過去の自分を許すということ
少し前にこんなツイートをした。
「今日、唐突に私は過去の自分の決断を許せていなかったんだ、
と納得した。
自分のかつての決断を許せないのは、自分を許せていないということ。
深く考えず決めたあの時の自分を許してあげよう、
それも必要なことだったんだと思って、なんだかとても楽になった。
初めて許されたような気がした。」
2023年7月19日のことだ。
本当の意味で「先に進む」には自分を許さなくてはいけない時がある。
過去の自分に求めていたものを今の自分が諦めるような感覚に近い。
「だって、それって本当に欲しいものじゃなかったもんね」
「本当に欲しかったけど、手に入らなかったね」
「ただそれだけだよ」
「実力が足りなかったわけでも、努力が足りなかったわけでもないよ」
「でも、私の人生には合わなかったんだ。そのときはわからなかったけど」
ということが、生きてきた道を振り返るとある。
けれど私たちは、
いつまでも当時の私に
「何であの時あんなことをしたんだ」と
責め立ててばかりいる。
過去の自分の愚かさに、
考えのなさに、
他力本願さに、
歯を全部噛み砕いてしまいそうになるほど悔いて、悔いて、
それでも時間は戻らない。
過去の決断も変わらない。
誰も私を許してなんてくれない。
誰かが許してくれても納得なんてできない。
理由は、私が許していないから。
誰に綺麗だと言われても自分の美しさを信じられない人、
実力があると言われても自分の実力を信じられない人、
どうしてだろう?と思った時、私たちは自分の人生にもそれが起きていることを無視している。
私は過去の私の決断を許していい。
泣きながら、手持ちの中から何とか選んだ決断を、
誤りだった決断を、
選びたくなかった決断を、
最善だと信じて選んだら最悪だった決断を、
いつまでもいつまでも責め続けてきたけど、
長い目で見て、それは必要なことだったんだと。
あの決断での最悪な経験があったから、私はこうなれているのだと。
愛おしい、あの時の私。
あの時の私を許そう。
必死に選び取った若い女性を。
過去の事実は変わらない。
でも、見方を変えることはできる。
私が、喉から手が出るほど欲しい
「間違った決断をしていなかった私」の人生と
今の私の人生を交換したいかといわれると、
「NO」だと気付いたのだ。
幸福の始まりは自主的であること。
自分の責任で全てを決めるということは、
究極に自分は自由だ。
過去の誤りを誤りだとするかどうかも、
私は自分で決める。
今の私に続いているものが
誤りなはずがあるか。
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