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【連載小説】第三部 #9「あっとほーむ ~幸せに続く道~」予期せぬ来訪者

前回のお話は(#8)こちら

前回のお話:

流産しためぐを慰めるため、友人の木乃香は彼女のために菓子を焼いた。その優しさに感謝しつつも、完全には立ち直れていないめぐ。そこへ追い打ちをかけるように、店で知り合ったクミから第二子妊娠の報告メールが届く。胎児を失った悲しみと悠斗が死なずに済んだ喜びとが共存しているめぐは思い悩む。そんなめぐに悠斗が「生きている今に感謝し、その意味を考えながら前を向いていかなければいけない」と告げる。めぐは、家族の優しさに感謝しながら、自分の命が奇跡の上に成り立っていることを噛みしめたのだった。

それから三ヶ月が経ったある日。ワライバのオーナーと伯父がかつて所属した野球部のOB会が行われ、めぐは店員として彼らと顔を合わせることになった。集まった面々は全員が五十歳を過ぎている。が、当時主将だった永江孝太郎だけは特別若く見えた。何か理由がありそうだと思っためぐの直感は当たっていた。後日、仲間に引き連れられてワライバにやってきた永江と話しためぐは、彼の中の孤独を見た。彼の目を覗き、自分を見るよう訴えかけるめぐ。彼女の行動を受け、永江は少しずつ生きる気力を取り戻していく。

<翼>

 帰宅するなり、めぐちゃんからお叱りの言葉を受けた。本当は俺が行くべきだったのは分かってる。だけど私情を理由に仕事を休むわけにもいかず、身体が空いていた彼に頼むほかなかったのだ。

 ちょっとばかり萎縮する俺の隣で悠斗が胸を張る。
「お前の予想通りだったけど心配すんな。永江ながえって人にはおれからひと言、言ってやったから」

「予想通りって?」
 めぐちゃんは首をかしげた。

「お前はオジさんキラーだからな。男ばかりの飲み会の席に若いお前がいれば、変な気を起こすオジさんのひとりや二人はいるだろうってのが翼の見立てだ」

「えー? 永江さんはそういう人じゃないと思うけど……?」

「……そりゃあ既婚者の余裕ってやつか? それとも単に鈍感なだけか?」

「悠斗。めぐちゃんは小さい頃からちやほやされるのに慣れているから、それが単なる優しさなのか好意なのか区別出来ない節があるんだ。おかげで俺も、最初は本気で愛してるって気づいてもらえなかったからな。仕方なくプロポーズって言う強硬手段に出たらようやく気づいてもらえたけど」

「あれは、そういうことだったのかよ……」
 悠斗は言ってため息をついた。
「めぐ。あの男を助けてやりたい気持ちは分かるが、あまり親身になりすぎないことだ。伴侶がいる以上はな」

「そう言われても……」

「めぐちゃん!」
 悠斗の説得も効果がないと分かった俺は苛立った。 

「次に会うときは俺も行く。めぐちゃんを信じてないからじゃない。めぐちゃんの夫としてその人のことをよく知っておきたいんだ。来るなって言われてもいく。いいね?」

 俺が意地を張るのには訳がある。悠斗が父さんに電話をかけ、教えてもらった情報が確かならば、永江という人物は根っからの野球人でこれまで一度も女性と交際したことがない。そんな人が初めて好意を持った女性がめぐちゃんだと言うことになれば当然、黙っているわけにはいかない。

 しかし問題はその人に「めぐちゃんを好きになるな」と言い捨てられないことだ。俺は同意していないが、今回の「計画」の主目的は永江という人物が生きる希望を持てるようにすること。そのためにめぐちゃんへの恋愛感情を利用すると聞いている。

 人を好きになる……。それは電気ショックみたいなもので、自分ではどうにも出来ない感情だってことは分かる。恋する気持ちが生きる原動力になり得ることも理解は出来る。それでも、だ。その人の命を長らえさせるために、よりによっておれの奥さんである彼女を利用するのは納得出来ないのだ。

 これまでの常識観で語るなら、既婚女性を好きになるなどあり得ないと言い迫ることもできよう。しかし、いとこ関係にあたる俺と、三十歳も年上の悠斗とがめぐちゃんと恋愛してきた過去がある以上、その手は使いにくい。

 先日の「野球部OB飲み会」に出勤させなければよかった、と後悔する。その人に会わなければこんなことにはならなかったはず……。

 色々と考え込んでいたら、いつのまにか悠斗に顔を覗かれていた。
「お前、鏡見てみ? めっちゃ怖い顔してるぜ? おれにだってそんな表情見せたことないんじゃないか? よほどあの男が気に入らないんだな」

「そりゃあそうさ……」 
迎えに行ったあの日、永江という人はめぐちゃんと熱心におしゃべりしていた。その時の嬉しそうな顔は今でもはっきり覚えている。その時すでに嫌な予感はしていた。それが当たっていたのだから、こういう顔にもなる。

「おれも行こうか。こっちもつい感情的になって余計なこと言った気ぃするし」
 悠斗が頬をポリポリかきながら言った。

「気持ちは有り難いけど、次回は俺だけでいいよ。悠斗が来ちゃったら夫としての立場がなくなりそうで……」

「それもそうだな……。でも、何かあればおれもすぐに参戦するから。……なんつーか、あの人を見てたら昔のおれを思い出してな。放っておけないのも事実なんだ」

「ああ、分かるよ。だけど、それとこれとは別だから」

「おう……」

「っていうか……」
 俺たちの話を聞いていためぐちゃんが会話に加わる。
「永江さんって普段はスケジュールがびっしり詰まってるって聞いたよ。だから事情はともあれ、二人が心配するほど頻繁に来るとは思えないんだよねぇ」

「そうだといいんだけど……」
 本人の意志だけならば確かにそうだろう。が、この話、どうも本人以外が積極的に動き回っている感じがしてならない。

 嫌な予感がする……。俺がそう感じるときは大抵当たる。そして案の定、数日後にその予感は的中することとなる。

◇◇◇

 日曜の朝のことだった。めぐちゃんが仕事に出かけ、俺と悠斗、そして祖母の三人でのんびり春の庭を眺めていると、玄関前に一台の車が停まった。

 見慣れない外車。それだけで胸がざわつく。そばにいた悠斗もまた落ち着かない様子で外を見ている。
「あら、大きな車ね。二人のお友達が訪ねてきたのかしら?」

 祖母だけが暢気なことを言っている。突っかけを履いて庭から出向こうとしたとき車のドアが開く。中から出てきたのは先日「ワライバ」で見かけた、元プロ野球選手の本郷祐輔ほんごうゆうすけさんだった。彼は俺と目が合うなり気さくに話しかけてくる。

「あ、どーも。休みのとこ、悪い。ちょっとだけ邪魔するよ」

「あ、はい……」

「車、停めるとこある?」

「あー、バイクを寄せるんで待っててくれますか?」

「オーケー」
 本郷さんはそう言うと一旦運転席に引っ込んだ。

 実は彼とは、父を介して何度か会ったことがある。野球が好きになれない俺になんとか野球をやらせようとした父が、プロ野球選手に会えばその気になるのでは、と考えて引き合わせたのだった。しかしその気になったのは妹の方で、あいつはその後も頻繁に父を誘っては本郷さんや彼の子どもたちと共に野球をし、親睦を深めてきた経緯がある。

 だから彼の訪問は、唐突ではあるがまったくあり得ない話ではなかった。しかし、俺が最後にちゃんと話をしたのはそれこそ小学生の時。先日「ワライバ」で会ったときはひと言たりとも話さなかった。そんな人が一体、何の用があってわざわざうちまで……?

 悠斗にも声を掛け、二人してバイクを庭側へ寄せる。その最中に耳打ちされる。
「知り合い……?」

「んー、正確に言えば、父さんの知り合いの知り合い、かな」

「ってーことは……この前の会合がらみだな?」

「たぶん……」

 外車が駐車場にきっちり収まると、車から降りてきた本郷さんは辺りをキョロキョロと見回した。
路教みちたかは? 来てないの?」

「えっ、父と会う話になってるんですか? っていうか、父と会うなら家が違いますけど」

「家はここであってる。あいつの指示が間違ってなけりゃ。聞いてない?」

「ええ……」

 困惑しているところへタイミングよく父が走ってきた。父は予定通りとばかりに手を挙げ、本郷さんとグータッチを交わした。

「ちゃんと連れてきたからな! ……っていうか、息子とはいえ、所帯持ってる人んちに上がるんだから連絡くらいしとけよ。訪ねてきていなかったらどうするつもりだったんだよ?」

「日曜は母さんが家にいる日だから出かけないことは分かってる。それに、下手に連絡して逃げられる方が面倒だったからな」

「……相変わらず、息子と不仲なのか? そんなんで大丈夫かよ?」

「大丈夫、大丈夫。今日一番会わせたいのはユウユウだから」

 二人のやりとりを聞いてようやく理解する。直後、車の後部座席のドアが開き、長身の男性が降りてきた。

「永江孝太郎……」
 悠斗が睨み付けながらその名を呟いた。

「……心配せずとも長居するつもりはない。僕は彼らの言う通りにここまで来ただけだ。あとは君たちと話せば任務完了。午後からは自分の仕事に戻るつもりだ」

「……めぐに会いたいなら生憎様だな。今日は仕事に行ってるぜ」

「……それも承知の上だ」

「まぁ、立ち話もなんだから、とりあえず家の中に……。おい、翼」
 二人が火花を散らしていると、横から父に小突かれた。ただでさえ突然の訪問でイライラしているというのに、父から指図されて余計に腹が立つ。

「……家には上げたくない。どうしてもって言うなら、そこの縁側にしてもらう」
 正直に告げる。父はあからさまに嫌そうな顔をし、何かを言いかけたが、永江さんに制される。

「僕が長居をしないと言ったんだ、庭先で充分だ。野上クンは中にいる母親が気がかりなのかな? それなら、僕のことは気にせずそばにいてやればいい」

「いや、そうじゃなくて……。先輩は仮にも元プロ野球選手なんですよ? そんな大物の話す場所が庭先……」

「悪いけど、我が家の人間は過去の肩書きなんて……過去に何をしてきたかなんて重要視しないから」

 父の言葉を遮って言い放つと、永江さんが「面白い」と呟いた。
「どうやら彼らは、僕らにはない感覚を持っているようだ。野上クンが言ったように、彼らと話せば何かを得られるかもしれない……」

「えっ……?」

「言い争っている時間が惜しい。早速本題に入ろう」
 永江さんはそう言って庭に足を踏み入れた。

 二人とも「いらない」と言ったのに、結局父が飲み物を出した。これが野球部の上下関係ってやつか、などと勝手な想像したあとで、もしかしたらこのお茶は先日聞いたような――父が永江さんの言動を改めさせるため顔にビールをぶっかけたような――使い方をするために用意したものかもしれない、とも思う。

 永江さんは縁側に腰掛け、黙ったまま庭を眺めている。彼を挟むように座った俺と悠斗はその彼を凝視する。

「……退屈しないのかい、こんな暮らしをしていて」
 沈黙に耐えかねたかのように彼がまず口を開いた。

「しませんね。むしろ、こういう暮らし方をしていないと長生き出来ませんから」
 悠斗がハキハキと答えた。永江さんはつまらなそうに言う。

「……長生きすることに何の意味がある? 人生で成すべき事を成し遂げたなら、それ以上生きていても時を空費するだけじゃないのか?」

「空費……。その発想は危険ですね。確かにあなたの人生はあなたのものでしょう。でも、あなたと関わり合った人の中には必ずあなたの影響を受けた人がいるはずです。あなたが自ら世を去れば、その人たちの心に穴が開く。……そんなふうに考えたこと、ありますか?」

「ない」

「じゃあ具体的な例を……。これは万に一つあってはならない例だけど、あなたの気に入りのめぐが何らかの理由でこの世からいなくなったらどんな気持ちになるか、想像してみて下さいよ」

「悠斗……! なんで、よりによってめぐちゃんなんだよ……!」
 
「だから、万に一つあってはならない例だって言ったろう……!」
 この人のためだ。念を押されたら黙るしかない。

 永江さんは長いこと考えているようだった。その間に本郷さんがようやくお茶に手を伸ばす。湯飲みがお盆に戻されたとき、永江さんが口を開く。

「……それは父を亡くしたときに感じた苦しみと同じだろうか。あのとき僕は、僕の知るどの言葉を持ってしても表現することの出来ない感情を抱いたんだ。喪失感。虚無感。しいて挙げるとすればそのような感情を」

「あなたがそう思うならきっとそうです。その時感じた苦しみを、あなたの仲間にも味わわせるつもりですか?」

「…………」

 彼はぼんやりと空を見上げた。亡くなったお父さんに思いを馳せているのか、あるいはめぐちゃんのことを想っているのだろうか……。

 静かな時間が過ぎていく。俺にとっては穏やかで気持ちのいい春の午前。いるだけで幸せなのだが、隣に座っているこの人は何も感じていないように見えた。俺はあえて尋ねてみる。

「永江さんはこの庭を見てどう思います?」
 
「……よく手入れの行き届いた庭だ、と思う」

「……それだけ? じゃあ、ずっとここに座ってて感じることは?」

「特にない」
 予想通りだった。悲しくなってため息をつく。

「……ですよね。開口一番、ここでの暮らしは退屈しないのかって聞いたくらいですもんね」

「……何が言いたいんだい?」
 突き放すような、無感情な物言いにイラッとした。思わず舌打ちし、それを皮切りに抑えていたものが噴き出す。

「これだけは言っておく。あんたが無価値に思うものほど大切にすべきだ。例えばこの庭に咲いている草花や木々。やってくる蝶や鳥たち。それから……目には見えないけど俺たちを見守ってくれてる神々や亡き人のことを。……そういう、日常に彩りを添えてくれるものをすべて自分の世界から排除するから、目標を失ったあんたは生きることがつまらないんだよ」

「……分からないな」

「分かるはずがないと思う。こう言うのって、日々感覚を研ぎ澄ましてないと感じられないからな」

「…………」

「……って、偉そうなこと言ったけど、俺だってこういうことは悠斗に教えてもらったんだ。だから、もし人としての感性を取り戻したいって思うなら悠斗を頼りな。こう見えてすっごく頼りになる」

「こう見えてってのは余計だろうが」
 悠斗がすかさずツッコんだ。

「そう? じゃあ年の割に」

「それも違う!」

「じゃあなんて言って欲しいのさ?」

「……もういい」
 悠斗は呆れたように天を仰いだ。

 俺たちのやりとりを見ても永江さんは能面のように無表情だった。はじめは笑っていた本郷さんと父だが、微動だにしない永江さんを見て真顔になった。

「……あんたは笑い方も忘れちゃったの? それともめぐちゃんの前でしか笑わないって決めてるの?」

「…………」

 ついに黙り込んだ彼を見てこれは重症だと思った。父がこの顔にビールをぶっかけたくなった気持ちも今なら分かる。

 救いようがない……。そう思う一方で、完全に見捨てることが出来ないのはこの男にかつての自分と重なる部分があるからだろう。

 いつしか俺の苛立ちはピークを過ぎ、次第に憐れみの情へと変化していった。

 俺は悠斗と初めて交わした「あの言葉」や、その後一気に親しくなるきっかけとなった「あの出来事」に思いを馳せた。

(この人を救う方法があるとすれば、これしかない……)

 悠斗を見る。すると「たぶん、お前と同じことを考えてると思う」と返された。

「だよな」
 俺は力強くうなずいて立ち上がった。悠斗も立ち上がって言う。

「……もうこんな強硬手段に打って出ることはないと思ってたんだが、しゃーない。……ニイニイ、おれたちを頼ったんならおれたちのやり方を通させてもらいますよ」

「おれたちのやり方……?」
 眉をひそめる父を余所よそに悠斗は永江さんの前に立った。そして冷たく言い放つ。

「……おれと翼とであなたを殺す。真にあなたを救う方法はこれしかない」

「なっ……! 何を……!」
 父と本郷さんは慌てふためいた。しかし当の永江さんは表情を変えない。

「どうやら君たちは物わかりがいいようだ。そう。死を望む僕を生かそうとすること自体が間違っているんだ。二人の愛するめぐさんを好きになったかもしれない男を抹消する。実に理に適っている」
 彼はそう言い、俺たちと目線を合わせた。

「僕は逃げない。殺すというなら今すぐ楽にしてくれ。さぁ、早く……!」

「……だってよ、悠斗」

「ああ……。それじゃ、やっちまうか」
 俺たちは目配せし、それから二人して永江さんの腕をとった。

「強制連行! このまま銭湯に直行するっ!」

 先日リニューアルオープンしたばかりの銭湯。そこは言わずもがな、悠斗と初めて裸の付き合いをした場所だ。

 抵抗されるかと思ったが永江さんは大人しくついてきた。それも、心配する父と本郷さんの付き添いを拒んでまで。詳細は不明だが、ほぼ初対面の人間の面前で裸にさせられることは死に値すると考えたからかもしれない。仮にそうだとしたらこの人、どんだけ自分を追い詰めるのが好きなんだ、って話だけど。

 新しくなった温泉施設の売りは露天風呂。ヒノキの香りを楽しみながら浸かっていると心身共にリラックス出来る。俺と悠斗は他の風呂には目もくれず、ヒノキ風呂に入ったり出たりを繰り返す。


 
「……熱い湯に我慢して入るのが好きなの? 顔が真っ赤だけど?」
 肩まで浸かったまま十分くらい微動だにしない永江さん。さすがに心配になって声を掛ける。
「……ほら。こうやってヒノキ風呂の縁に肘を掛けてさ、青い空を眺めてごらんよ。腰掛けたっていい。ほてった身体をなぜる風が気持ちいいぜ?」

 しかし彼は俺ではなく、湯の中に目を向けた。
「……僕の心配より、何度も潜水している彼を気遣った方がいいんじゃないのかい?」

「ああ、前世が魚の悠斗は特別。熱かろうが冷たかろうが、水中にいるのが好きらしい」

「……なるほど。僕が野球で出来ているのと同じということか」

「……まぁ、似たようなもんかな」

 直後、ザバーッと音を立てながら悠斗が顔を出した。こっちも真っ赤だ。しかし彼は満足そうに風呂の縁に腰掛け、全身に風を感じるように両腕を広げると「ふぅー、きっもちぃー!」といった。

「……面白いな、君たちは」
 ここでようやく永江さんが口元を緩めた。

「……聞かせてくれないか。二人が誰のために生きているのかを。なぜそんなにも活き活きとしていられるのか興味が湧いた」

「誰のためってそりゃあ……なぁ?」
「ああ。自分のためですよ」

 予想と違う答えだったのだろう。ためらいなく答える俺たちを見た彼は目を丸くする。

「それならば僕だって同じだ。僕は僕自身のために生きている。しかし……僕と君たちとでは何かが違う。僕はその違いが知りたいんだ」

「寄りかかれる家族がいる。それが俺たちとあんたとの違いだろうな」
 俺の言葉に悠斗はうなずく。

「おれたちは互いの弱さを知っています。それは克服すべきものじゃない。それが人間らしさであり、人として不可欠なものなんですよ。おれたちの家族は全員がそれを受容している。だから、おれも翼も家族の前では安心して素の自分をさらけ出させる。偽りのない自分でいられる。おれたちが活き活きしてるように見えるとしたら、理由はそこにあると思いますよ」

「家族……」

「一つ教えましょう。おれは翼と一つ屋根の下で暮らすことが決まった日の晩、ここに……風呂に誘いました。内に抱えていた秘密を教えてくれた翼と打ち解けたいって思ったからです。……もし、あなたを誘ったのも同じ理由だと言ったらどう思いますか?」

「……同じ理由? どういう意味だ……?」
 表情を曇らせた永江さんの目が、早く答えを教えてくれと訴えていた。悠斗は一度空を仰ぎ、それからゆっくりと、焦らしながら答える。

「そうですね……。可能であれば引っ越しをおすすめします。今お一人で暮らしているならあなたの一存で決められますよね? 引っ越し先はまぁ、この辺りですかね……。正直、都内よりも遙かに安く住めるだろうし、空気もいいし、それにー……」

「早く結論を言ってくれ!」

「結論、ですか……」
 悠斗は急かされてもなお、自分のペースを崩さない。そればかりか、俺に続きを言うよう促した。仕方なく彼の想いを引き継ぐ格好で「結論」を言う。

「要するに、だ。少なくともしばらくの間は俺たちの近くで暮らせって話さ。あんたに必要なのはあんたのすべてを理解してくれる人だ。そしてそれが出来るのは、元チームメイトじゃなくて俺たち。……さすがに一緒に暮らそうとは言えないけどさ、飯だけならいつでも食べに来いよ。幸いにして俺たち全員、料理はそれなりの腕前でね。事前に言っといてくれりゃ、あんたの好きなものくらいは振る舞ってやるよ」

「……どうして、そこまでしてくれるんだ……?」

「さぁ……。どうしてかなぁ……?」
 うまく言語化出来そうもない俺は悠斗に助けを求めた。彼はちょっと悩むフリをしてから答える。

「何者でもない、ただの永江孝太郎って人がどんな風に笑うのか見てみたいんですよ。生きる意味を失ったと言ったあなたがこの先、どんな生き方を選択するか見てみたいんです。あなたならきっと出来る。だって……ホント、さっきから笑いそうなんだけど、そんな『ゆでだこ』みたいな顔になるまで湯船に浸かっていられる我慢強さがあれば、人生リセットしてここから生き直すのなんて楽勝だろうから……」

 言い切った悠斗はついに笑い出した。目が合い、俺もつられて笑う。

「……失礼な人たちだ。風呂に入りに来たんだろう? だったら出たり入ったりせず、肩までゆっくり浸かるべきじゃないのかい?」

「んなこと言ってたら、一生上がれないっしょ!」
 思わずツッコむと「それもそうだな……」と呟き、ようやく立ち上がった。

「……確かに、風が気持ちいいな。……いま、思いだしたよ。自然に身を置いたときの心地よさを。この地の風の匂いを」

 永江さんは深呼吸をした。
「戻ろう、君たちの家に。残してきた二人に伝えなきゃいけない用向きが出来た」

「は……? 今住んでるマンションを引き払ってこの辺りに引っ越す……? 一体どういう心境の変化っすか?」

「彼らに興味が湧いてね。腰を据えて話したいと思ったんだ。ああ、それから夜の解説の仕事も減らそうと思う。空いたその時間を彼らと過ごす時間に充てたいんだ」

「そりゃあ、好きにしたらいいとは思うんですけど……」
 話を聞いた本郷さんは、ぽかんとしたまま俺たちに視線を移した。

「おれと詩乃が二十数年かけても変えられなかったのに、ほんの一時間少々でこの人の考えを変えちゃうなんて……。一体どんなマジック使ったの?」

「特別なことは何も。ただ一緒に風呂に浸かって雑談してただけ。……ですよね、永江さん?」

 俺の問いかけに彼は深くうなずいた。そして、そばにいた父をまっすぐに見つめる。
「野上クンは恵まれているな。こんなに面白い家族がいて。君の言ったとおり、彼らの考えに触れた僕は今、この先を生きることを考え始めているよ……」

「先輩……」

「近所に移り住んだ際にはまた杯を交わそう。次に君から注いでもらう酒はこぼさずに飲むつもりだ」

「なんか根に持たれてるような……。まぁ、でも、そういうことならいつでも誘ってください。おれ、待ってますから」
 二人は固い握手を交わした。

 永江さんが車に乗り込むと、本郷さんは「やれやれ」と言いながら運転席に座り、エンジンをかけた。後部座席の窓が開く。

「また会おう。翼クン、悠斗クン」

「えっ」
 唐突に名前で呼ばれた俺たちは顔を見合わせた。すぐあとで車内の永江さんに視線を移す。が、車はすでに走り去っていた。


(続きはこちら(#10)から読めます)

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いろうた@「今、ここを生きる」を描く小説家
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