#637 教科・科目レッテルの危険性
ふと思った話です。
人はなぜ教科・科目の好き・嫌いがあるのでしょうか?
ちなみに学生時代の私の好き嫌い
好き:現代文(物語)、日本史、世界史、数学(代数)、化学
普通:現代文(評論)、英語、公民(現代社会)、数学(幾何)
嫌い:古典、漢文、生物、物理
いやそりゃそうなんです。だって教科・科目には特性があるし、学ぶことも全然違います。歴史を勉強することと、物理を勉強するのでは、求められる素養が全く異なる。
それは、なんとなくわかっているのです。でも、何か違和感を感じるのです。その違和感がどこからくるかというと、今の私は少なくとも上記全ての科目に興味・関心があり学びたいと思っているから。
それは、いわゆる学力があれば社会に出て有利になるからやっとけばよかったということではなく、純粋にそれらの知識や思考を入れてみたいという、少しカッコつけていうならば、「知的好奇心」からきます。
で、なぜ昔の私みたいに教科・科目の好き嫌いがないかと言われたら、それは
大きく、非常に大きく見れば
「何かを学ぶことによって、世界に対する理解が深まる」という共通点があって、いかなる学びも最終的には全てが有機的に繋がる感覚を多少なりとも持っているからではないかと思うのです。
私が前述のように、学生時代は本当に生物が嫌いで、定期考査で赤点を何度もとり、模試では、偏差値26という見たことないような数字を叩き出しましたが、じゃ昔から嫌いだったかというとそうではありません。
この教科・科目が好き嫌い はもちろん当然の感覚なのですが、実はその細分化は別に大した問題ではありません。されど、そこに偏差値的な点数や授業の質などが絡み合うと、大きな概念においての「学び」が失われ、結果、どうでもいい形で細分化され、レッテルが貼られた「教科・科目」を嫌いになってしまうのです。
あ〜、もったいね!
と思う私。言いたいこと伝わりますか?
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