SS【擬態】1031文字
私は今住んでいるマンションからの引越しを考えている。
なぜなら上の部屋の頭のおかしい住人が、毎日のように床をドンドンと踏み鳴らすからだ。
とくに夜がひどい。
一度注意したものの、返事だけして十分もしないうちにまた大きな物音が聞こえてきた。
それだけではない。私の部屋の中やベランダからも物音が頻繁に聞こえる。
床のきしむ音だったり、私しか居ないのに何かの気配を感じることもあった。
ネズミかもしれないと思うとよけいに眠れなくなり、慢性の寝不足におちいっていた。
そんなある日。
フレンチトーストとカフェオレで朝食をとっていた私は、眠たい目をこすりながらネットニュースの見出しに目をとめた。
どこかの天才科学者が行方不明になったと報じられている。
その名前には見覚えがあった。
学生の頃に同じクラスだった男だ。
写真を見るとかつての面影がある。
間違いない。
成績は学年でも五本の指に入るほど良かったが、根暗でみんなからイジメられていた。
その男から愛の告白をされたこともあった。
気持ちの悪い男で、学校帰りに何度か跡をつけられたこともあった。
そんな男が行方不明になろうが私にはどうでもいい。
ただ、その内容が気になった。
擬態を完成させた天才科学者と紹介されていたからだ。
枯葉や木の枝に化ける生き物たちのように、見分けのつかないほど周囲に溶けこみ自分の存在を消すことに成功したらしい。
瞬時に周囲の景色に溶けこむ体質になった例の気持ち悪い男。移動している時でさえ絶えず擬態でき、もはや透明人間に限りなく近いらしい。
私にはそれが何の役に立つのか想像もつかなかったし、したくもなかった。
その日の夜。上の部屋の住人が帰宅したらしく、いつものようにうるさい物音が聞こえてきた。
私は連日の寝不足もあってかイライラが我慢の限界を超えた。
部屋の真ん中にある高さ四十センチほどのリビングテーブルに上ると、長いホウキの柄の先で何度も天井をドンドンと突いた。
するとバランスを崩して背中から落下してしまった。
床に後頭部と背中を叩きつけられるはずだった私は、何かがクッションとなりそれほど痛くはなかった。
「う、ああ・・・・・・」
私の下で見えない何かがうめき声を上げた。
何かを察した私はホウキの柄の先で何度も何度も、天井を突いた時よりも強く、見えない何かを突いた。そして通報した。
私はそれから間もなく、過去を清算するかのように遠くの街へ引越しした。
しばらくして例の天才科学者は目と喉に重傷を負い、光と声を失ったことを知った。
終