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自己紹介兼備忘録

確かに思えることの不確かさが好き。

例えば視覚は大部分が予測で、外部からの実際の入力は少ないとか、それによって錯視が起きたりするとか、じゃあこれと似たようなことが全般的に起きてて、私たちの知覚の外部にとんでもない世界が広がってるんじゃないか、そうじゃない証拠が無いじゃないかってこととか、記憶って確かにあるように思えるけど、その感覚が今あるだけであって実はこの瞬間にその記憶が作られててもおかしくはないよなってこととか、それなら記憶を前提にしてる時間の知覚とかこの意識って一体なんなんだってこととか、そもそも生きてるって状態が粒子の流れの中の澱みのようなもので、それって「わたし」とひとつづきには中々感じられないよなあってこととか、嬉しいとか悲しいとかの豊かな感情はそもそも生物が生き残るのに有効だったセンサーの機能から生じたものだとか、でもそれとは別にこの切実な「感じ」は中々切り捨てられるものではないよなとか、「価値がある」ってことを主張はできなくて、価値について語るときはたぶん「価値があると感じる」ってことしか言えないよなあとか、みんなが価値があると思うことが普遍的価値ってどうして言えるんだろうとか、誰も価値があると感じないところに、あずかり知らないところに普遍的で絶対的な価値がないとは断定できないよなあとか、とはいえ僕らにわかるのはこの価値があるという「感じ」だけであって、じゃあとりあえずこの「感じ」のお話を聞いてあげたらいいんじゃないかとか。

前提が異なることをバラバラに並べてしまったけど、今の僕の中心にはこういうことがある。こうしたことを考えることによって自分に向けられたものさしを跳ね除けてきた。「これが確かだ」っていうナイフがどうしても突き刺さってしまった時には、「本当に?」という問いで癒してきた。どうしようもない現実に襲われた時、世界や価値の実在を疑うことで、自己や生命の偶然性やそこから連想される無意味さに思いを馳せることで、それを半目で受け流してきた。その問いを発した時、全てを疑った時、何も無くなったところからある仮定のもとでは確かに思えるものを一つ一つ拾い上げていくのが楽しくてしょうがなくて、自分のアイデンティティとも呼べるものになって、これからの人生を賭けていくんだろうな(どうかな?)と思っている。

でも時々、本当に時々、自分のやっていることがひどく味気なく思えることがある。自分のやっていることは「徹底的に一人称的」になること、何の前提もなく存在するだろうと考えるのは自分の認識するこの思考や視界のみで、そこに写っているものの存在までは保証しない。するとそこでは「他者が存在する」ということも疑っているから、人間関係というものが何割かフィクションになる。僕の取り組みは根本的に孤独であって、ひとりよがりだ。だからなのか、愛とか、誰かの役に立つとか、社会を変えるとか、正直めちゃくちゃ羨ましい。もちろん家族や友人のことは大切に思う(現に懐疑主義を一旦脇におこうと思える「感じ」のひとつだ)し、人に親切にするのはわりと好きな方なんじゃないかと思う。でも根っこで全ての存在や価値を疑ってしまっているから、どうしても一枚挟んだ「優しさ」になる。何が価値のあることなのか、価値っていったいなんなのかってことを考えずに価値を生み出したり分配する活動に軸足を置いて(自分が)やるのはしんどくて、むず痒くて、それにそもそも論を考えてる方が楽しすぎて、できない。でも、そういう議論をしながら、暫定的に今の自分が出した「これが価値があるかも」ってことを軸に社会的な活動をしてる人が一番素敵だよなあって思っている。だけ。

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