大切な人を亡くしても、自分は生きていくということ。
「私は半分死んでいる。」
今思えば、そういう感覚で生きていた数年間があった。
初めて付き合った恋人が突然亡くなった、高校生の頃だ。
亡くなったのは別れてから2年くらい経っていた頃で、
別れた後も私はずっと彼のことが忘れられず、大好きだった。
人は必ず死ぬ。
そんなことは誰でも知っているけれど、
実際に大切な人が亡くなると、
そのことが与える衝撃の大きさに驚く。
そのとてつもない「不在」の重みに、
私は耐え切れなかった。
私は当時、その苦しい心境を
誰かに語るということはできなかった。
そこまで心を開ける人が周囲にいなかったということもあるし、
どんな言葉を使っても私の気持ちを上手く表現できない気がした。
それに、言葉にすることで
彼の死が本当に「現実」になる気がして、
怖かったのかもしれない。
今から思えば、私は無意識に、感情を麻痺させていた。
平気なふりをしていた。
まともに感情を感じると、
自分が壊れてしまうと思ったのだろう。
自分を守るために、私は私の感情を
できるだけ見て見ぬふりをした。無意識に。
けれど一度、もうどうしても我慢ができなくなって、
自分の部屋に一人こもって
思いっ切り泣いたことがある。
窓から見える池や公園を見ながら、
わんわん泣いた。おいおい声を上げながら号泣した。
泣き過ぎて体が痛くなるくらい泣いた。
まさに「身を切られるような思い」というやつだ。
彼がいないのに、
私は生きている。
なぜなんだろう?
なぜ私は生き残り、
彼は死んだんだろう。
苦しい。苦しい。会いたい。会えない。
こんなことが起こるのが人生なら
生まれてこなければよかった。
圧倒的な孤独感と絶望だった。
毎日沢山の人が亡くなっているこの世界で、
きっと今日も同じような深い悲しみを抱えて生きている人が
沢山いるのだと思うと、
全員を抱きしめて回りたくなる。
「大切な人の死」という大枠では同種の体験ではあるけど、
それぞれに個別の事情や関係性や感情があって、
一つとして同じ体験はない。
だから、私が彼を亡くした経験と一緒くたにはしないんだけど、
それでも、
「悲しいね。つらいね。よくがんばっているね。」
と言って、
あなたを抱きしめたい。
あれから20年以上の時を経て、
今も私は生きている。
平気なふりをしたり、
自暴自棄になったり、
虚無感に襲われたりもしながら、
傷ついた心が少しずつ癒やされてきて、
今まで生きてきた。
今では、彼との体験のすべてが、
私の人生の中でいちばんの宝物になっている。
昔は、
「彼の死を乗り越えたい、心の傷を完全に癒やしたい」
と思って生きていた時期もあった。
だけど今は、
「彼の死という喪失体験と共に生きる」という感覚で
生きているように思う。