【連載小説】「好きが言えない」#8 事故
台風は夜のうちに通過したが、雨風はまだ残っていた。川越線と武蔵野線が強風で遅延しているというニュースを見ながら、私はいつも通り支度をする。
普段は私より先に出ていく父が、今日はテレビの前に座っている。今月の頭に休日出勤したため、その代休なのだという。
「行ってきます……」
言いなれない言葉を父の背中に投げかけ、私は今一度スマホの画面を見た。
やはり返事はない。どうしたというのだろう。エレベーターホールで待ち合わせることになっているが、直接訪ねたほうがいいかもしれない。
そんなことを考えながら靴を履いていると、背後に気配を感じた。
「詩乃、話がある」
父だった。テレビに集中しているとばかり思っていたのに、テレビ画面はもう消えていた。
「話って……。私、これから学校に行くんだけど。今出ないと、間に合わない」
「友達の、祐輔君のことだとしても?」
「えっ?」
父が祐輔のことを持ち出すなんて、幼いころ以来だ。急にどうしたというのだろう? 私は靴を脱ぎ、父と向き合った。父は静かに言う。
「祐輔君は今、S総合病院にいる。ゆうべ、交通事故に遭ったんだ」
「な、何を言ってるの? 交通事故って……。冗談はやめてよ」
突然の話に頭が混乱する。
「どうしてお父さんがそんなこと知ってるのよ? おかしいじゃない」
「お父さんも驚いた。でも、彼だったんだ」
父の話によれば、川越駅からマンションへ帰宅する道中、横断歩道で倒れている人を見たらしい。事故の直後らしく、彼の周囲には人が集まっていたが、だれもがうろたえるばかり。見かねた父が駆け寄ると、倒れていたのは祐輔だったという。
「どうして昨日のうちに教えてくれなかったのよっ!? どうしてっ!?」
私は、体の奥底から湧き上がる感情を抑えられず、父につかみかかった。それでも父は冷静に、
「昨日伝えたところで、今みたいにパニックを起こしていたはずだ。それに、彼からの伝言だったんだ。詩乃には言わないでほしい、と」
もしそれが事実なら、私は祐輔を恨む。そんな状況下で何を格好つけているのか。私は憤ったまま再び問う。
「じゃあ逆にどうして、今になって教えてくれたの? 祐輔に口止めされていたんでしょう?」
「……詩乃のお父さんだからな。詩乃が何も知らずに、エレベーターホールで来るはずのない人を待っていると思うと、心苦しくてならなかった」
「……知ってたの? 私が祐輔と一緒に登校していること」
私より先に家を出ているはずの父がなぜそのことを?
「ここらじゃ、みんな知ってるよ」
と、父は言った。
「……行こう。心配なんだろう?」
父が私の肩に手を置いた。私は力強くうなずいた。
*
雨が降りしきる中、父の運転でS総合病院へ急ぐ。二人きりの車内は重苦しい空気に包まれている。
私と父とは野球でつながってきた。だからそれ以外のかかわり方をお互いに知らない。
ずっと「甲子園を目指せ」と言われてきた。それが父の願いであり、夢であり、私とのかかわり方だった。けれど、私は裏切った。勝手に辞め、真実を隠し続けている。
辞めたこと知ったら、父はなんと言うだろう。いや、言葉もなく、ただ失望されるかもしれない。
隣に座る父の横顔を覗き見る。前方を注意深く見ようとしているためか、あるいは雨の日の通勤ラッシュでなかなか進まないことにいら立っているからか、しかめ面をしていた。
――ひょっとして、辞めたことを知っていて怒っているのでは……?
第三の推測をして私は息を呑んだ。恐ろしさのあまり、一言も口を利けなかった。
病院に着くと私は、一目散に院内へ駆け込んだ。
「あの……! 昨日急患で運ばれてきた本郷祐輔さんに面会したいんです!」
取り乱している私の後ろから「詩乃ちゃん」と声が聞こえた。祐輔のお母さんだった。
「おばさん……! 祐輔は……?! 大丈夫なんでしょ?!」
「……ええ、今は寝ているわ」
「けがの具合は?」
「右足を骨折していたから手術を受けたの。……当分、走るのは無理でしょうね」
「そんな……」
「体育祭のリレーでアンカーに選ばれたって張り切っていたのに……。詩乃ちゃんからバトンをもらうんだって、すごく楽しそうに話していたのにこんなことになっちゃって……。さぞ、悔しいでしょうね……」
あ、春山さん、夕べは……。おばさんは父の存在に気づくと、そちらに歩み寄り礼を言い始めた。
その横で私は祐輔のことを考える。
あんなに走るのが速い祐輔の足が折れたなんて信じたくなかった。だって昨日の朝も一緒に学校まで走ったのに。帰りだって、また明日ねって、そういって別れたのに。
――祐輔と話がしたい。なんでもいい、声が聞きたい。
とっさにスマホを取り出し、祐輔の番号にかける。しかし、すぐ近くにいるおばさんのバッグに入ったスマホが鳴り出す。祐輔のそれを預かっているのだとわかり、愕然とした。
「詩乃ちゃん……。祐輔は今、話せないの。ごめんね……」
堪えた。絶対に泣いてはいけない。特に、父の前では絶対に。
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