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■イセカイロセカイ赤の章第6話


 庭園はすっかり闇に包まれていた。けれども屋内に灯った明かりを反射して姿形は何とか判別出来る。詳しい色まではわかりかねるが、雫型の葉をたたえた背丈のある木々、大人の膝下程に整えられた針のような低木、夜でも咲き誇る五弁の花や、反対に全く閉じてくびれた花など、皆思い思いの姿で佇んでいた。彼らは普段決して物言わなかったが、今は屋内の様子を心配そうに窺っている。なぜなら縁側の柱にもたれかかるように新入りの少女が座っていたからだ。彼女は帯を緩めに締めた服を着ているとはいえ、その顔はぐったりとし、両足は床に投げ出されている。これは明らかに異常事態だろう。
そして庭の植物たちと同じような表情で少女の側に正座をしている二人の人間がいたのだが、二人は彼女を団扇うちわでパタパタと扇ぎながら、
「大丈夫……?」
コチニールがマゼンタに尋ねる。
「ああ……だいぶ楽だ……」
彼女は相変わらずの虚ろな表情で呟いた。
「まったく、どこの誰が頭■てっぺんまで入れと言いました?しかも何時間も……!」
葡萄えびが団扇を忙しそうに動かして少女に風を送っている。
「だって……湯船、浸かるって、言った……」
「浸かるっていうのは肩までという意味であって、頭の頂上までというわけじゃありません■っ……!」
「そうか……肩まで、だったのか……」
彼女はぼんやりとした頭で思った。
(どうりで、なんかおかしいと思った……)
ふとコチニールが団扇の動きを止める。
「でもそれって葡萄の説明不足だったんじゃない?」
「えっ?」
眼鏡の彼も思わず手を止めた。
「マゼンタはわからないんだよ、記憶がないんだから。紅国に来たのも初めてだろう■、僕たちの文化には馴染みがないんだ」
「それは……」
「だから一つずつ丁寧に教えてあげないと」
葡萄は虚を突かれたように言葉を失う。
確かにコチニールの言っていることは正しい。普通ならば記憶のない人間に対して事細かに手取り足取り全てを教えてあげるべきなのであろう。でも……
彼はマゼンタに目をやった。
彼女はぐったりと全身を弛緩させながら薄目を開けている。
葡萄は団扇をきゅっと握る。
突然クリムスンの養女としてこの家にやってきた。しかも周りは全員男。勿論これまでに女が敷地内にいたこともあったが今は存在しない。だから、彼女にどうしても抵抗があった。どうしても受け入れられなかった。
けれど、そんなことは言っていられないのも充分承知している。
頭首の命令は絶対なのだから。
クリムスンがこうと決めたらそれは必ず遵守しなければならない。それが掟……
葡萄はそんなことを一人悶々と考えていた。
その姿を見ていたコチニールはなぜか焦り始める。
「ああああ、別に、葡萄はちゃんとやってると思う■……!僕たちにも、マゼンタにも、一生懸命お世話してくれてるし……!」
だが眼鏡の彼は姿勢を正すと、
「いえ、確かに私の説明不足でした」
そして心の中で付け足した。
(便器とは何かと聞かれた時点でもっと早くに気づいてフォローするべきでした。私としたことが……!)
葡萄がマゼンタに向き直る。
「マゼンタ」
「ん……?」
「申し訳ありませんでした、私が至らぬばかりに」
彼は頭を下げた。
コチニールはあわあわしながら葡萄を見ている。
「なぜ、謝る……」
「明らかに私の説明不足でしたので」
「それは違う……」
「でも」
「誰も、悪くない」
眼鏡の彼は家族になったばかりの少女に少しだけ目を丸くした。
コチニールはというとほっとしたように胸を撫で下ろして微笑む。
その時だった。明らかに場違いな間延びする声が聞こえてきたのは。
「あー、いい湯だった」
体からポカポカと心地よい湯気を漂わせたカーマインが、廊下の奥からやってきた。
少年はマゼンタの側で立ち止まると、
「まだ具合悪りぃの?だっせー」
「ちょっと……!」コチニールが弟を見上げる。
「頭まで湯に浸かってのぼせるとか当然じゃん、アホかよ」
マゼンタは「アホ……」と、繰り返した。
「カーマイン」葡萄がたしなめるように少年を見やる。
けれど真っ赤な髪の彼は構わず続けた。
「とにかく俺■おまえとは違って最高の風呂だったよ。兄貴も先に入ってくれば?もうすぐ夕飯だし」
「僕は……」
コチニールは戸惑うように少女に視線を向ける。
それに気づいた彼女は柱からさっと背中を起こし、
「私、大丈夫。だから、入ってこい」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ……」
コチニールはその場に団扇を置いて立ち上がると、廊下の奥へ歩き始める。勿論しっかり後ろ髪を引かれながら。
「俺は飯まで何しよっかなー」
カーマインが両手を頭の後ろで組みながら言った。
「学校の予習をしてください」葡萄が間髪入れずに促す。
「言うと思った」
「稽古も大事ですが学業も同じくらい大切です」
「わかってるよっ……!あー、小うるせー」少年は眼鏡の彼に背を向けた。
「なんですって?」
「なんでもねーよっ」
カーマインは廊下の奥へ去っていく。
「まったく、反抗期なんだから……!」
残された葡萄は悪態をつきながらマゼンタに目を移すと、彼女はまた柱にもたれかかり、全身の力を抜いてぼんやりとしていた。
「本当に大丈夫ですか?」
彼はこれまでより少しだけ心を込めて尋ねた。
「ああ……」
少女はそれだけ答えると、上手く回らない頭の中で繰り返す。
(湯の中に頭まで浸かると、のぼせる……)

彼女がこれから生活する屋敷の奥には、古い歴史を感じさせる家屋が連なっていた。それらはだいたいが灰色の瓦屋根で壁はなく、長い廊下と障子戸だけに囲まれた平屋建ての質素な造りだったが、屋敷から見て一番手前の建物は今現在賑やかな男たちの声が屋内から漏れ出ており、楽し気な彩りを添えていた。
屋敷と賑やかな建物の間にはすのこのような板が敷いてあった。上部には雨が降った時に濡れないための木造屋根もしつらえてあり、さながら渡り廊下のようである。
その渡り廊下を今、カーマインが先頭を切って意気揚々と進んでいた。彼の後ろにはマゼンタを真ん中に挟むようにして、コチニールと葡萄が並んで歩いている。
彼女は湯あたりから少し回復した様子だが本調子ではないらしく、コチニールと葡萄の二人は何かあればすぐに支えられるよう彼女を見守っていた。
「あー、腹減った」
カーマインが叫ぶ。
コチニールは少女を気遣うように、
「マゼンタ、ご飯食べれそう?無理しなくて■いいんだよ」
葡萄も一応手を差し伸べる。
「なんなら部屋までお膳を運びます。そのほう■落ち着けるでしょう?」
しかし彼女は紙のような顔で「もう大丈夫。私も皆と食べる」
コチニールは心配そうに「本当?食欲あるの?」
「ショクヨク?」
「食べたいという欲求ですよ」眼鏡の彼がすかさず説明した。
「あー……ある」
少女はぼやけた脳に任せるがまま口にする。
そんな彼女の様子を葡萄がしっかりと観察していた。

マゼンタはその場に立ち尽くし目の前の光景を呆然と眺めるしかなかった。
渡り廊下の先にあったのは障子戸に囲まれた相当な広さの畳部屋だったのだが、細やかな料理の乗ったお膳が畳の上にずらりと並べられ、揃いも揃った屈強な男たちがその前に胡坐をかいて食事を楽しんでいたのだ。
「メシメシーっ」
カーマインが我先にと室内へ飛び込んでいく。
「大座敷」
「え?」
隣に立つコチニールの言葉に少女は振り向く。
「食事を取る場所のことを我が家ではそう呼んでいます」
自分を挟んでコチニールとは反対側に立った葡萄が付け加えた。
「大座敷」
「びっくりした?ウチはご飯の時だけ■みんなで集まって食べるんだよ」と、コチニール。
「と言っても人数が多いですから、彼ら■食事時間は交代制ですけどね」と、葡萄。
彼女は呆然と眺め続ける。湯にのぼせたせいもあったが、それだけではない。景色が圧巻だった。
荒野にいた時、移動した時、確かに多くの男たちがいることは認識していたが、まさかこれ程とは思っていなかったのだ。
(これが、クリムスンの家族か……)
まさに大家族だな。しかも他の地域にもいるとかなんとか……
するとコチニールが先を歩み始め、
「マゼンタこっち」と、手招きをする。
少女は彼に促されるままに歩き、葡萄も彼女の後についていく。
途端にそれまで散々賑やかだった男たちがどんどん口をつぐんでいった。彼らの箸は止まり、箸先に掴んでいたものはぽたりと椀に落ちる。
「あれ、誰?」
「さ、さあ……」
「美人……」
彼らの囁き声がこそこそと響き渡る。しかしながらそれも最終的には鳴りやみ、それまで楽しそうに盛り上がっていた大座敷はしーんとしてしまった。
マゼンタと葡萄はコチニールの後ろを歩きながらお膳の間を通り抜け、部屋の中央付近へ向かっていた。
コチニールは歩きながらも内心(なんか、急に静かになった)
それに答えるように葡萄も内心(なりますよね、そりゃ)と、呆れる。
そうこうしている間にコチニールが立ち止まり、少女と葡萄も彼に倣う。
マゼンタがコチニールの背中越しに前を覗くと、カーマインがお膳の前に敷かれた座布団の上で既に胡坐をかいていた。
「いただきまーす」
カーマインは両手を合わせて元気に唱える。
コチニールは少女を振り返り、
「基本的に席はどこに座ってもいいんだけど、僕たちはいつもこの辺り■座ることが多いかな」
「へえ」
「あー、お腹すいたね」
コチニールはそう言いながら弟の隣の座布団に正座をした。
カーマインは茶碗にこんもりと盛られた白米にひたすらがっついている。
その時、大座敷の屈強な男たちの中でも一際目を引く例の大男が、お膳の間を通り抜けるようにしてこちらへ向かってきた。
「あ、父上」
コチニールが早速彼に気づく。
クリムスンはさも当然のように少女の前で立ち止まると、
「さっき風呂場で倒れたと聞いたが大丈夫か?」
マゼンタは無表情で答える「大丈夫だ。少しのぼせただけだから」
「そうか、ならよかった」
大男はほっとすると葡萄へ視線を向け、
「面倒をかけるな」
「いいえ」
だが眼鏡の彼の心中は言葉とは裏腹だった。
クリムスンは今一度少女に向き直ると、
「おまえを皆に紹介する」
彼は周囲に目を走らせた。
「皆少しだけ聞いてくれ」
元々静かだった男たち全員が頭首クリムスンに注目する。
「私は養女を迎えた。名をマゼンタという。この子■色々と苦労を重ねてここまで来た。だからよろしく頼む」
男たちの眼差しは興味津々だった。純粋にその目をキラキラと輝かせ心まで躍らせた。
ところが、
「それから、こんなことは言いたくはないが、もしこの子に手出しをした者■既に命がないと思え、以上」
クリムスンの言葉に彼らは一斉にすくみ上がった。
既に命がない、それはまさにそういうことだ。頭首の指示に二言はない。
だが葡萄だけは啞然としてしまった。
(いやさっき、男衆をものすごく信頼してるって言ってましたよねっ⁈ねえっ⁈)
葡萄の思いなど知ってか知らずか、大男は少女に顔を向けると、
「それじゃあゆっくりお食べ」優しい表情で促す。
彼女は何ともなしに「クリムスンは一緒に食べないのか?」
その一言にコチニールと葡萄は吹き出した。
「クリムスンって……」と、呆れる葡萄。
「呼び捨て……?」と、苦笑いのコチニール。
しかし当の呼ばれた本人は全く気にする風でもなく、
「私は仕事の話■あるから後で取る。でも家にいる時は一緒に食べるよ、今夜は席を外すが。それじゃあ」
と、元来たほうへ戻っていった。
マゼンタは彼の後姿を見送りながら、
(仕事か。忙しいんだな)
そう思いつつ、コチニールの隣の座布団に正座をする。
「あのマゼンタ」
彼女の隣に正座をしながら早速葡萄が話しかけた。
「ん?」
「クリムスンのこと■名前を呼び捨てではなく〝父上〟と呼んだほうがいいと思います」
「父上?」
「僕もそう思うよ」
少女は加勢したコチニールのほうに顔を向ける。
「マゼンタはこの家の養女になったんだし、父上って呼んだほうがいいと思うんだ」
葡萄はこくこくと頷いた。
父上とは、父親、男親のことか?
するとこっそり話を聞いていたカーマインが、
「別に〝オヤジ〟でもいいんじゃね?」
白飯をガツガツと嚙み砕きながら言った。
「オヤジ?」
彼女は目を点にして復唱する。
「カーマイン……!」
「雑な言葉を教えないでください……!」
マゼンタは首を傾けて「父上?オヤジ?」
「〝父上〟でっ!」
コチニールと葡萄が声を合わせるように叫んだ。
「父上」
少女は納得したように自らに落とし込む。
(クリムスンのことは、父上と呼ぶ)
彼女の表情にほっとしたコチニールと葡萄は、
「じゃあ、食べよっか」
「そうしましょう」
目の前のお膳に向き直る。
マゼンタも二人に倣ってお膳を見下ろした。
四角いお膳の上にはお椀や小さなお皿が配され、それぞれ汁物や白飯、野菜を煮たものなどが細かく飾り付けられている。ただし全ての料理は白・黒・茶・赤みがかっているのだが。
少女は初めて目にしたかの如くお膳を見回した。
その時両脇から「いただきます」
妙に揃った声が聞こえてくる。
彼女はコチニールと葡萄に交互に顔を向けた。
二人は両手の平を合わせ何やらお膳に拝んでいる。
(今のはなんの掛け声だ?それになぜそんなポーズを取っている?)
コチニールは不思議そうな顔をしている少女に、
「食べる前にね、こうやって」
合掌した自分の両手を見せる。
「〝いただきます〟って言うんだよ」
「いただきます?」
「食べ物そのものに対して、この食べ物に関わってくれた全ての人たちに対して感謝を込めるんだ■」
眼鏡の彼も颯爽と付け足して、
「食材の命、それを作ってくれた生産者の人、運んでくれた人、これらを調理してくれた人、全てにありがとうの気持ちを込めて〝いただきます〟と言うの■決まりなんです」
マゼンタはコチニールの真似をするように自分の両手の平を合わせる。そして、
「いただきます」
慣れない言葉を口に出してみた。
それを見守っていたコチニールは、
「うん、完璧」と、微笑む。

カーマインは既に席を外していたが、大座敷はまた少しずつ賑わいを取り戻していた。
屈強な男たちが飲み食いしながらちらちらと気にする先では、コチニールがマゼンタに箸の持ち方を教えている。
少女は右手の指を動かして、箸を正しく掴めるようにはなっていた。
それだけでなく、コチニールと葡萄はお椀の持ち方、料理の名前、食べる順番なども丁寧に教え、彼女は一応一通りのことは復唱しつつ覚えた。
けれども箸で物を掴むことだけは苦戦しているようだ。
今も箸で皿の上の小さな豆を掴もうとしているのだが、指はプルプルと小刻みに揺れ、豆はするりと元いた場所へ戻ってしまう。
しかし少女は諦めなかった。
「大丈夫?」
コチニールが尋ねる。
「ああ……!」
箸を震わせながら彼女は答えた。
葡萄が自分のお椀を手に持ちながら「なんか、まだ一口も食べていないんじゃ……」
「ああ……!」
と、少女はまた豆を掴もうとする。
見かねたコチニールは、
「やっぱりお箸の練習をする前にお味噌汁から先■飲んだほうが……」
その時だった。
「あっ……!」
マゼンタの箸先に一粒の豆が鎮座していた。
白とも薄茶色とも呼べるその小さな代物は、二本の橋にまたがるようにしっかりと身を支えている。
(出来た……!)
彼女は感動のあまり瞳を輝かせる。
「お、いい感じ」
コチニールも喜んだが、
(やっと一粒……これじゃあ食べ終えるのに何十時間かかることか……)
と、葡萄はうんざりしていた。
そんなことを知らないマゼンタは、捕まえた豆を早速口に運ぶ。
そして人生初であろう紅国料理の豆をモグモグと噛み始めた。
「どう?美味しい?」
コチニールが問いかける。
だがマゼンタは答えずに噛み続ける。
コチニールと葡萄が彼女の両脇で見守っている。
しかしマゼンタはまだ嚙み続けている。
コチニールと葡萄がさらにじっと見守っている。
ところがマゼンタはずっとずっと嚙み続けている。
コチニールはさすがに「長くない?」
葡萄も「長いですね」
そうして一粒の小さな豆を嚙みしめた彼女は、やっとそれを飲み込んだ。
葡萄は疲れたように肩を落とす。
「どう?我が家の味は」
コチニールが尋ねる。
「うーん……」
「美味しい?」
彼女は無表情のまま考え込むと、
「……よくわからない」
コチニールはガクッとなる。
葡萄もすかさず、
「わからないって、我がクリムスン家の料理■けっこう評判がいいと思うんですけど」
「まあまあ」と、苦笑いのコチニール。
葡萄は眼鏡の端を指で持ち上げながら、
「確かに、生まれも育ちも違うでしょうから舌の感覚■違って当然といえば当然……」
その時、マゼンタが手にしていた箸がお膳の上にパラパラと落ちた。かと思ったら、
「うっ……!」
彼女は自分の喉を両手で押さえると、苦しそうに下を向く。
「えっ⁈」
「そんなにマズかった……⁈」
葡萄とコチニールが驚いた次の瞬間、
「おえーーーっっ!」
腹の底から湧き上がる声と共に、上品な料理の上に今食べたばかりの豆を含む液体物がこれでもかと広がった。
葡萄はぎょっとし、コチニールも予想外の出来事に彼女の名を叫ぶ。
しかし少女は白目をむくとそのまま後ろへ倒れてしまった。
「マゼンタっ⁈」
「大丈夫ですか⁈」
薄れゆく意識の中で二人が必死に声をかけているのだけは彼女の耳に届いていた。







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