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月末映画紹介『シャン・チー/テン・リングスの伝説』『君は永遠にそいつらより若い』 批評

『シャン・チー/テン・リングスの伝説』アジア文化の集大成

ディズニー+問題
MCU初のアジア文化映画作品。MCUは『ブラックパンサー』(2018)でアメリカ黒人社会の文化やアフリカの歴史を描き、『ブラック・ウィドウ』(2021)では女性を主演にした大作映画を製作した。『ブラック・ウィドウ』は DCEUの『ワンダーウーマン』(2017)に女性のスーパーヒーロー映画としては先を越され、構想の練り直しも多く、同じMCUでも『キャプテン・マーベル』(2019)の後に製作されることになった。さらに、ディズニーが新作映画をディズニー+と同時公開した一連の問題の煽りを受けてしまった。

ディズニーはコロナの煽りを受け、実写版『ムーラン』の劇場公開を取りやめ、ディズニー+での配信に切り替えた。映画館は『ムーラン』の予告を流したりフライヤーを置いたり映画の宣伝に協力してきたのに、ディズニーはあっさり映画館を切り捨てたということだ。シネコンの多くが所属する団体、全興連(全国興行生活衛生同業組合連合会)は「これまで通りの形式で劇場公開をしない作品については、団体に加盟する映画館では上映しない」という文書をディズニーに送付した。
結果、『クルエラ』や『ブラック・ウィドウ』などの作品はTOHOシネマズ、MOVIX、T・ジョイ等の大手シネコンでは上映されなかった。しかもディズニー+の新作を見るためのプレミアムアクセスというサービスは1作見るのに追加料金を取るシステムになっていて『ムーラン』では3000円程度の追加料金が必要だった。映画館の様な音響もないテレビの環境で、脆弱なサーバーで配信される作品に対して更なる追加料金を取ることに映画ファンも激怒して炎上することになった。

日本の場合スタッフやキャストのギャラは最初に決められた額しか貰えない(大変問題のあるシステム)が、ハリウッドの場合は劇場の興行成績に比例した形で決まる。主演のスカーレット・ヨハンソンは劇場の公開とディズニー+での配信を同時に行ったことで、劇場での成績が振るわずギャラが減ったとして、ディズニー相手に告訴するなど、ディズニーのせいで色々とトラブルが起こった。

アジアを描いたハリウッド映画の最高傑作
そんなトラブルの後に初めて公開されたMCU作品が『シャン・チー/テン・リングスの伝説』だ。

あらすじ
アメリカ・サンフランシスコで
平凡なホテルマンとして暮らすシャン・チー。
彼には、かつて父が率いる犯罪組織で最強の武術を身に付け、
組織の後継者になる運命から逃げ出した秘密の過去があった。
しかし、悪に染まった父が伝説の腕輪《テン・リングス》を操り世界を脅かす時、彼は宿命の敵となった父に立ち向かうことができるのか?

主要キャストはほぼアジア系、監督もハワイの日系アメリカ人の血を引くデスティン・ダニエル・クレットン。超大作映画としてはハリウッドで前例のない「アジア人の映画」になった。

今までのハリウッド映画におけるアジア人描写は往々にしてステレオタイプに満ちていたり、アジア文化への無理解が垣間見える作品が多かった。これはアメリカ社会におけるアジア系の社会的地位の低さが、そのまま文化への無理解といった形で現れてしまっていたのだ。
 警察官による黒人男性殺害を発端に始まったBLM運動においても、黒人の権利運動は起こっても、アジア人の権利運動は下火だった。これはアジア人が白人社会で権利を獲得することより、「名誉白人」として振る舞うことが多いのが原因である。「名誉白人」とは本来なら差別される側に属する人間が、自分は差別されない白人(マジョリティ)の側に属しているという意識を持ち行動することである。

日本人は欧米でアジア人がヘイトクライムの被害を受けても怒ることがほとんどない。せいぜい「酷いね ぷんすか」みたいにニュースを見て感情を少し消費して終わらせてしまう人がほとんどだと思う。
1人の黒人が理不尽に殺されたら、国全土で暴動を伴う反差別運動が起こる黒人コミュニティとは対照的だ。

黒人の多くは、アフリカから来た移民で、アメリカで被差別人種として扱われてきた歴史を共有している。ファッションや音楽などにおいても黒人文化というカテゴリーを作り上げてきた。
一方、アジア人は日本人も韓国人も中国人も基本的には異なる文化を持つ。仏教や儒教に共通点があったりもするが、アジア人という共通認識を持ちづらい。アフリカがアジアより多様性がないというわけではないが、地理的にも歴史的にもアジア人は「アジア人」というアイデンティティを育みにくかったとは言えるだろう。
思想家の岡倉天心が「アジアは一つ」と著書に書いているが、アジアがまとまっていないから一つになろうぜと言ったわけである。

『シャン・チー/テン・リングスの伝説』は「アジアは一つ」を体現した映画だと感じた。

登場人物の文化背景は中国なのだが、個々の演出を見ると、日本のアニメや漫画から影響を受けていると思われる部分が多々ある。カメハメ波やんけと言いたくなる技や忍者を彷彿とさせるテン・リングスの手下たちなど、様々なアジア文化を取り入れようという姿勢が感じられる。

キャスティングにおいても、テン・リングスのリーダー役に香港の大スター、トニー・レオン、偽マンダリン役に『ガンジー』でアカデミー賞主演男優賞を受賞したインド系のベン・キングズレーが出演しているなど、アジアが意識されている。

プロットはエヴァンゲリオンシリーズやスターウォーズシリーズと同じ父殺しの物語であるが、父親が亡くなった妻を追い求めて世界を破滅させんとしているのはエヴァと同じ展開である。王道な展開を踏襲しながら、丁寧なアジア文化を軸にしている点が素晴らしい。

異様にカラフルに塗られた龍など、所々おかしなところはあるものの、全体としては適切なアジア描写が多かったように感じる。

主人公シャン・チーの親友ケイティが中国系でありながら、英語しか話せないし、中国の文化や風習にもさほどこだわりがない部分も、多民族国家アメリカの実情だ。
アメリカは多くの民族がその文化を保持しながら暮らしている「人種のサラダボウル」とも呼ばれる社会だが、前述のようにアジア系は黒人やユダヤ人のような大きなコミュニティを作らず、日本人コミュニティ、中国人コミュニティ、韓国人コミュニティ、インド系、東南アジア系といった分割されたコミュニティを持っている。ケイティのように自らの出自を意識せず、白人社会の中で溶け込んで生きている人も多い。ケイティが咄嗟に歌い出す曲がThe EaglesのHotel Californiaなのもアジア人ではなく、アメリカ人としてのアイデンティティが強いことを窺わせる。

個人的にはこのケイティがとっても好きなキャラクターで、おばあちゃんに「早く結婚しなさい」的なことを言われても、結局最後までシャン・チーとはフレンドシップの関係なのがナイスだった。
レイとカイロ・レンにキスさせたエイブラムス監督に見習って欲しいと思った。

この映画はちゃんとしたアジア描写の大作がようやく出てきたという意味でもすごく良かったし、一つの映画としてもとても魅力的な傑作だった。



『君は永遠にそいつらより若い』欠陥品の反逆

あらすじ
大学卒業を間近に控え、児童福祉職への就職も決まり、手持ちぶさたな日々を送るホリガイは、身長170cmを超える22歳、処女。
変わり者とされているが、さほど自覚はない。
バイトと学校と下宿を行き来するぐだぐだした日常をすごしている。
同じ大学に通う一つ年下のイノギと知り合うが、過去に痛ましい経験を持つイノギとは、独特な関係を紡いでいく。
そんな中、友人、ホミネの死以降、ホリガイを取り巻く日常の裏に潜む「暴力」と「哀しみ」が顔を見せる...。

津村記久子の小説を、主人公ホリガイに佐久間由衣、イノギ役に奈緒を据え、『スプリング、ハズ、カム』の吉田竜平が監督した作品。

何気ない日常を描きながら、その日常に付着する死、暴力、閉塞感、自己嫌悪、絶望を佐久間由衣と奈緒が素晴らしい演技と表現している。

冒頭、ホリガイは大学のゼミ飲みで男友達に処女であることや就職する児童福祉司の仕事のことを揶揄されるが、怒ったりまともに反論することもなく、その場をテキトーにあしらう。ホリガイが自己や他者に対して真摯に向き合わずに日々を過ごしていることがわかる。
そのゼミ飲みで友人の友人であるホミネと知り合ったホリガイは、ホミネに自分と共通する部分を感じ奇妙な友情を結ぶ。ホミネはアパートの下の階に住むネグレクトされている男の子を保護したことで、子供の母親に通報されて警察に逮捕されてしまっていたのだった。
ホリガイは哲学の授業で偶然出会ったイノギとも関係を深めていく。

「君は永遠にそいつらより若い」という台詞は、世の中の暴力や悲しみと言った「どうしようもなさ」に対するアンチテーゼだ。
ホリガイは処女である自分のことを「誰も手を出さない欠陥品」と言う。一見ホリガイは友人も多くいるように見えるし、人付き合いが下手な感じには見えない。しかし、ホリガイはその場を上手く立ち回ることができるだけで、実は自分にも他人にも真剣に向き合っていないのである。
自分に向き合うことができている人は案外少ないが、他人に対しては多くの人はちゃんと向き合えていて、親友を作ったり恋人を作ったりしているが、ホリガイは問題を起こさずに人付き合いをやり過ごすことしかできない。その結果、決して知り合いが少ないわけではないのに異性と関係を結んだことがない。

そのことが分かるのが冒頭の飲み会のシーン。馬鹿にされてもジョークにしてみたり、テキトーにあしらって、怒ったり反論することもなく都合が悪くなると別の場所に逃げてしまう。そのようなホリガイの性格が分かるシーンが作中にはいくつも散りばめられている。

視覚的に分かりやすいのが、飲み会のあと、ホリガイがホミネと帰路に着いているシーンだ。お互いシンパシーを感じているのに、2人の間には微妙な距離が開いている。

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ホリガイは「結婚しちゃう?w」とおちゃらけて言ってみたりするのだが、お互いそれ以上核心に迫るようなことは言わない。ホリガイは自分に対して自信がなく、自分のありのままを曝け出して接することができないからだ。
一方のホミネは他人の愛を感じられない人なのだ。一晩飲み明かす様な友人もいるのに、自分が誰にとっても何の価値もない存在だと感じている。

大抵の人は逮捕された自分を警察署まで迎えにきてくれたり、一晩中2人で飲み明かしてくれる人がいたら友情を実感できるものだが、ホリガイやホミネのような「欠陥品」は決してそれを信じることができない。
自分が信じられないホリガイと他人が信じられないホミネは対照的であり、本質的には似た者どうしだ。だからお互いに惹かれている。その感情は恐らく恋愛的なものとも少し違っていて、同族を見つけられたちょっとした安心感の様なものに近いのかもしれない。

決して他人に向きあってこなかったホリガイが、イノギとの出会いによって少しずつありのままの自分でいることを覚える。社会や人間の「どうしようもなさ」に対するせめてもの反逆が「君は永遠にそいつらより若い」という言葉に集約されている。

この言葉自体も、映画全体も決して綺麗にまとまっているわけではない。だがその混沌とした感じが、ホリガイの複雑な人間性とシンクロして映画を魅力的にしている。

「うまく生きていく」ことしかできなかったホリガイが、ホミネの生前の行動に感化されてとった、終盤のある行動がこの映画を最高に不恰好で最高にボロボロなビルドゥングスロマン(人間的成長の過程などを描いた作品)たらしめている。

僕はホリガイとホミネを合わせたような欠陥品にも程があるだろ人間なので、大変共感した作品になった。ちゃんと人間ができている人には刺さらないかもしれないが、興味がある方は是非ご覧ください。




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