【神様になった日】奇跡の重さを知る日
人間は、太古の昔から奇跡に魅せられてきた。
神話や宗教、演説に偉人伝、口説き文句から商品の宣伝まで、それはあらゆるものをきらびやかに飾りつける。
創作も数えきれない。
想像を超えた幸運に、私達はあこがれ、胸をときめかせ、そして喜びの涙を流す。
当然アニメも、だ。
これを取り扱った作品は、それこそ、いくらでもある。
夏休みが始まったばかりの日だ。
高校生の成神陽太の前に、ひなという少女が現れる。
彼女は、一〇歳でありながらも、自身の正体を”全知の神”だと称する。
もちろん、陽太は信じるわけがない。
ひなは、テレビで競馬実況を観て、その結果をぴたりと言い当てる。
少し驚いた陽太は、彼女にたずねる。
同級生の伊座並に好かれるには、どうすればいいか。
ひなの回答は、野球でホームランを打つことだった。
だが、陽太がバットを持っても、さっぱり打ち返せない。
もしやと考え、試合後に伊座並へ告白するが、あえなく断られる。
ひなは、陽太に真剣な表情で話す。
この世界は三〇日後に終わるという。
伊座並のこともあり、陽太はまともに取り合わなかった。
彼の両親は、あっさりとひなの居候を認める。
それからしばらくして、妹の空が怪我をして帰ってきた。
彼女は、部活OBのひかりの実家であるラーメン屋を手伝っている。
ひかりの母親は病気で寝こんでいた。
店には客が来ず、借金だけがどんどんとかさんでいく。
空は借金取りからひかりをかばい、負傷したのだ。
ひなが提案する。
彼女は、陽太に再生屋を演じるように指示する。
そして、ひなの思いつきを、陽太がひかり達に伝えて次々と実行していく。
店名を”堕天使”に変更する。
スープには、旨味調味料を大量に投入する。
テレビにも取材され、徐々に客が増えはじめる。
やがて陽太は、様子を見にきた借金取りに絡まれてしまう。
殴られそうになるが、ひなの命じるとおりに動くと、相手の拳をすべてかわせた上、返り討ちにできた。
何日か経った後である。
以前から、陽太は美人弁護士コメンテーターの賀子のファンだった。
その賀子が麻雀大会を主催する。
ひなは、ネット予選にエントリーして決勝まで勝ち上がる。
彼女に勧められるままに、陽太は決勝戦に出場することになった。
だが、陽太は麻雀のルールを知らない。
大会の前夜にネットで確認しようとするが。ひなに止められてしまう。
当日、ひなの命令どおりに陽太は牌を打つ。
まず、それっぽくもルールにはない役”二色同順”を作り上げて和了る。
単なる反則なのだが、賀子はその独創性に夢中になってしまう。
局は続行され、陽太は”東西南北”や”不純全”などで和了を連発する。
さらに、UNOにあるという理屈で、省略や逆転をおこなう。
終盤には、立直を三連続で宣言し、ついに優勝する。
どちらも評判になった場面だ。
特に、第四話「闘牌の日」の、そのあまりにも独特な役の画像は、いっときツイッター上でよく見かけた。
ひなの発想は、むちゃくちゃである。
常識の範囲でならば、絶対にむりだと感じるから、そもそも候補として選ばない。
それをあえて、ひなは口にする。
しかも、たいていは本当に上手くいってしまう。
そこが面白い。
ボケを中心にして進行する漫才を楽しむ観客と同じである。
”たいてい”とは、必ずしも全部が、ひな達にとって好ましい展開になるわけでないということだ。
ホームランや伊座並への告白、賀子から逃げ出したのは、陽太に実力や覚悟が足りないからだった。
ひなは物事を予見できるが、何もかもを見通すことはできない。
つまり、全知ではない。
夏祭りの日、ひなが冷凍車の荷台に閉じこめられたのも、そうだ。
そこには、明確な限界がある。
陽太は、両親のかつて世話になった人物の孫が、ひなだと聞く。
彼女の家族のことを少し知って、陽太はある決心をする。
ひなの父親に会い、詳しい事情をたしかめる。
彼女はあまり乗り気ではなかった。
しかし、陽太に押し負けるような形でついていく。
ひなの父親は、再婚して田舎の集落で暮らしていた。
彼はひなを見て驚愕する。
その妻は、突如としてやってきた前妻の子にうろたえる。
父親は陽太達を浜辺に連れ出す。
そして、ひなを手放した理由を語る。
ひなはロゴス症候群をわずらっていた。
これは、脳と筋肉の萎縮が同時に発生するという先天性の病気だ。
前妻に先立たれた父親は、ひなのために、とほうもない労力と大金とをついやしてきた。
彼は、はばかることなく述べる。
自身はひなをきっかけとして多くのものを犠牲にした。
一から家庭を作り直す羽目にもなった。
彼女から解放されて、今ようやく人並みの幸せを得られている。
どのような状態であれ、ひなとは決して再会したくなかった。
苦難と挫折の過去を、いまさら持ち出すことは、ちっとも望んでいなかった。
冷酷にも、父親は付け加える。
ひなと一緒に過ごしていれば、まちがえなく自身のように、思いがけない災難に見舞われる。
陽太は暗く沈んだ気持ちで、ひなとともに帰宅する。
第八話「海を見にいく日」だ。
陽太とひなとは血縁でない。
それでも、陽太は心から、ひなを空よりも年下の妹のように思っている。
空も同じだ。
両親も、実の子供のように可愛がっている。
だから、たぶん陽太は疑わなかった。
家族であれば温かく迎え入れてくれる。
ところが、ひなの父親は、血がつながっていながらも、その存在をこばんだ。
陽太の期待は、無残にも打ち壊された。
この話で、現状は、完全に陽太やひな達の思いに沿わないものと化す。
ちょうど、ここで視聴を諦めたというツイートを見たことがある。
たしかに、ギャグから一転して、全体がシリアスの様相を帯びてくる。
喜劇で思いっきり笑おうとしているのに、悲劇を鑑賞させられたら、席を立ちたくなる気分は、なんとなく理解できる。
後の、最大の悲しみともいえる”神殺し”にいたる部分も、各話の随所で描かれてはいる。
けれども、ラーメン屋や麻雀の印象が強すぎて、あまり鮮明に残らなかったという意見にも、充分に納得できる。
本作のギャグ要素は、確実に面白かった。
が、それゆえに、シリアスが薄らぎ、唐突になってしまった事実は否定できないであろう。
央人は、ひなと陽太の二人を調査していた。
現代医学において、ロゴス症候群を治す手立てはない。
ひなの祖父は情報工学の博士だった。
彼は自身の知識を活かして、チップ型の量子コンピューターを発明した。
それが、小さく縮んだ本来の器官に代わって、ひなの頭の中で働いていた。
彼女の不思議な能力も、この量子コンピューターに由来するものであった。
文字通り、天才の祖父だから実現できたにすぎなかった。
現代科学では、この量子コンピューターの構造も原理も解明できない。
祖父が亡き今、ひなの身体は人知を超えた霊異の代物である。
央人の背後の組織は、彼女を人類への脅威ととらえて、コンピューターの摘出を決議する。
その瞬間、ひなは察する。
”世界の終わり”とは、ひな自身の終焉だった。
空達と始めた映画撮影の最中、謎の男達が乱入してくる。
彼らは組織の配下にあった。
陽太は、ひなとともに逃げまわる。
事態を把握しているひなは、なぜそのようなことをするのかと彼に問う。
陽太は返す。
彼はひなのことが好きだった。
けっきょく、ひなは捕まってしまう。
男達に連れていかれる中で、彼女が陽太に向かって告げる。
自分も陽太のことが好きであった。
こうして、”神殺し”は達成された。
年が明けた。
陽太は、央人がひなの情報を突き止めたのだと気づく。
央人は、彼女の居場所を、陽太に案内する。
加えて陽太がそこに研修生として立ち入れるように手配した。
あれからひなは、山奥のサナトリウムに入院している。
彼女はすっかり変わり果てていた。
単語すらも発することができない。
当たり前だが、会話もだめだ。
慣れない相手には、ひどくおびえ、泣き叫ぶ。
それは、陽太も例外ではない。
職員の司波は、過敏な彼女を刺激する言動は慎むようにと、彼を厳しく叱責する。
陽太は、どのようにしてひなの記憶を取り戻すか悩む。
考えた末、かつて彼女が好きだったものを見せる。
が、ひなは全然反応しない。
そのうち、焦った陽太の言い方が強くなる。
ひなは恐怖してわめきだす。
司波からは退室するように命じられた。
司波は陽太に言い放つ。
彼の思い出の中のひなは、しょせんチップが生み出したいつわりの人格でしかない。
しばらくの間、陽太は落ちこむ。
どうしても諦めきれない陽太は、テレビゲームを取り寄せる。
ひなは、最初こそ何も変化がなかったものの、やがてほんのわずかに関心を示した。
毎日少しずつ、彼女はゲームを遊びはじめる。
ある日、陽太は、ひなが敵に負けてコントローラーを投げ捨てるのを目にする。
彼は、寝る時間を削って、ひたすらにレベルを上げる。
それを見た司波は、陽太のひなに対する想いを感じ取った。
彼の努力の成果か、ひなは、プレイの途中で、笑うようになる。
司波は陽太の提出したレポートを読んで、愕然とする。
その内容は、施設での陽太の行動とは真逆だった。
司波は彼の経歴を調べ上げる。
こうして、とうとう彼女は、陽太が身分をいつわっていることを突き止める。
司波は、彼にここからの退去を勧告する。
ひなは、司波の付き添いで海外へと転居することが決まる。
その日は、陽太が施設を去るのと同じだった。
彼は、ひなの成神家での思い出に最後の望みを託す。
家族の似顔絵のカードを作成し、順番にひなに説明していく。
だが、彼女は陽太のカードを投げ飛ばす。
つい彼の口調は激しくなってしまい、おびえたひなに拒絶される。
いよいよ、二人は施設での最終日を迎える。
陽太はひなにさよならを伝える。
そして、建物に背中を向けて歩きだす。
ひなが口を開いた。
たどたどしくも、陽太が好きだとしゃべる。
ゆっくりと、ひなは彼のほうへと進み出る。
司波はひなの退居を許可する。
陽太達は、成神家に帰る。
両親も空も、笑顔でひなを歓迎した。
中断していた映画撮影が再開される。
陽太は、ひなの病気を根治するために、医学部の再受験を決断するのだった。
なぜ、ひなは陽太との帰宅を選択したのだろうか。
少なくとも、二通りの解釈がある。
現在のひなは、自身に寄り添おうとした陽太を受け入れた。
つまり、彼女の途切れた記憶を、陽太が結びつないだことになる。
もう一方は、ひなが、ほんのちょっとでも成神家の出来事を思い出したというものだ。
陽太の働きかけを受けて、ひな自身が、今と昔で断絶していた二つを関係させた。
これらのどちらからしても、二人が過ごした日々には重要な意味がある。
おそらく、両方とも正しいのであろう。
私が直感したのは、後者のほうだ。
多少、学問に触れるが、約一二〇年ほど前、心理学者のユングは普遍的無意識という概念を提唱した。
意識には、ふだん自覚することのない深層の領域がある。
そこに、誰しもに共通する人間の根源が宿っているという。
古代の人々は、これを神話として表現した。
ギリシア神話のゼウス、インド神話のインドラは、二柱とも雷霆の神だ。
彼らは、いずれも自らの父親を殺す。
オルペウスは自身の妻を追って冥府に入った。
冥府の王ハデスは、夫婦が現世に戻ることを許すが、そのための条件を提示する。
それは、ここを抜け出るまで、断じて振り返ってはならないというものであった。
生還の直前、オルペウスは不意に背後の妻のほうを見てしまう。
彼らは、再び離ればなれとなった。
また、日本神話にては、イザナギは妻のイザナミを追って黄泉国を訪ねる。
けれども、イザナギは、死んで醜く朽ちた彼女の身体を目撃し、戦慄する。
彼は慌てて黄泉から逃げ帰る。
イザナミは、そこへと置き去りにされたままである。
何千キロも遠くへだてられ、年代も文化も異なるはずの民族が、似たような伝承を語り継いでいる。
アメリカやアフリカ、オーストラリアの各地にも、先住民による同じような言い伝えがあるらしい。
それは、ほかならぬ人間としての根源の現れだ。
人類の先祖は、ずっと群れで生活してきた。
まだ、他の霊長類と分岐する以前の、毛むくじゃらで、あごの突き出したサルに近い格好をしていた時代のことだ。
すでに彼らの中には、自分と他人という区別があった。
だとすれば、相手への感情も、霊長目という分類単位でそなわった本質だろう。
そこに含まれる好意を、突き詰めると”愛”となる。
別に、恋愛だけをいうのではない。
陽太とひなには、確固としたきずながある。
とはいえ、明らかに恋とは違う。
高校生の陽太と、一〇歳のひなでは、年齢も容姿も不釣り合いだ。
だいたい、彼には伊座並という意中の人物がいる。
仮に、本気でひなを恋い慕っているとしたら、夏祭りで遭遇した丈士朗(『Charlotte』からの出演)のように、ロリコン呼ばわりは避けられない。
陽太が、ひなと引き離されるとき、声に出た”好き”は、まちがえなく家族愛のはずである。
ひなは、チップを除かれると同時に、先の人格を失ってしまった。
が、人間という種でいる限り、この原初の意識はあり続ける。
陽太の熱心な介抱で、ひなの奥底に眠っていたものが目覚めた。
ひなの胸に、家族とそのほかを見分け、母親を求めて泣く赤ん坊の心持ちが、よみがえった。
いうまでもなく、それこそ家族愛なのだ。
しかしながら、いくら誰にもあるとはいえ、このような現象は、何度も起きるようなものではない。
だから、陽太達の体験したことは、まごうかたなき奇跡である。
本作の番宣では、麻枝准の原作・脚本だという点が、さかんにフィーチャーされていた。
彼は、『Angel Beats!』や『Charlotte』を担当したこともある。
要するに、この作品のメインは、ギャグではなく、後半のひなにまつわる箇所なのである。
ツイッターでは、実際にハッピーエンドなのかという疑問を目にした。
ラストにおいても、ひなは回復するわけではない。
撮影も、車椅子に乗っての参加だ。
ところが、陽太はひなとともに暮らすことを望んだ。
両親や妹、親友、幼馴染、友人達も、そうだ。
なにより、ひな自身の希望でもあった。
彼らの願いは叶えられた。
単純だとしても、陽太達と制作者にとっては、明白なハッピーエンドなのである。
どうも『Angel Beats!』や『Charlotte』に比べると、このアニメはいまいち地味なままだ。
主要な舞台は、山梨県内がモデルになっている。
映画撮影のとき、なんだか見覚えがあると思ったら、私のスマホにも写真があった。
山梨市の笛吹川フルーツ公園だ。
が、私が友人と訪れたのは二〇一八年、放映の二年前にあたる。
その年の冬アニメ『ゆるキャン△』を観てのことである。
悲しくも、紹介のとき、『神様になった日』で映画を撮影したところ、よりも『ゆるキャン△』で野クルの三人がいった場所、とするほうが通じるだろう。
巡礼の大半も、そちらのほうが占めているはずだ。
ひなの奇跡は、視聴者からすればどこか軽かった。
家族愛それ自体が、結弦のかなでへの、有宇の奈緒に対する心情よりも響かなかったのか。
突然のシリアスに困惑したのか。
ひなが完治しないという半端なラストに満足できなかったのか。
原作、脚本のおかげで、ハードルが相当に上がっていたのか。
きっと様々な原因が重なっているのだろう。
もっとも、技術面のクオリティーはかなり高い。
今回、私は第三話、第四話、第八話、第一一話、第一二話を観返したが、やはり作画はとてもきれいだった。
特に第八話、父親の家の付近での風景には、そこはかとなく真夏のさびしさがただよっていて美しい。
棒読みの声優もいない。
キャラクターデザインも今っぽくて、なかなかに可愛い気がする。
正ヒロインはひなだから、準の伊座並さんの出番が控えめだったのが残念なぐらいである。
ひなぐらいに目立てば、かなでや奈緒には匹敵したのではないか、とも感じる。
完結したものの評価がくつがえることは、まれである。
だが、あらかじめ誰も知りえないのが、奇跡にほかならない。
絵画や小説、映画には、何十年もの後に名作といわれるようになったものが、無数にある。
あの『ルパン三世 カリオストロの城』ですら、公開の当初はあまり注目されなかったという。
偶然にも、私の脳裏に一つの台詞が思い浮かんだ。
麻枝准も脚本にたずさわった、某有名ゲームの名言である。
検索すれば、すぐに見つかるだろう。
しかし、光はまだある。
それに対する返答は、こうだ。
起きる可能性が少しでもあるからだから奇跡って言うんだ
だから、困難でも信じるのだ。
いや、他から引用しないといけない時点で見込みは薄いかもしれないが、まったくないわけではない。
天秤の皿は重い側に傾く。
奇跡を計るときも、だ。
その重さは、視聴者達の評価ともいえる。
重ければ重いほど、心にあざやかに残るし、話題にもなる。
こればっかりは、しかたのないことなのである。
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