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鏡がうたがわしい

 自分という人間についての自分の認識と他人のそれが食い違うことが多くなってきた。
 特に白髪について。
 毎朝鏡を見て、これまでもそしてきょうも何の変哲もない、そんな自分を視認してから出社するのに、
「白髪が増えた?」
「白いものが増えた?」
と言われることが多くなった。
「そうですか?」
と聞くと、そうだと言われ、
「苦労してるんやね」と言われ、
「そうです、まあ、子育てとか」と言うと、
「おつかれさま」と言われる。
 だいたい職場のコピー機の前で言われるので、白いものが「髪」なのか「紙」なのかちょっとわからなくなるくらい、自分には腑に落ちない。最近そんなに印刷してるかな? まあこの会社はまだペーパレスには程遠いしな。いやいや、「紙」じゃなくて「髪」のことだった。
 そして頭に手をやって、毛がふさふさなのを確かめる。ペーパレスでもないが、ヘアーレスでもない。こうして自分の中の自分の肖像は、朝鏡で眺める何の変哲もない昔からの自分の肖像に戻る。
 でも会社のトイレの手洗い場で、眉間に皺を寄せたり、浮き出る3Dアートを見るときみたいに寄り目がちに鏡を見ると、髪の中に白いものがいっぱいあるのが見えたりする。川面を眺めていると、そこを蒸したしらすの群れがさらさらーと泳いでいくような、そんな白さが確かに目立つ。おかしいな、朝はこんなじゃなかったのにな。なんとなくトイレに座りながらポーの「メールストロムの旋渦」の結末を読むような不思議。そういえば村上春樹の『スプートニクの恋人』にも髪が白くなる系の話が語られていたなと思い出す。
 なんだか鏡がうたがわしい。
 弁当箱の大きさもたまに指摘を受ける。昼休みに自席で食べていると、通りがかりに、
「それで足りる?」
「弁当箱小さいね」
と言う人が複数いる。これも自分では思ったことのないことだ。ぼくは妻がぎっしりごはんとおかずを詰めてくれていると思うし、自分の胃袋を畳んで仕舞えるくらいの大きさの弁当箱を使っていると思っている。
 それで隣の人に空の弁当箱を見せて、
「これ小さいですか?」
と聞いてみると、
「そうですね、もうひと箱ほしいですね。笑」
と言う。
「そうですか」
 みんな大食いだな。ぼくはこれからもこのサイズで大丈夫だけれど。
 白髪がはっきり多いな、と思えるのはプリクラとかスマホの写真とか。今の時代、真実の姿を映し出すのはやはりプリクラやスマホなどの最新の流行なのかもしれない。
 そこに印画された自分の老いた姿を見ると、少々やるせない気にもなる。自分はほとんど雪のない地方にばかりこれまで暮らしてきたけれど、それでも多少の積雪の日を経験したことはある。人の言うように確かに白髪の目立つ自分の頭は、雪の日のタイヤ筋がついたマンホールのようだ。
 それを目の当たりにすると、次に美容院に行ったときにはカラーをお願いしようかと本気で考えたりする。
 でも夜に本を閉じて眠りにつき、また朝起きて子どもたちの朝の世話と支度をしながらバタバタとしていると、鏡にうつる自分の頭はまだ黒いのだ。鏡のなかで、白い頭の自分はすっかりリセットされている。保育園までベビーカーを押し、上の子と並んで走ったりしているとき、自分の髪はまだ黒い。そして無事に保育園に子どもたちを送り届けて、ほっとして地下鉄に乗る。
 でも会社に着くと、いつのまにか髪が白くなっている。
 やはりなんだか鏡がうたがわしい。

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