フワちゃんの発言について思うこと、誹謗中傷と炎上と人気の切り離せなさについて
フワちゃんのSNS投稿を巡る一連の事象について、もう既に語りつくされている感もありますが、個人的に考えさせられるところがいろいろあったので、考えを整理するために書きます。
先月書いた記事(『クレバーなクレーマー』キャプチャ批判の問題点は、「違法」と「不快」を混同していること)に大変多くの反応を頂いてありがたかったのですが、前回の記事ほど内容を整理できていないので、前回同様の事実ベースでの意見が読みたい方の期待には沿えないかもしれません。
また、私自身は『フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)』をほとんど聴いたことがないので、リスナーから見た時に的外れであったり嫌な言い方になってしまったりしていたら申し訳ありません。
まず最初に、芸能人に限らずあらゆるインターネット上での炎上騒動を見るたびに思い出す記事があるので、それを貼っておきます。
この記事は全部の内容がその通りすぎて一部を抜粋する意味はあまりないので、ぜひ全文読んでほしいし、この件で、フワちゃんやそのラジオが好きで、多数の攻撃的な意見を目にして傷ついてしまった人にも、上記の記事が届けば良いなと思っています。
この記事に書かれている考え方、「誹謗中傷と批判に違いはない」、「事実かどうか、正論かどうかはそれを発信して良いかどうかとは一切関係ない」ということを前提としてこの後の話を進めています。
最上級の罵倒ではないからこそ最大級の失言になった
件の暴言を最初に見た印象としては、確かにかなりキツいことを言っているなとは思いました。しかし、その後言われているように、もっと酷いことを言っている芸人で炎上もしていないし仕事も失っていない人もたくさんいるし、そういう意味でこれが「考え得る限り最悪の発言」かというと全然そんなことはないと思います。
それでもあの投稿がここまでキツい印象を与えたのは、おそらく一番リアルで笑えないラインだったから、ではないでしょうか。
いろいろある暴言の中でも絶妙に笑えないというか、元の投稿になるべく被せた結果の言葉選びであるというのはわかった上でも、「殺す」や「死ね」よりも「死んでください」の方がリアルで辛い気持ちになるなという印象を受けました。それが言葉ではなく文面であること、丁寧な敬語だからこそ冗談に見えないことも相まって、この投稿を目にした周りの人もダメージを受ける度合いが一番高いポストになってしまっています。
その意味で、過去のいろんな失言と比較して「もっと酷い失言でここまで言われていない人もいる」という擁護も少し違うというか、「もっと酷いことを言っていた方が逆に冗談だと伝わりやすかった」はずで、そこは本当にあらゆるピースが悪い方に噛み合ってしまったという、気の毒な部分も大きいなと思います。
本人への誹謗中傷は絶対に良くない
フワちゃんの発言がどんなに酷かったとしても、それに対してそれ以上の誹謗中傷を浴びせる権利は誰にもありません。
まして、この発言は冒頭に述べたように「絶妙なラインの失言だったからこそ嫌な気持ちを与えた」というタイプのものなので、実際の罪の重さよりもそこから受ける悪感情が大きくなってしまっているはずです。
なので、あの投稿を見てどれほど嫌な感情を抱いたとしても、その感情に見合うレベルを定めて他人を攻撃するのは絶対に間違っています。
騒動後に出された謝罪文も、もちろん問題の根本を訂正するものではなかったもののかなり誠実な内容で、裏垢や匿名アカウントであの投稿をするつもりだった、という当初広まっていた推測よりはマシな内容でもありました。また、「あの内容だったら出さなくても同じだった」というのは、「何か批判をされても無視するのが最も正しい」という間違った常識を肯定するものなので、正直な声明を出したこと自体は正しく評価されるべきだと考えています。
なので、あの内容に対して「出さない方がマシ」のようなことを言っている人は、最初に受けた印象に基づいて下した自分の判断を撤回できず、振り上げた拳のやり場を失っているだけというのが適切でしょう。
そこまで文句を言って叩き続けている人たちは間違いなくフワちゃん本人よりもはるかに悪質だし、「この人なら叩いても良い」という免罪符を与えられたらその人を殴り続けても良いという心理であったり、存在するあらゆる事象を善悪のどちらかに分けられると思い込んでいるかのような考え方が、世間の一定数に浸透していることは本当に恐ろしいと今回の件で改めて思っています。
たとえ人間が本能で反射的に思ってしまうことであるとしても、自分自身に潜むその危険な加虐性について自覚する人が1人でも多くなってほしいと、それが難しいことはわかった上で強く思っています。
ただ一方で、今フワちゃんに向けられているような過剰な誹謗中傷や批判はおかしい、良くない、というコンセンサスが社会に浸透すればするほど、今回のフワちゃんの特定の個人に向けた過剰な暴言という行為もまた、今以上に問題視されることになってしまうでしょう。あれもストレートな誹謗中傷そのものだからです。
そこが今回の件についての擁護を難しくしている部分でもあって、普段こういうことが起きた場合に、その炎上している人に対して一方的に罵詈雑言を浴びせるような人たちのことを不快だと思っている人ほど、元のフワちゃんの発言そのものにも強い不快感を示す、という二重構造があるために、全体的な世論もより否に傾きやすくなってしまっているはずです。
だからこそ、普通の炎上に加担するよりもよっぽど自分が何をやっているかに気づきやすいはずなので、今回の件に対して自分のことを正義だと信じて暴言を吐いている人たちは、どれだけ無神経で無恥なのだろう、とも思います。
ANN降板の判断は適切か
『フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO)』の終了については、かなり厳しい判断が下されたし、ニッポン放送の判断がフラットで公平なものかと言われると、そうではないな、とも感じます。
横並びの他のパーソナリティと比較した時にこういう重い判断になった理由として、まずソロかコンビかという違いはありそうに思いました。完全な想像ですが、例えばこれが「フワちゃんと〇〇のオールナイトニッポン0」であれば、片方がしばらく休むことはあっても番組そのものを終わらせる判断は遠のいていたのではと思えるし、今ANNを担当しているコンビ・ユニットの場合も同様です。
逆に今ANNシリーズを担当している他のソロのパーソナリティーが同じ発言をした場合のことを想像してみると、降板や放送の一時休止といった判断になることは十分あり得そうだと思えます。
それでも、他のパーソナリティーの過去の失言や炎上などと比較して、ペナルティとして重い対応であるのは事実で、パーソナリティーと番組の人気、本人のキャラクター、世間の反応などを総合的に見た上で、番組を続けるより終わらせる方が良いという合理性に基づく判断であって、ニッポン放送の「他者を尊重しない誹謗中傷する行為については決して認めることができない」という理由は、嘘は言っていないが100%の事実でもないでしょう。
ただ、これを一貫性がない、公正ではないからと言って非難できるか、というとそれも難しいなと思っています。
というのも、他の芸能人ではなく今のメンバーでANNやANN0が放送されていること自体が、そもそも「公平に機会を与えよう」という類のものではなく、社会的制裁を受けるほど悪いことをしていないというだけでANNをやる権利があるわけではないからです。
真面目に行儀よく活動してさえいれば必ず売れるとは限らない業界にいて、公正な根拠なく与えられた仕事が、公正な根拠がなく打ち切られても別におかしくはないし、それをおかしいというなら、例えばANNのレギュラーは全て公開オーディションで決めるべきではないのかとか、そういうことも考えてしまいます。
フワちゃんやその番組が武道館や横アリを埋めるくらい人気があったらここまでの叩かれ方はしなかったし番組も終わらなかった、もう少し軽い措置になっただろう、というのはその通りでしょう。
ただ、それは卵が先か鶏が先かの話に近く、そういう人格や人気と実績が直結する職業である以上は、こういう炎上をしないパーソナリティーだからこそ武道館を埋められるような人気を得られるという言い方もできます。
何かの問題が起きた時に、それ単体とは関係のないステータス、「元から好かれていたか」、「元々どのような支持のされ方をしていたか」などといった曖昧な基準によって判断が左右されるのは、本来であれば筋が通らないし、そういう時に下される判断の内容に、性別・年齢・職業などといった肩書きによる違いが影響しているのも事実としてあると思います。
しかし、それはメディアだけの問題ではなく、そういう価値観で他人への好悪を判断している社会全体の問題であって、そもそも芸能人という職業が既存の価値観に肯定されて初めて成り立つものだから、そこに公平さを求めるのであれば芸能人という存在自体が成り立ちません。社会の一般的な価値基準そのものを変えてしまうほどのパワーがあればまた違うかもしれませんが、それも社会に受け入れられることの一部でしょう。
そもそもタレントとは何なのか
例えば、同じANNパーソナリティーである粗品が自身のここ数年の失言で番組を降板させられていないのに、同程度のフワちゃんの失言で降板までするのはおかしい、というのは、公正さの観点で言えばその通りなのですが、現実として粗品は番組を降ろされていません。それこそが、世間から自分がどう見えるかを正確に把握した上で、本当にダメな一線は踏み越えないし、自分の発言が冗談に聞こえるよう見せ方を工夫している、そういうセルフブランディングと絶妙なバランス感覚の結果です。
それは、吉本興業に所属していること、ピン芸人でなく霜降り明星として活動していること、M-1・R-1で実績を持っていること、YouTubeで結果を出していること、定期的に自分の弱みや優しい面を世間にわかりやすく提示していること、そういう積み重ねを全てひっくるめた本人の選択によるものです。
翻ってフワちゃんはそういう活動を選択するタレントではなかった。あまり嫌な言い方をしたくないのですが、「こういうことがあったときに番組を降板させられるタイプの活動」をしてきた人だった、ということになります。
「バランス感覚とセルフブランディングに失敗した」というのは罪ではないですが、芸能人、特に地上波メディアを主軸に置いているタレントにとってのバランス感覚とセルフブランディングは、その人の価値を構成する要素のほとんど全てでもあるでしょう。
そして、今までそういうタイプの活動で人気を得てきたことによるメリットを本当に1つも享受していなかったのかといえばおそらくそんなことはなくて、そういうキャラクターで売れてきたことで得をしていた場面も絶対にあるはずで、そこはある種のトレードオフがあったのではないか、とも思います。
別の話を例に挙げると、たとえばアイドルの熱愛報道についても、私自身は他人の恋愛を禁止する権利なんてないのだから好きにすれば良いし、いちいち怒る人の方がおかしいし、特に女性アイドルのそれは日本社会の性差別的な傾向を前提としたビジネスではあるとずっと思っています。
ただ、熱愛したら怒るようなファン層からの好感度ありきでビジネスをやってきた人の場合、ファンだった人たちに「これからもお金を落とし続けろ」と強要することができない以上、ファンがいなくなって結果的に仕事を続けることができなくなってしまう、というのはあり得ることで、この流れが差別的だとか人権侵害だとか言っても、好きではなくなったものは仕方ない、とも思ってしまいます。
(これは誹謗中傷の是非とは全く別の話で、ファンを辞めるにしても誹謗中傷をする権利はないので何も書かずに黙って離れるべきです)
芸人は恋愛していても(基本的に)叩かれないのにアイドルは叩かれる、というのは、その一面だけを見ると不公平ですが、では芸人ではなくアイドルというジャンルで活動していることのメリットを一切享受していないのか、そのジャンルに属していたことで守られていた面もあったのではないか、そこから利益を得られなくなった途端に業界の構造全体を問題視するのは都合が良すぎないか、ということも思います。今の日本のアイドルという職業が全てなくなるべきだ、というところまで含めて主張するなら一貫しているかもしれませんが。
なので、フワちゃんの件についても、この結果が100%自己責任で、価値観や社会構造上の問題が全くないとは思っていません。フワちゃんの女性、若者、などの社会的なロールが違っていたら異なる結果になった可能性はあるでしょうし、攻撃している人の中にそういう属性への差別的な感情が含まれている人も多数いるし、そういう人たちの攻撃に成功体験を与えるべきではないということも同意します。
ただ、今の足の掬われ方と女性であることに関係があったとして、では女性であることの恩恵を一切受けずに今の位置にいたのか。若い世代であることで不当に叩かれていた面もあるでしょうが、それを利用して売れた部分もあるはずで、メリットとデメリットどちらが大きかったのか。
こういう時にフワちゃんの属性を利用しておきながらその属性を理由として安易に切り捨てられるような関係性のビジネスが芸能界に存在してしまうことの後ろ暗さについては考えつつ、そういうビジネスが一切存在しない世界でフワちゃんはANN0を持たせてもらえたのか、というところまで考えると、この件に関してそれを賛否どちらかの根拠として出すのはポジショントークになってしまうかな、という印象もあります。
これは否定側であってもです。「フワちゃんはこういう扱いを受けて当然の売れ方だったのだから叩いて良い」とも思っていません。そこまで0か100かで言い切れることではないし、それを加味してもやっぱり可哀想だという感覚もあります。
社会の価値観を変えていくしかない
現実的にフワちゃんが今回の件で様々な仕事を降ろされようとしていることは「大多数の人が何となく不快に思った」という程度の理由によるもので、それ自体への違和感はあります。
SNSの普及によって「炎上」という現象が一般的になり、バランス感覚があることがタレントに強く求められ、そこを欠いたことへのペナルティが著しく大きくなりすぎた結果として、(粗品のような一部の例外を除いて)あらゆる炎上しそうな火種についてなるべく触れずに無視し、多数派の意見に乗っかることが正解となり、それは結果的に今の社会で起きているあらゆる問題について考えることをタブー化させ、結果的に現状維持に加担する向きが強くなっているように見えるし、今回の件はそういう動きをさらに加速させるものでしょう。
が、それが今の社会のリアルな限界でもあって、この1件だけを即時的に解決する方法はなく、あらゆる炎上の問題に対して一貫して「どちらかを全面的な悪として断罪するのは正しくない」という態度で居続けること、そういう態度を取る人を増やすことが、将来的にこういった問題をなくしていく唯一の方法なのではないかと思っています。
「自分の気に食わない有名人や事象に対して罵詈雑言を浴びせる権利はない」「好き嫌いと善悪は違うし、あなたが嫌いで不快で何が良いのかわからないとしても存在してもいいものはたくさんある」、「そういう風に捉えた方が世界がもっと心地よくなる」ということを言い続けて、それに賛同する人が1人でも多くなって、芸能人が何をしたとしてもそれを理由にコメント欄に罵詈雑言を書くような人が減って、そもそも炎上という言葉がなくなればいいというのが私の意見です。
「今あなたがやっていることはフワちゃんと全く同じだよ」という認識が全くない人があまりにも多いことには辟易するし恐怖も覚えますが、それでも地道にそうではない価値観を広めていくしかない。何も言わなければますますそういう人たちに有利になってしまう。そういう思いもあってこの記事を書いています。
140字で社会問題を語るべきではない
最後に1つ絶対に言えるのは、このような複雑な問題に対して短くて綺麗な答えなんて誰も出せない、というよりどこにも存在しないので、無理にX(Twitter)で意見をまとめない方が良い、ということです。
この件について様々な方向からの意見が書かれていますが、複合的な問題であるのだから様々な方向からの意見があるのは当たり前で、それについて140文字で書かれた投稿の中に正しいものがあると考えること自体あり得ない、と思います。
様々な社会問題についての判断が深まる議論のプラットフォーム、あなたの価値観を決めるベース、X(Twitter)やYouTubeやニュースサイトのコメント欄になっていくのは、あらゆる事象についての判断がどんどん簡単でわかりやすくて多数派を利する方向に流れていくだけでしょう。
この記事を読んで「自分の考えが言語化された」と思っている人も、もしかしたらいるかもしれませんが、そうだとしたら、7500字かけても綺麗にまとめられないような問題を140字で何か語るべきではないということも同時に共感してもらえたら嬉しいです。
何か上手いこと言おうとしてもそもそも無理で、そのために何らかの事実認識を無理に歪めているだけなので、そんなことを目指す人が減ってほしいし、引用やリプで何か言っているのを見かけても、たかが140字で何か正しいことを言えているわけがない、という認識が広まってほしいです。
最後に、お笑い界隈で誰かが炎上した時にだけnoteを書く人だと思われないために、先日書いた映画『ルックバック』の感想記事を貼っておきます。
全体を通して微妙にこの記事のテーマとも繋がっているかもしれません。一番繋がっているのが有料部分なので宣伝のために書いた記事みたいになってしまいそうですが、そういうわけではないのであしからず……。興味があれば無料部分だけでもぜひ読んで頂けたら嬉しいです。