9月30日の日記
あちこち行って帰ってきた。なぜかお腹がかなり痛く、しばらく悶えていた、いまもその余波を残している。
Spangle Call Lilli Lineのアルバム『Ampersand』を聴く。最初聴いたときの馴染めなさはいまや払拭されて、これだよねえという気持ちになる。
とくに「lean forward」から「reillin」までの一連の流れが最も好き。
SCLLのライブ行きたいなあ、YouTubeにアップされた動画を見て思う。
吉祥寺、三鷹方面へ行く。9月も終わるってのに普通に暑く、無性に愉快な気持ちになった。それは、「いや、なんでまだ暑いねん!」とのツッコミ待ちがされているように思われたからだった。
井の頭公園に行く。
池を見ながらおにぎりを食べる。
日の光の反射がすごくて、目を細めながら食べた。
それから公園内を歩く。いつも馬鹿みたいに群生している白鳥ボートが見当たらないことに気づく、今日は定休日なのだろうか?
三鷹の方まで歩く。途中水中書店という古書店に寄り、何冊か本を買う。SFが充実した。
次いでUNITÉに向かう。また本屋。並んだ新刊を見つつ、この前本買ったしなあと、大いに悩み、結局『謝罪論』を買った、これは自戒だろうか。
三冊のうち一冊は私です。
それから三鷹市芸術文化センターまで行って演劇を観る。『時に想像しあった人たち』。
笑いとか、おかしみ、とかは環境に左右されるところが大きいと感じた。ある種のズレ、人間と社会との、がある場面では笑いに変換され、ある場面では深刻な問題として立ち上る。深刻な問題として受け止められることよりも笑ってしまったほうが楽なのだが、成長、社会、資本の論理がそれを食い止める。
かつてあった(私たちの)集合場所は解体され、巨大資本によってショッピングモールと化す。
思えば、あんなことができたのはああいう時代、空間だったからだよな、と達観する気もちはどこか寂しい。それが大人になることの意味かもしれないけど、結局大人ができることは「お金で解決する」ことでしかないのだし、解決不能な問題は、反響しながらその場所にとどまり続ける。
かつての楽しい記憶は悲しさを誘発する。対抗策は忘却することしかないのだろうか?許しは過去からの残響によってなされうるのだろうか……。
ようやくお腹の痛みがおさまってきた。
(2023/09/30)