『世界は僕を拒む』⑦
その日から僕の環境は変わった。絵を描いて欲しいという人が次々に現れ、僕は1日に3人以上の似顔絵を書いていた。依頼者の僕を期待する目がなんとも嬉しかったし、それを受け取った時の反応を見るのが楽しみだった。空っぽだった僕に役割が生まれたことに安心感を覚え、それを与えてくれたクラスメイトも僕が思っていたほど悪い奴らじゃなかったのかもと思えるようになると学校へ通うことも、むしろ生きていくことが一段と楽になった。授業中に隠れて絵を描くこともあり先生にバレては注意をされていたが、その度に必ず依頼者が僕と目配せをして何か反応を見せてくれていたからそれさえも嬉しくかった。
とある昼休みに僕が黙って絵を描き続けていると、佐藤さんがゆっくりと僕に近づき、だまって真横に立ち尽くしていた。
「なに?」
「橋本くん、変わったね」
「変わってなんかないよ。絵を描くのが楽しいだけで」
「ううん、表情が変わったよ」
そう言う佐藤さんの顔は暗かった。普段から決して明るくはない佐藤さんだったが何か思うところがあるのがひしひしと伝わってきた。
「僕が変わって何か問題ある?」
「問題じゃ…ないけど、橋本くんらしくないなって…」
「僕らしくないって、どういうこと」
「橋本くんはいつも他の人が見えないところを見ていた。知らないことを知っていたはずなんだけど、それがなんだか…まるで全部忘れちゃったかのようで」
「キミが僕のなにを知ってるって言うの?」
僕は佐藤さんを睨みつけた。佐藤さんを睨むのはこれで2度目だ。1度目は太田先生との面談をつけられた時。その僕の冷たい態度が彼女を傷付けているかもしれないなんて少しも思わなかった。
「ごめんね。でも、前の橋本くんの方が素敵だったから」
「キミには関係ないだろ?」
佐藤さんは俯いた。僕は絵の続きを描き始めた。
「もしかして、僕のこと妬んでるの?」
「違うよ」
「前に、僕は人と違うって言ってくれたよね」
「うん」
「僕が違うんじゃない。キミと僕らが違ったんじゃない?」
「違う、違うよ」
佐藤さんは震えた声でそう言うと僕の元から離れていった。
それからクラスメイトをほぼほぼ全員描き終わると、僕の似顔絵も飽きられていった。依頼を受けることは無くなったし、僕も売り込もうとなんてせず、絵を描くことは無くなった。特別仲の良い子が出来たのかと言われれば決してそうではないが、なんとなく教室内の疎外感というものは感じなくなっていった。
そんな頃、僕は太田先生に呼び出され久しぶりに『生徒指導室』にいた。相変わらず脆い椅子に腰掛けた。
「良かったなあ」
「なにがですか?」
「クラスの中にお前の居場所があるからさ」
「似顔絵のことですか?それならもうブームは過ぎてしまってるので」
「いや、それが無くても居心地悪くないだろう」
「さあ、どうでしょう」
太田先生はニンマリと笑っていた。垂れた目尻と上がった口角がくっついてしまいそうで気味が悪かった。僕の椅子がギシギシと音を上げると太田先生はまた口を開いた。
「佐藤となにかあったのか?」
「なんでですか?」
「最近一緒にいるところを見ないからな」
「僕たちってそんなに仲良さそうに見えましたか?」
「佐藤も話せるのは橋本くらいで、橋本も佐藤としか話してなかったからな」
「あれは佐藤さんが一方的に…」
「まあまあ、佐藤もお前のことをずっと心配してくれていたんだから、今度はお前の番じゃないか?」
「…佐藤さんはなぜあんなに僕を気にしていたんですか」
「それは多分、橋本が唯一同じ小学校出身だからじゃないかな」
「ああ、そうなんだ…」
「知らなかったのか?」
「はい」
「一度も同じクラスにはなったこと無いらしいから無理はないか」
太田先生はその後も雑談を交えながら僕に何かを話し続けていたが僕は上の空でその言葉の一つも聞き取れずにいた。佐藤さんは僕のなにを知っているのだろうか。僕のことを本当にずっと見てきたのかもしれないと思うと胸が苦しかった。
『生徒指導室』を出て冷たい廊下を渡る。外からは運動部の威勢の良い掛け声が聞こえ、階段の向こうからは吹奏楽部の演奏が聞こえる。似顔絵も飽きられた今、僕はまた自分の役割を見失い始めていた。
「結局、空っぽ」
僕は荷物を取るために自教室に向かっていた。外から見た扉の閉められた教室は小さく見えた。こんな狭い場所でなにか居場所や役割を得ようと必死になることはやっぱりそれはバカのやることだと思ってしまうが、現に僕はその“バカのやること”で満足した瞬間があった。そもそも、僕が“賢い人のやること”だと思っていた仕事をする時はこの教室よりも狭い場所で、いつでも僕と高橋さんの2人きりだった。
僕は冷たくなった教室の扉を開けた。そこには佐藤さんがいた。
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