書き留めたいの」

「それならほら、ベッド脇にメモ帳とペンがあるからそれを使ってくれ。俺も寝起きとか寝かけに思いつくことが多いから常備してるんだ」

「じゃあ借りるわね」

 麗華は返事をしながら手を伸ばし、早速何かを書き留め始めた。それを見て、これからはこの光景が日常になるんだと氣付き、嬉しくなる。

 どうして早く三人でやり直さなかったのだろうと思う。もちろん理由は分かってる。お互いに意地を張っていたせいだ。だけど、振り返ってみればそのこだわりは本当につまらないものだったとも思う。

「なぁ、智篤。三人で協力して一つの作品を作り上げるって言うなら、もう麗華のことは赦したものと考えていいな?」

 これだけは確認しておかなければならなかった。わだかまりがあったり、思い違いがあったりしては本当にいいものなんて出来ない。しかし智篤は首を横に振った。

「昨夜レイちゃんに言ったことを君も聞いたはずだ。それとこれとは別だと。レイちゃんは、自分は謝るが僕には赦されなくてもいいと言った。だから僕の氣が済むまでは彼女を恨み続ける」

「智篤……!」

「拓海、この問題を今、解決する必要はないわ。きっとわかり合える日が来る。必ず。あたしはそう信じてる。だから待ちましょう」

「待つ? いつまで? 俺には時間がないんだよ……!」

「……智くんの心を変えられるのは智くんだけ。あたしたちには彼が自分で心の鍵を開ける手伝いをすることしか出来ない」

「世を憂う歌詞はウイング時代に置いてきたはずじゃなかったのか? お前が麗華を赦さない限り俺たちらしい曲なんて作れっこない……」

「僕はそうは思わない」
 話題の張本人が悪びれない様子で言った。

「爽やかな曲調が売りのサザンクロスは過去のものだ。今の僕らには人生の重みがある。それを歌詞に盛り込まないなんてあり得ない。もちろん、爽やかさがお好みならそういう歌詞を書けばいい。だけどこれからの僕は人生観を織り交ぜた歌詞を書く」

 智篤の過去の歌詞を思い浮かべ、それと同じなら合作は厳しいと勝手に判断してしまったが、どうやらあいつなりにちゃんと考えているらしい。人生の重み。確かにそういうものは年齢を重ねなければ知ることの出来ないものだ。若い頃との違いを出すなら深みのある歌詞にする必要がある、と言う意見ももっともであった。

 智篤は続ける。
「時間がない、と君は言う。しかし焦ったからといっていい曲が作れるわけじゃないし、僕が作詞に時間を掛けるタイプなのは長い付き合いの中で知っているはずだ。君を追い詰めるつもりは微塵もないが、僕には僕のペースってものがあるし、リーダー命令も守るつもりでいる。とにかく、時間がるんだ」

「……わかったよ。だけど、俺の時間がお前らより少ないのも事実だ。それも忘れないでくれよ」

 念を押すように言うと、智篤は分かったのか分かっていないのか、何度首を縦に振るだけだった。

21.<智篤>

 ――日中は自由行動。夜は俺んちに集合な。寝具は各自、持参のこと。

 ぬしである拓海の指示により、僕らは一旦部屋を出ることとなった。身体が重そうな拓海のことが氣掛かりではあったが、四六時中一緒にいても出来ることは少ないし、それぞれに一人時間を持った方が創作もはかどる。

 さっきは拓海の言葉を突っぱねるようなことを言ったが、あいつが「時間がない」というときの悲愴感を感じない僕ではない。三人で過ごせる時間はきっと、少ない。分かってる。だからこうして今日は一日、作詞、、に時間を割こうとしている。

 作詞、、、と言っても今日書くのはレイちゃん宛ての「ラブレター」である。しかしこれはおそらく歌詞にも使える文章になるはずだ。

 雑貨店で好みの便せんを購入し、自室に戻る。落ち着いた環境で彼女への思いを、まるで歌詞を考えるときのように綴る。

 親愛なる麗華様

 ずっと抱いていた。言葉に出来ないほどの怒りと苦しみを。破壊しかねないほどの憎悪を。幸か不幸か、怒りの矛先はギターに向けられた。抑えきれない怒りを、演奏は言うまでもなく、物理的に破壊することでたびたび発散してきた。そうでもしなければとうの昔に僕自身の心は壊れていただろう。
 ギターを犠牲にしたおかげで今に至る。そして君と再会した僕は、若い頃には到底知り得なかった種類の「愛」を知った。これは「自愛」かもしれないし、考えたくはないが「君への赦し」かもしれない。何にせよ、君と過ごす日々が僕を変える予感がしている。

 予感を現実化させるために僕は手紙を書く。新しい曲を作る。僕自身と、僕を取り巻く世界を愛するために。

 君はラブレターが欲しいと言ったが、残念ながらやはり今すぐ愛をささやくことはできそうにない。だけど、君を再び愛し、本物のラブレターを書き上げられるよう努力しようと思う。理想の音楽を、世界を作り上げるために、今日からたくさん語り合おう。僕も君のことが知りたい。

 たったこれだけの文章を書くのに何時間もかかった。便せんも数枚無駄にしたが、最終的には僕らしい手紙に仕上がったと思う。拓海が読んだら、こんなのはラブレターじゃないと笑うに違いない。だけど、想いを伝えるのに決まった書き方などないはずだし、僕の目的はあくまでも彼女にこれまでの苦しみを知ってもらうことだ。

 *

 西の空がオレンジ色に染まる頃、僕はレイちゃんに電話を掛けて拓海のアパートの最寄り駅前にあるカフェで待ち合わせた。拓海の前でこの手紙を読んで欲しくなかった。彼女が隣のカウンター席に腰掛けたのを確認した僕はすぐに手紙を渡した。

「もう書けたんだ? ここで読んでもいい?」

「そのために呼び出したんだ、すぐに読んでくれ」

「分かった。……便せん、選んでくれたのかな。音譜が描いてあってかわいい」
 レイちゃんはワクワクした様子で封筒を開け、手紙を読み始めた。
 
 たった一枚きりの手紙。読むのに一分とかからないだろう。だが、その一分がとても長く感じられた。

「ありがとう、本当の氣持ちを打ち明けてくれて。うん、たくさん語り合おうね」
 レイちゃんは満足そうに手紙を封筒に戻すと、ショルダーバッグにそっとしまった。

「あたしからも贈り物があるんだけど、受け取ってくれる?」

「贈り物? ……もしかして、歌?」
 彼女が持参した大量の荷物の中にギターが含まれていたのでピンときた。彼女は「あったりー」と言ってギターケースを撫でた。

「拓海のアパートの近くに公園があったでしょう? あそこだったら弾き語りできると思うの。どう?」

「一応確認だけど、それは今読んだ手紙の返事ではないよね?」
 手紙の感想は聞かせてくれるな、と言い置いてある。僕の感じた苦しみを胸の内で味わってもらうためだ。

「昨夜、ベランダで語り合った時の氣持ちを歌にしたから返事ではないわ」
 彼女は首を横に振って答えた。

「それなら聞こうか……」
 手元にあるコーヒーを飲み干し、今晩泊まる用の荷物を抱えて店を出た僕らは拓海のアパート方面へ足を向けた。

 駅から離れるにつれ住宅が増える。が、日が傾きかけた時間の公園に人影はなかった。僕がベンチに腰掛けると、レイちゃんは手慣れた様子でギターの支度をした。目が合ったところですぐに歌が始まる。

星のない空の下で ニューイヤー
語り合った 嘘のないホントの氣持ち

落ちる涙 夜空に放って
流れ星の歌 聞かせてあげる

ネオン光る街の中 探した
もうあの日の僕はいない

歌おう 今を
進もう 僕らの道を
あの日の自分 乗り越えて
信じ合えばきっと
つかめるはずさ ニューワールド

 目を閉じて歌詞をなぞっていたら、昨夜見たネオン街とレイちゃんの涙顔がまぶたの裏に浮かんだ。そして、実際には見ることのなかった流れ星が流れた。

「……あたしには分かるよ。智くんの心が震えてるって。涙がその証拠」

 言われて慌てて頬を触る。流れ星だと思ったのはどうやら僕の目から落ちた涙だったようだ。悲しいとか嬉しいとか、そういう感情は一切ないのになぜ落涙したのか分からなかった。

 ――分からないなら教えてやろう。この僕、、、が感動しているからさ。

 頼んでもいないのに心の声が疑問に答えた。

 ――君はまだ、自分の心に素直になって振る舞う方法を思い出せていない。だけど、こうして彼女の歌声を聞き続ければじきに思い出せるはず。もっと歌を味わってごらん。

(思い出す……? なぜそんなことをしなければいけない?)

 ――それが「ニューワールド」への鍵だからさ。今の自分は死ぬべきだ。そう言ったのは君自身じゃなかったかな?

(ちっ……)
 心の声に脅される形で仕方なく氣持ちを落ち着かせ、歌に聴き入る。

月明かりの下で 君と
語り合った 果てしなく大きな夢

光る笑顔 未来に放って
君のための歌 聞かせてあげる

眠らない街の中 探した
そう 君と共に見つけた

歌おう 今を
進もう 僕らの道を
昨日の自分 糧にして
愛し合えばきっと
つかめるはずさ マイワールド

 するとどうだろう。先ほど聞いたときよりも更に歌詞が身体に染み入り、まるで彼女が心の扉を開けるよう促しに来たかのように感じられた。

「これが……君の今の氣持ち……」

 思いがけず、胸が温かくなった。歌詞にあった「愛し合」うとは恋仲になるという意味ではなく、人として認め合う、許し合うという意味なのだと直感的に知る。

 弾き終わった後でレイちゃんが言う。
「智くんの痛みはあたしの痛み。そして、あたしの痛みは智くんの痛みよ」

 その言葉を聞いてハッとする。
「そうか……。君も、僕らとは違う形の苦しみを味わってきたんだな……」

 ちょっと考えれば、長年プロとして歌い続けるために彼女がどれほどの努力と苦労を重ねてきたかわかるはず。しかしそれに氣付かなかったのは、僕が頑なに認めようとしなかったから。

 突如として、自分のことしか考えていなかったという事実を突きつけられる。それが心を守るためだったとしても視野が狭かった自分のことが少しばかり恥ずかしくなった。

 そこでひとつの疑問が生じる。自分も苦しみながら音楽の世界で生きてきた彼女が、その苦労を一切語らないどころか、僕に対して謝りさえしたのはなぜか、と。

「なぜ同情する……? 僕を哀れむ……?」
 問わずにはいられなかった。レイちゃんは言う。

「智くんの痛みも苦しみも理解できるからよ。もちろんすべてを理解することは不可能だけど……」

「理解できるならなぜ、一方的に恨み、憤怒する僕に怒りをぶつけない……? 自分も同じ苦労をしてきたのだとなぜ言わない……?」

「……怒りからは何も生まれない。それどころか自分の心を置き去りにすると知っているからよ」
 レイちゃんは静かに歩みを進め、僕の隣に腰掛けた。

「若い頃はあたしもよく怒ってたよ。だけど怒りに支配されると、きまって『神様のギフト』が途絶えた。自分との繋がりが切れるって言うのかな。それが分かってからはどんなに不満を感じても、怒りたいような出来事が起きても、そのエネルギーを歌に変えて手放そうって、そういう氣持ちでやってきた。……智くんたちも同じじゃないかな」

「拓海はそうだったかもしれない。だけど僕は……手放すどころか増幅させ続けて今に至ってる」

 そう口にした途端、ドロドロに溶けた、どす黒い塊が脳内でイメージされた。

「ふっ……。僕の抱えている感情を取り出してみせることが出来たならきっと、ヘドロのように淀んで腐臭を放っているだろうな。大事に持ちすぎるあまり腐ってしまった。それでも手放せない。僕の一部になってしまったそれを……」

「手放せないなら浄化するしかないわね」

「歌で?」

「そう。歌で。……今の歌を聴いて少しは心がすっきりしたんじゃない? 智くんを想って歌ったんだけど」

「そうだな、少し心が軽くなったかもしれない……」

「麗華を独り占めとは、ずいぶんなご身分だな」
 その時、背後から拓海の声が聞こえて振り返る。彼は手にスーパーの袋を提げて立っていた。

「彼女から僕へ贈り物があると言うんでね、受け取ってただけさ」

「もしかして、歌? おいおい麗華、差別はよくないんじゃないか?」
 不満顔の拓海はずかずかとやってくると、僕とレイちゃんを引き裂くように真ん中に座った。

「そう怒らないで。智くんのための曲って言うより、あたしの今の氣持ちを歌ったものだから拓海にも聞かせてあげる。それならいいでしょう?」

「おっ、マジか。早く歌ってくれ」

 不機嫌だったのが一転して笑顔になったので、単純なやつだなぁと思い、笑う。一方のレイちゃんは立ち上がりながら拓海が持っている袋を指さした。

「その代わり、歌ったら晩ご飯ね。お腹が空いちゃった。買ってきてくれたんでしょう?」

「ああ。今日の晩飯はカレーライスな。俺の得意料理」

 まるで料理を覚えたばかりの小学生みたいな言い方にまた笑いが込み上げた。レイちゃんも同じことを思ったのか、半分笑いながら口元を押さえた。

「じゃあ歌うわね」

「そう言えば、今から歌う曲のタイトルは?」
 聞きそびれていた曲名を尋ねる。

「それがまだ決まってなくて……」
 レイちゃんはちょっと考えるそぶりをした後で「『愛の歌を君に』……。なーんてね」と言ってから歌い始めた。


後編

22.<麗華>

活動拠点にしている街で毎年行われているイベント。そこに今年も出演して欲しいと声がかかった。実施時期は五月の大型連休なのでずいぶん先の話ではあるが、諸々の準備があるためオファーは三ヶ月以上前に来るのが通例だ。

 ソロシンガー・レイカとしての活動は控える、と公式発表している。それでもこうして仕事の依頼が入るのは有り難いことだ。

 ただ、今は三人での活動を第一優先にすると決めている。彼らを傷つけたあたしが信頼を取り戻すためにも一人での出演依頼を二つ返事で受けるわけにはいかなかった。

 二人に相談すると案の定、智くんが突っかかってきた。

「相談するまでもないと思うけどね。君が僕らとの活動を優先するつもりなら、依頼があった瞬間に断ってるはず。だけどそうしないで僕らに話を振るのは出演を諦められない理由があるからとしか思えない」

「相談したのは、二人さえよければ、そのイベントにサザンクロスとして出演できないか頼もうと思ってるからよ。街を挙げてのイベントだから、出演できればいろんな人に聴いてもらえるし、知ってもらういい機会になると思うの」

「ふん……。つまりは君の名声を利用して僕らのバンドを知らしめようという作戦か。氣に入らないな」

「…………」

「おいおい、世界一を目指そうって言ってるやつがそんなことでどうする? 利用できるものはとことん利用した方がいいと俺は思うけど。ほら、バンドを再結成すると宣言したあのイベントだって、レイカのバック演奏って形で出たけど結構盛り上がったじゃん」
 拓海が助け船を出してくれたが、智くんは首を横に振った。

「君にはプライドがないのか? 盛り上がればいいってわけじゃないし、ましてや僕はレイカのバック演奏者でもない。サザンクロスのメンバーのひとりとしてステージに立ちたいんだよ」

「分かる。分かるよ、お前の氣持ちは。だけど……」

「分かるならレイカの仕事に僕らが乗っかろうなんて言うな」

「……じゃあ問う。お前のプライドが許さないって言うなら他にいい案があるんだろう? そいつを教えてくれよ」
 拓海が智くんに言い迫った。智くんは、迫る拓海を突き放すように肩を押した。

「そんなの決まってるだろう。路上ライブだ。それしかない」

「…………!」

 それはあたしたちの原点だった。しかしプロになってからずっと依頼されるままに歌ってきたあたしにとっては、路上ライブという言葉が新鮮に聞こえた。意外だったのだろう、拓海も驚いた表情をしているが、まんざらでもない様子で智くんの顔を見ている。

 智くんは続ける。
「レイカとしての仕事を断れないなら受ければいい。ただしその場合は再び僕の信用を失うと考えて欲しい。そして二度と戻ってこないことを覚悟して欲しい」

「……分かったわ。それが智くんの想いだというならイベントの出演依頼は断る。その代わり、イベント会場の近くで路上ライブをする。これでどう?」

「いいだろう。ただし、時間はイベントにかぶらせない。僕らの力で集客する」

「お前、本氣でそんなことを……?」

「出来る。僕らには出来る……。いい音楽は特別なことをしなくたって届く。絶対に。そうだろう?」

 それが、自分たちの音楽を信じているからこその発言だと分かる。智くんも少しずつ変わってきていると実感する。

「いいわ。やりましょう。昔のように路上で。……そうだ! 今作っている曲をその時に発表しよう。イベントに合わせて路上ライブをするならまだ何ヶ月もあるし、それだけの時間があればきっと完成するはず」

「俺たちのラブレターの文言を継ぎ合わせて作ってるっていう、あれか?」

 拓海の言葉に頷く。実は今、二人からもらった何通かのラブレターを元に歌詞を書こうとしている。二人の、とても素直な文章をあたしだけのものにしておくのはもったいないと思ったとき、歌にしようとひらめいた。継ぎ合わせるに当たっては多少、あたしのアレンジも入っているが、今のところうまく書けていると思う。

 拓海はポリポリと頭を掻いて視線を逸らした。
「なんだかなぁ……。俺たちの想いを麗華が歌うって聞いただけで恥ずかしくなるぜ」

「あら、とても素敵よ? きっと大勢の人の心に届くわ」

「歌詞に書き改めるのは構わないが、一つだけ守って欲しいことがある」
 拓海と違い、智くんは神妙な面持ちで言った。

「これまで君が書いてきた歌詞は『いいとこ取り』が多かった。でも、それだけだと以前のサザンクロス色が強くなってしまう。僕らの、僕の手紙をベースに歌詞を書くならちゃんと恨みの氣持ちも入れて欲しい。抜け漏れがあった場合、僕は採用しない」

「麗華、智篤の審査は厳しいぞ。俺の時なんて、十個作って一個採用されればラッキーって感じだったからなぁ」

「不採用になったらまた作ればいいわ。あたしは決してめげない」
 きっぱりというと、智くんは不敵に笑った。

「そう言い切れる君だからこの年まで歌手として生き残って来れたんだろうね……。面白い。君がどこまで頑張れるか、完成を楽しみに待ってるよ」

 覚悟を示すため、あたしはスマホを取り出すと彼らの目の前で断りの電話を入れた。先方は驚いた様子だったが、あたしが首を縦に振らないと分かるや渋々了承してくれた。

 彼ら、とりわけ智くんにとっては当然の選択に思われることも、あたしにとっては大きな決断だった。そのせいだろう。電話を切った直後、一つ大きなものを失ったような感覚と、それに代えがたい信頼を得たような感覚が同時にやってきた。

 これでよかったのだ……。そう思い込もうとしたときふと、何者でもない自分になったコウちゃんのことを思い出した。

 コウちゃんとは三十年来の友人だが、久々に再会した彼の、仮面を外して生きる姿があまりにも眩しくて、直後は羨むどころか受け容れることすら出来なかった。

 けれども今、「ソロシンガー・レイカ」ではなく、何者でもなかった頃の、「ただの麗華」のように路上で歌うことを選んだ瞬間に、これが彼の言っていた仮面を外すということか、と理解した。そして決断することが出来たのは仲間が、家族がそばにいるからだ、とも……。

 あたしはもらった手紙を手に取って読み返した。
「必ず良い歌詞にしてみせる」
 宣言するように言うと、二人は顔を見合わせて微笑みあった。

23.<拓海>

 皮肉というか、当然というか、病人らしくない生活は通院していても病を進行させている。残り時間の少なさを痛感する日々だが、尚更歩みは止められない。

 俺はなんのために生まれ、生きているのか、改めて問う。

 病氣を治すことを理由に入院するためじゃない。年齢を理由にやりたかったことを諦めるためじゃない。声が出しにくいからと言って歌うことをやめるためじゃない。すべて逆だ。

 病氣をきっかけに動く。いくつになっても恋をし、バンド活動する。声が出なくなるまで歌う。だってこれが俺のやりたいことだから。

 年始から、麗華には何通か手紙を書いた。智篤は返事を求めていないようだが、俺は何らかの反応は欲しかったのでそう伝えていたら、三通目を渡したときに返事をもらった。

 拓海へ

 あなたと一緒に過ごすようになってからまだ日が浅いというのに、あなたがいない生活はもう想像できなくなっています。あなたはあたしの生活にすっかり溶け込んでいるようです。離れている期間の方がずっと長かったというのにね。

 氣が向いたら何度でも手紙を下さい。あなたの想いがこもった文字を読むとまるで声が聞こえてくるようで、とても落ち着きます。あなたの声が好きです。今度歌声を聞かせて下さい。

 麗華

 短い手紙ではあったが、ゆえに想いが詰まっていると感じた。相変わらず俺の「声が好き」と書いてくるのが麗華らしくてクスリと笑った。最初に聞いたときは声だけか、と思ったが、度重なるとこの「声が好き」はイコール、俺のことが好きという意味でもあるんじゃないか……なんて妄想し、一人でニヤニヤしている。

 しかしその妄想もすぐに霧散し、現実に返って絶望する。この声が、遅かれ早かれ出せなくなると分かっているからだ。残された時間は日毎ひごと減っていく。その前に、この声で伝えたい想いは残しておかなければならない。

 焦燥感を抱きながら目覚めた。外がうっすら明るくなっている。もうすぐ夜明けのようだ。俺は二人を起こさないようそっと起き上がり、ギターと筆記用具を手に外に出た。

 結局、寝具を移動させるのが面倒だと言うことで俺の部屋での暮らしが続き、もうすぐ一ヶ月になろうとしている。はじめは窮屈だった生活にも慣れ、今では狭い部屋に三人居るのが当たり前になった。

 アパート近くの公園に向かった俺は寒空の下でひとり、立ち尽くした。すると、ちょうど昇ってきた朝日が俺を照らした。

 真冬の凜とした空気の中でも太陽の熱が伝わってくるのを感じた。鳥たちは日の出を喜び、裸であるはずの木も枝を伸ばして日光浴を楽しんでいるようだった。

 その瞬間、歌詞とメロディーが一氣に降りてきた。慌てて紙に書き留め、すぐにギターを奏で、歌う。それを何度か繰り返すうち、あっという間に曲が出来上がった。

 即興にも近い速さで書き上げたが、その割には上出来だと思うものが完成した。手直しはほとんどいらないだろう。後は録音するだけ……。そのとき背後から声をかけられて振り返る。

「朝から練習か? 熱心なことだな」
 智篤だった。やつは片手を挙げてからこちらへ近づいてきた。
「起きたら居ないし、ギターもないからもしやと思って公園にきてみたらビンゴだったな」

「朝イチのひらめきは大事だからな。おかげでいい曲が出来た」

「へぇ、作曲してたのか。ぜひ聴かせてほしいな」

「聴かせるのはまだ先だよ。それより、麗華はどうした?」

「朝飯の支度を頼んだ。その間に僕は拓海の捜索をしに出てきたってわけだ。スマホが部屋に置いてあったから電話するわけにもいかなくてね」

「心配するな。曲が出来たら、ちゃんと、戻る、つもりだったよ」
 咳払いをしながら言うと、智篤の顔から急に笑みが消えた。

「……正直な話、どうなんだ? 君の喉はもう限界を迎えているようだが、例の路上ライブを予定しているその日まで保ちそうなのか?」

「…………」

「……言えないくらい、間近に迫っているのか? レイちゃんには黙っておくから教えろよ」

「……そんなの、俺にだって分かんねえよ。だけど、いつ歌えなくなっても後悔しないように、最後の曲を作って、この声を、残しておこうと……」

「やっぱり……。そんな氣がしたんだ」

「麗華には言うな。知られたくない」

「彼女は知りたがるだろうが、それが君の望みなら黙っておくよ」

「頼むぜ……」

「さぁ、早く戻ろう。遅くなれば彼女が心配して迎えに来るかもしれない」

「そうだな……」

「部屋に戻ったら僕が彼女の話し相手をする。その間、君は喉をいたわっておくといい。そんな声でしゃべったらきっと心配するだろうから」

 智篤の氣遣いに感謝し、ここからはしばらく黙っておこうと決めて頷く。

「まぁ、彼女とのおしゃべりは得意じゃないんだけど、いま君に喉を潰されちゃ困るんでね……」

 相変わらず素直じゃないひと言を付け加えて歩き出したあいつの背中を追うように動き出す。

「ありがとう……」
 ささやくように言うと「礼はいらない、黙ってろ」と、言葉の割に優しい口調で返ってきたのだった。


24.<智篤>

 なぜ拓海を案ずるようなことを言い、苦手なおしゃべりまで引き受けたのか、自分でもよく分からなかった。こんなときは大抵もう一人の僕がしゃしゃり出てくるのだが、今日はなぜか黙り込んでいる。

 自分で考えろと言われている氣がした。しかし考える間もなく答えは自然と浮かんだ。おそらくは三人でした約束を果たそうと、無意識のうちに出た言葉だった、それがさっきの疑問に対する答えだ。

 拓海やレイちゃんと過ごすうちに、自分では氣付かないくらいちょっとずつ彼らの考えに影響されているらしい僕はどうやら、「拓海の病氣が完治し、僕ら三人が若返り、サザンクロスが日本一のバンドになる未来を想像してみる」といった自分の言葉を実行するかのように動いている。以前の僕ならまずそんなことはしなかったし、実際、理解に苦しむ行動ですらあるが、心の声が何も言ってこないあたり、これが正解なのだろう。

 それが「自分」であれ、誰かに言われるがまま動くのは大嫌いだ。僕は誰にも従わない。僕は僕の意志でしたいようにし、言いたいように言う。そうやって今日まで生きてきた。こんな僕をわがままだと言って離れていく人間は山ほどいたが、氣の合わない人間と一緒にいるより一人でいる方がずっとマシ。

 唯一、僕のわがままな性格を理解し、好きにやらせてくれるのが拓海だが、その彼ももうすぐこの世を去る。いや、すぐと決まったわけではないがその可能性は限りなく高い。僕が無理をさせたせいかもしれないと何度も後悔したが、嘆いていても死は待ってくれない。拓海が治療に専念するか奇跡を起こす以外、彼の寿命を延ばす方法はおそらくないだろう。

 こんな性格だから拓海が懸念しているとおり、彼の死後、僕を心底理解してくれる人間は一人もいなくなる。そうならないように今からレイちゃんを僕のそばに置いておこうというのが拓海の考えのようだが、三十年、一緒に行動を共にしてきた拓海の代役は、やはりレイちゃんには務まらないと思っている。

 拓海が居なくなった世界……。

 想像してみようとするがうまくいかない。まだ生きているのだから出来なくて当然と言えばそうなのだが、毎日顔を合わせている人間がいなくなったらきっと切り裂かれるような胸の痛みを伴うだろうことは想像が付く。

(ちっ……。なんでこんなにも拓海にこだわっているのか……。)

 認めたくはないが多分、僕は拓海の死を恐れている。自分が思っている以上に彼を頼り、甘えている。なのに、こんなふうにしか接してこなかったから、今更完全に一人で生きていけるか不安で仕方がない。だから表面上はクールを装っていても内心では慌てふためいているのだ。

 ――ちゃんと自分で分析できるようになったじゃないか。すごいすごい。
 黙っていたはずの内なる僕が急にしゃべり出した。上から目線な物言いに腹が立つ。

(ふん……。ずっと黙っていればいいものを。)

 ――いやぁ、君が拓海を案ずるその優しさに感心したんで、せっかくだからいいことを教えてやろうと思ってね。

(余計なお世話だ。放っておいてくれ。)

 ――君の行動一つで拓海の生死が決まると聞いても?

(……どういう意味だ?)
 思わず問い返すと、心の声は満足そうに笑った。

 ――君は拓海に生き続けて欲しいんだろう? だったらやることは一つ。熱心に祈れ。彼の病氣が治るようにね。

(祈り……? そんなもので人の命が救えるんだったら誰だって祈ってるはずじゃないか。馬鹿なことを言うな。)

 ――やってもいないのになぜそう言える? 否定するなら実際にやってみて効果がなかったあとにしてもらいたいね。一つ言っておくが、多くの人もそうやって馬鹿にし、祈りすらしない。だから救えるものも救えないのさ。

(…………。)

 ――前から言っているはずだ。君の世界は君の心が作り出していると。君が拓海のいない世界を想像すればそのとおりになる。君が拓海の完全復活を望めば彼のいる世界が続く。それだけのことなんだけどな。

(つまり、拓海に生きて欲しければ、拓海が生きている世界を強く念じろと?)

 ――そういうことになるね。

(それは、レイちゃんが歌であいつを救おうとしているのと同じってことか?)

 ――そうそう。あれも祈りの一つだ。

(なら、僕も歌えば救えるってことだな?)

 ――そうだね。

(だったら、歌うよ。拓海と一緒に、ニューワールドに行くために。)

 ――おっ、今日はやけに素直じゃないか。その調子だ。
 内なる僕が弾むような声で言った。

(言っておくがお前の言葉に従ったわけじゃない。これは僕の意志だ。)

 ――……やっぱり素直じゃないね。まぁ、それでこそ君だけどね。
 心の声は嬉しそうに言って笑った。

 部屋に戻るといい匂いがした。最近の定番になりつつある、ベーコン入りスクランブルエッグが焼き上がったようだ。トーストの匂いも混ざっている。にわかに腹が減ってきた。

「あ、おかえりー。拓海ったらどこまで行ってたの?」

「あー……」
 言葉を発しかけた拓海の口を押さえつけ、僕が彼女の問いに答える。

「すぐそこの公園にいた。まったく、年寄りは早起きだから困るよな」

「…………!」

 がんを付けてきた拓海を、こちらも目で威嚇する。にらみ合っていると「はいはい、喧嘩はそこまで!」と言ってレイちゃんが間に入った。

「狭い部屋での生活なんだからいつでも笑顔でいよう、って決めたでしょ? だからね、はい、すぐに手洗いを済ませて、座った座った!」

 まるでお母さんのような物言いに再び拓海と顔を見合わせるが、空腹に耐えきれなかった僕たちは言われるがままに洗面所で手を洗い、大人しくそれぞれの席に腰を下ろした。朝食が提供され、レイちゃんも席に着く。

「さ、手を合わせて……。いただきまーす!」

「いただきます……」
 手を合わせた瞬間に、さっき心の声が言っていた祈りのことを思い出した。

 こうして三人で暮らす以前は、と言うよりレイちゃんと食事を囲むようになる前は腹を満たすためだけに飯を食っていた。手を合わせることもなく、目の前の食事に意識を向けることもない。ただ一人きり、あるいは拓海との会話のない食事は、何を口にしたのかさえ覚えていないほど無感情に済ませる、、、、ものだった。

 しかし、ここひと月の間に意識は変わりつつある。ほんのわずかであっても自分のことを想って作られた料理が目の前に出されること、そしてそれを囲みながら語り合うことの出来る仲間がいるありがたさを感じるようになった。また氣付けば料理も味わえるようになった。僕はいままで何を食って生きていたのかと思わずにはいられないほどに、この部屋で手作りされた料理はうまい。

(祈り、か……。)

 もしかしたらレイちゃん作る料理には、僕らを心身共によくしたいという、祈りにも似た想いが込められているのかもしれない。でなければこんなにも考え方が変わるはずがないし、彼女を恨んでいる僕がひと月も一緒に生活出来る道理もない。

(祈りに人の運命を変える力があるのなら、やってみる価値はあるのかもしれない……。)

「拓海」
 僕は食事の最中さいちゅうで箸を置き、声をかけた。こちらを向いた彼をじっと見つめて言う。

「途中で離脱したら承知しないぞ。僕は君がリーダーを務めるサザンクロスの一員としてここにいることを忘れるな」

「おう……」
 拓海は小さな声で答えた。僕は次に、そばで微笑むレイちゃんの方を向いた。そして一息に言う。

「路上ライブで歌うのとは別の曲を一緒に作らないか? ……拓海を救う曲を」

「…………! ええ、もちろん……!」

「智篤、お前……」

「言っておくが君のためじゃない。あくまでも僕の目的を果たすためだ」

 語氣を強めて言うと、拓海はホッとしたように微笑み、心の声も、実に君らしいと満足そうに言うのだった。


25.<麗華>

 拓海の部屋で三人、それぞれに曲作りをしているところへ所属事務所から電話がかかってきた。恐る恐る電話に出ると『相談も無しに仕事を断るなんて、一体どういうつもりなの?』と、開口一番に言われた。しかも相手は社長。直々の電話に恐縮しながらも、あたしは「もう少しだけ仲間と活動する時間を下さい」と懇願した。

「今、一番大事な時なんです。こればかりは、社長になんと言われようとも譲れません」

『仕事がなくなるかもしれない、と言っても?』

「はい……。覚悟の上です」
 きっぱり言うと、社長はため息をついて数秒黙り込んだ。

 バンド活動が長引けば仕事がなくなるどころか、いつか退所を言い渡される日が来るだろうとは思っていた。しかし覚悟していると告げたからには、また自ら断りの電話を入れたからにはどんな決断が下ろうとも受け容れるつもりでいる。もちろん怖さはある。けれどもあたしは一人じゃない……。

「……もしかして、所属事務所から? 昨日、仕事を蹴ったからお叱りの電話か?」
 拓海がささやくように聞いてきたので小さく頷く。
「ったく……。智篤が余計なことを言うから」

「断りの電話を入れたのは僕じゃないぜ? 言いがかりはやめて欲しいね」

 隣で二人が言い合いをしていると、社長が声のトーンを落として失望感を顕わにする。

『……レイカは長く所属してるし、これまで頑張ってきたのも知ってるから、ちょっとくらいわがままを聞いてもいいかなと思って自由にさせてきたけど、今回の身勝手な振る舞いには正直がっかりしてる。……昔の仲間との活動の方が優先度が高いとでも言うの? そんなに大事なの?』

「はい……」

『……理解に苦しむわ。調べさせてもらったけど、レイカが一緒にバンドを組んでるのって、インディーズで活動してきた人たちなんでしょう?』

「インディーズとメジャーは活動場所が違うだけで能力に差はない、というのが今のあたしの考えです。社長も聞いてみれば分かります。彼らの音楽はとても素晴らしいですから」

『……レイカの作る曲とはだいぶ毛色が違うようだけど? 私は別に、彼らの音楽を否定してるんじゃないの。レイカが彼らの音楽に染まってしまうんじゃないかって、そっちを心配してるのよ。……悪いことは言わないわ。一日でも早くバンド活動を終えてこれまでの仕事に戻ってちょうだい。それがあなたのためよ』

「…………」
 社長は純粋にあたしのことを想ってそう言ってくれているのだろう。その優しさは確かにありがたいと思う。しかし隣にいる二人の、射貫くような視線を無視するなんてあたしには出来なかった。

「……ごめんなさい、今は戻れません。二人と交わした約束を破る訳にはいかないんです」

『……それが、あなたの氣持ちなのね?』

「はい」

『……頑固なのは知ってるけど、これほどまでとはね。分かったわ。もう少しだけ自由にさせてあげる。ただし、次に大口の仕事が入ったときには勝手にキャンセルしないように。それだけは守りなさい』

「……わかりました」

 電話はため息と共に切れた。通話を終えたあたしはしばらくの間、言葉を発することが出来ずその場で立ち尽くした。

 すると横から突然、拍手が聞こえた。
「君の覚悟を見せてもらったよ。合格だ」
 智くんは満足そうに言った。
「これで安心して共作できる」

「相変わらず偉そうだなぁ、お前は。少しは麗華の氣持ちも……」

「あたしは大丈夫よ、拓海。たとえ首を切られていたとしても、あたしの隣には二人がいてくれるから。そ・う・で・しょ・う?」

 顔を智くんに目いっぱい近づける。智くんは一瞬ひるんだが、売られた喧嘩を買うかのように額をひっつけ、押し返してきた。

「ああ、そうだ。もっとも、君を誘ったのは拓海だから最終的に君の面倒を引き受けるのは拓海だけどね」

「おいおい、いまは三人で一つのグループなんだぜ? 麗華に何かあったときはお前も責任の一端を担うんだよ」

「やだね。それはリーダーの仕事だろ?」

「麗華を恨んでるからって、いつまでもそうやって責任逃れするなよ……」
 拓海は少し怒っているのか、眉をつり上げた。

「……俺が健康体ならそれでも構わないさ。だけど……だけど俺はお前らより確実に早くあっちの世界に行く。そうなった後も、二人にはこんなふうにいがみ合って欲しくない」

「拓海……」

「……これは言うかどうか悩んでたことだけど、ちょうどいい機会だから言うよ」
 拓海はそう前置きすると、あたしたちを順に見ながら言う。

「智篤。どうか麗華を幸せにしてやってくれ。そして麗華。こんな智篤のことをよろしく頼む」

「はぁっ?!」
「ええっ?!」

 予想もしない発言にあたしたちは同時に声を上げ、互いの顔を見合った。そしてそれぞれに想いをぶつける。

「言っていいことと悪いことがあるだろう! いくらリーダー命令でもそれだけは断固拒否する!」

「あたしだって受け容れないわ。あたしたちがうまく付き合っていくためにはどうしても拓海が必要なんだもの。今すぐにでもいなくなるような、不吉なことは言わないで!」

「いや、だけど……」

「そうならないように二人で曲を作るんだろうが。なぁ、レイちゃん?」

「ええ、そうよ。こうなったら善は急げ、よ。早速、話を擦り合わせましょう」
 智くんが頷くのを確認したあたしは、すぐにギターと筆記用具を用意した。

「ははっ……。やっぱり仲いいじゃん、お前ら。二人だけでもきっとうまくやれるよ」

「黙れ。そう言ったことを必ず後悔させてやる」
 言い放った智くんの表情がいつになく怖かった。

 あたしたちは狭い部屋から出て例の公園で作詞作曲することになった。木の下にある長いベンチに二人して腰掛ける。しかしその距離は、今の話の後だからか少し遠い。そしてしばし沈黙の時が流れた。

「……ちっ、思い出しただけで腹が立つ」
 少し経った後で、智くんが地団駄を踏みながら言った。
「こうなったら、二度とあんな発言が飛び出さないような健康体にしてやる。僕らより長生きさせてやる」

 その発言から、智くんは心底拓海が好きなのだと知る。早速何かを書き留め始めた智くんに負けまいと、あたしも彼の隣で拓海を想いながらペンを走らせる。

 寒さに手がかじかんできた頃、智くんが立ち上がってあたしの前に回った。顔を上げると手に持った紙を差し出された。

「これは僕の考えと言うより、願望だと思って欲しい。三十年間、拓海にかけ続けてきた呪いを解くための、祈りの言葉と言い換えてもいい。とにかく、強い想いを込めた」

「……ここで読んでもいい?」

「そのために手渡している」

「じゃあ、読ませてもらうわね」
 受け取ると、彼はさっきと同じ場所に腕を組んで座り直した。彼が目をつぶってうつむいたのを見てから受け取った紙に目を落とす。

 何度も書き直された言葉。その中の、楕円で囲んである部分をなぞっていく。

 目で追っているうちに心がじんわり温かくなる。そして最後の一文を読んで目頭が熱くなる。

 ――永遠に君の命、続くように願う。

 思わず彼の方を見た。息を吸い、言葉を発しようとしたが遮られる。

「これは……願掛けだ。歌に乗せて発した言葉は現実になると信じて……。僕に出来ることはもうそれしかない。だから……」

「この一文は必ず使うわ。あたしもそう願っているから」

「いまこそ信じよう、歌の力を」

「智くん……」

「……ふっ。まさか僕がそんなことを言う日が来るとは。君もきっとそう思っているだろうね。だけど……だけど僕だって人生のほとんどを、歌うこととギター演奏に費やしてきたんだ。それが意味のあることだったと証明するためにも、持てる力のすべてを使ってこの曲を完成させるつもりだ」

「ええ。あたしたちならきっと拓海を救えるわ。いいえ、必ず救う」
 言い聞かせるように言ったあたしは自分の想いを歌詞に込めるため、続きを考え始めた。


26.<拓海>

 部屋に残された俺は結局、一人で時間を潰すことに飽きて外へ出た。と言うより、出て行ってしまった二人のことが氣になってじっとしていられなかった。

 二人のことだから遠くまでは行っていないだろうと予想したが、案の定すぐそばの公園にいた。遠くからだと仲良く一つのベンチに腰掛けているように見えたが、近づいたらそっぽを向いて両端に座っていると分かって二人らしいな、と微笑む。

 余計なことを言ったかな、と思う一方で、これでよかったのだとも思う。どっちにしろ俺のひと言が、二人が一緒に過ごす時間を作ったことに変わりはない。

 二人が俺のために曲を作り、歌うその日が来たときどんな反応をすればいいのか考えてみる。いや、反応はどうとにでも出来る。その想いに応えられるかどうか。そっちの方が問題だろう。

 生きて欲しい……。そう願ってもらえるのは有り難いことに違いない。俺自身、病氣を克服してこの先もミュージシャンとして生き続けることが出来たならきっと楽しいだろうなとは思う。だけど正直、想いに身体がついてこない。少なくとも喉は智篤の言うとおり限界を迎えている。

(声が出せる今のうちにやるべき事を終えなければ……。)

 二人が一緒に過ごしていることを知って安心した俺は、今朝公園で書き上げたばかりの曲の録音作業をしようと思い立ち、行きつけの音楽スタジオに足を向けた。


27.<智篤>

 拓海のふざけた頼み事を聞く氣は微塵もなかった。いよいよその時が迫っているのだという切迫感に胸が苦しくなるだけだった。

(何が幸せにしてやってくれ、だ。レイちゃんのことを想っているなら自分で幸せにしろよ……。)

 急に老け込んだように見えた拓海の顔が脳裏に浮かんだ。おそらく彼は相当弱氣になっている。このままでは間に合わなくなる、という思いが募る。急かされるのは好きじゃないが、今回ばかりは僕も焦っている。

「あたしも歌詞がかけたわ」
 焦燥感を抱いていると、今度はレイちゃんが紙をよこした。半ば奪うように受け取り歌詞をなぞる。

「……君も大袈裟だな。どこまでも君と生きれるように、だなんて」

「大袈裟でも何でも、拓海が元氣になるならいいじゃない。智くんの真似をして、あたしも願掛けするつもりで書いたわ」

「……ふっ。この歌を聴いた拓海が永遠の命を手に入れたら面白いな」

「そうね。でも、そのくらいの想いは込めたい」

「うん。……よし、互いに歌詞がかけたところで早速、合作に取りかかろう。僕らに残された時間はあまりないようだから」

「ええ……」
 返事をした彼女の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。直後、表情が崩れる。僕はとっさに彼女の肩を抱いた。

「……泣いている時間はないぞ。一秒でも早くこの歌をあいつに聴かせてやろうぜ」

「……そうだよね。泣いたりしてごめん。慰めてくれてありがとう。やっぱり智くんは優しい」

「……女の涙が苦手なだけだ。さぁ、涙を拭いて。すぐに再開しよう」
 僕は彼女を押しのけるように離れ、一度背を向けて立ち上がった。

 ――泣きたいなら一緒に泣けばいいのに。
 空を仰いだとき、心の声が余計なことを言った。

(ふん……。女の前で感情の動くまま泣くのはろくでもない野郎だけだ。)

 ――強がるか。本当は今にも泣きたいくせに。拓海が死んだら君は……。

(失せろ……! 作詞の邪魔をするな……!)
 声を振り払うように足もとの砂を蹴飛ばす。

「智くん……?」
 不思議がるレイちゃんの声に振り返る。涙を拭ったばかりのその美しい顔を見た途端、再び拓海の言葉がよみがえった。

(本氣で言ってるのかよ。君が愛してるはずのレイちゃんを僕に託すって……。)
 もう一度彼女と真向かう。そのまま何も言わずにいると、立ち上がった彼女の腕が背に回った。

「……こういうことは拓海にしてやれ。あいつ、ずいぶん弱ってきてるから」

「ええ……。だけど智くんも家族だから、苦しんでいるなら癒やしてあげたい」

「僕のことは構うな。あいつを……拓海を第一に救ってくれ」

「……うん。救うよ、絶対に。……あ、曲が浮かんだ」
 彼女はそう言うと慌てて紙にコードを書き込み、直後にギターを奏で始めた。

 そのメロディーは優しくて、拓海のための曲のはずだが聞いている僕の心までもが癒やされていくようだった。

 何度か同じメロディーが奏でられ、耳に残ったその音を手元の歌詞に照らして歌う。氣に入るとレイちゃんは「それ、採用ね」と言ってその都度弾く手を止め紙に書き留めた。

「ああ、僕もメロディーが浮かんだ。この部分は僕に任せてくれないか……」
 曲のラストの部分は僕の渾身の想いを込めたかった。弾きながら歌い上げるとレイちゃんは何度も頷いた。

「……ねぇ。この歌が出来上がったら智くんが拓海に歌ってあげて。絶対にそれがいいわ」

「え……? 僕が……? いや……歌は君の担当だろう?」

「今の歌いっぷりを聞いたら感動しちゃって……。一緒に作ろうって提案してくれたのは智くんだし、ぜひそうして欲しいな。拓海のためにも」

「だけど……」

「拓海の命が永遠に続くように、願いを込めるんでしょう? 智くんが歌う隣であたしはギターを弾くから。ね?」

 提案しておいてなんだが正直、自分で歌うことは想定していなかった。しかしこれが拓海を生かすための「祈りの歌」であるならば、呪いをかけた人間として責任を持って歌うべきなのでは、と思わなくもない。

「……まぁ、考えておこう」

 とはいえ、僕が歌うかどうかは曲が完成してから決めたかったから返事は保留にした。ウイング時代にはよく、曲の雰囲氣によって歌い手を変えていた。拓海がメインで歌う曲が多かったが、僕が一人で歌う曲もいくつかあった。

「智くん、いい声してるから絶対アリだと思うんだけどなぁ……」
 即答しなかったからか少々不満のようだったが、レイちゃんは「もうちょっと頑張ろう」と自分に氣合いを入れるように言い、再びギターを弾き始めた。

 曲の大枠が出来上がる頃にはずいぶん日が傾いていた。こんなにも一氣に作詞作曲したことはいまだかつてない。拓海の余命を思えば当然のことではあるが、さすがに疲労感は拭えなかった。

「部屋に戻って少し休憩しよう。小腹も減ったし」

「……え、もうこんな時間? そうね、一旦休みましょう」
 時計を見て驚いたレイちゃんは大きく伸びをして立ち上がると、すぐに拓海の部屋に足を向けた。

 部屋はもぬけのからだった。ギターがないところを見ると拓海もどこかに弾きに行っているのだろうと想像するが、今朝も起きたらいなかったし、少し不安になる。

「レイちゃん、拓海の居場所に心当たりある?」

「いいえ、残念ながら……。心配なら電話してみようか?」

「いや……。まぁ、じきに戻るだろう」
 戻る、と口にした瞬間、今朝の拓海の言葉がよみがえった。

(そういえばあいつ、最後の曲を作って声を残すつもりだと言っていたな……。)

 もしかしたら拓海は今朝ほど完成した曲を形にしているのかもしれない。「遺言」のつもりで……。

(ちっ……。)
 それが事実ではなかったとしても、そう匂わせた拓海が恨めしかった。

(んなもん残したって聞くものか……! 新曲が出来たなら生の声で歌えよ……!)

 苛立ちが頂点に達した僕は「やっぱり電話する」と告げて電話をかけた。なかなか出ないので更にイライラしたが、辛抱強く待つ。コール音を十数回聞いたところでようやく繋がる。

『ったく、いま忙しい……』

「死ぬ準備を着々と進めてんじゃねえよ! 君を生かそうと必死に曲作りしてるこっちの氣持ちも考えろ! さっさと戻ってこい!」

『…………』
 拓海は黙り込んだ。息巻く僕の隣でレイちゃんが心配そうな眼差しを向ける。熱くなって電話を握りしめる僕とは対照的に、拓海は冷え切った声でぽつりと言う。

『お前の氣持ちはありがたく受け取るよ。でも……人は死ぬよ。いつか必ず。そのために何かを残そうと思うのは自然なことじゃねえのか』

 覇氣のない声を聞いた僕は悔しさのあまり歯を食いしばった。

「……君じゃなくて僕が病氣になればよかったのにな。悔しい。本当に悔しい」

『智篤……』

「……君のための曲はもうすぐ完成する。聞かせてやるから三十分以内に戻ってこい、いいな?」

『三十分……?! 戻れっかな……』

「戻れ! これは命令だ!」

『……わかったよぉ。すぐに帰る支度をして電車に飛び乗るから』
 電話口で片付けを始める音が聞こえた。

「……最寄り駅で待つ。三十分後に会おう」
 そう告げて電話を切る。ため息をつくと、レイちゃんに見つめられる。

「……拓海、どこにいるの?」

「たぶん音楽スタジオ。そこで最後の歌声を録音していたんだろう」

「最後……。それで智くんはあんなに怒って……」

「ったく、ふざけてるだろう? ああ、思い出すだけで腹が立つ」
 僕は電話をポケットに突っ込み、再びギターを背負った。

「行こう、レイちゃん。老け込んじまったあいつを若返らせてやろうぜ、僕らの歌で」

「ええ……」
 返事をした彼女はうつむきながら僕の手を取った。その手が少し震えていたので強く握ってやる。

「弱氣になるな。悲観するな。僕らがそんなんでどうする? 氣を強く保ってあいつを迎えなきゃ。それが出来ないならここに残ってくれ」

 今の僕からはそんな言葉しか出てこなかった。きつい言い方だったかもしれないと思った矢先、彼女がキッと僕を睨み、痛いくらいの力で手を握り返してきた。

「ここに残るなんてあり得ない。行くわよ、あたしだって歌うんだから!」
 レイちゃんは吐き捨てるように言い、自身のギターを背負った。

「そう、その意氣だ」
 やる氣を取り戻した彼女に満足する。
「行こう、あいつのところへ」
 再び彼女の手を取る。その手はもう震えていなかった。


28.<麗華>

 強氣の発言をし、奇跡を信じる一方で、胸の内は不安と恐怖で満たされつつあった。智くんが、怒りをぶつけることで拓海の「旅支度」を拒んだのも分かる。だってそうでもしなければ恐怖に押しつぶされてしまいそうだもの。

 先を歩く智くんは、部屋を出たときからずっとあたしの手を握り続けている。ずんずんと進むその足取りは、未だ拓海への怒りを表しているようにも、恐怖をかき消そうとしているようにも見えた。

 拓海のための曲は一応、完成している。まだ一度も通しで弾き語りしていないし、荒削りだから、せめてあと一日は曲作りに当てたいところ。それでも智くんが拓海に聞かせたいと言い張る理由があるとすればやはり、彼の命がいよいよ残り少ないと感じているからに違いない。

「拓海から聞いているの? あとどのくらい時間、、があるかを……」

 すぐに返事はなかった。が、数秒の後、彼は前を向いたまま答える。
「そんなことを問うこと自体、無意味だ。人の寿命など誰にも分からない」

「そうだね、ごめん……」

「だけど、分からないからこそこうして急いでいるのも事実だ。……ちっ。また赤信号か」

 駅に向かう道中で信号に引っかかるたび、智くんは苛立ちを顕わにした。その焦りようから、一秒でも早く拓海のために歌いたいと思っていることが分かる。そしてそれだけ二人で作った歌に賭けていることも。

 奇跡なんて簡単に起こせるもんじゃないと言ってしまえばそれまでだ。智くんもはじめはそう言っていた。けれど今の彼は、現実から目を背けて何もしないよりはマシだと思って動いているように、あたしには見える。

 必死すぎる智くんの姿は、端から見れば痛々しく映るだろう。しかし、何十年にもわたり支え合ってきた相方を救う手立てがあるのだとしたら、たとえ非現実的だと言われるようなことにだってすがる。誰もがきっと。

 信号待ちの間、空いている方の手でギターにぶら下げたお守りを握った。正月に三人で近くの神社に赴き、拓海の病氣が快復するよう祈願した際に買い求めたものだ。

(神様、どうか拓海のために歌う時間を下さい……。そして歌に病氣を治す力を与えて下さい……。お願いします。お願いします……。)

 祈る声が聞こえたはずもないが、智くんがあたしの手を強く握った。まるで「大丈夫だ」と伝えるかのように。


29.<拓海>

 ここに来ることはひと言も告げなかったのに、付き合いの長い智篤には俺の居場所が分かってしまったようだ。まぁ、いい。幸いにして録音作業は無事に終えている。すぐに退室の手続きを済ませてちょっと走れば多分、間に合う。

 電話口の智篤がひどくご立腹だったのが氣になった。怒られることには慣れているが、今回は状況が状況だけに軽く受け流すことが出来なかった。

(これ以上怒らせると後が面倒だな……。早く帰ろうっと……。)

 ところが受付に向かうと、数人の男がイライラした様子で声を張り上げていた。聞き取れた会話から、どうやら予約したはずの部屋が取れていなかったことに腹を立てているらしかった。受付の人は一方的に責められる格好になり、萎縮している。

(面倒なことになったな。あいつらの話が済むまで待ってたら智篤にどやされちまう……。ちょっと交渉するか……。)

 出しゃばるのは好きじゃないが、こっちは時間がない。俺は一つ咳払いをして受付に向かう。

「俺が使ってた部屋でよければ空くよ。だからさ、そんなにこの人を責めるなよ。な?」

 男たちは顔を見合わせたが「一番デカい部屋を使う予定で来てんだよ、こっちは!」と声を荒らげた。

「まぁ、氣持ちは分かるよ。だけど、練習するだけならどの部屋でも同じだろう? そうやってごねてる時間がもったいないと思わない?」

「…………! 同じじゃねえよ、オッサン!」
 本当のことを言っただけなのに相手を怒らせてしまったようだ。男たちは俺を巻き込んであーだこーだと文句を言い始めた。

 五分ほど押し問答が続いたところでようやく事務所の奥から支配人らしき人が出てきて不手際を詫びた。そして、今日の使用料はタダにするから空いている部屋を使ってもらえないかと交渉し、ようやく男たちを黙らせたのだった。

 騒動の後で退室手続きを済ませることになった俺は、時間が押したことでかなり焦っていた。よりによって「三十分以内に戻れ」と命令された日に限ってトラブルに巻き込まれるとは。

(理由を言っても信じてもらえないだろうけど、何も言わずに遅刻したら絶対に怒られるよなぁ……。)

 仕方なく、言い訳じみてしまうのを承知でスタジオの前からメールを入れる。

「よし……。遅れるかもって言っといて間に合えば文句は言われないはず……!」
 せめて誠意は見せようと、人が押し寄せる道をダッシュで駆け抜ける。最近はほとんど走ることがなくなった上にギターを背負っているから足取りが重い。病氣も相まって息苦しい。それでも俺は走った。あいつらの元に帰るために。

 だが一分も走ると、聞いたことのないゼェゼェという呼吸音が肺の奥の方から聞こえ始めた。ついに肺までおかしくなったのか……? そう思った直後、喉と肺を同時に切り裂かれるような痛みに襲われ立ち止まる。痛みのあまり膝をつくが、その時にはもう息が出来なくなっていた。

(マジかよ……。こんなところで俺は死ぬのか……。)

 道路に倒れ込むと周囲の人が悲鳴を上げ、俺から離れて輪を作った。勇敢な人が二人ほど俺に声をかけたり救急車を呼んだりする声が遠くの方で聞こえた。その声に紛れて麗華からの着信音が鳴る。慌てて手を伸ばそうとするが身体はピクリとも動かない。 

(待ってろ、麗華……。今、そっちに向かうから……。)
 しかし電話に出ることは出来ず、意識もそこでついえた。

30.<智篤>

『音楽スタジオでトラブル発生。今出たところだから間に合わないかも……? 一応、ダッシュで駅に向かうけど🏃‍』

 最寄り駅に着く手前で拓海からメールが入った。トラブルと聞いて、お人好しの拓海のことだから人様の問題に首を突っ込んで巻き込まれたに違いないと予想する。

「智くん。拓海の到着が遅れても怒らないであげて。……って言うか、三十分で戻ってくるのは、何もなくても結構ぎりぎりだと思うんだよね」

「僕の怒りが伝わればそれでいい。五分や十分遅れたところで本当に怒るような男じゃないよ、僕は」

「拓海もそう思っていればいいけど……」

 駅に着くと改札口が妙に混雑していた。どうやら下り線で人身事故があり、遅れが発生しているようだ。下りは拓海が乗るはずの路線だ。事故は十分ほど前に発生したらしく、駅員が対応に追われていた。

「やれやれ。この様子じゃ三十分以内には来そうにないな……」

「……どうする? 拓海に連絡して、ゆっくりおいでって伝えとく?」

「……レイちゃんから伝えてくれ。僕はそういうことを言うキャラじゃない」
 レイちゃんは小さくため息をついたあとで拓海に電話をかけた。しかし、繋がらないのか何度も首をかしげる。

「……でないわ。変ね」
 一度電話を切り、再度かけ直したがやはり繋がらないようだ。

「もしかして、電話に出られないような出来事があったのかな……?」

「まさか」
 そんなわけないだろうと言おうとしたとき、妙な胸騒ぎがした。氣のせいだと思い込むことも出来たが、どうも落ち着かない。

「ちっ……。繋がらないんじゃしょうがない。こっちから出向いてやるか」

 遅れると分かっているのに、いつ来るとも分からないあいつを待つほどの忍耐力はない。不安も募る一方。だったらこっちから動いた方がまだマシだ。僕らは混雑する改札口をかいくぐり、ホームに入線してきた上り電車に飛び乗った。

 帰宅時間に重なったのか、車内も混んでいた。学生、社会人、老夫婦。いろんな人の姿が見える。なのにみな、その目は手元の小さな画面に釘付けで生氣の欠片もなかった。そうでない人は外の音を遮断したいのか、もれなくイヤホンをしてうつむいていた。

 誰もがみな、この現実世界に嫌氣が差し、逃避している。嫌だ嫌だと言いながらも、そこしか生きる場所がないからと自分に鞭打って生きている。そう、これが現実。僕もそんな世界で長らく生きてきた。変わらない現実を憂いながら……。

 あと一駅というところでたくさんの人が車内に乗り込んできた。僕らはその人たちに押され、身体をぴったりと寄せ合う格好になる。背負ったギターが身体に食い込み、苦しい。レイちゃんも苦しそうに顔をゆがめている。

 僕は仕方なく近くの人を少し押して壁になり、彼女を抱き寄せた。

「あと数分の辛抱だ……」

「うん、ありがとう……」

 動き出した電車の揺れに身体を持って行かれそうになるが必死に耐える。揺れに身を委ねた人たちに押しつぶされまいと踏ん張る。

(流されてたまるか……! 僕の世界の中心は僕なんだ……!)

 流れを妨げる人間は時代を問わず排斥されてきた。それでも抵抗し続けた人たちが新時代を切り開いてきたのもまた事実。そのことに氣付かせてくれたのは奇しくもレイちゃんと拓海のコンビだ。

 あのときサザンクロスの再結成に同意し、レイちゃんとの共同生活を受け容れていなければ卑屈な人間のまま一生を終えていただろう。だけど、手を取り合った二人がまさに僕を「ニューワールド」へいざなおうとしてくれている今、差し出された手を振り払ったり、変化を止めようとするもっともらしい言葉に耳を傾けたりしてはいけないのは、ひねくれ者の僕でも分かる。

 ――間もなく到着します。ご乗車ありがとうございました。

 車内アナウンスが聞こえ、降りる準備を始める。ドアが開き、出口へ向かう人がけるのを待って最後に降りる。せっかちな老人が僕らにぶつかるようにして乗車してきたが、構わず押しのけて下車する。ぎろりと睨まれたが、「降りる人が先だろ!」と言い返してやると老人は顔を背け、慌てて空いている席に身体を滑り込ませたのだった。

 向かい側の下り線ホームは相変わらず混んでいた。まだ運転再開のめどが立っていないようだ。拓海はあの人混みの中にいるのだろうか。とりあえず一旦改札を出て開けた場所で再度、電話をかけてみよう。

「……ねぇ、あそこ見て。何かあったのかな?」

 レイちゃんに言われてホームから見える駅前広場の端に目をやると、確かに妙な人だかりが出来ていた。よく見ればその中心には救急車が止まっている。事故か、事件か……。

「嫌な予感がする……」

 呟いた瞬間に走り出していた。電話が繋がらなかった理由が倒れたからだとしたら……? 倒れた原因が僕が急かしたせいだとしたら……?

 ――落ち着け、あそこにいるのが拓海だと決まったわけじゃないだろう?

 こんなときに内なる僕が、冷静になれと訴えかけるように声を発したが、無視する。いや、止めどなく不安が押し寄せてきて反論するどころではなかった。

 冷や汗が止まらない。

 なぜ止めなかったのだろう。大病を患っている拓海が走って駅に向かうとメールしてきた時点で。なぜ急かしてしまったのだろう。急いで戻ってこなければいけない理由などこれっぽっちもなかったのに。

(冷静に考えれば分かったものを、僕と来たら怒りにまかせて拓海に無茶を……。)

「どけっ……! どいてくれっ……!」
 自分でも驚く速度で階段を降り、改札を通り抜けて駅前広場の人だかりをかき分ける。悪い予感は的中し、そこには顔面蒼白の老人と化した拓海がいて、今まさに救急車に乗せられるところだった。

「拓海っ……!」
 そばに駆け寄ると救急隊員に止められた。

「一刻を争う状況です。離れてくださ……」

「友人……いや、家族なんですよ、こいつは!」

「ご家族ですか? もし病状などをご存じでしたら同乗して詳細を教えて下さい。我々もその方が助かります」

「乗せて下さい。何でも話します」
 そこへ息を切らせたレイちゃんが到着した。拓海の姿を見るなり悲鳴を上げる。

「なぜこんなことに……」

「僕は拓海についていく。レイちゃんは?」

「あたしも……」
 言いかけたレイちゃんは地面に目を落とし、置き去りにされた拓海のギターを拾い上げた。それから乗り込もうと一歩踏み出したが隊員に止められる。

「その荷物を持ったままでは無理です! ……もう行きます!」

「……なら、あたしはタクシーで追う!」
 レイちゃんはギターをギュッと抱え込み、近くのタクシー乗り場へ走った。それを見届けた救急隊員はすぐにドアを閉め、サイレンを鳴らしながら発車した。


31.<麗華>

「あの救急車を追って下さい!」

 自分と拓海のギターを抱え、無理やりタクシーに乗り込んだ。運転手が慌てて車を走らせる。安堵したのもつかの間、バックミラーにちらりと映ったしわくちゃな顔に驚愕する。これが、今のあたしの顔……? さっき見た拓海の姿と重なりぞっとするが、今は見た目を氣にしている場合ではない。

(拓海……。どうか無事で……。)

 彼のギターを抱く。そして知る。拓海が倒れてようやく、あたしは彼を深く想っていたんだって。彼のいない世界で生きていく覚悟もないんだ、って。

(ずっと一人で生きてきたつもりだった。だけど違ったんだ。あたしは、同じ世界に拓海がいたから頑張れたんだ……。ごめんね、拓海。氣付くのが遅くてごめん……。)

 急に声が聞きたくなった。が、記憶をたどり思い出そうとするも、一生懸命になればなるほど遠ざかっていくような氣がして焦る。

(どうしてよ……! 数時間前に聞いたばかりじゃない。どうしてはっきり思い出せないのよ……!)

 悔しさのあまり唇を強く噛む。
(やっぱりあたしには……「ただの麗華」には力がないの……?)

 ――弱氣になるな。悲観するな。僕らがそんなんでどうする? 氣を強く保ってあいつを迎えなきゃ。

 塞ぎ込みかけたとき、頭の中で力強い声が聞こえた。それはさっき智くんに言われた言葉だった。

(そうだ……。拓海が病に冒されていることは再会したときから分かっていたこと。それを歌で吹き飛ばすって言ったのはあたし自身……。いよいよその時が迫っているなら尚のこと、歌の力を信じなくてどうするのよ、麗華!)

 自分を鼓舞した瞬間、唐突に歌詞とメロディーが降りてきた。急いでスマホを取り出したあたしは、タクシーの中にもかかわらず思い浮かんだ歌を録音し始めた。はじめは怪訝な顔をしていた運転手だが、そのうちにハッと表情を変えた。

「……もしかしてお客さん、歌手のレイカさんですか?」

 問われて頷く。運転手は前を行く救急車をじっと見ていたが、少しして「そのギターの持ち主のために歌われたんでしょうか」と言った。

「ええ……。大切な『家族』なんです……」

 あたしが答えると同時に救急車が病院に入っていった。タクシーはすぐに後を追い、止まった救急車の少し後ろで停車した。

 震える手で財布からお金を取り出して支払うと、運転手に手を握られた。
「パートナーのご無事をお祈りしています」

「ありがとうございます。お世話になりました」

 言いながら一礼したあたしは、自分のギターを背に、拓海のギターを胸に抱き、救急車から降ろされる拓海の元に駆け寄った。ところが救急隊員に「離れて!」と一蹴される。思わず足を止めると、拓海はあっという間に院内へ消えていった。

 呆然としていると智くんに肩を抱かれる。

「……そんな能面みたいな顔で拓海と会うつもりか? 氣を強く持て」
 しかし、そう言った智くんの顔はやつれ、不安でいっぱいに見えた。あたしは首を横に振り、深呼吸をしてから笑顔を作った。

「はい。智くんも笑って」

 智くんは頑張って笑顔を作ろうとしたが、うまくいかないのか、何度やってもへの字口のままだった。そのうちに歯を食いしばり、天を仰いだ。

「拓海……。これが最後の別れになったら……」
 言葉はもう少し続いたが、声が震えていたせいで何を言ったのかはっきりと聞き取ることが出来なかった。


32.<拓海>

「おいっ! 三十分で来いと言ったのになんだ、このザマは! こんな……こんな対面をするために呼びつけたんじゃねえぞ、分かってんのか?! 黙ってないでなんとか言えよ……!!」

 夢か現実か智篤が必死に訴えかける声が聞こえた。やはりひどく怒っている。ごめん、と謝ろうとするが目は開かず、声も出せない。

 少し前に感じていた身体の痛みや苦しさは、今はない。意識が辛うじてこの世に残っている、そんな感じだ。今はただ、黒と白の中間くらいの色の中で漂っている。もしかしたら俺は半分、黄泉の国に足を突っ込んでいるのかもしれない。

 胸のあたりをぐいぐいと押される感覚が続く。再び意識が朦朧もうろうとし、徐々に薄れていく。

 ハッと目を開けたとき、なぜだか俺は自分の姿を見降ろしていた。

(ついに死んだのか……。)

 しかしよく観察してみるとまだ息はあるらしい。腕には点滴らしきチューブが繋がっているし、人工呼吸器もついている。だが、横たわる自分の姿は実年齢よりはるか上に見え、いつ息を引き取ってもおかしくないように思われた。

 見知らぬ人が通報してくれたおかげで、なんとか生きた状態で病院に搬送されたのは不幸中の幸いと言えるだろう。ただ、同居中とはいえ、血の繋がりのない智篤と麗華にすぐ連絡が行くとは思えなかった。親はとっくに亡くしているし、伴侶もいない。こうなることが分かっていたなら、二人の電話番号を目につくところにメモしておけばよかったと後悔する。

 一人で死ぬかもしれないと言う考えがよぎったとき、言い知れぬ寂しさに襲われた。どうやら俺は、二人に知られることなく静かにこの世を去ることを想定していなかったらしい。死ぬ覚悟は出来ていたつもりだったが、実は心のどこかで二人が看取ってくれることを信じて疑わず、安心していた。だから今、それが叶わないと知って胸を痛めている。

 こんなに柔な男だったかなと思ったが、思い返してみれば、たった一人で弾き語りする勇氣も実力もなかった俺は、智篤ありきで生きてきた、文字通り柔な男だったと言えるだろう。それは智篤も同じで、俺たちは支え合わなければ生きて来れなかった弱い人間。にもかかわらず、俺が先にこの世を去ってしまう……。智篤があんなふうに怒ったのも当然と言えば当然だった。

(悪いな、智篤。一緒に死ねたらよかったのかもしれないけど、どうやらそれは叶えられそうにない……。)

 身体がすっと軽くなるような感覚。見えている自分の姿も遠くなり、今にも天井をすり抜けそうになる。

(さよなら、智篤。さよなら、麗華……。二人と出会えて本当によかっ……。)

「この歌を歌うまでは帰らねえぞ! 誰がなんと言おうと、歌う、ここで!」

 智篤が乱暴に部屋のドアを開けて入ってきたことに驚き、その拍子に遠ざかりかけていた意識が戻る。

(駅で待ってるはずの智篤がなぜ……? なぜ俺がここにいることを知っている……?)

 頭が混乱する。そんな俺のことなど知るよしもなく、ギターを引っ提げた智篤は横たわる俺の横に立つとすぐにギターを鳴らし始めた。

「やめて下さい! ここは病院ですよ! しかもこちらの患者さんは絶対安静の……」
 看護師の制止などものともせず、智篤は声を荒らげる。

「それがどうした! 何ヶ月も治療薬を投与されてきたこいつが治ってないのは、今の医療に限界があるからじゃないのかっ!! そもそも治す氣なんてないからじゃないのかっ!! ……自分たちはこいつの主治医じゃないって目をしてるな? だがな、僕に言わせりゃ医者なんてみんな同じなんだよ。僕はあんたらを信じない。信じられるのは僕らの歌だけ。僕らは……歌で拓海をよみがえらせる……!」

「歌で瀕死の人を救うだなんて、そんなの無理に決まってるでしょう? 馬鹿なことを言わないで下さい! あなたの頭、おかしいですよ! とにかく、出て行って下さい!」

「馬鹿はどっちだ?! 僕は絶対に歌うぞ。拓海に聞かせるためにここまで来たんだからなっ!!」

 そこへ医師らしき男性が数人やってきて智篤を取り囲んだ。
「本当にこの患者さんのことを思うなら静かにすることです! これ以上言っても聞き入れてもらえない場合は警察に通報します!」

「あんたら、拓海のことをどれだけ知ってるって言うんだ?! こいつに一番効く薬は音楽なんだよ!」

「……音楽療法をお望みなら転院してもらっても構いませんが、命の保証はありませんよ」

 冷静な医師の言葉を受け取ったのは、ずっとそばで静観していた麗華だった。
「智くん。お医者様の言うとおりにしましょう。少なくとも拓海は、ここに運ばれたから今、生きているんだもの」

「レイちゃん……! 本氣でそんなことを……」
 反論しかけた智篤に麗華が寄り添う。そして耳元で何かをささやいたかと思うと、智篤は言葉をぐっと飲み込み、医師を睨んでから部屋を出て行った。

 麗華が何を言ったのかまでは聞こえなかった。が、あいつがすんなりと抵抗をやめるようなことを言ったのは間違いないだろう。麗華は次に医師に向き直った。

「……お騒がせして申し訳ありませんでした。智くんは……今出て行った彼はもう大丈夫です。あの……」
 麗華はそこで一度言葉を切ったが、躊躇いがちに続ける。
「そばにいても構いませんか? 拓海はあたしの……恋人なんです」

 その言葉に驚いたのは医師ではなく、俺だった。かつて胸があった場所がじんわりと温かくなる。医師は俺の容態が落ち着いていることを確認したあとで「そばにいるだけなら差し支えないでしょう」と言った。

「ありがとうございます」

「ただし、少しでも異常が見られたらすぐに連絡して下さい」

「わかりました」
 麗華の素直な返答を聞いた医師は安心したように頷き、部屋を出て行った。

 再び静寂が訪れた。麗華は部屋の端にあった椅子をベッドに引き寄せて腰掛け、俺の手を取った。

「あったかい……。生きて会えてよかった……」
 そう言って両手で包み込む。

(俺も会えて嬉しいよ、麗華。まさか、ここまで迎えに来てくれるとは思ってなかった。)
 声に出して言うも声帯が震えることはなく、俺の声はむなしく霧散した。

(せっかく「恋人」って言ってもらえたのに、この嬉しさを伝えられないなんてもどかしいな……。ましてやこのまま死んだら後悔しかねえ……。)

 麗華がどんな顔で俺を見つめているか見たくて意識を身体に向ける。と、視点が麗華の顔がよく見える位置に変わった。

 心配そうに見つめるその目には涙が浮かんでいた。ずいぶん泣いたのか、腫れぼったい。だけどそんな顔も愛おしくて抱きしめたくなる。

(ごめんな……。抱いてあげたいけど身体が動かないんだ……。)
 思い通りにならないことが辛かった。そして何より、麗華を置いてこの世を去ることが辛かった。

 その時、まるで俺の言葉を聞いたかのように麗華が言う。
「死なせないよ。拓海の命はあたしたちが救う。そう言ったでしょ?」

 麗華は立ち上がり、カーテンと窓をそっと開けた。そして急に表情を変えたかと思うと深く息を吸った。

あなたの声が大好きで
ささやかれると嬉しくて
眠れぬ夜を過ごしたわ、何度も

一緒に月を眺めたね 
見果てぬ夢、語りながら

聞きたいよ、君の声を
会いたいよ、今すぐに
大好きな君に……

 初めて聞く歌だった。それもそのはず、歌い終わったあとで麗華が「今のはね、さっきタクシーでここに向かう途中に浮かんできた新曲なのよ」と教えてくれた。

「拓海……。もう一度あたしの名前を呼んで。その声でささやいて。……麗華、愛してるって……」

(ああ、何度でも言うよ。麗華、愛してる。愛してるよ……。)
 俺の声が喉から出ることはなかったが、麗華は嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう。拓海の心の声、ちゃんと届いたよ。うん、あたしも愛してる。本当にありがとう……」

 どうやら俺の声は直接麗華の心に響いているらしい。麗華の鼓膜を震わせられないのは残念だが、想いが伝わったことに満足する。麗華が俺の手を握って言う。

「……大丈夫。すぐにここに戻ってこれるよ。智くんが、うまくやってくれる。だから、もう少し待ってて……」

 麗華が言い終わるより早く、外からギターの音が聞こえた。これは智篤のギターの音……。短い前奏のあとで歌が聞こえ始める。俺はそれにじっと耳を傾けた。


33.<智篤>

「……外から歌って。あたしの歌声が合図。智くんの声量なら三階のこの部屋まで聞こえるはず。一緒に拓海を救おう」

 これが、レイちゃんに耳打ちされた内容だ。部屋に乗り込んで拓海のそばで弾き語ろうと考えていた僕の作戦が浅はかだったことを思い知らされはしたものの、一分一秒を争う状況下では冷静な判断ができる人間の指示に従うのが正しいこともまた知っていたので素直に従い、部屋を出た。

 階段を駆け下りながらよみがえるのは数時間前のこと。

 僕は救急車の中で拓海にひどい言葉をかけ続けた。これで拓海が死んだら絶対に後悔すると分かっているのに癖付いた言葉遣いがやめられなかった。こんな自分が大嫌いだと唇を噛んだ。そして、こんな日を迎えるために今まで世を、人をののしり続けてきたのかと思うと悔やしくて仕方がなかった。

 そう思うなら今すぐこの苦しみを手放そう。そしてニューワールドに行こうよ……。そう訴え続けてきたのは他でもない、「心の声」という名の「本当の僕」。

 そう。レイちゃんに裏切られ、サザンクロスを解散したあとに生まれたのがこの、ひねくれ者の僕。だから僕はレイちゃんを恨み続けてきた。この身体の支配者であり続けるためだけ、、に憎しみの感情を握りしめてきたのだ。

 「本当の僕」は三十年間、ずっと僕を静観していた。しかし拓海が病み、レイちゃんとコンタクトを取ったことで状況は一変した。

 「本当の僕」はレイちゃんが好きだったから、年末のライブで彼女が歌う「オールド&ニューワールド」を聴いても尚、彼女を赦さないと言い張る僕を懲らしめにかかったのは当然のことだった。だが、それが無かったとしても僕はきっと考えを改めたに違いない。それくらい、本氣を出した彼女の歌には力があった。

 「闇」の歌詞でも「光」の声で歌えばその先には「ニューワールド」が待っていることを彼女は教えてくれた。そう、「オールド&ニューワールド」の歌詞のように、善と悪が一つになればそこがニューワールドになる、と……。

 だが、古い世界と新しい世界を一つにするには僕らだけでは不十分。やはり間には拓海が必要だった。夜と昼の間に朝が存在するように、二つの世界はそのままでは決して繋がらない。

 ひねくれ者の僕とレイちゃんを必死に繋ごうとしてくれた拓海。彼の働きによって僕は「本当の僕」やレイちゃんの言葉に耳を傾け、かつての自分を取り戻そうとしている。なのに、礼も言わないうちに拓海は倒れ、今にも死にそうになっている……。

 あの時、急かさなければ……。
 あの時、優しくしていれば……。
 あの時、身体のことを思って禁煙を勧めていれば……。
 そしてあの時、レイちゃんときちんと話し合おうと言っていれば……。

 すべて僕のせい。取らなかった行動の積み重ねが拓海を死の淵に追いやった……。

 ――本当に君だけのせいなんだろうか? 拓海やレイちゃんはどうだろう? もう一度よく考えてみてごらん。

 急に心の声が、「本当の僕」の声が聞こえてきてハッとする。振り返ってみれば確かにすべてが僕のせいとも言い切れない。選択肢は拓海にもレイちゃんにも等しくあったはずだと氣付く。

 あの時、僕の言葉など無視してゆっくり行くと一言いってたら……。
 あの時、進んで禁煙してくれてたら……。
 あの時、リーダーらしく僕らをまとめてくれていたら……。
 あるいはあの時、僕らにひと言相談する勇氣を持ってくれていたら……。

『あたしが智くんに謝ったら、智くんも自分のことを赦すの』

 拓海の部屋で新年を迎えたあの日にレイちゃんが言っていたことの意味が、ここへきてようやく分かった。

 あの日、レイちゃんは僕に謝った。が、同時に自分自身にも謝り、赦したのだ。責め続けた本当の、、、自分自身を。それは決してあやまちを正当化するものではない。傷つけてしまった相手と同様に苦しんできた自分を認め、愛するために彼女はああ言ったのだ。

 そう、後悔しているのは僕だけじゃない。誰もが時に選択を誤り、あの時こうしていればと思いながら生きている。けれど、そこに囚われ続けて生きる人と、今度は間違えないぞと思いながら生きる人とでは、きっと次の選択肢が、未来が変わる。

(だけど今、赦すのか……? 僕が僕を……? 拓海が死ぬかもしれないって時に……?)
 頭と心が混乱した状態のまま建物の外に出る。

 病院の駐車場まで降りてきた。ちょうどそのときレイちゃんの歌声が聞こえてきた。約束通りだ。僕は声のする方に急ぎ足を向け、拓海の病室を特定する。そして聞こえてきた歌の歌詞をなぞりながら、やはりレイちゃんは拓海を想っているんだと確信する。

(こんなにも健気な彼女を置いていくつもりか? 死んだら承知しないぞ、拓海……。)
 歌声が聞こえなくなった。次は僕の番だ。

(二人で作った君のための歌だ……。耳の穴をかっぽじってよーく聞いとけ!)
 病室の窓を睨み付けながら深く息を吸う。静かにギターを鳴らし、歌い始める。

朝日と共に響く
まっすぐな君の歌声は高く
かなたまで届け
僕らの世界 貫くように

君とあなたと僕
三つの音が重なれば
無敵になれるんだ

ゆこうまだ見ぬ明日へ
ハーモニー 大地ほしも震えるほどに
ギターと歌を響かせ
永遠に 君の命続くように願う

夜明けの空に祈る
どこまでも君と生きれるようにと
宇宙そらまで届け
僕らの歌を 星にのせて

君とあなたと僕
三つの夢が叶えば
そこは新しい世界

描こう未来 手を取り合って
ハーモニー 風に乗せて届けよう
希望の歌を奏でて
永遠に 君の歌聴けるように願う

 最後まで僕を咎める者はいなかった。それどころか車のエンジン音、いや、風の音一つ聞こえなかった。まるで異空間に移動してしまったかのように思われたとき、まさにそうだとしか思えない出来事が起きた。突如としているはずもない拓海の声が聞こえたのだ。

『最高だったよ、智篤。本当によかった。ありがとう……』

「そばにいるのか……? まさかもうこの世にいないなんて言わないよな……?」
 辺りを見回すが人氣ひとけはなく、再び静かな声だけが聞こえる。

『……一応まだ生きてるから安心しろ。お前の氣持ち、伝わったよ。もう一度礼を言う。ありがとう』

「伝わったなら……! 伝わったならちゃんと自分の身体に戻れよっ……!」

『戻れって言われても……。お前がそんな調子じゃ戻れないなぁ……』

「どうすればいい……? 何でもする……!」

『本当に何でもするか?』

「拓海が戻ってくるためなら何でも……! 僕を病氣にしてくれたっていい……!」
 本氣でそう言うと拓海に笑われた。

『お前、どんだけ自分をいじめるつもりだよ? もうさ……。やめようぜ、そう言うの』

「やめるって、どうやって……」

『赦すんだよ、自分自身を。俺が病氣になったのはお前のせいじゃない。途中で倒れたのもお前のせいじゃない。仮に死んだとしても、死ぬのは人の宿命だからましてやお前のせいじゃない。……お前は充分苦しんだよ。だからこれ以上恨んでるフリをするな。ほんとの自分に優しくしてやれ』

「…………! 拓海まで同じことを……!」
 彼の言葉は心の扉を優しく開け、淀みを綺麗に洗い流していった。肩に、いないはずの拓海の手の温もりを感じる。僕はそこに右手を重ねた。

「自分の心を守るためにはそうするしかなかったんだっ……! 誰かのせいにしなければ生きていけなかったんだっ……!」

『頑張ったよ、お前は。だからもうニューワールドに行こう。いい加減、前に進もう』

「だけど……! だけどそこには拓海もいてもらわなきゃ困る……! 僕とレイちゃんを繋ぐ役は君しかいない……! 君がいて初めて僕らのニューワールドは完成するんだ……!」

『じゃあ、自分を赦せ。本当の自分を解放してやれ』

 正面からまっすぐに見つめられているような氣がした。リーダー命令でも何でもなく、拓海は心から僕を想いそう言ってくれているのが分かった。抵抗する理由は一つもなかった。

「……わかった。赦すよ、自分自身を。そしてこれからはその過去を糧に新しい世界へ行く。……君と共に」

『……行けるかな』

「僕は約束を守った。次は君の番だよ。君はまだ、三十分以内に戻れといった約束を果たしていない」

『そうだったな……。聴かせたい歌もあるし、麗華にも会いたいし、戻らないといけないよなぁ……』
 拓海ははっきりしない調子で言った。直後に肩に感じていた温もりが消える。

「拓海……?」

『……もう一度歌ってくれ。今度は麗華と一緒に。その歌を手がかりに、なんとかやってみる』

 そばに拓海の気配を感じたかと思うと、それはすうっと風に乗って僕が見ている三階の一室に飛んでいった。僕はきびすを返し、急ぎ拓海の病室に駆け戻った。


34.<麗華>

 開け放った窓から智くんの力強い歌声がはっきりと聞こえた。初めて二人で共作した、拓海のための歌。荒削りだった部分は彼が見事に修正し、完璧に仕上げてくれたので今のが完成形と言っても過言ではなかった。

「拓海、智くんの歌声が聞こえた? とってもいい曲でしょう?」

『ああ……。メチャクチャよかったよ。でも、ここに戻ってくるにはまだ力が足りない……』
 心に直接、拓海の声が響いた。

「力が足りないって……。どうすればいいの?」
 その時、部屋の扉が開き、同時に智くんが飛び込んできた。

「拓海はっ……?!」

「大丈夫、まだ息はあるわ」

「一緒に歌ってくれ……。拓海に頼まれて……。そうしたら、なんとかするって言うから……」
 智くんは肩で呼吸をしながら、語順も調えずに言った。

 なるほど。拓海が「力が足りない」と言ったのはそういうことか。あたしは一度拓海の手を握った。

「今助けるから、待ってて」
 椅子から立ち上がると、智くんがすぐ近くに歩み寄る。

「歌詞とメロディーは今聴いて頭に入ったね?」

「ええ、覚えたわ。……ギターは弾かないわね?」

「ああ、歌声だけで勝負する。と言っても、声量も抑えなきゃいけないが……」

「やむを得ないわ。その代わり、心を込めましょう」

 本音を言えば今智くんがしたようにギターも弾きたかったが、院内でそんなことをすれば次こそ通報されかねない。最後の最後で失敗するわけにはいかなかった。

 智くんは弾む息を整えるように何度か深呼吸をしたあとであたしと目を合わせた。頷くと彼がリズムを刻む。
「ワン、ツー、ワンツースリー……」

 あたしが歌詞を口ずさむ隣で智くんがハモり、、、を加える。こんなふうに二人で歌ったことは一度もないのに、まるでずっとこれでやってきたかのように息がぴったりと合う。

 プロの歌手として何十年ものあいだ、たくさんの人のために歌ってきたあたしは今、たった一人、拓海のためだけに歌っている。お金のためでも好かれるためでもなく、純粋に彼を救いたい一心で、「ただの麗華」としてここにいる。

 少し前のあたしなら「ただの麗華」には力がないと氣弱になって、歌に想いを込めることすら出来なかっただろう。でも今は違う。智くんが言っていたように「祈りの言葉」が届くようにと、ただそれだけを考え、声を出している。

 今こそ信じよう、歌の力を――。

 智くんと誓い合い、作り上げたこの歌で拓海を救うことが出来たとき、あたしの生き方はきっと変わる。三人一緒なら、これまで築き上げてきたものすべてを置いてニューワールドに行くことだって、きっとできる。いや、行きたい……。

 ――そうね、あなたはもう充分多くの人を救った。プロの歌手としてよく頑張ったわ。

 歌の最中にもかかわらず、いつもあたしの曲作りをサポートしてくれる「神様」の声が聞こえた。あたしが歌うのをやめられないと分かっていて「神様」は続ける。

 ――孝太郎をはじめ、大勢の人が救われ、新たな人生を歩み始めたのは間違いなくあなたの歌声のおかげよ。私の言葉を素直に受け取り、伝えてくれてありがとう。大役、お疲れさま。これからはあなたが幸せになるために、愛する人のそばで歌いなさい。私からはもうメッセージを伝えないけれど、あなたのそばには支えてくれる彼らがいるのだから安心して生きなさい。今後も陰ながら見守っているわ。

(今、彼らとおっしゃいましたか……? と言うことは、拓海は助かるのですか……?)
 語るというより念じるように問うと、神様はひと言「歌い続けなさい」といって頭の中から消えてしまった。

(自分を、仲間を、そして歌の力を信じなさいとおっしゃるのですね……。分かりました。歌い続けます……。)

「永遠に君の歌聴けるように願う……」
 歌詞の最後を口ずさんだ。
「拓海……。二人で歌ったよ……。あたしたちの想いが届いたなら戻ってきて……」
 再び手を取り、祈るように両手で強く握った。


35.<拓海>

 二人の歌声が身体に染み渡り、氣付けば心地よい空間の中に身を置いていた。目の前には白い発光体が見える。どことなく人の姿にも見えるそれから声が聞こえる。

『本来であれば、お前はこのまま私の元に来るはずだったが、仲間がそれを阻止したことでもう一つの道が示された。もしお前に未練があるなら、お前の一番大事なものと引き換えに彼らのもとに還る道を選ぶことが出来る。どちらを選ぶかはお前の自由だ』

「一番大切なもの……」
 俺はとっさに喉に触れた。いや、実際には触れていないがとにかく、俺にとっては「声」が一番の宝物だった。

 「声」を差し出せば現世に戻れる、と目の前の存在は言いたいのだろう。しかしそれは俺が病氣になってからずっと拒み続けてきたこと。すぐには返事が出来なかった。

『現世に未練はないのか? 仲間の想いに応えず、運命を受け容れるのもまた良かろう。そう決意したならこの手を取るがよい』

 黙っていると、目の前の光の中から白い手が現れた。俺はその手を見つめながら人生を振り返る。

 正直な話、やりたかったことは全部やった。ミュージシャンとしてそれなりに名を残せたし、毎日大好きな音楽に触れられて楽しかったし、また麗華に会えたし、一緒に暮らせたし、最後には想いも聞けた。これだけ出来れば充分じゃないか……。

 そう。声を残すために手術を拒み続けてきた結果がこれなのに、やっぱり生きたくなって声を「売った」となればあまりにも格好が悪い。俺としては、かっこいいミュージシャンのまま最期を迎えたいと言う氣持ちも少なからずあった。

『どうした? 私と一緒に来る氣はあるか?』
 白い手がぐっと近づく。まるでこっちへ来いと誘うかのように。

 俺自身はもう意識だけの状態で肉体がなく、その手を直接取ることが出来ない。が、意識をそこに集中すればきっとあちら側の世界に行けるんだろうということは分かる。

 二人の歌声を聞いてもなお氣持ちがぐらついているのは、実はこの「白い存在」のせいかもしれない。口では選択肢があるようなことを言っておきながらそれはすでになく、この手を取るよう仕向けられている可能性は充分考えられる。

 意識がぼんやりしてくる。今にも白い手のほうへ吸い込まれそうになる……。

 ――ごめん、拓海。

 その時、声が聞こえた。智篤の、声だ。


36.<智篤>

「ごめん、拓海。僕が悪かった……」

 歌い終わったからといっていきなり奇跡が起こることはなかった。相変わらず横たわったまま、今にも死んでしまいそうな拓海を見下ろしていたらいても立ってもいられなくなって、氣付けばそんな言葉が口をついて出た。まるで「何でもする」と言った僕自身の言葉に突き動かされるかのように口が動き続ける。

「君を巻き込んでレイちゃんを恨めと言い続けてきた僕を赦してくれ……。でも……僕の氣持ちも分かって欲しい。あの時はああするしかなかったことを。それが結果的に僕らの、ウイングの音楽の原動力になったことを」

「智くん……」
 呟いたレイちゃんと目が合う。僕は腰を下ろして目線を合わせ、それから頭を下げた。

「ごめん、レイちゃん。そしてありがとう、こんな僕を受け容れてくれて。おかげで自分を取り戻すことが出来た。……ホントにありがとう」

「うん……」

「僕はただ、あの時の悲しみを聞いてほしかっただけなんだ。それを嫉妬や恨みという名に変えてくすぶらせていただけ……。でも君と再会し、手紙を介して直接伝えたことで氣持ちの整理がついた。そして君との共作を拓海に聴かせることで悲しみは浄化された……」

 僕は胸に手を当て、自分自身に語りかける。
(……そういうわけだから、用済みの僕はお前と入れ替わることにするよ。長い間閉じ込めてしまって悪かったな……。)

 ――分かってないな、君は。どうして残るか消えるかの二択しか思いつかないんだ? これだから頭でしか物を考えられない人間は困る。

(え……。だけど、主人格はお前の方だろう? だったら僕が引っ込むしか……。)

 ――闇と光が一つになればニューワールドに行けると分かったはずじゃなかった? 僕らも同じだよ。優劣をつけるんじゃなく、共存するんだ。

 「本当の僕」からの思いがけない言葉に戸惑う。

(……共存。だけど、お前はそれでいいのか? だってずっと……言うなればひねくれ者の僕に虐げられてきたってのに……?)

 ――だ・か・ら! 赦すんだよ、そんな君のことを。君は僕を閉じ込めてきたと思っているようだけど、あの時レイちゃんに抱いた憎悪を音楽作りのエネルギーに変換できたのは、間違いなく君が前に出てきてくれたおかげだ。優しいだけの僕じゃ、ああはいかなかったはずだもの。君こそずいぶん頑張ってくれた。ありがとう。これからは君と僕と、力を合わせてニューワールドで生きていこうじゃないか。

(出来るだろうか、そんなことが……。)

 ――君が僕を、「自分」を赦せば、きっと出来る。

(…………!)
 いまの言葉を聞いて「自分を赦す」ことの真の意味がはっきりと分かり、腑に落ちた。

(過ちを認めればいいだけじゃなく、僕がここにいること自体を赦す……。そういうことだな……? だけど、いていいのか? 本当に。こんな僕でも……。)

 ――もちろんさ。君は僕で、僕は君なんだから。

 心のどこかでずっと「こんな自分じゃダメだ。もっと強くなければ」あるいは「もっと優しくあらねば」などと言い続けてきた。だけどそれは誰かと比較したときに劣っているように感じられたからであって、本当はありのままの僕――強さ、優しさ、幼さや涙もろさなど、様々な面を持ち合わせた僕――でいればよかったのだ。僕らの仕事は場面場面に応じて前に出、協力してこの身体を生かすこと。一つの性格が頑張って、他の性格を殺す必要などはじめからなかったのだと知る。

(不器用だな、僕らは……。それに氣付くのに何十年もかかってしまった……。)

 ――ああ。だけど今、氣付けた。幸いなことに、僕らの寿命はまだ残ってる。あとは……。

(あとは……拓海だけ、だな。)

 ――そういうこと。

 僕はうなずき、拓海の手を握るレイちゃんの手をまるっと包み込んだ。そして拓海に呼びかける。本当の僕と一緒になって。

「……拓海、聞こえているか? 僕はなぁ……僕は君がいなきゃ生きてけないんだよ。知ってるだろう? 知ってて置いてくなんて、そんな薄情なことがあるかよ……。ああ、そうだ、また作ってくれよ。しゃばしゃば、、、、、、のルーをかけたカレーライス。あんな、飲み物みたいなのは君にしか作れない。でも、今は無性にあれが食べたい……。他にもある。僕は君の隣でギターを弾くのが好きだ。君と、目と音を合わせる瞬間が好きだ。もしもそれが出来なくなったら僕は本氣で泣く。君のギターを濡らして泣き続ける。そんなの、嫌だろう? 嫌だと思ったら早く戻ってこい。僕は待ってる。何時間でも、何日でも、ここで待ってるから……」

「今の言葉遣い、何だか昔の智くんを思い出すわ」

「そりゃそうさ。だって戻ってきたんだもの、昔の僕が。君と拓海のおかげでね」

「そう……。じゃあ、あとは拓海だけだね」

「うん。あとは拓海が戻るだけだ……」
 僕は力強く頷いた。
「……もう一度、いや、拓海が戻るまで繰り返し歌おう。そうすれば必ず想いは届くはずだ」

 今度は僕が歌を歌い、レイちゃんがハモる。僕らの祈りが通じるようにと願いながら。


37.<麗華>

 お前は自分の歌の力を過大評価し、まるで万能薬のように思ってる。歌に力が宿るのは心の底から生まれた歌詞と曲を歌うときだけだ――。

 拓海にそう言われたときはショックを隠せなかったが、今のあたしにはその言葉の意味がはっきりと分かる。

 あたしはずっと神様の言葉、つまりは万人に響く言葉を歌にしてきた。それはプロの歌手なら当然求められる能力であり、事実多くの人があたしの歌に耳を傾けてくれた。けれど万人に受け容れられるが故に、深く心を病んだ人や世を憂えているような人の心を癒やすほどの力がなかったのは、ある意味当然のことであった。

 そんなあたしは今、何者でもない自分として「名もなき歌」を歌い続けている。拓海専用の秘薬が効くことを信じて……。


38.<拓海>

 智篤の謝罪と自己の赦し、そして繰り返される歌を聞くごとに意識を覆っていたモヤは晴れ、氣付けば再び病室内に舞い戻っていた。今はさっきと同じように少し高いところから自分と彼らを俯瞰している。

(もういい……。もういいよ……。)

 必死すぎる二人をこれ以上見ていられなくなった俺は二人の心に語りかけることにした。

『麗華、智篤』
 二人が揃って顔を上げたのを確認し、続ける。
『俺のために歌ってくれてサンキューな。二人の想いはしっかり受け取った。だからこれ以上、そんな顔で祈り続けるのはやめてくれ……』

「君が戻るまではやめないよ」

「そうよ。やめるときはここにいる拓海が目を覚ますときよ」

 そう言われて、嬉しいやら戸惑うやらでどう返事をしたものか悩んだ。が、再びこの世界に意識が戻って来たのはきっと二人が祈りを込めて歌ってくれたおかげ。それが確かなものだったと証明するために俺が取る行動は一つしかなかった。

(俺をあの世に連れて行こうとした声の主、聞こえてるか……? こいつらとの約束を果たしたいからあの世に行くのはもう少し先にさせてもらいたいんだけど、いいかな?)

 問いかけるとすぐに返事がある。
『無論。生きるも逝くもお前次第。だが、現世に舞い戻るには……』

(声を置いていけ、って言うんだろう? ……この声は俺の宝物だった。捨てたくないからこのまま死ぬつもりで手術さえ拒んだ。……だけど、こうも引き留められたんじゃあ引き返さないわけにもいかない。約束を破った男だと後ろ指を差される方が格好悪いからさ、取引に応じることにするよ。)

『それが、お前の出した答えか。後悔はしないな?』

(ああ……。こっちの世界でもうちょっと足掻あがいていくわー。んで、こいつらと新しい世界を築き上げたら今度こそそっちに行くよ。でもその前にひと言だけ、こいつらに伝えさせてくれ。声はそのあと置いていく。)

『気の済むまで語り合うがよい』

(サンキュ。)

 「あの世の水先案内人」に礼を言った俺は、俺の手を握り続ける二人の前に立った。そして最後の言葉をかける。

『麗華、智篤。俺の声を愛してくれてありがとう。この声で語りかけられるのはこれで最後だ。最後だからよーく覚えておいて欲しい。そして、宝物である声を捨ててまで俺が守りたいものは何か自分の胸に問いかけ、自覚と覚悟を持って欲しい』

「最後……?」
「声を、捨てる……?」

 二人は戸惑い、顔を見合わせた。

『愛してるよ、麗華。ありがとう、智篤。そしてさよなら、俺の声……』

 意識の上で喉に手を当てた俺は、あの世の水先案内人に声をかけた。
『挨拶は済んだ。戻るよ』


39.<智篤>

 拓海の言葉を聞いた僕らは青ざめた。いよいよ最期のときが来てしまったのかと思ったら悔しくて涙が込み上げる。やはり僕らの歌では拓海を救えなかったのか、と……。

 悲しみの感情が溢れそうになったとき、隣にいるレイちゃんが息を呑んだ。そして拓海に目いっぱい顔を寄せた。

「レイちゃん……?」

「……今、目が開いたような氣がして」

「えっ……!」
 慌てて立ち上がり、彼女と同じように拓海の顔をのぞき込む。
「おい、拓海……。生きて……いるのか……?」
 問いかけると、声に反応するかのようにまぶたが動き、ゆっくりと目が開いた。

「ああ、拓海……!」
 僕らは彼にしがみついた。
「よかった、本当によかった……!」

 興奮状態の僕らとは対照的に拓海は穏やかに微笑み、静かに呼吸を繰り返していた。その様子を見て違和感を覚える。

「もしかして……声が出せないのか……? あっ……。さっきの『声を捨てる』って言うのは……」
 拓海はゆっくり頷いた。レイちゃんの表情がさっと変わり、今度は悲しみの涙がこぼれる。

「自慢の声を犠牲にしてまで戻ってきてくれたんだね、ありがとう拓海。あたしたちのために……。本当にありがとう……」

 僕らはすぐに医師を呼び、拓海の身体を診てもらった。医師は診察しながら何度も首をかしげ、最後には驚愕した。

「……峠は越えたようです。肺の雑音も聞こえなくなりましたし、顔色もいい。これならもう心配はいらないでしょう。それにしても、不思議なことが起きたものですね……」

「不思議なこと……?」

「重度の呼吸器疾患がみられたにもかかわらず、数時間安静にしていただけでここまで快復するなんて通常ではあり得ないことです。これが……歌の力なのでしょうか。まだ信じられない……」

 止めには来なかったがきっと僕らの歌を聴いたのだろう。医師はしばらくの間、不満そうにうつむいていた。

 その後すぐに精密検査が行われ、拓海が患っていた病が綺麗さっぱりなくなっていることが分かると医師は再び驚きの声を上げた。また、異常が見られないにもかかわらず声が出せないことにも納得がいかないらしく、頭を悩ませている様子だった。

 しかし僕らにとっては、医師が現実を受け容れられるかどうかなど、どうでもよかった。僕らの願いが、祈りが聞き届けられ、拓海が生きて僕らの目の前に戻ってきた。それがすべてであり、何より重要なことなのだから。

◇◇◇

 拓海は程なくして退院、数日ぶりに僕らと彼の住む安アパートに戻った。いつもなら真っ先に拓海がだらけた声を発するが、今日はそれが無い。帰ってきたのに、少しだけ寂しさを覚える。二人も同様に感じたのか、靴を脱ぐと黙ったまま腰を下ろした。

 静かな部屋。これまでいかに拓海の「声」に助けられてきたかを痛感する。唐突にその声が聞きたくなるが、もう二度と聞くことが出来ないのだと思ったら鼻の奥がツンとしてきた。隣を見るとレイちゃんも静かに涙を流している。

 その時、拓海が急に立ち上がってギターとスマホを取り出した。慌ただしく画面を操作したかと思うと「よーく聞いとけ!」と言わんばかりに音量ボタンを最大値まで連打する。

「いったい、何が始まるんだ……?」

 僕とレイちゃんが顔を見合わせていると、ギターの生演奏と共に拓海の「声」が聞こえ始める。

命芽吹くとき 大地は光り輝く
朝日昇るとき 鳥たちは歌う
手を伸ばそう 夜明けの空に
オレンジに染まる手は 君の温もり

抱きしめたい 光溢れる君の心を
抱きしめたい 愛にあふれるこの世界を
命ある今に 君に出会えた歓びに
ありがとう

命生まれゆく 日の出と共に、ああ
新しい日常ひびが 今日も始まる
手を伸ばそう 未来の空へ
虹色に染まる道は 希望の架け橋

越えていこう 不安も悲しみも 共に
生きとし生ける すべてが笑う世界へ
怖くなんてないさ 君となら
手を繋いで一つに

抱きしめたい 光溢れる君の心を
抱きしめたい 愛にあふれるこの世界を
越えていこう 不安も悲しみも 共に
生きとし生ける すべてが笑う世界へ……

 すぐに、倒れる直前に録音した曲だと分かり、涙が止まらなかった。これが最後の声だと言うこと、そして拓海がこの世で生きた証しを残そうとしたときに感じた想いの美しさに心動かされる。

「生きることを選択してくれてありがとう……」
 レイちゃんが涙ながらに言い、拓海に抱きついた。僕も拓海の正面に立ってその手を取った。

「これからも響かせよう、僕らの音楽を。そして一緒に行こう、三人で新しい世界へ」

 拓海はちょっと照れくさそうにはにかみ、頷いた。そしてベッド脇に置いてあったメモ帳を手に取り、何やら書き始めた。のぞき込むと、紙にはこう書いてあった。

 ――生きよう、一緒に。これからもよろしく!


40.

<麗華>

 歌の力が起こした奇跡はその後も続いた。なんと、あたしたち全員が日を追うごとに若返り、氣付けばサザンクロス結成当初の風貌になってしまったのだ。まるで時が巻き戻ったかのようにさえ思える不思議な現象。唯一違うことといえば、拓海が声を失っていることくらいだろうか。

 はじめは筆談でコミュニケーションを図っていたあたしたち。だが、直感的に話せないことにストレスを感じ始めた拓海を見ていられず、最終的にはみんなで手話を覚えようということで意見が一致した。この年齢で新しく何かを覚えるのは大変に思われたが、心身の若返りに加えあたしたちにはこの方が合っていたらしく、幸いにしてすぐ習得することができたのだった。

◇◇◇

 桜のつぼみが膨らみ始めた頃、あたしたちはそれぞれのアパートを引き払い、三人で暮らせる中古の一戸建てにきょを移した。近隣に氣兼ねなく弾き語りするため、部屋の一つを音楽スタジオに改造している。スタジオの出来に満足しているあたしたちはおそらく、多くの時間をこの部屋で過ごすことになるだろう。

「なんか、まだ夢を見ている氣がする。まさかホントにこんな日が来るなんて思ってなかったんだもの」

 ――夢じゃないよ。これは俺たちが選び取った最良の未来だ。――
 拓海の手の動きを読み取り、脳内で彼の声に変換する。これはあたしが勝手にしていることだが、こうすることで彼に直接語りかけられているように感じられるので氣に入っている。

「確かにそうかもしれないけど、夢みたいに感じる点は僕もレイちゃんと同意見だな。サザンクロスの再結成をしたときにはこんな未来、想像できなかったもんな。あの時は、拓海を見送り、レイちゃんを恨み倒してサザンクロスを抜けてやるんだって、本氣で思ってた」

 再結成を快く思っていなかった彼は始め、拓海が病を克服し歌えるようになったらおそらくバンドを抜けるだろうと言っていた。その彼が今はこうしてここにいて、生活を共にしながらバンド活動を継続しようとしている。考えを変えたきっかけはいくつもあるのだろうが、拓海の病が一因であることは間違いないだろう。一人の生死が他の人の人生を左右するのだとすれば、自分の生き方や死に方についてもう少し真剣に考えなければいけないのかもしれない。

 ――サンキューな、残ってくれて。
 拓海の手の動きを読み取った智くんは首を横に振る。

「すべてを赦した僕の居場所はもはやここしかない。……っていうか、僕には君を生かした責任を果たす義務があるからね。僕の残りの人生は君に捧げるつもりだよ」

 ――人生捧げるって……。ちょっと重いんだけど……。

「あー、そうだな……。じゃあ……」
 智くんは少し考えてからこう答える。
「一生涯、リーダーの君についていく。これでどうだ?」

 拓海は満面の笑みを浮かべ、両手で大きく丸の形を作った。

<拓海>

 病気が判明したのが一年前の今ごろ。まさかもう一度桜の季節を迎えられるとは正直思っていなかった。

(俺、生きてるんだよな……。麗華の宣言通り、生かされちまったんだよなぁ……。)

 救われたこの命。やりたいことをすべてやりきった俺に出来るのは、こいつらのために残りの命を使うこと。すなわち、「世界征服」を成し遂げるためにあらゆる努力を惜しまないということ。

 もはや出来るかどうかではなく、何が何でも叶えるつもりでいる。二人が尻込みしたら俺が切り込む。たとえ世界が相手であっても。死にかけた人間に怖いものなどない。

◇◇◇

 結局、話していた路上ライブをする今日という日まで俺の生の声を残しておくことは出来なかった。しかし二人は諦めなかった。俺の最後の曲「サンライズ」をデジタル音源化して正式に残してくれたのだ。路上ライブではこれを流すことで俺の声を再現する予定になっている。二人の尽力には感謝の言葉しかない。

 路上ライブのことは完全シークレット。本当に若い頃と同じで予告も無しに駅前に足を運び、いきなり弾き始める計画だ。ただあの頃と違って今の俺たちは素人ではない。弾き始めれば必ずや人を集められると信じ、ゴールデンウィークで多くの人が行き交う夜の駅前でギターの準備を始める。

 路上ライブをやるのは初めてじゃないし手順も心得てるはずなのに、数十年ぶりと言うこともあってなぜか緊張してきた。何度も深呼吸を繰り返していると智篤に笑われる。

「おい、まるで初めて路上ライブをするみたいじゃないか。リーダーがそんなんじゃ、先が思いやられるな……」

 ――うっせえ! そういうなら絶対に弾き間違えるなよ?

「……まぁ、間違えたらその時さ。ハプニングはライブの醍醐味でもあるからね」
 反論されるかと思いきや、まさかの返しにこっちが笑う。

(智篤のやつ、ずいぶん変わったな……。うん、これなら安心だ。)

 二人に生かしてもらった命ではあるけれど、実際のところいつまで保つかは俺にも分からない。だからやっぱり、次に本当に死んだときには以前頼んだとおり、麗華のことは智篤に任せようと思ってる。

 今は俺と麗華が恋仲ってことになってるけど、結局のところ麗華が幸せならいいわけで、相手が俺だろうが智篤だろうが、正直どっちでもいいと思ってる。現に智篤は若返った麗華を密かに想っているようだし、麗華もまんざらではない様子。今となっては争う氣もないのでこの件に関しては流れに身を任せようと思ってる。まぁ、こんなことを言ったら怒られるに違いないだろうけど。

<智篤>

 熱心な祈りが奇跡を起こし、本当に拓海の病を治してしまったときから僕自身も生まれ変わったような心地で日々を生きている。まず、仲間かぞくに対して強がるのが無意味だと悟り、反論するのをやめた。もっと早く自分の氣持ちに素直になっていればと思うくらい、今は心が穏やかだ。

 ただ、社会に対してはこれまで以上に反発し、歌の力で大勢の人の心を掴んで世界を揺るがすつもりだ。三人きりで何が出来る? という人もいるだろうが、僕らの歌は、祈りの力は僕らでさえも驚くほど強大なのだ。そこに聴衆の力も加われば必ずや世界は変わる。だってそうだろう? 変わらないものなんてこの世に一つもないのだから。

 三人でニューワールドを築き上げるための第一歩として僕らは今日、三人で作った曲を披露する。タイトルは「覚醒」。これには僕ら三人の覚醒と世界の覚醒、二つの意味が込められている。

 かつてと同じ場所で、かつてと同じようにギターを引っ提げ、立つ。現時点で僕らを見ようとする通行人はゼロだ。この感じに懐かしさを覚える。

「さぁて、それじゃあ一丁、驚かせてやるとするか。僕らに無関心な人たちを釘付けにしてやろうぜ」

 声を失った拓海の代わりに号令をかける。二人はうなずき、まずはリーダー自らが始まりのリズムを刻む。短いイントロのあとでレイちゃんの歌声が響く。

 #

狂ってんだろ、お前ら
いい加減、目を覚ませよ!
反撃の狼煙あげてさ
いつまでも俺たちゃ操り人形じゃない

「お口にチャック」なんてもう
通用しねぇんだよ!ってさ

いい子のフリはもうやめな
生きたいやつは声あげろ
でないと乗せられちゃうぜ?
あの世行きのバスに

流されっぱでいいのかよ?
お前らの人生だろ、決めようぜ進む道くらい、なあ?

分かってんだろ、お前ら
いい加減、動き出せよ!

合わねぇんだ 曇ったメガネは捨てようぜ
「言うこと聞きなさい」なんて
ノーだぜ、子どもだって

いい子の時代はもう終わり
俺らのパワーをなめるなよ
でないと痛い目にあうぜ?
ひっくり返してやらぁ、こんな世界

言われっぱなしでいいのかよ?
主人公は俺なんだ、決めていいだろ人生くらいさ

夜明けが迫る
さよならしよう 昨日までの自分に
新しい世界が俺たちを待っているから……

いい子のフリはもうやめな
生きたいやつは声あげろ
でないと乗せられちゃうぜ?
あの世行きのバスに

いい子の時代はもう終わり
俺らのパワーをなめるなよ
でないと痛い目にあうぜ?
作り替えてやらぁ、まっさらな世界に

 #

 歌い始めるにつれ、徐々に人が集まってきた。これまでのサザンクロスにはない過激な歌詞。それでいてただ世を憂うのではなく、まるで鼓舞されているかのような歌詞に多くの人が耳を奪われている様子だった。

「まだまだ行くぜっ!」
 拓海ならきっとこう言うだろうと、彼になりきって言った。拓海は歯をこぼして笑い、続けて次の曲のイントロを静かに弾き始める。

 #

あの時きみはなぜ去ってしまったの?
追いかける僕を振り返りもせず
涙は涸れて大地は乾いた
かすれた声で歌い続けた

君への愛を憎しみに変えて
暗闇の中で、もがき続けた日々
むしばまれた、心と身体
死が連れてきた君を
ずっと僕はゆるさないと
泣きながら誓う

憎しみの涙を流せたら
救われるだろう僕は
だけど流せないのは君のせいだと
言わなければきっと壊れるだろう僕は

君をゆるすとき
僕はゆるされるだろう
ゆるされた僕は
安らかに死ぬだろう

だけどその前に伝えたいんだ、愛を
ずっと素敵になった君にこの想いを
僕の声を愛してくれた君へ
ずっとずっと愛していると

 #

 先ほどの曲から一転、こっちは僕と拓海の手紙から着想を得て作られた「LOVE LETTERラブレター」。ゆえに、ここまで情感を込めて歌えるのはレイちゃんしかおらず、何度も聞いている僕でさえ鳥肌が立つ。本氣を出した彼女の歌声を聴けばさすがにレイカだと氣付く人がちらほら現れ、ささやき合っているのが分かった。

 もし拓海があのまま死んでいたら、この曲が完成することも歌われることも永遠になかった。拓海が生きてここにいるからこそ「死」というワードを採用することができ、よりリアリティーある歌詞に仕上げることが出来たのだった。

 その後、拓海の残した曲「サンライズ」を含めて数曲弾き語りし、氣付けば駅前にかなりの人だかりが生まれていた。
「すごい人数だね……」

「だから言っただろう? 僕らの歌ならイベントに出なくとも人を集められるって」
 圧倒されるレイちゃんに自信たっぷりに返した。

 ――同じ無名でも若い頃とは全然違うな。俺たちやっぱ、実力ついたってことなのかな?
 拓海の手話を読み取り「当たり前だろ」と、こちらにも力強く返事をした。

 ――……つーても、ちょっと集めすぎたな。そろそろお開きにするか。

 拓海はそう伝えるなり聴衆に投げ銭を要求し、自分はさっさと帰り支度を始めた。からのギターケースには次々お札が投げ入れられ、あっという間に紙の山が出来た。

 これからの活躍に期待していますとか、次はいつ来ますかとか、かっこよかったですなどと声をかけられ、思わず苦笑する。レイちゃんに氣付いた人は別として、若返ったこの姿を見て、果たして何人が僕らのことを三十数年も音楽活動をしてきた大ベテランだと見抜けるだろうか。おそらくほとんどいないだろう。

(ふっ……。よく見てみれば世の中は不思議なことで溢れかえっているな……。偏った見方をしていたときには氣づけなかったが、この世もまだまだ捨てたもんじゃないな……。)

 あり得ないと思えることが現実に起こりうる。変えられないと思われた事象も行動すれば変えられる。それに氣付いたからこそ僕は一人ではなく、サザンクロスのメンバーのひとりとしてこれからも音楽活動を続けていこうと決めた。一人の力は永遠に一倍だが、三人ならば何倍もの力になると知ったから。

 拓海の指示を受け、僕が代わりに声を発する。
「ありがとうございました! これからもサザンクロスをよろしくお願いします!」
 

<第一部・完>


「#創作大賞2024」
「#オールカテゴリ部門」


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いろうた@「今、ここを生きる」を描く小説家
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