【連載小説】「好きが言えない」#9 告白
待っていても何もできないことは重々承知していた。それでも私は待っていたかった。それはおばさんも、父も同じだった。
長い長い待ち時間。私は祐輔と過ごした日々を思い返していた。
幼稚園児のころから私たちは友達だった。小学生になって本格的に野球を始めると、マンションに住む男の子たちの輪に入って遊ぶようになった。祐輔とは毎日のように一緒に走り回っていた。当時の父は、そんな私たちの姿を見ては投球の指導をしてくれたものだ。
祐輔は私の「日常」だった。彼に会わない日はないと言ってもいいくらい、いつでも一緒だった。会わないと不安で、だから高校も彼と同じところを目指した。
そう。野球が好きだから続けてきたなんて嘘なのだ。祐輔と一緒にいたいから、そして父の愛情を獲得したいから続けてきただけなのだ。
父に言われた甲子園など、はじめから目指してはいなかった。そこに私の目標はなかった。ただ、合わせてきただけなのだ。父が、部の男子たちが夢見ている甲子園を、私も目指しているかのように。
大会初戦のあの日。私は、本気で甲子園を目指すすべての球児に対して、「不純な動機」でグラウンドに立っていることが申し訳なく思えた。そんな気持ちだからミスを連発し、チームを負けに追い込んだ。
恥ずかしくて居たたまれなくて、チームメイトと顔を合わせることすらできない日々が続いた。そして私はすべてを放棄し、逃げ出した。自分が押しつぶされる前に。女であることを言い訳にして。
野球の二文字を取った私は文字通り、空っぽになった。その空白部分に「美」というピースを埋めれば新しい自分に生まれ変われるんじゃないか。そんな思いもあって姉の誘いに乗り、その世界にのめりこもうとした。けれど、ダメだった。
考えてみれば当たり前だ。祐輔のために野球をしてきたんだもの。大好きな父に見てほしくてこの年まで続けてきたんだもの。
私はもう少女ではない。言われるがままの人生を歩むのではなく、自分の力で進むべき道を選び取らなければならない。
伝えよう。自分の気持ちを、真実を、自分の言葉で。
意を決し、私は父の前に立った。父が私の顔をじっと見つめる。
「私、お父さんに言わなきゃいけないことがあるの。実は私、野球部を辞め……」
「……いいんだ、詩乃。最後まで言わなくていい。みんな、知っている」
「……いつから?」
「……九月の頭には。大会のあとから落ち込んでいたのは知っていたし、奈々のところに行っていたのも知っていたからね。気になって、部活帰りの祐輔君を捕まえて無理やり聞き出したんだ」
「そう……だったの……」
知っていたのにあえて何も言ってこなかったのか。なぜ……?
父の手が動く。怖い……。私はうつむき、身を縮こめる。父の手はうつむいた私の頭にそっと置かれた。
「詩乃にはずっと無理をさせたね。お父さんはもう十分幸せをもらったよ。だから、あとは詩乃の好きなようにすればいい」
「えっ、でも……」
「でも、は要らない。詩乃には、お父さんより大切な人がいるだろう? いつまでも子供のままじゃこっちが困る」
ほら。父の指さすほうを見る。ちょうど祐輔のお母さんが主治医とともに病室から出てきたところだった。
「詩乃ちゃん。祐輔が起きたわ。会ってあげて」
「行っておいで。お父さんはここで待っているから」
父の声に背中を押され、私は病室に向かった。
真っ先に目についたのは野球部のスポーツバッグ。その次に白いベッドとシーツ。そこに埋もれるようにして祐輔が横たわっていた。
顔や腕にはガーゼが貼られている。そして足は包帯で巻かれ、固定されていた。
痛々しい姿の祐輔が、ゆっくりとこちらに顔を動かした。目が合う。何を言えばいいか戸惑っているうちに、目からぽたりと温かいものが零れ落ちた。
「見舞いの言葉をかけてくれるのかと思ったら、最初っから泣くのかよ。らしくねぇなぁ」
いつもと変わらぬ調子で話す祐輔をみたら余計に涙があふれ、止まらなくなってしまった。自分でもコントロールできない。あんまり泣くので祐輔が言葉を告ぐ。
「約束したろ? また明日な、って。そのおれが車に轢かれたくらいで死ぬもんか。おれは不死身だぜ? 雨さえ降ってなけりゃあんな車、ひょいっと避けれたんだから」
「何が不死身よ。死なない人間なんていやしないんだから! 私がどれだけ心配したか……」
「そりゃあ悪かったな。……体育祭、一緒に走れなくなっちまってごめん」
「そんなこと、どうでもいい!」
私は涙でむせびながら声を張り上げた。祐輔は少し驚いた顔をした。
「どうでもよくないだろ? だってずっと練習してきて……」
「体育祭より、祐輔の命のほうがずっと大事! だって私、祐輔のことが好きなんだもん!」
「……知ってらぁ、ずっと前から」
祐輔は私を見て、それから天井を見た。
「中学から男ばっかの野球部入って、高校まで同じで、そこでも野球部入って。もうおれ、どんだけ好かれてんだって思ってたよ。おれだって詩乃のこと、ずっと前から好きだよ。でも、好きだなんて言ったら関係壊れそうで……怖くて言えなかった」
「祐輔が……私のことを?」
想い合っていたという事実に私は戸惑った。信じられない。すぐには受け入れられない。
「でも……。でもそれは、野球をしているときの話でしょ? 野球を辞めた今の私のことなんて、祐輔は興味もないはずでしょう?」
「この、せっかちが! 勝手に決めつけんな!」
気持ちの整理がつかないまましゃべったので「ったく、何わけの分からないことを言ってんだ」と怒られた。
「そりゃあ、野球してる詩乃が好きだよ。だけどなぁ、辞めたからって嫌いになるかよ。おれはなぁ……とにかく詩乃が好きなんだよ。一緒に走って笑って、それでいいんだよ。野球じゃなくたって、いいんだよ」
「ほんとに? ほんとにこんな私が好きなの? 真っ黒だし、女っ気もないし、勉強もできないし」
「じゃあこういうよ。おれは、真っ黒で、女っ気がなくて、勉強できない詩乃が好きなの!」
私は声をあげて泣き、祐輔に縋り付いた。
「おれに恥ずかしい台詞言わせるなよなぁ。本気でおれが好きなこと、気づいてなかったの? 野球してなきゃ、嫌われると思ってたの? 馬鹿だな、お前は」
祐輔が私の頭を力強くなでた。
「だいたいなぁ、なんだよ、あれは? 奈々ちゃんの影響か知らないけど、ありゃあ詩乃じゃないぜ」
「あ、あれって? ……もしかして、エレベーターで会った時、気づいてたの?」
二週間前のことを思い出す。てっきり気づいていないものと思っていた。
「化粧くらいで気づかないわけないだろ。毎日会ってるんだぜ? それとも、気づかないでいてほしかったのか?」
「うー、えーと、そのー……」
自分の鈍感さをこれでもかというほど突き付けられて言葉も出ない。私は祐輔の上にかかっている布団に顔をうずめた。それを見て祐輔は笑っている。
「脚が治ったらさ、また一緒に走ろうぜ。おれは詩乃と走りたいよ。大丈夫、一か月もすりゃあ治る、こんな怪我」
「私も、一緒に走りたい。体育祭は、祐輔の分まで走るよ」
「詩乃の走り、一秒も見逃さないからな。代走は、路教に頼むか。あいつも足は速いから。お前に追っかけられたらきっと最高記録が出る」
「それ、どういう意味?!」
「おっかねぇってこと!」
祐輔は再び笑った。つられて笑う。
私は考えすぎていた。何も考えず、ただこうして笑っていられれば幸せだってことに、ようやく気が付いた。
甲子園を目指さなければとか、男のスポーツとか、そういう常識に、私は縛られ過ぎていた。でもそれは勝手な思い込みで、野球をする理由なんて人それぞれでいいんだ。野上が言っていた「後付けの理由」。私の場合はどうやらこれになりそうだ。
祐輔と一緒にいられる、最高のスポーツ。
そして、その野球を教えてくれた父に感謝の気持ちを伝えよう。
私は部屋を後にし、すぐに父のもとへ向かった。
「ありがとう、お父さん。ずっと見守っていてくれて」
「詩乃がまたキャッチボールをしてくれたら、お父さんは満足だよ」
「うん」
「……野球を辞めたら叱られると思っていたのかい?」
父はさっきの話の続きをし始めた。私はうなずく。
「だって、奈々ちゃんが野球を辞めた時ものすごく怒ったでしょ? 私も辞めたらあんなふうに言われて、お父さんに嫌われるものと思い込んでた」
正直に言った。もう、恐れない。父は語る。
「奈々は七歳にして気づいたんだ。野球はお父さんにやらされたスポーツで、自分のやりたいことではない、と。だから辞めるのだ、と。大人げないことをしたと今でも反省しているよ。奈々の言葉が受け入れられず、衝動的に何べんも叩いたんだからね。
……本当に、奈々の言う通りだった。だから詩乃にも、野球以外にやりたいことが見つかったらいつでも辞めていいというつもりだったんだ」
「でも、私は辞めようとしなかった……」
「ああ。だからというのもなんだが、言いそびれてしまってね」
「……私、祐輔のことが好きで、それで野球を……」
「いいんだ、それで。お父さんに好かれたいからやっていた、なんて言われるよりよほど健全だ。子供は必ず巣立っていく。寂しいが、そういうものだ」
「お父さん……」
「とにかく今は彼を支えてやりなさい。自分の気持ちに素直に行動しなさい」
「はい」
思えは私は父との対話を避けてきた。野球さえしていれば親子関係は保たれるものと勝手に決めつけていた。そのせいで私の父親像はゆがみ、現実とずいぶんかけ離れたものになってしまっていた。
父は寛大だった。ちっぽけな私を丸ごと受け入れてくれていた。ずっと。はじめから。
父と正面を切って話し合えたことで、私は本当の意味で野球と向き合い「卒業」することができた気がした。
もう逃げない。この、汗臭くて、垢抜けない、せっかちな自分を受け入れよう。こんな私を好きだと言ってくれる人々がいるのだから。
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