昔からコピペが苦手なんだよな

わたしはIQが130ある。
正式な機関で測ったわけではないけれど、ドイツのMENSAが出している100問くらいあるテストを何回か測定して出た結果だから、多少の妥当性はありそう。まぁ、実際そんなとこなんだろう。

一般人の平均が100、東大生の平均が120といわれているので、全体からみるとまぁまぁ高いほうらしい。ちなみに、アメリカのギフテッドの定義も130からだ。

IQとは具体的にどのような能力を指すかというと、脳の処理能力の速さを示す数値だそうだ。だから、よく言われることだけど、IQが高い=勉強ができるとか、仕事ができるとかではない。

高速で頭のなかの思考をめぐらせることができる、ただそれだけの能力といってしまえばそれまでである。

わりと本質的な部分を見抜くのは得意だったりする。なぜなら同じ条件下なら、たとえばIQ100のひとより1.3倍「なんで」の壁打ちを行うことができるから、その分本質に近づくことができるのだ。だから、あんまり寄り道をしないし、なにかをめっちゃ間違えることはすくない。なかには早熟と判断する人もいる。

ただその能力が特化すると発生する困りごと。個人的にはこっちのほうが多い気がする。

なぜなら、世界はIQ130で標準装備されていないから。左利きの人の平均寿命が短いのと同じ理屈だと思う。自慢でもなんでもなく、実際めっちゃ困っている。いかに自分が世界に対して無能かを、このご立派なIQで考えてみようと思う。

まずひとつめ。性格がめんどくさがりやになる。斜めにいけば近いのに、社会は縦と横しかないからそこを通りなさいという。立体迷路を解かせると必ず最短ルートを通れるらしい粘菌に、わざわざ遠回りしてゴールしてみせろといっているようなものだ。「縦社会」「横のつながり」という言葉はあるが、「ナナメな関係」とはいわない。それはなんかえっちだ。

ふたつめ。結果的にとても要領が悪い。段階を踏むことが根付かないし、それにあんまり意義を感じていなかったので、いろいろすっ飛ばす癖が抜けない。そんな私からアウトプットされるものは、とても不親切で一方的な考えにすぎないものが多い。

それは社会の中の価値では、自分のなかで緻密なだけで終わってしまう、ただの情緒不安定な空想家と評価される。

当然ながら人間関係も仕事もうまくいかない。ありのままの姿をみせていては孤独になってしまうことは、エルサが証明している。今どき、幼稚園生でも知っていることだ。

結局、親切なものに人は弱いし価値を見出すのだと思う。親切とはつまり相手の状況を手に取るように理解し、欲しい言葉やものをあげること。欲しいものといっても、なにか理解を超えるようなとんでも理論が欲しいわけではない。歴史に理解を示しつつ、プラスアルファを乗っけるだけで十分なのだ。むしろその積み重ねに人は感謝や敬意を示す。

私はそれがとても苦手だ。自分が不親切にされたら嫌なのに、ひとにはそれを向ける、本当に自己中心的な人間だと思う。

他人が私に価値を見出すことがあるとするならば、その高速で考えられる脳みそでふり絞った工程を、めんどくさがらずに丁寧にアウトプットすることではないかと思う。

ほかの人のように外部のものをありのまま受け取っていい感じに加工して渡すという、一種コピペにも似た作業ができるようになるのは諦めた。それをするには私の脳みそはあまりに寄り道をしすぎて、あまりに要領が悪すぎる。

自分の最大の敵は外部環境でも要領が悪いことでもなくて、そのめんどくせぇなと横着しようとするところにあるのだと気づいた。

わかりやすい優秀さより、
つねに丁寧で、親切であれよ、自分。


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