特撮ドラマ評「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」
(アイキャッチ画像出典:https://www.toei.co.jp/tv/lupin-vs-pat/index.html)
無理のあるキャッチコピー
「正義のアウトロー」VS「絶対のヒーロー」という対比をなし、共通の敵「ギャングラー」と戦う「快盗戦隊ルパンレンジャー」と「警察戦隊パトレンジャー」。
スーパー戦隊シリーズの前にも後にも例のない挑戦的な作品ですが、その制作陣も“警察が正義なのは当たり前”という意識からは抜け出せなかったようです。
つまり、「絶対のヒーロー」とは“警察は絶対に正しいことをする”という意味ではなく、“警察のすることは絶対に正しい”という意味なのです。
劇中では、パトレンジャーに「超法規」の権限が与えられていることが明言されており、“警察なんだから法律を守れ”という当たり前の要求も「ルパパト」の世界観では通用しません。
一方、ルパンレンジャーが「正義のアウトロー」かというとそれも疑問です。
“平和を脅かすギャングラーと戦っている”という一点において「正義」と言えなくもありませんが、ルパンレンジャーの目的はあくまで【各自の奪われたものを取り戻す】こと。それを取り締まり、ルパンレッド自身にまで罪の意識(下記引用)を植え付けた体制側には一片の「正義」もありませんが、ルパンレンジャーが既存の秩序に代わる何らかの社会正義を志しているわけでもないのです。
おまけに、パトレンジャーが超法規すぎてルパンレンジャーのアウトロー性がかすんでいるので、もはや「アウトロー」の部分もピンときません。「道を踏み外し」ているのは国際警察の方です。
警察とはどういう組織か
警察の正義性を絶対視することの何が問題なのか。
それは、権力機関こそ第一次的な意味での、かつ最大の犯罪主体だということです。
もともと「法の支配」といった理念は、「人の支配」=専制を阻むものとして打ち立てられました。それは、例えば立法権を君主から議会に移して事足れりとするのではなく、政体のいかんにかかわらず権力機関を法で拘束するということなのです。
実際、日本国憲法下においても警察組織は違憲・違法な権力濫用を繰り返してきました。
狭山事件や袴田事件、渋谷闘争でっち上げ弾圧といった数々の権力犯罪を思えば、「お巡りさん」が「絶対のヒーロー」だなどとは口が裂けても言えません。
どちらかといえば快盗基軸でドラマが展開されていたにもかかわらず、警察権力の「正義」性に疑問を投げかける要素はありませんでした。「正義のアウトロー」をキャッチコピーにするなら、劇中でも「俺たちが正義だ」くらい言ってほしかったというものです。
最後の希望
物語が進むにつれ、両戦隊が共闘する場面も増えていきました。
しかし、クライマックスでルパンレンジャーの3人は囚われの身となり、警察は【ラスボスの打倒】と【快盗の救出】を天秤にかけることになります。
葛藤の末、パトレン1号(レッド)は前者を選び、(警察なりの思想とやり方で)“人類を救い”ました。
1年後、ルパンレンジャーはとある方法で生還を果たしますが、その鍵を握ったのは【ルパンレンジャーの奪還を目的とする新たな快盗】でした。
(評価はともかく)治安権力としての職務をまっとうした警察と、かけがえのない一人の命にこだわり切った快盗。最後の最後に希望の光となったのは快盗の方だし、救出されたルパンレンジャーもあくまで警察とは一線を画するという結末には非の打ちどころがありません。
追記:キュウレンジャーとパトレンジャー
ちなみに、「ルパパト」の前作「宇宙戦隊キュウレンジャー」は「宇宙幕府ジャークマター」からの解放を目指して戦います(「幕府」というからには権力機関に違いないし、キュウレンジャーの所属組織も「リベリオン」(=反乱)という名前)が、不可解なことにシシレッド・ラッキーは警察というものに対して深い信頼を置いています。「ルパンレンジャーVSパトレンジャーVSキュウレンジャー」での共演時に至っては、自らが逮捕されてまで「この星の正義を乱すことはしたくなかった」と謎の信念を貫くのです。
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