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【連載】チェスの神様 第三章 #6 神様
翌日、父は朝早くに家を出て行った。祖母に聞くと、休みの後半は奥さんの実家に行く予定になっていたから帰ったということだった。
「映璃ちゃんを連れて帰りたかったみたいだけど、おじいちゃんがビシッと言ってやったから大丈夫よ」
私がこれから先もずっとこの家にいるのだと信じて疑わない笑顔を向けられ、私は少し居たたまれない気持ちになった。
私はいずれ、二人を残してこの家を出る。その日が来たら、おばあちゃんは今みたいな笑顔で送り出してくれるだろうか。
あの晩以来、夜が更けると決まって悠が訪ねてくるようになった。寂しいなら私に会えるよう都合をつける、と言ったのは本当だったのだ。
「今日も野上に会ってたのか。……こんな短いスカートはいて。あいつに何かされてないだろうな?」
そう言いながら、彼自身が私の太ももをいやらしくなで、吸いつくようにキスをした。
抵抗したい。だけど、拒むこともできないほど力強く抱きしめられ、次第にキスの魔力に支配されていく。本能が私の脳を麻痺させていく……。
この瞬間だけ、私の心は悠の色に染まる。いや、染められる。アキへの想いを追い出そうとするように、根を張るように染み込んでいく。
「お前は俺のもんだ。野上になんか渡さない……」
時間にしてわずか。だが、次に会うまで私が寂しい思いをしないよう、愛をささやき、体温を残そうとした。
「また明日の晩に来るから。おやすみ、映璃」
悠は引き際を心得ている。私が拒絶するギリギリのところで切り上げ、さっと帰っていくのだった。
悠が帰ってしまった後は毎回、放心状態。愛されていることを素直に受け入れるべきだと思う一方で、アキを裏切るような行為を毎晩繰り返していることに罪悪感を抱いた。
本能と理性と欲望と……。私の中のあらゆる欲が混ざり合い、処理できなくなっている。
――ごめんね、アキ。ごめんね、悠。
いくら胸の内で謝っても、彼らには伝わらない。
――神様がいるならどうか、私に愛し方を教えてください。もうこれ以上、彼らを苦しめたくないんです。
深夜の星空に向かって私はそう祈ることしかできなかった。
*
ゴールデンウィークが終わってすぐの平日。検査結果が出たと電話をもらった。その日は学校があったので、いったん帰宅し、そのあと病院へ行こうと決めた。
「アキも……一緒に来てくれる?」
「もちろん。一緒に行くって言ったでしょ?」
「そうだね。ありがとう。……実は、今日はおばあちゃんにも来てもらおうと思ってるの」
前回、医師から家族にもきちんと話したほうがいいと言われたので、詳しい説明がされるであろうこのタイミングで同行してもらおうと思っていた。
「おばあちゃん、あまり長い距離は歩けないから、一緒に自宅からタクシーで行こうと思ってるんだけど、いいかな?」
「うん。僕は構わないよ」
病院へ行く時間が近づくにつれ、いよいよ真実を聞かされるのかと思うと緊張した。
もし、手術が必要な病気だったら? いや、手術で治るのだとしたらそうしたほうがいいのでは? はたまた、大量の薬を飲み続ける人生になるかもしれない……。
いらぬ妄想が膨らんでは消えていく。
私があれこれ思い悩んでいることはアキにはどうやらお見通しのようで、タクシーの中ではずっと右手を握りしめてくれた。言葉はなくとも「大丈夫」と言われている気がして心強かった。
病院は相変わらず混んでいた。今日もたくさんの「具合の悪い人」がここに集まっている。私もその一人。健康を害している人のなんと多いことか、と思ってしまう。
「あっ、ごめん。今日はチェスセットを持ってきてないわ」
前回、暇つぶしにチェスをしたことを思い出した。アキから預かっているそれを持ってくればよかった、と後悔する。アキは首を横に振る。
「今日は、いい。テストが終わるまで預けるって言ったものをやるつもりはないよ」
「でも、それじゃあ手持ち無沙汰ね」
「いいじゃないの。何もしていなくたって」
おばあちゃんが口をはさんだ。
「人間観察をするのも楽しいわよ」
そういって周囲にいる人に目をやった。私たちは顔を見合わせた。おばあちゃんにそう言われては何も言い返せない。
私たちはしばらくの間、おばあちゃんのいう「人間観察」をまじめにやった。けれど、やはりそう長くは続けられない。本を一冊持っては来ていたが、それも落ち着かなくて読む気になれなかった。
「……チェスの神様って知ってる?」
読むともなく本のページをめくっていると、アキが突然そんなことを言った。
「次にどう指したらいいか、全部教えてくれる神様だっけ? チェスプレイヤーが負け知らずになれるっていう」
「うん。エリーはそんな神様が本当にいると思う?」
「そうねぇ、いたらいいなと思うけど」
「僕はね、最近その神の夢を見るんだ。姿ははっきりとは見えないんだけど、確かにチェスの神様なんだ」
にわかには信じがたい話だった。けれど、アキの真剣な語り口にしばし耳を傾ける。
「その神が、僕のこの先の人生をも教えようと道を指し示すんだ。目の前には二本の道。右へ行けば思いのままの人生を歩める。何にも困らず、安心して進んでいける。選ばれたおまえにはその道を行く権利がある、そう言うんだ」
「……それで、右に進むの?」
「行けないんだ。左の道が気になって。でも神は、左に行くと何が待っているのか教えてはくれない。何度見ても、夢はそこで終わるんだ」
「左の道に進みたい?」
「でも、なんだか怖くて。だから結局、夢の中では動けないんだ」
「確かに、怖いね」
「案ずるより産むがやすし、ということわざがあるよ」
祖母が会話に加わった。
「進まなければ、怖い思いをせずに済むかもしれないね。でも、その道の先にある、今よりもっといいことを知らずに過ごすことになる可能性もあるんだよ」
「あっ……」
アキは何かを悟ったようだった。
「そうですね。しないより、する……。怖がっていても仕方ないですよね。次に同じ夢を見たら、左の道に進んでみます。意識してできるかどうか、わからないけど」
「それがいい、それがいい」
祖母は嬉しそうにうなずいた。
「チェスの神様、か……」
アキの夢の話に思いをはせる。
神のいうとおり、すべての出来事がすでに決められていて、なおかつ安全であることが分かっているなら、安心して進むことはできるだろう。けれど、アキはその道を選ぶのをためらっている。もう一方の道は、足元の状態も、その先に待っていることもわからないというのに。神の言葉を信じきれないのだろうか、あるいは別の理由があるのだろうか。
誰にだって一度や二度、人生の分岐点があり、どちらに進むか選択を迫られる時が訪れる。数日前、加奈子から話を聞いて思い知った。
もし、私の前にもチェスの神様が現れたとしたら、私は示された道のどちらかを選ぶことができるのだろうか。それとも、道なき道を進もうとするのだろうか……。
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