毒警戒気質《iquotlog:天才的一般人の些細な日常》
ちょうどいまの長女の歳くらいから、ぼくは毒の危険に対して過敏だった。ケミカルなもの、食用ではないものが、特に口に入ることに関して、異様なほどの警戒心を持っていたと思う。
本を読み終わって寝る前に歯を磨こうと、洗面所で扉を開くが歯ブラシが見当たらない。あれ、と思うと、妻が洗面台に歯磨き粉をつけた状態でブラシを上向きに置いていてくれていた。子どもたちの歯ブラシを用意したときに、ぼくの分まで準備してくれているという優しさだ。
ところがこの状態でぼくの毒への警戒心は働く。もちろん妻が毒を塗るとは毛頭思っていない。問題は、ハミガキ粉を塗られた歯ブラシが洗面台の上で、この状態のままにあった時間の経過にある。どういうことかというと、もしかすると家の中の蜘蛛がちょうど歯磨き粉の山の上を素足で歩いたかもしれない。誰かが石鹸で手を洗ったときに、目に見えないほどの泡が飛んで、歯磨き粉に触れたかもしれない。蜘蛛の足に付着した粉や石鹸の泡を口にすると、それは毒かもしれない。時間が経つと、歯磨き粉自体が変質するかもしれない。毒性のあるものに。
わかっている。考えすぎなことは。しかしこれは幼少の頃からの癖なのである。
ぼくの毒への警戒心は、自分を守るためだけではない。飼い猫や子どもたちを守るためにも働く。
たとえば、洗い物を途中でやめて出かけなければならなくなったとき、洗っている鍋に洗剤の泡が浮いたままには絶対にしない。なぜなら、留守の間に猫がその水を飲むといけないから。また、さっきお茶を飲ませたばかりのコップであっても、自分がきのうアイスコーヒーを飲んでシャバシャバと水でゆすいだだけの似たようなコップのそばに置いてしまい、ちょっと後ろを見たすきに頭の中でシャッフルされてしまうと、もう一度食器用洗剤で洗ってからでないと子どもにお茶をやれない。
一晩寝かせたコーヒーも、蛾や蝶の羽の鱗粉も、紙をとめていたホッチキスの芯も、クレヨンも鉛筆のけずりかすも、みんな毒である。ぼくはそれらが誰の口の中にも入らない様に常に警戒している。
ところがコロナがはやる前、京都の路地で長女がポイフルを道にこぼした。3秒ルールの範囲内ではあったが、ぼくはそれを拾って全部口に入れて噛んだ。周りは引いていたが、ぼくは大丈夫おいしいもったいないと思って食べた。
那辺に毒になるものとの境界があるのか、自分でもぜんぜんわからない。
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