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私の「怒り」について



怒りは悪ではない。
大切な感情だ。

そのことに納得できるまで
しばらく遠回りしてきた。

おかげで本来怒りであろうものは
悲しみとなり
言葉にできない感情が増え
よく分からないきっかけで
涙が溢れる人間になった。


今回の話は
とってもプライベートなところにある
怒りの感情。
自分や周りに近しいことの怒り。


今の自分の怒りのみたいなもの。
ストレートな怒りの感情って
いつからもやけちゃったかね。

怒りをそのまま感じるより
分解して悲しみとしてしまう方が
自分は楽だったのだろうか。


楽ではない。
めっちゃ痛い。
悲しみに変換する作業。
自分が変えられないものを
変えられないと受け入れることや
変えられるのに
変えようもできないと感じていることや
そういうのに向き合うのちゃんと痛い。

そもそも怒りを怒りとして感じるのも痛い。
胸がカッと熱くなる。
言葉を用意している間に冷めてしまうから
熱々のうちに届けることができない。
届けなくてもいいのかもしれない。
冷やしラーメンくらいの温度で本質なら。
伝え方を間違うと
熱さが売りのラーメンがぬるいのびたのになるし
冷やし中華をあっつあつにあっためたやつに。
ちゃんと環境と質を揃えて伝えないと。
と、考えすぎてしまう。

多分私はずっと怒りの本質を間違っている。
怒りも悲しみも同じだ。感情だ。
怒りだけを悪の権化のように思っていた。
ぜーんぜんそんなことないのに。
むしろ怒りって結構生きてる感ある。
そりゃ外に撒き散らすのは害だけど。
自分で感じる、に留めるなら
自然な発露ではないか。

「怒りダメ絶対」
っていうのは
今の私にはもう合わなくなった認識
いや実はとうに自分は嫌だったのかも。

しばらくシンプルな怒りから離れると
めーちゃくちゃ昔に
そのまま引き出しに突っ込んだ
長いネックレスが絡みまくったような
お手上げ状態どこが起点?に変わって
なにに怒っているのか分からなくなる。

怒りというのは
自分の理解の足りなさからくるものだと
どこかで思っていたのかもしれない。
勉強不足であるから
もしくは
変えられない(もしくは介入できない)
そんなヤツが口を出すのは
フェアじゃないと思うからか。

元々他者に対する怒りに敏感ではなかった。
というのも
自分の話が苦手だ。
ただ他者が他者に対する怒りへの共感。
それは自分のことのように思う。
でもそれは自分ではない。

考えたことや思ったことを
面と向かってその時に話すの難しい。
どうクイックに言葉にするかというと
シンプルな言葉にまとまるが
それが自分の思いかと言われると
そうでもありそうでもない。



基本的に自分が話したいと思うことは
自分のことばかりなので
自分1人で飲む時に自分と喋る。

素敵に言葉を紡ぐ人もあるが
自分はこうして
泥臭いほど自分と向き合わねば
自分に沿う
納得する言葉を紡げないのだ。

多分その時に
怒りを感じる。
いつまでも至らない自分が悔しくて。
伝わらないのは自分のスキルがないからだ
ということを前提に考えてしまう。

そこでスキルに注目しているところが
なんとも癪に障る。
何を伝えたいか、に注視しないから。

スキルどうこう
で、はったりかましてる場合でない。
何を伝えたいか
ということがはっきりしていないと
いつまでも至らないんだろう。
別に時間がかかってもいい。
明日になってもいいから
結局伝えたかったことはなんなのか
そこから枝葉となったことはなんなのか
ゆっくり整理すればいい。


ある人が

考えがあるならば
今じゃなくても
一年後でもいい
自分の言葉にして
伝えてくれればいい

というようなことを
話してくれた。
そうか。
クイックなレスポンスだけがいいんじゃない。
状況によるけれども。
そのためのクッションの言葉を知って。
逃げるためではない布石を置くんだ。

じっくり考える。
そのスペースを作る。
いつだってそんなことができる
心の空白が必要だ。
白。
怒りはこの白がないと
感じられないのかもしれない。

だからどんな感情も
一旦拒否せず
受け入れたい。
白の中だけで生きていると
いつかその汚れに気づかないほど
逆にひとつのチリすら許さないほど
目が慣れてしまう。

成熟した怒りを持ちたい。
自分の気づきになるから。

叱咤激励、自分より。

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