【連載小説】「愛の歌を君に」#7 伝えたい想い
前回のお話:
19.<麗華>
拓海の厚意でベッドを使わせてもらえることになった。男性陣は暖房を掛けた部屋の床で、かき集めた掛け物と上着を纏って寝ている。日が高くなったら正月でも開いているホームセンターで寝袋でも購入しようという話になっている。もう遅いし早く寝なければと思い目をつぶるが、拓海の病氣のことや慣れないベッドで寝ているせいか、なかなか寝付けなかった。
何度も寝返りを打っていると起こしてしまったのか、拓海が小さな声で「眠れないのか?」と尋ねてきた。
「大丈夫、そのうちに眠れるわ……」
安心させるために嘘を吐いた。しかしすぐにバレてしまったようだ。拓海はため息を吐いたかと思うとベッドの端に腰掛け、その後あたしと背中合わせに横たわった。
背中越しに拓海の呼吸音が伝わってくる。雑音が混ざったそれは苦しそうに感じられた。病んでいるのは喉だと聞いたが、ヘビースモーカーだったから肺も病んでいる可能性は充分考えられる。
雑音交じりの呼吸音を聞いていられず、とっさに向きを変え、仰向けになる。すると拓海も動き出し、今度はあたしの方を向いた。
「いま、何考えてたんだ?」
「……あんたのこと。正確には病氣のこと、かな」
「そうか……。心配してくれてんだ?」
「……聞いてたよりずっと深刻みたいだから。三人でデッカい夢を叶えるつもりがあるなら、今からでもちゃんと手術した方がいいと思う。死んじゃったら何もかもおしまいだもの」
「そうだな。だけど、手術したらもう、こうして俺の声で話すことは出来ないと思う。あんまりうまくはないけど、この声を武器に歌い続けてきた自負もあるし」
「ミュージシャンだから?」
「そう。自分事と思って考えてみ? お前だってきっと声を残すと思う」
「……そうかもね。だけど、死ぬのはもっと怖いな。拓海は怖くないの?」
「……もし怖がってるように見えないなら、俺の作戦はうまくいってるってことだな」
その発言を聞いて、見た目以上に強がっていることを知る。彼のプライドが許さないからか、あたしたちを心配させないためか。いずれにせよ、気丈に振る舞っている彼に一層の不安を抱く。
「あたしは拓海の声が聞けなくなってもバンド活動を続けたいよ。拓海の弾くギターの音、作る曲、歌詞……。どれも好きだもの」
「好きなのはそれだけ?」
「えっ……」
驚いた直後に抱きしめられた。
「俺は自分の声で想いを、お前が好きだってことを伝えたいんだよ。昔も今も。それが出来なくなったら死んだも同然。だから声は絶対に残す」
「……手紙じゃ伝えきれない?」
「そりゃあそうだろ。智篤に対抗して書くっていったけど、俺の気持ちを百%伝えるにはこの声以外にあり得ない」
「拓海もあたしのこと、恨んでたんじゃないの? なのにどうしてまた好きだなんて……」
「……さぁ、どうしてかな。俺にも分かんない」
「分からないことに命賭けるの?」
「……変かな。でも、これが今の俺の氣持ちだから、それに従って死んだとしても後悔はしないはずだよ」
「……死ぬなんて、言わないでよ」
「じゃあ俺のこと、もう一回愛してくれる?」
「それは……」
返事が出来なかった。しかし想定済みだったのか、拓海は小さく笑って「さぁ、そろそろ寝よう。おやすみ」と言ってベッドから降り、智くんの隣に横たわった。
もう一度拓海を愛する。そう決意すれば拓海は手術に臨むのだろうか? しかし今の発言から、手術をしても治る見込みがないから薬で延命しているという見方も出来なくはなかった。
「ごめんね、拓海……。あの時ちゃんと愛しきれなくて……」
か細い声で呟く。
「謝罪は求めてない。欲しいのは、今のお前の愛情だけだ……」
拓海の迷いなき言葉が胸に突き刺さった。
(拓海は過去のあたしではなく「今」のあたしを愛そうとしている……?)
起き上がって確かめようと思ったが、その後の振る舞い方が分からないうちは問う資格などないと考え改める。
(まだ少し時間はあるわ……。とにかく、新しい暮らしが始まったのだから、今はその中で自分の想いを固めていくしかない……。)
室内でかすかに鳴る時計の秒針を聞きながらまぶたを閉じた。
20.<拓海>
目覚めと同時に身体のだるさを感じた。夕べはずいぶん飲んでしまったからそのせいだろうか。それともやはりこの病が原因か。いずれにしてもすぐに起き上がれる体調ではなかった。
幸いにして二人はまだ寝ているようだ。そのことに安堵し、目覚めた体勢のまましばらくじっとする。
昨日は若い頃のノリを思い出して調子に乗りすぎた氣がする。医者に報告したら、死にたいのかと叱られるようなことをしたと言う自覚はある。しかし、バンド活動がしたいと言って動き出したのは俺自身だし、実際、二人と居るときは病氣だってことを忘れるくらい調子がよかった。ただやはり、羽目を外した翌日は反動で身体が動かなくなるのだと痛感する。
――死ぬなんて、言わないでよ……。
麗華の呟き声が頭の中で繰り返される。麗華が生きて欲しいと願っているのは単純に失うことが怖いからだろう。俺もこうなる前は死を恐れていた。けれど、死が眼前に迫ってみると恐怖におののいてばかりはいられなかった。俺にはまだやりたいことがあったのだと氣付き、何が何でも行動し、達成しなければという氣持ちになった。身体より、そっちが優先。麗華が「死んで欲しくない」と願っても止まれないのは、そういう理由からだ。
俺に止まれと言うことはそれこそ、今すぐ死ねというようなものなのだ。麗華には申し訳ない氣持ちもあるが、これも運命と受け容れてもらうか、最後まで抗って奇跡を起こしてもらうかのどちらかしかない。
智篤の寝ている方に顔を向けて考え事をしていたら突然、あいつが目を開いた。とっさに、おはようと挨拶をする。
「……起きてたのか。こんなに早起きして身体は平氣なのか?」
「……平氣じゃねえけど、もうしばらく横になっときゃ大丈夫だよ、多分」
「……ったく、無茶しやがって」
智篤はゆっくり起き上がると大あくびをしながら伸びをした。
「今日はゆっくりしよう。いくら氣持ちが若くたって、病氣を押してのライブは身体に堪えただろう。君の体力が戻るまで、二、三日はここに居てやるよ」
「それは有り難いな。……あぁ、もし腹が減ってたら適当に冷蔵庫の中のものでも食べてくれよ。ここに居るうちは好きにしてもらって構わない」
「いや、まだ空腹感はない」
そう言って智篤はあぐらをかいた。隣に座ろうと身体を起こしてみるがうまく力が入らなかった。何度か咳き込んだら鼻で笑われる。
「ふん……。無理を重ねれば、手術の有無にかかわらず声が出せなくなるかもしれないぞ。分かってるだろうな?」
「ああ……。だけど俺はこの声に誇りを持ってる」
「医者に摘出されるくらいなら自分で使い潰すってわけか。実に君らしい。でも、そういうことなら少し急いだ方がいいな」
「急ぐって、何を?」
「僕ら三人で作り上げるんだろう? 新しい世界を。のんびりしている間にリーダーの君が抜けてしまったら意味がないじゃないか」
「え? ニューワールドはお前が行きたい世界じゃなかった?」
「僕にとっては、君たちと築き上げる世界が『ニューワールド』なんだよ。だからそこには拓海も居なくちゃいけない」
「お前の言う『世界征服』ってやつか……? 頂点を目指すってのはメジャーの世界に行くって意味?」
「まさか。メジャーには興味がない。だいたい、今や音楽も多様性の時代だ。僕は誰でも知ってる曲を作りたいんじゃなくて、あくまでもサザンクロスらしい音楽でたくさんの人の心を揺さぶりたい。つまりは僕らの音楽で聴衆の心を『征服』したいんだよ」
「なるほど。『サザンクロス色』に染めようってことだな?」
「そういうことだ」
「だけど、サザンクロスらしい曲って? イメージしてるの?」
「だからそれをこれから作るんじゃないか」
智篤は少し怒った口調で言った。
「昔のサザンクロスはレイちゃんメインで作詞作曲していた。でも新生サザンクロスでは三人で作詞作曲する。これが今、ぼんやりとではあるが考えているプランだ。レイちゃんも今後は僕らの作詞の仕方を参考にすると言ってるし、もはや分業する必要はないだろう」
「三人で曲作り、か……」
俺が再結成した一番の理由は、メインで歌う麗華の後ろでギターを弾くことだった。それが出来れば満足だった。しかし、実際に活動し、こうして語り合う中で俺自身も歌いたい、作詞作曲したいという氣持ちが芽生えていたのは事実だ。
「ありだな」
今年の目標が出来たことで急にやる氣が湧く。重かった身体にようやくエンジンがかかる。ゆっくり起き上がってあぐらをかくと智篤が「いい顔だ」と言って微笑んだ。
「僕自身は、それぞれに歌詞を考えて出し合い、ミックスするのを想定してる。多分、これまでにない、いい曲が出来ると思う」
「いいわね、やりましょう」
突然声がして振り返る。寝ていると思っていた麗華が俺たちの方に身体を向けて起き上がった。
「もしかして今の話、聞いてたのか?」
「今起きたばかりだから聞いたのは最後のところだけよ。三人で作詞作曲、素敵じゃない。今のあたしたちだからこそ出来る、素晴らしいアイデアだわ。すぐにでも取りかかりましょう」
「ずいぶんとまぁ、やる氣だな」
「実は今、浮かんでる歌詞があって……。あー、紙はある? 今すぐ書き留めたいの」
「それならほら、ベッド脇にメモ帳とペンがあるからそれを使ってくれ。俺も寝起きとか寝かけに思いつくことが多いから常備してるんだ」
「じゃあ借りるわね」
麗華は返事をしながら手を伸ばし、早速何かを書き留め始めた。それを見て、これからはこの光景が日常になるんだと氣付き、嬉しくなる。
どうして早く三人でやり直さなかったのだろうと思う。もちろん理由は分かってる。お互いに意地を張っていたせいだ。だけど、振り返ってみればそのこだわりは本当につまらないものだったとも思う。
「なぁ、智篤。三人で協力して一つの作品を作り上げるって言うなら、もう麗華のことは赦したものと考えていいな?」
これだけは確認しておかなければならなかった。わだかまりがあったり、思い違いがあったりしては本当にいいものなんて出来ない。しかし智篤は首を横に振った。
「昨夜レイちゃんに言ったことを君も聞いたはずだ。それとこれとは別だと。レイちゃんは、自分は謝るが僕には赦されなくてもいいと言った。だから僕の氣が済むまでは彼女を恨み続ける」
「智篤……!」
「拓海、この問題を今、解決する必要はないわ。きっとわかり合える日が来る。必ず。あたしはそう信じてる。だから待ちましょう」
「待つ? いつまで? 俺には時間がないんだよ……!」
「……智くんの心を変えられるのは智くんだけ。あたしたちには彼が自分で心の鍵を開ける手伝いをすることしか出来ない」
「世を憂う歌詞はウイング時代に置いてきたはずじゃなかったのか? お前が麗華を赦さない限り俺たちらしい曲なんて作れっこない……」
「僕はそうは思わない」
話題の張本人が悪びれない様子で言った。
「爽やかな曲調が売りのサザンクロスは過去のものだ。今の僕らには人生の重みがある。それを歌詞に盛り込まないなんてあり得ない。もちろん、爽やかさがお好みならそういう歌詞を書けばいい。だけどこれからの僕は人生観を織り交ぜた歌詞を書く」
智篤の過去の歌詞を思い浮かべ、それと同じなら合作は厳しいと勝手に判断してしまったが、どうやらあいつなりにちゃんと考えているらしい。人生の重み。確かにそういうものは年齢を重ねなければ知ることの出来ないものだ。若い頃との違いを出すなら深みのある歌詞にする必要がある、と言う意見ももっともであった。
智篤は続ける。
「時間がない、と君は言う。しかし焦ったからといっていい曲が作れるわけじゃないし、僕が作詞に時間を掛けるタイプなのは長い付き合いの中で知っているはずだ。君を追い詰めるつもりは微塵もないが、僕には僕のペースってものがあるし、リーダー命令も守るつもりでいる。彼女を恨みながらもそれを軸に歌詞を綴るとなれば、尚更時間は要る」
「……わかったよ。だけど、俺の時間がお前らより少ないのも事実だ。それも忘れないでくれよ」
念を押すように言うと、智篤は分かったのか分かっていないのか、何度首を縦に振るだけだった。
21.<智篤>
――日中は自由行動。夜は俺んちに集合な。寝具は各自、持参のこと。
主である拓海の指示により、僕らは一旦部屋を出ることとなった。身体が重そうな拓海のことが氣掛かりではあったが、四六時中一緒にいても出来ることは少ないし、それぞれに一人時間を持った方が創作もはかどる。
さっきは拓海の言葉を突っぱねるようなことを言ったが、あいつが「時間がない」というときの悲愴感を感じない僕ではない。三人で過ごせる時間はきっと、少ない。分かってる。だからこうして今日は一日、作詞に時間を割こうとしている。
作詞、と言っても今日書くのはレイちゃん宛ての「ラブレター」である。しかしこれはおそらく歌詞にも使える文章になるはずだ。
雑貨店で好みの便せんを購入し、自室に戻る。落ち着いた環境で彼女への思いを、まるで歌詞を考えるときのように綴る。
たったこれだけの文章を書くのに何時間もかかった。便せんも数枚無駄にしたが、最終的には僕らしい手紙に仕上がったと思う。拓海が読んだら、こんなのはラブレターじゃないと笑うに違いない。だけど、想いを伝えるのに決まった書き方などないはずだし、僕の目的はあくまでも彼女にこれまでの苦しみを知ってもらうことだ。
*
西の空がオレンジ色に染まる頃、僕はレイちゃんに電話を掛けて拓海のアパートの最寄り駅前にあるカフェで待ち合わせた。拓海の前でこの手紙を読んで欲しくなかった。彼女が隣のカウンター席に腰掛けたのを確認した僕はすぐに手紙を渡した。
「もう書けたんだ? ここで読んでもいい?」
「そのために呼び出したんだ、すぐに読んでくれ」
「分かった。……便せん、選んでくれたのかな。音譜が描いてあってかわいい」
レイちゃんはワクワクした様子で封筒を開け、手紙を読み始めた。
たった一枚きりの手紙。読むのに一分とかからないだろう。だが、その一分がとても長く感じられた。
「ありがとう、本当の氣持ちを打ち明けてくれて。うん、たくさん語り合おうね」
レイちゃんは満足そうに手紙を封筒に戻すと、ショルダーバッグにそっとしまった。
「あたしからも贈り物があるんだけど、受け取ってくれる?」
「贈り物? ……もしかして、歌?」
彼女が持参した大量の荷物の中にギターが含まれていたのでピンときた。彼女は「あったりー」と言ってギターケースを撫でた。
「拓海のアパートの近くに公園があったでしょう? あそこだったら弾き語りできると思うの。どう?」
「一応確認だけど、それは今読んだ手紙の返事ではないよね?」
手紙の感想は聞かせてくれるな、と言い置いてある。僕の感じた苦しみを胸の内で味わってもらうためだ。
「昨夜、ベランダで語り合った時の氣持ちを歌にしたから返事ではないわ」
彼女は首を横に振って答えた。
「それなら聞こうか……」
手元にあるコーヒーを飲み干し、今晩泊まる用の荷物を抱えて店を出た僕らは拓海のアパート方面へ足を向けた。
*
駅から離れるにつれ住宅が増える。が、日が傾きかけた時間の公園に人影はなかった。僕がベンチに腰掛けると、レイちゃんは手慣れた様子でギターの支度をした。目が合ったところですぐに歌が始まる。
#
星のない空の下で ニューイヤー
語り合った 嘘のないホントの氣持ち
落ちる涙 夜空に放って
流れ星の歌 聞かせてあげる
ネオン光る街の中 探した
もうあの日の僕はいない
歌おう 今を
進もう 僕らの道を
あの日の自分 乗り越えて
信じ合えばきっと
つかめるはずさ ニューワールド
#
目を閉じて歌詞をなぞっていたら、昨夜見たネオン街とレイちゃんの涙顔がまぶたの裏に浮かんだ。そして、実際には見ることのなかった流れ星が流れた。
「……あたしには分かるよ。智くんの心が震えてるって。涙がその証拠」
言われて慌てて頬を触る。流れ星だと思ったのはどうやら僕の目から落ちた涙だったようだ。悲しいとか嬉しいとか、そういう感情は一切ないのになぜ落涙したのか分からなかった。
――分からないなら教えてやろう。この僕が感動しているからさ。
頼んでもいないのに心の声が疑問に答えた。
――君はまだ、自分の心に素直になって振る舞う方法を思い出せていない。だけど、こうして彼女の歌声を聞き続ければ直に思い出せるはず。もっと歌を味わってごらん。
(思い出す……? なぜそんなことをしなければいけない?)
――それが「ニューワールド」への鍵だからさ。今の自分は死ぬべきだ。そう言ったのは君自身じゃなかったかな?
(ちっ……)
心の声に脅される形で仕方なく氣持ちを落ち着かせ、歌に聴き入る。
#
月明かりの下で 君と
語り合った 果てしなく大きな夢
光る笑顔 未来に放って
君のための歌 聞かせてあげる
眠らない街の中 探した
そう 君と共に見つけた
歌おう 今を
進もう 僕らの道を
昨日の自分 糧にして
愛し合えばきっと
つかめるはずさ マイワールド
#
するとどうだろう。先ほど聞いたときよりも更に歌詞が身体に染み入り、まるで彼女が心の扉を開けるよう促しに来たかのように感じられた。
「これが……君の今の氣持ち……」
思いがけず、胸が温かくなった。歌詞にあった「愛し合」うとは恋仲になるという意味ではなく、人として認め合う、許し合うという意味なのだと直感的に知る。
弾き終わった後でレイちゃんが言う。
「智くんの痛みはあたしの痛み。そして、あたしの痛みは智くんの痛みよ」
その言葉を聞いてハッとする。
「そうか……。君も、僕らとは違う形の苦しみを味わってきたんだな……」
ちょっと考えれば、長年プロとして歌い続けるために彼女がどれほどの努力と苦労を重ねてきたかわかるはず。しかしそれに氣付かなかったのは、僕が頑なに認めようとしなかったから。
突如として、自分のことしか考えていなかったという事実を突きつけられる。それが心を守るためだったとしても視野が狭かった自分のことが少しばかり恥ずかしくなった。
そこでひとつの疑問が生じる。自分も苦しみながら音楽の世界で生きてきた彼女が、その苦労を一切語らないどころか、僕に対して謝りさえしたのはなぜか、と。
「なぜ同情する……? 僕を哀れむ……?」
問わずにはいられなかった。レイちゃんは言う。
「智くんの痛みも苦しみも理解できるからよ。もちろんすべてを理解することは不可能だけど……」
「理解できるならなぜ、一方的に恨み、憤怒する僕に怒りをぶつけない……? 自分も同じ苦労をしてきたのだとなぜ言わない……?」
「……怒りからは何も生まれない。それどころか自分の心を置き去りにすると知っているからよ」
レイちゃんは静かに歩みを進め、僕の隣に腰掛けた。
「若い頃はあたしもよく怒ってたよ。だけど怒りに支配されると、きまって『神様のギフト』が途絶えた。自分との繋がりが切れるって言うのかな。それが分かってからはどんなに不満を感じても、怒りたいような出来事が起きても、そのエネルギーを歌に変えて手放そうって、そういう氣持ちでやってきた。……智くんたちも同じじゃないかな」
「拓海はそうだったかもしれない。だけど僕は……手放すどころか増幅させ続けて今に至ってる」
そう口にした途端、ドロドロに溶けた、どす黒い塊が脳内でイメージされた。
「ふっ……。僕の抱えている感情を取りだしてみせることが出来たならきっと、ヘドロのように淀んで腐臭を放っているだろうな。大事に持ちすぎるあまり腐ってしまった。それでも手放せない。僕の一部になってしまったそれを……」
「手放せないなら浄化するしかないわね」
「歌で?」
「そう。歌で。……今の歌を聴いて少しは心がすっきりしたんじゃない? 智くんを想って歌ったんだけど」
「そうだな、少し心が軽くなったかもしれない……」
「麗華を独り占めとは、ずいぶんなご身分だな」
その時、背後から拓海の声が聞こえて振り返る。彼は手にスーパーの袋を提げて立っていた。
「彼女から僕へ贈り物があると言うんでね、受け取ってただけさ」
「もしかして、歌? おいおい麗華、差別はよくないんじゃないか?」
不満顔の拓海はずかずかとやってくると、僕とレイちゃんを引き裂くように真ん中に座った。
「そう怒らないで。智くんのための曲って言うより、あたしの今の氣持ちを歌ったものだから拓海にも聞かせてあげる。それならいいでしょう?」
「おっ、マジか。早く歌ってくれ」
不機嫌だったのが一転して笑顔になったので、単純なやつだなぁと思い、笑う。一方のレイちゃんは立ち上がりながら拓海が持っている袋を指さした。
「その代わり、歌ったら晩ご飯ね。お腹が空いちゃった。買ってきてくれたんでしょう?」
「ああ。今日の晩飯はカレーライスな。俺の得意料理」
まるで料理を覚えたばかりの小学生みたいな言い方にまた笑いが込み上げた。レイちゃんも同じことを思ったのか、半分笑いながら口元を押さえた。
「じゃあ歌うわね」
「そう言えば、今から歌う曲のタイトルは?」
聞きそびれていた曲名を尋ねる。
「それがまだ決まってなくて……」
レイちゃんはちょっと考えるそぶりをした後で「『愛の歌を君に』……。なーんてね」と言ってから歌い始めた。
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