本日のつぶやき「おばさん、マルハラという言葉に出会う」
ザクッと言うと、句点に威圧感や不安感を覚える、と。
まあ、確かに文字というのは万能に見えて、実は相手の顔が見えない分、受け手の精神状態でどんな風にも解釈できてしまう、という欠点がある。
ここでポイントなのは、「書き手」ではなく「受け手」なとこ。
要は、受け取る側がどう思っているかで文字だけの伝達方法では感情を伝えるのは難しい、ということだ。
どんなに書き手が言葉を尽くしても、その感情を伝えるのは難しい。
文字で感情を伝えるのは、既に別の場所で直接コミュニケーションを取って意思疎通をした間柄か、物語のように1から10まで顛末を知っている場合くらいなのかもしれない。
一昔前に、特に若い方を中心に電話でのコミュニケーションが苦手だ、という話題があったことがある。
まあ、忙しい時に何でもかんでも電話されても迷惑だし、一概に電話が良い訳ではないけど。
ただ
直接合う→電話→メール等のテキスト
になるにつれ、情報量は減る。
親しい間柄なら、少ない情報量でもコミュニケーションは可能だけど、親しくないと取れる情報が少なすぎて相手の思惑が判断出来ない。
つまり、みんなが日本語を当たり前に読み書き出来るので誤解されやすいのだが、コミュニケーションとしては
直接→電話→テキスト
になるにつれ高度になるのである。
何故なら、前述の通り情報量が少ないから。
その少ない情報量の中から推察する能力や、抜けている情報を見つけ出す能力が必要になる。
ついでに相手の置かれてる状況やその他諸々を察する必要すらある。
こちらの言い方が誤解を与えないか考える必要もある。
ここまで来ると私は「あーもう面倒くさい!」と思って電話を手にとってしまう頭の回転が悪いタイプではあるが。
なので、直接的なコミュニケーションが苦手だと、テキストでのコミュニケーションはもっと難しくなる。
もちろん、苦手で悪いことは何もないが。
更に句読点が上手く使いこなせないと長回しの文章を書くのはほぼ絶望的になる。
将来的には小論文での進学、デスクワークを中心とした仕事も絶望的だ。
勿論、小論文での進学も絶対ではないし、デスクワークだけが仕事じゃない。
もしかしたら、将来的には私たち世代とは全く違う価値観で人気の仕事とかも変わるのかもしれない。
マルハラは構わないのだが、これが今と変わらない価値観のまま将来的に能力差という格差になるのか(我々が氷河期世代として突出して正規の職に付けなかったようにコロナ禍世代だけが突出してそのスキルを得られない、という可能性はある)、世の中の価値観そのものが変わるのか、それがとても興味深い。