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ピント幻想

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マニュアルフォーカスレンズのピントについてです。

ぼんやりしながらいつもの散歩道、暗渠で猫に出会う。この時の4〜5ショットのうち、これが一番ピントが合っている。正しくピントが合った写真は、合成写真のように被写体が浮き立ってみえることがある。この写真はそうではない。

ロックオンされた猫の写真は単にピントが合っているだけである。Micro-NIKKOR-P.C Auto 55mm F3.5は絞り開放でも十分シャープである。がこれは正しくピントが合っているのだろうか。

しいて正しいピントは何かと問われると返答に窮する。例えば、ピアノの調律において理論上合っているように調律するとほんとうのハーモニーが出ないという話がある。これはハイレベルな世界でのことであるが、案外素人のピント合わせのヒントになるかもしれない。

デジタル一眼とオールドニッコールで撮る場合、フォーカスエイドがピント合わの目安になる。だが絶対ではない。カメラとレンズの特性・コンディションも関係するから。だから合焦点と思われる前後の微妙なところでもシャッターを切ることがある。ピアノの調律では理論上最適なポイント周辺も調律師は探っているはずである。従って、ピントや調律には理屈だけではなく感性も関わってくる。

オールドニッコールに関しては次のような言葉がある。

昔のレンズ設計の現場では、コンピュータの処理能力が遅く、シミュレーションも限られた形でしかできませんでした。そのため、よい仕事をする光学設計者は、経験豊富で数学的にするどい感性を持ったマイスターのような存在でした。
                    (nikon-image.comから引用)

このようにするどい感性を持った人によってつくられたオールドニッコールだから、人はピント合わせをしながら設計者の感性の存在に気がつく。そしてレンズを扱うにつれ、今度は自分の感性を意識するようになる。その感性はピントを合わせる手に伝わり、手の繊細な動きを生む。これは自然の流れであり、オールドニッコールの魅力である。

そう考えながら、写真の猫をふりかえる。この猫と別れ10メートルほど歩いて振り返ると、猫はその場に寝転がって気持ちよさそうにしていた。猫の視線は、「用が済んだら早く行ってくれよ」というメッセージだった。猫の小さな目はそう語りかけている。

さて自分にとって正しいピントとは、わずかな手の動きが探りあてたものとでもしておきます。偶然にではなく、ピントはここだと思って撮った写真は、なんとなく撮った写真とは明らかに違う。もう一度見直したいと思うのは、ピントを探った自分の意識を確認したいからではないだろうか。そう考えると、ピントは単なる機能を超えて、撮る人と写真の接点で大事な働きをしている。

これまでピントの話をしてきたが、実は全く別のことを考えていた。感性や意識という言葉でピント合わせのことを書くとき、言葉で伝えることができるのだろうか、と。こういうことに関して、池田晶子さんが興味深いことを述べている。

正しく語られた言葉は、必ず伝わる。十分伝わるんです。何を伝えるかというと、みなさんもうご存じのように、言葉では何も伝えられない、ということを伝えているわけです。言葉では伝えられないと言うことを、言葉で伝えて、そしてともに言葉を超えていけるという、こういう不思議な往還運動がここに起こっていると思います。逆説的ですが、言葉は沈黙を伝えると言ってもいいです。
                    『人生のほんとう』池田晶子

「考える人」池田さんらしい言葉は禅問答みたいでわかりにくい。ひとつの読み方として、次のように言えるかもしれない。言葉の多義性によって伝わりにくいものがあり、特にものの本質に関わる領域には言葉が馴染みにくい
。そして、沈黙はただだまっている状態ではなく、沈黙の底では何かが揺れ動いているはずである。そこから言葉を超えていくという動きが始まるのかもしれない。このように考えると、自分の中で往還運動が起こっているのだろうかと思ってしまう。

引用に照らすと、この記事は正しく語られた言葉とは言えない。なぜならこの記事が言葉の幻想にすぎないものだから。そんなことより、言葉を超えていくということが、どういうことなのかを考えていきたいと思う。

正しくピントが合った写真は幻想ではない、ピントが合った言葉は伝わる。そう信じたい。

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