若者の青春小説(4)

(3)

さっきまでの熱い怒りが、蒸し暑い夜が嘘みたいに内臓が一瞬にして凍りついて、そして次の瞬間一気に溶けて滝のような汗になって噴き出す。心臓がこめかみに移動してビクンビクン収縮して僕は声も出せず袋を掴んだままの指も動かせない。怖い。中のものが怖い。中のものが今どうなっているのか確認するのが怖い。もし中のものが自分の想像したとおりだったら、どうすれば。
ーー頭の中の血まみれの教室。頭のないクラスメイトたち。うつ伏せで居眠りしていて助かった僕はまずあたりを窺って危険がないことを確かめてから、机の横にかけてある自分の鞄に返り血がついていないかどうかチェックする。セーフ。床に広がった血溜まりをなるべく踏まないように気をつけて廊下へ。首を通る太い血管を断ち切られた死体からは断続的に盛大な血飛沫が噴き上がっているから浴びないよう注意すてーー
そんなんじゃない。目の前の傷は焼き芋2本分の質量しかないし、敵は正体不明の超能力者なんかじゃない、だけどそんなもんじゃない。そんなもんじゃないだろ!
ーーワアッ!
少し離れた場所で声がした。聞き取れなかったが複数の、男の声。
僕の肘から先が電気に打たれたみたいにビクッと跳ねて自転車のハンドルにぶつかって勢いよく倒れた自転車のカゴの中からビニール袋が転げ出して中身を少し覗かせた。黒い、雑巾というよりは毛足が長めのタオルみたいな、そして一拍のあと、ツツッと、黒い液体が一筋流れ出て、黒いアスファルトと同化した。
鳴き声はしなかった。
それは多分もう傷ですらなかった。
ポンプみたいに派手に撒き散らすエンターテイメントじゃなくて、ねっとり、じっとりとした、ただの悪意だった。
僕はもう頭が真っ白で家に帰ろうとか通報しようとかさっきの声はなんだったのかとかなんにも思いつけないで声も出せないままいつの間にか尻餅をついていたみたいで、近くに誰かが近付いてきているのにも気が付かなかった。
「……野中?」
誰かは乗っていた自転車を停めると腰が抜けている僕の側へ寄ってきた。
「野中だよな? 大丈夫か? 転んだ?」
僕の目線に合わせてしゃがんで声をかけてくれて、僕はようやくそいつの存在が視界に入る。マスクをしていてもわかる、はっきりした目鼻立ちをした同い年くらいの男が、心配そうに僕の目を覗き込んだ。
「マジで大丈夫? どっか痛い?」
男の黒目がちで穏やかな眼差しと目が合った瞬間に僕の目からは水がどばっと溢れ出てきてそれと一緒に声も出るようになるけど、これが小学生の初めてのリコーダーみたいに震えちゃって全く言葉にならない。
「ね、ねね、……っふぐ、っえ、……え……ぇこ、ね、ね、……っねこがっ、……」
「猫?」
知らない人が、僕の自転車のカゴに、傷ついた猫を入れていった。
それだけ伝えるのにものすごく時間がかかった。男は辛抱強く僕の話を聞くと、僕に怪我がないかをもう一度確認して、立ち上がると僕の自転車を起こして道路の端に停め直して、そしてなんの躊躇もなく濡れたビニール袋を拾い上げた。僕がしたように指先で持ち手を摘むんじゃなくて、そっと手のひらで包むように。そのまま中を確認すると、公園の中に戻ってきて僕を通り過ぎて公園中央の遊具も通り過ぎて一番真っ暗な街灯の光の届かない奥の植え込みのところでしゃがみこんだ。
彼はしばらくそこで何かをしていて、その間僕はずっと泣きながらまた妄想をする。僕は黒尽くめの男の異質さに気付いていた。行動は起こせたはずだ。黒尽くめが自転車のカゴへ袋を置いて手放したら、姿を消す前に殴りかかる。そして言葉にもできないレベルの、猫が食らったその何十倍もの酷い暴力を僕は黒尽くめに振るって、ひとしきり振るい終わったら可燃ゴミの袋にぶち込んでぎゅっと口を縛って、ゴミ捨て場に持っていこうとしたところで黒目がちな男が戻ってきて言った。
「帰ろう。送っていくから」

つづく

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