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『The Last of Us Part II』をクリアして

ネタバレになる事象は極力書かないようにはしますが「そう感じたゲーム」という時点で大よその方向性が分かってしまう点もありますので、未プレイの方はそれを汲んだうえでお読みください。
もしくは読むなぁ!

クリア直後の冷静さを欠いた状態から少し落ち着いて書き始めたもののまとまりないのはもう文才の問題だから仕方ないですよね。


それなりのボリュームがあるにも関わらず焦るかのように進めクリアしてしまったが、ゲームが下手なのもあってプレイ時間自体はそれなりにかかっているものの、こんなにも早く終わってしまった、終わらせてしまったという感覚。
ここで言っておきたいのは今作を逸る気持ちでプレイをした心境が「面白いから早く先が知りたいとプレイしてしまう」というのとは自分の中で少し違って行き、序盤のある時点からは「先を知るのが辛いが物語を始めてしまった責任を取るために、事実を見届ける必要がある」というものへと移っていたことである。

今作が名作であるという意見と同時に否定的な意見も多数あるがそれも致し方ないし、製作者サイドですら賛否ある事を自覚してのリリースであったようだ。
これほどまでに魂をえぐられる体験をユーザーが望んでいたのかどうか、前作に感動し胸を高鳴らせプレイをした人ほど「もうやめてくれ」と悲鳴を上げながら進めるのは続編の在り方としては有りや否やという議論にもなる。
しかしながら、それ程心を揺さぶる作品は少なくとも駄作とは呼べないであろう。
今作がどれだけの力と毒を持っているのか、それは実際にプレイをしたうえで感じ取ってほしい。
ラストオブアスというゲームに、そこに登場するキャラクターに愛と熱量を持っていればいるほどそれらがカウンターパンチとして臓腑を抉る覚悟を持っているのであればだが。


前作は中年男性のジョエルを操作しながらも、時折同行者の少女エリー視点へと切り替わりながらゲームが進んでいった。
そして今作もいくつかの異なる視点から一つの物語を追っていくことになる。

自論であるが、面白い・素晴らしい作品とは「群像劇」だと思っている。
主張たっぷりで魅力的な主人公がバリバリと活躍する物語とてそれは変わらないと個人的には考える。
主役以外が張りぼての木では何も心に響かない、その世界観を、その物語を形作るだけの他の登場人物たちが脇役ではなくしっかりと「別の物語の主人公」であるだけの力があってこそ主役が輝き、ストーリーにも深みが加わるのだ。

それらを語るのに少しだけ寄り道をさせていただきたい。
『ミスト』と言う映画がある。
自分はとても大好きな映画であるがネット上での評判は「胸糞悪い映画」「後味の悪いラストシーン」「鬱映画」とネガティブな取り上げられ方をして有名であるのが残念でならない。
あの作品は主人公親子に対して過度に感情移入し過ぎたり、また主人公たちだけを視界に入れて観た場合にそういった感想になってしまうが、少し広い視野で見ると全く違った様相が見えてくるはずなのだ。
主人公たちが逃げ込んだスーパーの中で繰り広げられる人間劇は極限状態に陥った人々の心理状態がどう動き、時には団結し時には破綻していく様を描いた非常によくできたパニック映画として作られている。
そして主人公たちはあくまでもそのこ迷い込んだ群像劇の一端を担う登場人物に過ぎないとして見ればより面白く、またラストの展開も「彼らの立場から見ればバッドエンド」なだけであり、別の母子からすれば「地獄の様な環境を生き延びたハッピーエンド」と様々な受け取り方ができる作品であることが分かっていただけると思う。
「後味が悪い」という評価を付ける観客の観方が主観が強く感情移入タイプの人が多いのではないか、そして客観性が欠けることで主人公がとった選択以外作品に登場していないと思っているからあれを単なるバッドエンドと思ってしまっているのではないか。
ミスト話が長くなりすぎるのでそろそろ畳みますが、この作品に限らず日本人はどちらかというと主人公に感情移入したり投影させたりしやすいというかそういう方が好きで、それらを応援しながら観るケースが多い様に勝手に思っている。
(推しを見つけたら主人公そっちのけで追い出す層も多いとは思ってるが)
それが悪い訳ではないが、少し引いた視点から見れた方が楽しめるものもあるのになと常々思っていた。


そう思っていたのだ。
にも拘わらず少なくともラストオブアスでは自身全くそれが出来ていなかったのだと今作をプレイして痛感させられた。
前作のどうにもならない物悲しさ溢れる決着と旅を終えた二人の姿に「良かった、今まで辛い思いをしてきたのだからこれからは心穏やかに過ごして欲しい」そう思ってしまった時点でもう感情移入しまくりであったのだ。
ジョエルのエリーに対する父性や愛情の深さに目が行ってしまい、なりふり構わず前進し続けた傲慢さや独善的な部分から目をそらしてしまっていた。
そして彼がとった行動がどんな意味を持ちどれだけの余波を起こすものであったのかという点からも。

人類の為という大義名分の上で非道な行いをしようとしたファイアフライと、それに対しただ自己が許せないからとNOを叩きつけたジョエル。
「客観性」を持って見た場合にそこにどれほどの差があったであろうか。
平和な時代から語れば「一個人を犠牲にした上で成り立つ全体の平和」には確かに強い拒否反応が出て当然ではあるし、彼の行動をトレースしたプレイヤーも違和感はあまりなかったであろう。
しかし作中はそういった人権などというものがそもそも保障されない荒廃した社会であり、場合によってはその決断を経て進んだ先にこそ人が人として生きていくことが出来る社会性を取り戻すことが出来た唯一の解であったかもしれないとすればどうであろう。
ファイアフライ側から見れば「頭のおかしい狂人が全てを台無しにした」という「胸糞悪いラスト」でしかない。
本来あのラストに関してはもし客観的な立場から見ていれば、「正解のない身勝手な正義のぶつかり合いが巻き起こしたどうしようもない悲劇」というのが答えであったのだろう。
当時の自分の視野はゲーム的に表現すれば「もうちょっとカメラひけねーかな、全然状況がつかめない」というぐらいに狭いファーストパーソンのゲーム画面でしかなく、操作キャラを含めた俯瞰視点でプレイできていなかったのだ。


基本的にラストオブアスは一本道であり、プレイヤーがストーリー上のキャラクターの決定を左右することはできない。
それはマップが拡大し自由に動ける範囲が広がった今作でも同様である。
だが、過酷な環境で生き抜くための残忍な手法や暴力に頼った解決、そして自分や被保護者を守るために人を殺めるという選択が嫌ならばそこでゲームを終えるべきであり、最後までプレイしたのであればそれはプレイヤーが選んだと言っても過言ではないのだ。
ゲーム中で引き金を引くのは操作キャラであっても、間違いなく決定ボタンを押したプレイヤーにも責任の一端がある。
パート2では一作目をクリアしたプレイヤーに、よりにもよって作った製作者がそれを突き付けてきたのだ。
そして強引にこちらのオプションを弄って「ほら、引きで見てみろ、色んなものが見えてくるぞ」とやってきた。
結果的に、主人公たちが手を血に染めただひたすらに復讐の為に生きる姿を「辛い、もうやめよう、終わりにしよう」と慟哭しつつも、「でも始めたのは自分であり、責任を持って見届け、自分の手でもって終わらせなければならない」という気持ちが後押しをしプレイし続けるというかつてない状況にプレイヤーが追い込まれた。
序盤でコントローラーを投げだし、無責任に「なんだこのクソゲー!ふざけるな!」とやれればどんなに楽だったか。
そしてそれをしてこのような得難いゲーム体験をも投げだしてしまっていたのなら、如何ほどの損失があったのか。


責任感や義務感でばかりゲームを進めたかのように書いてしまっているが、それは面白くなかったと同義ではない。
ラストオブアスというゲームはとても素晴らしい作品であり、それは1だけの事でなく2も間違いなく名作であると言える。
ではあるが、万人にお勧めするゲームでないことも確かだ。
それは残酷表現やポリコレの人たちが騒ぎそうな問題が含まれるところを指しているのではない。
最後まで彼らの生きざまを見届ける覚悟がなければやるべきではないゲームであるからだ。
やり終えた後には爽快感など残らないし、もはや舞台装置と化した感染者たちの存在は遠く、ただひたすらに人間の愚かしさを見つめざるを得ないゲームを「是非やるべき!」とか言ってたらヤバいヤツですよそれ。
ただ、どこまでも映画的で何よりもインタラクティブムービーと呼べるような味わいと映像美はPS4最高傑作と評しても大げさではなく、映画を観たうえで「あなたのハートには、何が残りましたか?」と問われたら熱く語りたくなる様な人はプレイをした後に強い虚無感と共に同等の満足感を得られるのではないだろうか。

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