出産立会人としての観劇体験:犬猫会『パラナ・ポラー』
新宿駅の通路には前日の記録的豪雨で大きな水たまりができていて、駅員がそれをモップで掃くのを横目で見ながら劇場へと向かった。地下通路に水の捌け口はなく、駅員は水を吸いきったモップをバケツの上で絞ってはまた床を掃くのをずっと繰り返していた。
思えばその光景が、すでに今回の観劇体験の入り口だったのかもしれない。
『パラナ・ポラー』の舞台は近未来のアルゼンチン。どういうわけだか周囲の陸地は凍結してしまい、二人の女性・ポラーガとグリンガはコルドバの街を目指してパラナ河を下る。二人は同じ時期に一人の男・サントを愛しており、二人が乗る船は彼が遺したものである。さらにグリンガはサントの子を身に宿しており、わがままばかりでなにもできない。二人きりの船旅は難航する。
ポラーガとグリンガの間には運命共同体同士の連帯と、同じ男を愛したもの同士であるという激しい憎しみとが入り混じった、ステレオタイプのシスターフッドとは異なる共依存的な関係性が横たわる。記号性が排除され、黒と白で統一された小道具や衣装、そしてサントが遺した骨組みだけの船が二人の愛憎を引き立たせる。
『パラナ・ポラー』はこのように二人の関係性の物語とも読み取れるが、今回の上演で立ち上がってきたテクストの背景には、これからの地球に棲む人類すべてが向き合わねばならない運命の存在が示唆されているように思った。
凍結した陸地、二人を襲う嵐、そして水中を泳ぐ牛。謎が多く現実離れした設定のように思えるが、希望の欠片もないこの設定は魔術的リアリズムでもありながら、気候変動にともなう異常気象や核問題など、近年の地球に起こっているさまざまな事象に読み替えられるのではないか。
いくら漕いでも見えない陸地。裏切りを遺し亡くなった恋人。二人の女性の愛憎と、迫るグリンガの産機。公演のあらすじには「旅をへて2人に救済はもたらされるのか。」という一文があるが、その答えは開演直後に観客の脳裏に、鋭いナイフのように突きつけられる。
最近の若い世代は東日本大震災や幾度もの戦争、不景気やコロナ禍などを経験し、昔の若者に比べ将来に希望が持てないと言われることがある。希望の在処を世の中が教えてくれるのではなく、存在するのかどうかもわからない希望の片鱗を個人が私的な人生の営みの中で模索せざるを得ない時代において、私は表現という行為こそが微かな希望へとつながる糸を手繰り寄せるための営みだと痛感する。
日本との時差が12時間あるアルゼンチンで紡がれた物語が、「生き身」である演者や公演に関わる人々によって息を吹き込まれるとき、文字として横たわっていたテクストは生き物となり、小さな劇場の天井を突き破らんばかりの大きさをもって「今・ここ」に立ち現れる。
一人で舟を漕ぐポラーガのように、観客は公演が終わればまたそれぞれの日常へとたった一人戻っていく。そして観客は、専門的な知識がないままグリンガの赤ん坊をとりあげる運命の彼女のように、「今・ここ」に出現した物語の誕生に準備もないまま立ち会い、呼吸と躍動をそれぞれの「生き身」をもって受け止め、その体験を新たな血肉にしていくことができる。
骨組みだけの舟に乗る二人の旅は、終わりも見えなければ引き返すこともできない。その物語を受け止める私たちもまた、二人と似たような絶望の旅を続けている。
劇場という空間で物語の誕生に立ち会った者として、船旅を続ける者として、この物語に、そして出産立会人としての観劇体験に応答していかなければならないと思う。