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ワタシを世界に解き放つ

英語の【試験】は昔から得意だった。

高校の時の先生がとてもハンサムで教え方が抜群にうまく、英語が好きになったというのもある。特に勉強しなくてもいい点数が取れたし、英語の勉強そのものが好きだった。

でも、話すとなると全然だめ。
相手が何を言っているかはかろうじてわかるけど、自分の言いたいことはノリと中学生レベルの単語を並べてなんとか伝えるのが精いっぱい。

社会人になってからも結構な金額を払ってマンツーマンの英会話に通ったり、通うのが難しい育休中は、そのころはやり始めたオンライン英会話でフィリピンの女性と親しくなったり、子供のECCレッスンをきっかけに大人のレッスンに通ったり、数年前までは海外出張の多い部署で仕事をしていたり(これもノリと通訳でなんとか乗り切った)、英語コーチをしている友人のコミュニティで話をさせてもらったり、まあ、色々いろいろやってきた。

そして、未だにうまく話せない。


これはもう、私の人生にとって必要じゃないのかもしれない。

思い返せば、就職氷河期に新卒で入った会社は、一部上場のちょっとした有名企業で、世界中に支社があるような会社だった。同期は研究・技術職と営業あわせて200人くらいいた気がする。

同期もまた東京や地方の有名な大学を出た人ばかりで、帰国子女とか、顔はめっちゃ日本人なのに言語はむしろ英語がネイティブで、酔っぱらうと英語でしゃべっちゃうような人もいた。

そして、営業職で入社した100人近くのうち、ほとんどが海外勤務を希望していた。社長も入社の時の挨拶で「ぜひ海外へ!」って言ってた(ような気がする)。

そんな同期たちを当時「海外赴任なんて一ミリもしたくないわ(とんでもないとこに来ちゃったな)」と眺めていたわたし。

だから、当時は「英語でコミュニケーションしたい」なんて、少しも思ってなかったんだ。

だから今、「英語でコミュニケーションしたい」という、ぬぐいがたいこの気持ちがいつどこから来て、私の中にあり続けるのかが謎だ。

【英語】は私にとって、何なんだろう。



実際は、言葉なんてしゃべれなくても、その言葉が不自由な中で通じあえることがものすごく嬉しかったりするし、日本語だと話半分で聞けてしまうことも、英語だと全身全霊で聞いたり伝えたりする必要があるから(そのくらい集中しないと何言っているかわかんないからだけど)、その全身全霊のコミュニケーションをしたいだけなのかもしれない。

そもそもペラペラになりたいと思ってないのはそのせいだ(笑

あるいは、英語で話すときのワタシは日本語で話すときの私とは少し違うからかもしれない。文法のせいか、発音のせいか、あいまいを許さない言語だからか、英語のワタシはより本質的なわたしのような感覚がある。そういえば英語ネイティブの同僚が、日本語の時は高音でひょうきんなキャラクターなのに、英語で話すときは低音で真剣な感じでドキッとしたっけ。

それに、英語を話せるという自信は、現実的な世界を広げてくれる。一人旅をそれほどしたいわけじゃないし、今すぐに海外に移住したいわけじゃないけど、「したいならすればいいじゃん」主義の私が二の足を踏むのは、やっぱり言語の影響が大きいのだ。

こうして書いていて思う。

私はただ
わたしという人間として、全身全霊で相手と関わって、笑いあいたい。
っていうだけ。

で、それなら日本にいて、日本語でそれをすればいいじゃん。

と。

そして同時にこうも思う。

いや、言い訳ばっかしてないで、
そろそろ本気で英語しゃべれるようになりなよ
ってね(苦笑


********

本当は、英語が好きなことにも
海外に行きたいことにも

何の理由もないし何の意味もないのだ。
そして、何の理由も意味も必要ないのだ。

もう、特別なことと思わないで、
自分にそれをすることを許してあげようと思うよ。

英語なワタシをこの世界に解き放つ。

これが、ちょっとフライング気味な2025年の抱負。




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