ハノイ、迷宮のかたりべ
🔹街中にそびえ立つ巨樹
ハノイの旧市街で、あるとき、奇妙な風景と遭遇した。
立て込んだ家々のかなり奥まったところに、どこかの家の屋根を突き抜けたようにバカでかい樹が立っている。四方に張り出した枝ぶりもまるで周囲の家屋を呑み込まんばかりだ。
むろんこれはちょっとした錯覚なのだが、一見そんなふうに見えたのも無理はない。この辺りの建造物は、建物と建物の間に隙間がほとんど見当たらず、大きな樹の生える余地などどこにもないように思えるからだ。
家屋の増改築にあたっても、隣の壁にぴったり合わせて煉瓦を積んでいく。つまり壁を共有するのは当たり前で、まさに持ちつ持たれつの関係なのだ。
だから、通りに立つと一ブロック丸ごと横につながって見える。その代わり、所々に人がかろうじてすれ違えるほどの穴がぽっかり口を開けている。
それはまさに壁の穴。深いものでは奥行き70~80mというのも珍しくない。
その深い闇の中に足を忍ばせると、両わきにいくつもの小部屋がある。居室をはじめ、台所やトイレ、倉庫など、生活のすべてが穴の中にある。
しかも内階段で2階、3階にも通じているから、一つの穴だけで何家族もの住人が暮らしており、よそ者がその全貌を知るのはかなり難しい。
なにしろ人口密度は他のエリアの倍、1平方キロ当たり4万人以上もの住人が住んでいるというのだ。
「犯罪者が紛れ込んだら大変です」
同行の通訳氏はそう言って笑った。
ハノイのなかでもこのエリアは特別である。
日本でいえば、かつて下町で営まれていた長屋生活のようなもので、下町ならでは、職人街ならではの喧騒に包まれている。
通りに面してさまざまな店や工房が居並び、至る所で物作りの音がこだまする。そして、通りごとに音や色、匂いまでが変わるのだから面白い。
玩具の原色が乱舞する通りがあるかと思えば、墓石の灰色一色に覆われる通りもある。やや乱暴に言ってしまえば、アメ横と銀座中央通りを足して二で割ったような街だ。
この街が現在の姿を形作ったのは、仏領インドシナ時代、19世紀末から20世紀初頭にかけてといわれている。
実際、ホテルやカフェなどはコロニアル様式の建物が多く、どことなくパリの街並みを思わせる垢抜けた一角もある。しかし、街全体にはやはり中国の影響が色濃く、茶褐色にくすんだ街並みが独特の渋さを醸しだしている。
そうした旧市街特有のつくりは、かって統治国であったフランスの人々にもきっと奇異なものに見えたのだろう。この一帯の家々を、彼らは「トンネルハウス」と呼んだそうな。
ある文献にこんな記述がある。
「狭く深い奥行きがあり、それらはおおむね他の小道や通りにつながっている。家は似たような配置にあって、一番前の部屋は製品の製造に使われ、中ほどに外光の入る小さな中庭を持っている。そこにはたいてい装飾的に彩られた池があり、金魚や観葉植物が育てられている」
この記述どおり、中庭のあるところは少なくない。表通りからはまったくわからないが、実は例の大樹もそんな見えない中庭に立っていたのだ。
🔹トンネルハウスの源流
トンネルは二度、三度曲がりくねり、そのあと思いのほか広い中庭へと通じていた。家一軒分は入ってしまうほどの空間である。
そしてその中央に立っていたのは、予想をはるかに上回る巨大な榕樹(ガジュマル)だった。
うねるように発達した幹の迫力もさることながら、高いところからも根っこが張り出し、蛇の交合さながらにからまり合っている。途中で幹が大きく二手に分かれ、中庭の空間を覆い尽くしていた。
その下で暮らす住人によれば、樹齢はなんと1,000年。いや、2,000年という人もいる。いささか大げさのような気もするが、その数字に込められた思いのほどが窺えよう。
いくぶん誇張されていたとしても、100年や200年の単位ではなさそうだ。もしかしたら、この街が「タンロン(昇龍)」と呼ばれていた時代からのものかもしれない。
タンロンとは、ベトナムが長きにわたる中国支配を脱し、初の長期王朝(李朝)を築いたときの首都の名である。
時は1010年、開祖リー・タイ・ト王は、はるか北西に望むタンビェン山と東を流れるホン河を守神とし、ここに都を定めた。
古い地図と現在の地図を重ねると、王宮の中心は現国防省が位置する辺り。かつてその一帯で基礎に使われたと見られる石や煉瓦が発掘され、それらにドラゴンとフェニックスの彫刻が施されていたという。
そんな歴史を慮ってか、この周りには現在、共産党本部や国家計画委員会など政府機関の中枢が集まっている。
タンロンの街は、要塞で固められた王宮と東に広がる城下町からなっていた。全国から染色や刺繍、宝石などを作る腕利きの職人や商人たちを集めたと伝えられ、これが旧市街の原型に当たる。
だから、どの通りにも当時の"一業一街”を伝える商いの名がついている。
たとえばハン・ザ(革街)、ハン・チェン(畳街)、ハン・クアット(扇子街)、ハン・チョン(太鼓街)、ハン・バック(銀街)、ハン・ドン(砂糖街)、ハン・ムイ(塩街)、ハン・ボン(麺街)といった具合だ。もっとも新陳代謝が進み、今は必ずしも名称どおりの店に出会えるとは限らない。
そんなタンロンの骨格を受け継ぐハノイを遠目から眺めると、どことなく江戸東京のつくりと似ていることがわかる。タンロン王宮を皇居、すなわち江戸城に見立てると、ホン河は隅田川に当たり、その間にある中央区から台東区にかけてがタンロンの職人街ということなる。
規模こそ異なるが、位置関係はぴったりと合ってしまう。ともに中国の風水思想からつくられた、何よりの証というわけだ。
余談だが、私の生まれは台東区である。小島町の職人街で、石鹸箱の製造に使う糊の匂いがたちこめるなかで育った。そんな私にとってハノイの職人街はとりわけ居心地がよい。なんともいえない安心感を感じるのは、幼い頃のすり込みなのかもしれない。
ところで、タンロンに関する興味深い史実がもう一つある。
ベトナムの歴史家によれば、かつての職人街はブロックごとに同業の人々が集められ、フォン(坊)という単位から構成されていたという。それぞれのフォンは壁や生け垣で囲まれた四角いエリアからなり、通りに面してたった一つの門を持つ構造だったというのだ。
交易が盛んになるにつれて街は開かれていったが、その結果、しばしば街の秩序が乱れ、レ王朝時代にはフォンはふたたび垣根によって囲まれてしまったとも。その代わり、フォンの中では小道によって縦横につながっていたという。
そうした閉ざされた街のつくりが、あるいはトンネルハウスのような家のつくりを生み出した源なのではないだろうか。
強い共同体意識の名残からか、家のつくりもきわめて似通っており、間口の大きさまで同じようにつくられている。慣れないうちは道に迷ってしまうのも無理はない。
ここは、まさに迷宮である。そして、そんな"ラビリンス"の中に鎮座する一本の老樹。それは、彼らにとってどんな意味を持つのだろうか。
🔹生き続けるアニミズム
姿形は異様だが、それはどことなく手を合わせたくなるようなアニミスティックな魅力に満ちていた。
よく見ると、幹のくぼみに赤い祠が祀られ、明らかにある種の信仰の対象となっていることがわかる。もちろん枝を無闇に切り落としたりした様子もなく、人間と樹が見事に共棲を果たしている感じだ。
ふいに私は「こんな風景、どこかで見たことがあるな」と思った。
思い起こせば、それはたしか沖縄である。
車を走らせていたら、車道の真ん中に忽然と大きな南洋樹が現れ、それを車がよけて通ったのを覚えている。人間の都合で自然をねじ伏せるのではなく、最低限の思慮を持って共存しようとする意志の表れというべきか。
通り過ぎてから思わず振り返り、その威容にため息が漏れた。淡い記憶ではあるけれど、その樹の下にも小さな祠が奉られていたような気がする。
ものの本によれば、そうした巨木は神霊が降臨する場所、すなわち神の依り代と伝えられ、この種の巨木伝承は古くから日本全国に散在するといわれる。たとえば若狭のほうでは「ニソの杜」と呼ばれ、れっきとした民俗学の研究対象にもなっている。
門外漢の私が、これをもってただちに古代における海洋民族の……などというつもりもないが、少なくとも国境を越えて存在する”かたりべ”と出会えたことだけは間違いないだろう。
日本とベトナムの精神文化が思わぬところで交錯し、人知れず胸踊らせたものである。
それにしても、あの過酷な戦禍をくぐり抜けたベトナムの地で、しかも人々が群れ住む旧市街の真ん中でこのような存在に出会えるとは思わなかった。旧市街は幸い戦火を免れたといわれるが、人々の心の拠り所も変わらず生きつづけてきたことになる。
住人に聞いてみると、それは彼らにとってやはり特別な存在らしい。口々に「この樹には神様が住んでいる」と語る。
そして、旧市街にはほかにも同じような老樹が点在しているらしく、かつてはそんな老樹のあるところにお寺が建てられたという。この関係はお寺に行くとすぐに合点がいく。必ずといってよいほど老樹と出会えるのだ。
「あながち迷信とは言い切れませんよ」
とは、通訳氏がつぶやいたセリフである。
ちなみにこの通訳氏、とても聡明で、現代人の典型のような方だった。
初出:『ARTPOLITAN』2001年 5月号/First International INC.