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【連載小説】「好きが言えない」#2 姉
# 2
姉から電話がかかってきたのは、寝る支度を始めた九時ごろだった。
「どう? うまく辞められた?」
「どうかな。一応、退部届は出したけど、祐輔たちに引き留められちゃった」
祐輔は同じマンションの四階に住んでいる。だから姉も、祐輔のことはよく知っている。
「まあ、退部届を出したのなら上出来よ。あなたは一度決めたらブレない性格だもの。周りが何と言おうと関係ない。もう野球とはおさらばね」
「そうだね」
姉は私が野球を続けることにずっと反対してきた。甲子園に行けなかった父の夢を肩代わりすることなどないと言って。
確かに、父の言葉が私のここまでの人生を決定してきたと言っていい。私は野球しか知らないし、知ろうともしなかった。だから、部活動がたくさんあっても野球しか選べなかった。
しかし、甲子園を目指すというのは簡単なことじゃなかった。普段の練習量では絶対に勝てない。技術だけでなく、精神力もタフでなければならない。私はその両方とも足りなかった。
限界だった。これ以上、自分を強く保つことができそうもなかった。
それで私は先週、姉のもとを訪れたのだ。これまでずっと陰ながら見守ってきてくれた姉は、元気をなくしていた私をやさしく受け入れてくれた。
姉は今、都内の美容系の専門学校に通うため、一人暮らしをしている。私とは正反対に真っ白な肌をしている。一緒にいて姉妹にみられたことは一度もなかった。
「またいつでもおいでよ。学校で毎日、メイクの練習してるからさ。私も練習の成果を試したいし」
「うん。今度の休みにでも行くよ。私もメイクしてもらいたいし」
私は、先日施されたメイク姿の自分を思い出しながら答えた。
真っ黒けの野球少女にもかかわらず、マスカラを重ね漬けし、アイシャドウを濃く入れると、奈々ちゃんとも姉妹に見える顔になった。半ば女であることを忘れていた私はこの瞬間、女であることを自覚したのである。
私でもこんなにきれいになれると知ってしまってから、野球に対する気持ちはますます萎えていった。退部届を出そうと決めたのはその日の夜のことだった。
「よかったぁ。詩乃が女の子になってくれて。私、ずっとあなたとこういう話がしたかったのよ。野球じゃなくてね」
「じゃあ、これからはたくさんしよう!」
「やったー! お洋服も一緒に買いに行こう! そうだ! 次の休み、渋谷に行こうよ。行ったことないでしょ。案内してあげる」
私たちは先週同様、女子同士の話で盛り上がった。
東武池袋駅で待ち合わせ、そこから山手線で渋谷駅に向かう。
電車も、買い物をする目的で乗ったのは初めて。とにかく、何をするにも新鮮だった。
姉と二人で洋服を買う。姉妹なのに、今までしたことがなかった。
初めて降り立った渋谷駅はとにかく人が多い印象だった。
「これがスクランブル交差点ってやつかぁ」
我ながら、発言がいちいち田舎者である。仕方がない。埼玉県の片田舎からほとんど出たことのない、正真正銘の田舎者なのだから。
そんな私を姉が笑う。
「私も初めて渋谷を歩いたときは同じこと言ったわ。でも、すぐに慣れるよ。あー、お店はこっち」
どこを向いても同じに見え、道に迷いそうだ。必死に姉についていく。
思えば幼少の頃も、最初に野球の手ほどきを受けていた姉に負けたくなくて、バットを引きずる彼女を必死に追いかけたっけ。
しかし姉は、小学生になると同時に野球をやめた。それはもうスパッと。そのときから父の想いは必然的に全部、私に向かうことになったのだった。
姉は、某デパートに出店しているお気に入りのショップに案内してくれた。
「ここの服が好きなんだ。詩乃にもきっと似合うよ。ほら、このブラウスなんて、いいじゃない?」
好き嫌いや、似合うかどうかを考える間もなく、姉は私を「着せ替え人形」にした。次から次へと服を持ってきては試着させる。私は、初めての買い物で勝手がわからず、されるがままだった。
「どう? 気に入った服は見つかった? 私は、これとこれを買う」
十着ほど着せられたあとで、姉は満足げに言った。
「ごめん……。なんだか、よくわからなくなっちゃって。選べないよ」
「そう? なら私が決めるね。詩乃にはこれ。すごく似合ってたもの」
私が一番似合わないと思った、ふんわり袖のブラウス。姉の趣味に違いないと思った。
結局、お金は出してくれるというのでそのブラウスを買うことになった。いったいいつ、どういう場面できればいいのか? まったくイメージできなかった。
その次は化粧品売り場に向かった。先日訪ねた姉の「ワンルーム」と同じ匂いがする。いや、それ以上だ。
「この前付けてあげたファンデとチーク。それから口紅にアイシャドウ、あとはマスカラにビューラー。ぜーんぶここで揃うわ。……お小遣いは持ってきた?」
「少し。でも、とても全部は買えないよ」
販売価格をちらりと見る。軍資金が足りないことはすぐにわかった。姉も察したようで、
「そうね……。じゃあ、あっちのブランドはどう? 高校生にも人気があるんだって」
はす向かいに別のコスメショップがあった。確かにこちらはプチプラで私でも買えそうだ。しかもかわいい!
「私、こっちにする」
「いうと思った!」
私が返事をするや否や、姉はさっき列挙したアイテムをすべてかごに放り込んだのだった。
精算を済ませると、財布はすっからかんになってしまった。もう帰りの電車賃ほどしか残っていない。これではランチすらできない。
「おしゃれするって、お金がかかるのね……」
思わずぼやく。姉は、何を当たり前のことを、と言いたげな様子で、
「これも勉強よ、勉強。今まで女子、してこなかったんだからさ」
と答えた。
午後からバイトがある、という姉とは池袋駅で別れた。
ちょうど停車していた小川町行きの急行列車に飛び乗る。電車は間もなく発車した。
昼をちょっと過ぎたあたりの車内は空いている。席に座ったのはいいものの、そのとたんに腹の虫が鳴った。サンドイッチ一つじゃ、さすがに足りない。
本当は特大ハムサンドを二つ頼むつもりだったのに、姉に「女子はそんなに食べるものじゃないわよ!」とたしなめられた。ごちそうしてもらう手前、文句も言えなかった。
ちょっとだけ遠慮がちに照るようになった秋の太陽が、下り電車の中に差し込んでくる。ぎらつく日差しに一瞬、グラウンドにいるような錯覚に陥った。
――野球部のみんなは今頃、ボールを追いかけているんだろうな。私のことなんか忘れて……。
全身から化粧品売り場独特のにおいがする。化粧品のテスターを片っ端から試したせいだろう。いつも汗のにおいしかしなかったのに。まるで自分じゃないみたいに思えた。
仕方がない。だってずっと汗まみれの生活だったんだもの。急に「女子」の自分を受け入れられなくて当然だ。少しずつ慣れていくしかない。
そのためにもまずは化粧の練習をし、ふんわり袖のブラウスを着て街を歩こう。姉と一緒に。
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