ひつじになった日
真冬だというのにありえないほどの暑さで目が覚めた。身体がまるで、汗を吸ったヒートテックやフリースのパジャマに埋もれてしまったようだ。羽毛布団と毛布を右足で蹴ると、わりと鈍めの音がして、足元にごちゃごちゃと置いてあった服や荷物もいっしょに部屋の角へ蹴飛ばされた。
まどろみの靄がすうっと引いていって、意識が徐々に明瞭になっていく。けれどもまぶたを開けることはできない。服が皮膚にまとわりついて寝返りを打つのも億劫だ。下半身全体に鉛が溶かしこまれたみたいに身体が重い。
壁のほうへ寝返りを打とうとする。最初に頭、肩、上体をひねって重い下半身を横向きに。冴えてくる頭の中に、ぽつりぽつりと昼間と同じことばが表れてくる。
わたしはさみしいくるしい愛されたい認められたい必要とされたいケアされたい甘やかされたい。もう誰とでもいい。
傷口に涙の塩味が染みるように、胸の奥底の深いところから生ぬるい毒ガスが噴き出してくる。
でもどうせわたしなんてなんの魅力もないしどうせ愛されないしこれからもずっとこのままひとりだしわたしを必要としてくれる人なんているわけないしどうせわたしなんかブスだし努力しても報われないしどうせどうせ。しょっぱくて熱いものがきつく閉じられていたはずのまぶたの隙間からあふれ出し、まくらカバーがしずくの形に冷えていく。
まぶたをこじ開けて時計を見るとまだ朝の5時だった。外からはバスの発車音が聞こえる。アラームが鳴るまであと3時間、すぐに寝る努力をするかもう起きてしまうかの二択だ。しかしどちらの試みも失敗するのが常で、こういう日はけっきょく寝不足のまま一日中倦怠感を引きずるしかない。
しかたなく、横向きにどすんと落ちるようにしてベッドから降りた。
へんに冴えまくった頭と、泣いたせいで痛い目とあいかわらず重たい身体を引きずって風呂場の鏡の前を通ると、やっぱりわたしはひつじになっていた。
ひつじになるのは初めてのことではない。高校生の頃くらいからまあまあよくあることで、わたしはひつじ歴約7年のひつじ中堅って部類なのかもしれない。薄茶色の毛皮がわたしの頭から脚までを覆い、毛皮の下には分厚くて皮肉にも美味しそうな脂肪の層を感じる。両耳は顔と直角に横へ突き出し、口を開けてみると黄ばんだ大きな歯が見えた。
ひつじになったわたしはわたしであると同時にわたしではない。ひつじの身体はあらゆる規範や秩序を拒む。あと2分で家を出ないと次のバスに間に合わないのに、ひつじになったわたしの身体はなかなか動こうとしない。
わたしはもう大人なんだからあらゆることに責任を感じ、自分の心身と生活のめんどうは自分でみて他人に迷惑かけることなくシャキッとつつがなく社会生活を送らなきゃいけない。たとえわたしがひつじになってしまったとしても。わたしなんかどうせ愛されないし価値なんてないしブスだから魅力なんてないしどうせどうせ、という言葉が涙とともにとめどなく流れてきても、だ。バスや電車の中で下を向いて座って目を閉じ、寝てるふりをして涙が乾くまでやり過ごすことも覚えた。
ふだんのわたしはわりかしポジティブでフレンドリーでエネルギッシュでチャーミングだ。ふだんのわたしはそこそこかわいいし頭もいいし、友達にも囲まれ仕事もうまくいっていると思う。ひつじになったわたしの心に、ひつじの身体とともにもたらされる思考は、ポジティブで前向きでキラキラしたことばの下に埋もれたわたしの本心なのだろうか。それともひつじの身体がもたらすあの思考は、あくまでひつじのせいでもたらされているのであって、ひつじになっていない、ふだんのわたしはちゃんとポジティブでフレンドリーでエネルギッシュでチャーミングな人間なんだろうか。
とにかくひつじは数ヶ月に一回くらいわたしのところへやってきて、わたしになるということによって、わたしに何かを伝えようとしているのかもしれない。わたしは本質的に、はげしく後ろ向きで卑屈で依存的で、いろんな人に迷惑がられてもおかしくないくらいキモくて寂しがりやで強欲なひとなんだということを。ポジティブでフレンドリーでエネルギッシュでチャーミングなわたしは、いちおう大人としてあらゆることに責任を感じ、自分の心身と生活のめんどうは自分でみて他人に迷惑かけることなくシャキッとつつがなく社会生活を送るためにわたしがつくりだした、一時的な仮のわたしでしかないのかもしれない。
社会の秩序とか規範とか努力とか責任感とか自立心とか、魔法みたいに聞こえるけれど実は自分の身体に少しもフィットしていないことばたちによって、本質的にはげしく後ろ向きで卑屈で依存的で、いろんな人に迷惑がられてもおかしくないくらいキモくて寂しがりやで強欲なわたしは居場所を失ってしまったのだ。
「うえーん」と声がした。振り向くと、そこにはひつじが立っていた。
「わたしを忘れないで。わたしにはあなたの身体を借りることが必要なの」
ひつじは真っ黒な瞳をうるませて、本気で傷ついているみたいだった。
「でもねぇひつじさん、あんたがわたしの身体にいると、毛皮とか体脂肪とか重くてうまく動けないし、こんなに短い手足のままじゃ家の外に出ることだってままならないんだよ。あんたにはあんたなりの理由があるのもわかるけどさ」
わたしは言い放った。「わ、わたしには」とひつじは震える声で続けた。
「わたしにはあなたが必要なの。わたしもあなたと同じくらい、さびしがりやで強欲でわがままで、キモくて卑屈で後ろ向きだからさ。お願い、わたしを忘れないで。たまにはあなたの身体を貸して。わたしはひつじで、毛深くてデブで臭いし短足だけど、あなたを世界でいちばん必要としているのはこのわたしなのよ」
わたしがため息をついてひつじの身体にそっと触れると、確かにひつじは毛深くて、実家の引き出しにストックしてある漢方みたいに複雑な体臭を放っていた。いつか食べたラムの生姜焼きの味を思い出し、ひつじがひどく不憫な存在に思えた。
ひつじの隣にいることは、そしてひつじにわたしの身体を貸し続けるのは、正直あまり気持ちのいいことではない。しかし大きな黒目からぽろぽろと雨粒のような涙をながし、身体を震わせて鼻水まで垂らしているひつじに、わたしは同情せざるをえなかった。
なぜならわたしたちは結局のところとてもよく似ていて、お互いを必要とし、心の奥底ではお互いを深く愛してもいるのだから。
「しょうがないなあ、わかったよ。わたしの身体をこれからも貸してあげる。でも仕事や恋愛に支障が出るから、1週間以上経ったら帰って」とわたしがいうと、ひつじは鼻水を垂らしたまま、
「ンめえぇぇーーー」
と鳴いた。そして、フワフワでゴワゴワでちょっと独特のにおいを放つ身体を、そっとわたしにすり寄せてきた。
翌朝、わたしの身体はニンゲンに戻っていた。ひつじが帰ったのだ。
わたしは元の、ポジティブでフレンドリーでエネルギッシュでチャーミングなわたしに戻っていた。
わたしはかわいいし頭もいいし、友達にも囲まれ仕事もうまくいっている。わたしは最高。わたしの人生は無敵だ。