6月18日の日記 おせち

おせちがおいしくないと表明することは、自分にとって、社会に対するささやかな抵抗運動の一環であった。毎度年の始まりに決まっておせちを用意し食べるという、その確定された法則に対して、世界に対して、異議を申し立てたのだった。

抵抗運動は、自分を構成する要素の一つとして燦然と輝いていた。つまり、社会のルールに縛られない自分、社会に迎合しない自分として、自分を認識していたのである。

いつしか、おせちはそもそも世間にそんなに好まれていないということがじわじわと覚知されるようになった。それどころか、疎まれていることすらあることを知った。あの抵抗運動は、自分固有のものではなく、ごく一般的なものだったというように終息していくのを感じた。

抵抗から一般化の流れを経て、なぜわざわざ食べるのか?という疑問が生ずるようになった。合理的に考えれば、食べる必要などないだろう。

しかしながら、伝統的な行事は、ある共同体に属するうえで、別の共同体のそれとを峻別する一種のふるいとして機能しているのだった。私はおせちの見た目だけにとどまらず、味、におい、場所、周りの風景、意味までをも知悉している。そしてそれは、共同体内において仲間であることを表明するに等しい行為であった。私がおせちを嫌う行為そのものは、社会の抵抗運動よりもむしろ、一定の社会内における正常な反応にすぎなかったのではないか。

もし、私に子どもが生まれるのであれば、毎年お正月におせちを出すだろう。そして願うのだ、それを嫌うことを。


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