ほたる
私の目の前を小さな光が横切って行きました。ほたるの季節に真っ暗な庭に佇んでいると、時々そういうことがあります。私はその一瞬の幸せのためにひたすらじっとしています。あの方かも知れない。ただそれだけのために。
もう十年の歳月が流れていきました。あの方と私はまだ少年と少女、幼い二人でした。あの方は時のおおきみ様の皇子様で、私はお側近くに仕える采女と呼ばれる者でした。私は遠い東国から皇子様のお側に参ったのですが、皇子様は何故か私を大切にして下さいました。他にも采女はたくさんおりましたが、皇子様のお体に触れることができましたのは、私だけでした。皇子様がそうなさったのです。決して私の独りよがりではございません。畏れしかありませんでした。でも、皇子様のお優しさに触れるうちに、私の心の内に、だんだんと皇子様をお慕いする気持ちが芽生えていったのは、自然としか言いようのないものなのではないでしょうか。いつしか私にとっても皇子様は大切なお方でした。
皇子様は本当に素晴らしいお方でした。気高い品とお優しい心をお持ちでした。でも、それが皇子様にとっての災いだったのかも知れません。もう少し、強いお心をお持ちだったら、あのようなことにはならなかったのではないか、と私は思わずにはいられないのです。
皇子様は、おおきみ様の跡継ぎとなられるお方でした。しかし、おおきみ様はご病気がちで、まつりごとは、さきのおおきみ様の皇子様でいらっしゃるお方にお任せしておいででした。そのお方はとても気持ちがお強くて、
おおきみ様をないがしろになさっておいででした。私の大切はお方は、その皇子様に疎まれてしまったのです。
私の皇子様はお命の危険をお感じになり、気がふれた者のなりをなさるようになりました。一日中、空を見上げておいでだったり、野に咲く名もない小さな花に話しかけていらっしゃいました。そして時々、いいえ、ほとんど毎日のように、私の胸に顔を埋めて、お泣きになりました。声を押し殺した、本当に胸が張り裂けそうな悲しいお姿でした。
おおきみ様のご病気がいよいよとなられた時、皇子様は私をほたるがたくさんいる細い川のほとりに連れていって下さいました。何もお話しにならず、ただ、無心にほたるを見つめる皇子様の目から、大粒の涙が流れ落ちました。そっと拭いて差し上げた私の手を取り、皇子様は小さなお声で、独り言のように仰いました。
「私はほたるになる」
と。
「暗やみの中で、大切なあなたのためだけに小さな光を届けたい」
私は何も申し上げませんでした。皇子様のお気持ちだけで、私は気を失ってしまいそうでした。
それから幾日が過ぎ、おおきみ様はお隠れになりました。彼の皇子様へのご遠慮からか、とても寂しいお旅立ちでいらっしゃいました。私の皇子様は亡きおおきみ様の傍らにお座りになって、静かな涙を流しておいででした。そのお姿はまるで、時を忘れてしまった方のようでした。
私の皇子様がこの世から去られたのは、それから幾日かたった、今にも雨が降りそうな薄暗い午後でした。皇子様は気がふれたふりをなさっていただけで、ご病気ではありませんでした。皇子様の大切なお命は、奪われてしまったのです。お優しいあのお方は、ただ、おおきみ様の皇子様でいらしたというだけで、遠いところへ行ってしまわれました。
「ほたるになる」
あの方のつぶやきが私の心から離れず、こうして毎年ほたるの季節になると、庭の片隅に佇み続けています。きっと帰ってきてくださると信じているのです。そして、語りかけてくださると。そして、その時こそが私があの方のもとへ参ることのできる時だと、心を決めているのです。