存在の耐えられない軽さ

小説に描かれる「存在の軽さ」の問題

最近、以前読んだ小説を読み返している。

『存在の耐えられない軽さ』は、共産党の一党独裁に抵抗したチェコスロバキアの作家ミラン・クンデラが1984年に発表した小説だ。

皆さんは存在の「重さ/軽さ」を感じたことがあるだろうか?

人生においても、物語においても、多くの人が苦しむのは存在の重さだ。

恋人に束縛されて自由がない、
親に勉強しろ、結婚しろと言われる、
上司や同僚から仕事の成績へのプレッシャーをかけられる、

これらはすべて存在の重さの問題である。この小説で描かれているのは存在の耐えられない軽さである。

自分は無価値であり、いなくなっても誰も困らないと感じること、
自分がいなくても社会や周囲はいままで通り回っていくこと、
自分の恋人が心の奥底では替えがきく存在だと感じてしまうこと、

これらが「存在の耐えられない軽さ」であると言える。


この小説は浮気性の外科医トマーシュと恋人テレザ、浮気相手のサビナとの関係を描いた小説だ。トマーシュは「夫婦」や「家族」といった規範的な紐帯を嫌悪し、愛と性は別であると考えて複数人の女性と浮気をしている。テレザは自分がトマーシュにとっての唯一の女性でない存在の軽さに苦しむ。サビナは画家であり、チェコスロバキアの共産主義体制から逃れるためにスイスに亡命した。彼女は全体主義的な抑圧を嫌うが、全体主義に反対する人々のマッス(塊)に溶け込むこともない。

ニーチェの永劫回帰

この小説の書き出しは、ニーチェの永劫回帰についての考察で始まる。

永劫回帰という神話を裏返せば、一度で永久に消えて、もどってくることのない人生というのは、影に似た、重さのない、前もって死んでいるものであり、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさは、無意味なものである。
永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。(中略)もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れうるのである。

ニーチェの永劫回帰は哲学者の間でも解釈が不明確とされている思想だ。ニーチェによると経験や認知は一度のみ行われるものではなく、繰り返し未来永劫行われ続けるものであるという。

現代社会における一般的な考えに基づけば、時間は不可逆的なものであり、繰り返されたりしない。一度経験したことはなかったことにはならないし、老いた身体は若返らない、燃えたものは燃える前に戻らず、死んだ生命は蘇ったりしない。

ニーチェの少し神智学的ともいえるこの考えが正しいとすれば、何度も何度も繰り返される人生は運命と宿命を背負った「重い」ものであり、人生が一回しかないとすれば、僕たちの存在はその生命の終わりととも消失する「軽い」ものであるとクンデラは小説の中で主張する。

自分の存在になんの意味もなく、換えのきく軽い存在だと気づいた時、僕たちはその存在の軽さに耐えられるだろうか?


耐えられないのは存在の重さか軽さか

1968年、プラハの春に伴い、トマーシュとテレザはスイスに亡命する。しかしスイスでのトマーシュの浮気に耐えられなくなったテレザは再びプラハに戻る。テレザは自分の存在の軽さに耐えられなかったのである。
テレザを失ったトマーシュは共産主義体制下のチェコスロバキアに戻る。また戻れば2度と国外に出ることはできないし、プラハで暮らすこともできないことを知りながら。一人の女性に「所属」し、紐帯を結ぶことを忌避していたトマーシュは存在の軽さに耐えられず、テレザの元に戻るのだった。あれだけ存在の重さを恐れていたのに。
トマーシュが去り、別の浮気相手も去ったサビナには何も残らなかった。存在の重さを拒否し続けた先にあったのは虚無であった。

 人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか? 何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復習された? いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。

サビナはキッチュ(俗悪)を否定し、アガペー的(自己犠牲的)な愛を否定し、コミュニズムを否定した。キッチュを超越したエロス的な存在になろうとした彼女は、その存在の耐えられない軽さに打ちのめされた。

では僕たちは、存在の軽さを恐れ、マッスにならねばならないのか?自由を失い縛られ続けるべきなのか?

僕はこの小説は全く逆のことを言っていると感じている。

それはスイスを離れ、田舎でタクシー運転手として暮らしているトマーシュの言葉から推測する。

「テレザ」と、トマーシュはいった。「僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?」
「あなたの使命は手術をすることよ」
「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ」

冒頭のニーチェの永劫回帰の哲学では永劫回帰しない人生は耐えられない軽さを持っている。しかし、トマーシュは「使命」という重さから解き放たれ、テレザの愛という「苦にならない重さ」を手に入れたことで、「存在の軽さ」に耐えられるようになった。僕たちはマッスにならなくても存在の軽さに耐えることができる。その唯一の存在が愛である。

現代に生きる僕たちは「存在の耐えられない軽さ」から逃れるために、何かに依存したり、希薄な関係に手を出したりしがちである。そういった場合、行き着く先は裏切られて(或いは裏切って)より存在の軽さに苦しむか、その希薄な関係性の中で自分には価値があるんだと自己暗示をかけてまやかしの幸福に依存するか(全くもって悪いことではない)で終わることが大半である。

例えば結婚のようなよく言えば規範的、悪く言えば偏見的な幸福論(正常さ)や、権威的なイデオロギーに無意識に追従する(日本人の問題から目を背ける特質など)ことが正義だという共同幻想への服従が個人の安寧と相反する形で、社会全体を歪めることの痛烈な批判もこの小説からは感じたりする。

僕のような異常な人間は、一時的な快楽のために異性と身体だけの関係を築いたり、アプリや合コンなどで出会った人と取り敢えず付き合ってみたりすること(全然バカにしてませんよ)はよりいっそう「存在の耐えられない軽さ」を実感してしまう。(キモ)

この小説は哲学的で暗喩的部分が多いので、解釈は僕の勝手なものです。全然的を射ていないかもしれません。是非一度皆さんも読んでみてあなたなりの解釈や感想を感じて欲しいと思います。


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