平和を繋いでいくためには?当時を生き抜いた証言・・・命を自分で決められなかった
2024.11.16(土)
北九州市八幡東区の平野市民センターで
『聞き書きボランティア「平野塾」10周年記念講演会』が開催されました。
平野のまちは、『好きっちゃ平野』をきっかけにして、関わらせていただいており、さらには「平野地区Bousai会議」でもご縁があります。
ヒロシマとナガサキの間にあった、『八幡大空襲』では、この地で多くの方が亡くなりました。
当時の記憶を、生き抜いた方々から、聞いて、書き起こして、残して伝えていく活動が「聞き書きボランティア平野塾」です。
もう10年にもなりました。
八幡大空襲のあった日は、8月8日。
いつも、この日に『平和慰霊祭』も行っておられます。
今では全く想像が及ばないほど、平和に変わった街並みです。
そこに小山を利用した防空壕があり、その中で300人が焼き殺されました。
年に1度のイベントだけでなく、毎月第3土曜日には、『八文字カフェ』という、語り合いの場をつくられています。
ずっと、応援してきている活動です。
ぼくも刺激をいただき、とってもわずかながらですが、平和を繋ぐ活動をさせていただいております。
とても参加したかったのですが、ぼくは午前中に仕事があったため、最後の15分ほどしか参加できませんでした。
到着してみると、この賑わいです。
じっくり多くの話を聞きたかったのですが、最後のまとめの部分ぐらいしかお聞きできませんでした。
平野塾代表の出来谷会長が最後に色んな話をおっしゃられました。
出来谷会長は、当時の経験者ではなく、その後に生まれた世代です。
当時を生き抜いてきた皆さんからの『証言』を聞いていく活動を続けてこられました。
いくつかを回想してお話いただきました。
ぼくが率直に感じたことは、
『生き抜いてきた人』の話です。
逆を言うと、その際に亡くなった方の話はお聞きすることができていません。
どの方も、どの方も、『たまたま運が良く』助かったという話ばかり。
あっちの人たちは、亡くなった。
自分はたまたま生き抜いた。
いつもとは違った流れで行動していたら、たまたま助かった。
そんな話ばかりです。
会長がおっしゃります。
『当時のことを聞いていて、一番感じたことは、”自分の命を自分で決められない”ということ』
自分が生きるか死ぬかさえの選択が、自分で判断できないのです。
右に行くか左に行くか。たまたま行った方で助かった人。その逆を選んで亡くなった人。
そんな戦禍を生き抜いてこられたようです。
そして、ぼくが感じたことは、
その時、亡くならずに、生き続けることができた人が多くいたなら、今、ぼくの周りには、もっともっと多くの人がいたんだろうということ。
命の連鎖、生命の繋がりが、もっと多くの人に拡がっていただろう。
そんな連鎖や繋がりが、突然、切り裂かれたのです。
当たり前にある平和。
尊いものなんだろうと思います。
ちょっとした歯車の違いから、平和を脅かしていくことになるんだろうと思います。
人間誰しもが自分勝手で、それが集団になった途端、大きな渦になります。
片方が威嚇すると、その恐怖から、もっと威嚇して返します。それが増幅していき、お互いを脅かしていってしまします。
だからこそ、
平和を続けていく、繋いでいくための努力が必要なんだろうと思います。
専門家でもなく、
ただただ当時を生き抜いた方々からのお話が、『命の証言』として、
また、明日へと語り継がれていけたらと思います。
今日もご覧いただきありがとうございます。
貴重な時間のなか、この記事をご覧くださってありがとうございます。
これまでの平和に関する活動や、発信もいくつか載せておきますね。