絵画制作における「漂流」について
水をたっぷりと含ませた平筆でジャブジャブと描く。
筆が大きくなるほど水分量も増え、A4から始まった画面サイズも自ずとB3→B2→B全とどんどん大きくなってきた。
水彩や顔彩は水を含んでいる時と乾燥した時では色の印象がかなり変わる。
水分量の扱い次第で滲んだり、下の色と混じりあったりするため、
乾燥後の色の変容は驚きを生むことが少なくない。
その意味で水彩画のプロセスで発生する"偶有性"は
コントロールしきれないからこそ面白く、
それはそのまま「漂流することの許容」につながる。
絵画での漂流は、実は破綻と常に背中合わせなのだが、
だからこそ予定調和では立ち行かない漂流の中にこそ絵画生成の重要なファクターがあるのかもしれない。
セザンヌ研究の第一人者である美術史家、リチャード・シフも示唆に富んだこんな論考を書いている。
「絵画は漂流するべきなのだろう。1枚の絵画のなかにある様々な様相は一時的で、常に修正を受け続ける。ある道から始まって、他の道で終わる。絵画は、重要なものへと発展する偶発的な質を伴いながら、『その』道を歩む必要がある。制作過程におけるさまざまな発見を維持するために、画家たちは自身の実践を方向づける概念的かつ技術的な慣習に影響を及ぼす思考と手の動きによる偶然性を許容する。目的と発見とのあいだの実り多いバランスは、作家たちが追求していると考えている以上のものを見出すことを可能にし、システムにおけるなんらかの戯れを要求する。それは、ある種の寛容さ、つまり積極的に漂流を受け入れるということだ」(Peter Doig展;2020年、東京国立近代美術館のカタログより)