幸福戦略としての『障がい者』と疾病利得
―――幸せとは『変化を望まない状態』である。
前回の記事のサムネイルはすばらしきわがIQにしたが、今回はnote運営にポアされない程度のちょっとエッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッなスク水を着たごちうさのチノちゃん達の絵の無断転載をサムネにしてみた♡
前提知識が要る分野より本能に訴求した方が多くの人を集められるもんね。
これも無断転載というフリーライドと、(スク)水は低きに流れ、人は易きに流れるという孟子の言葉を歴史修正した法則のフリーライドの実践である。
この法則、実に合理的だと思う。逆に低きに流れない奴は馬鹿だと思う。
幸福戦略として低きに流れる生き方を語るのに相応しいサムネである。
著作権侵害のサムネの話はここまでにして、本題に入ろう。
噛み砕いて言えば、幸せに生きる為に障がい者だからこその恩恵を貪る事が今回のテーマだ。
わからない言葉が出てくる可能性もあるので、もし買ってあるなら電子辞書などを用意しといた方が得策だろう。
是非とも最後まで読んで私の思想『ガイジズム』を吸収して頂きたい。
まず、障がい者と不幸は不可分ではない。
だが社会通念上、障がい者は不幸な存在とされる。
確かに社会的障壁があり人間社会という有機体に噛み合いにくいのは不幸な事だろう。それで不幸なのは人間社会やその構成員である健常者に限るが。
つまり、人間社会に適応しにくいのは人間社会にとって不幸ではあるが、個人の話であれば人間社会にこだわらなければ普通に幸せになれるのである。
幸せの定義を明瞭にしておこう。私は『幸せ』に二つの意味を見出した。
一つは快楽主義的な幸せである。字面通り不快が避けられ快楽が占める割合が高い状態が幸せであると定義した。
二つ目は『変化を望まない状態』が幸せであると定義した。変わらない心を幸せと定義している為、私はこれを恒心的幸せと名付けた。ユーザ名の伏線回収である。
恒心的幸せを定義するにあたって参考にした現象がある。それはブータン王国の幸福度ランキングの急落である。
2013年のブータンの幸福度ランキングは8位だったが、2019年のブータンの幸福度は156ヶ国中95位にまで下がった。
当時よりも物質的に恵まれてネットが普及し、自分達よりも経済的に恵まれた外国の世界を知ってしまい、自分達と比べ、変化を望むようになってしまったからだろう。
この事実からもわかるように客観的な状況に関わらず現状に満足できているかどうかが幸せを左右しているのである。
客観的に恵まれているというより恒常的に快楽を貪るルーチンがあれば現状に満足しやすいと言える。裏筋弄ール・ルーチン大統領である。(意味不明)
恒産なくして恒心なしという慣用句があるので、意味をレイプさせて頂く。
働かないフリーライダーであっても性癖オナニーなどの無料の快楽(恒産)を貪らないと変化を望みやすい、つまり変化を望まない状態(恒心)になる為には快楽主義的な幸せも実践する事が推奨されるのだ。
これが私によりレイプされた恒産なくて恒心なしの意味である。唐澤貴洋弁護士も素心若雪の意味をレイプしているし熱い原作リスペクトである。
快楽主義的な幸せと恒心的幸せは不可分であり、正の相関関係がある。
それが『幸せ』を二つの意味に分けた理由でもある。
幸せの定義を明瞭にできたので障がい者の話に戻そう。
個人的には、身体障がい者は五体不満足とかで不便であって物理的な自由が奪われる為、どうしても変化に憧れてしまう、つまり主観的にも不幸になりやすいとは考えられるが、発達障がい者や身体障害を伴わない知的障がい者なら人間関係へのこだわりを捨てた上で無料の快楽を貪る『フリーライダー』になれば十二分に幸せになれるだろう。
発達障がい者や身体障害を伴わない知的障がい者には物理的な自由があり、前者はASDやその併発により他人に興味が無い者が多く、後者は頭が空っぽな故に生理的欲求だけ満たされていれば幸せになれるからである。
後者は自由意志信者によって作られた心神耗弱とかいう疾病利得をフリーライド出来るので、性犯罪を犯しても刑は健常者より軽いという特権もある。我慢できなくなっても安心だね♡
後は親の脛を齧ってニートするか障害年金やグループホームなどの疾病利得をフリーライドしていけばいいのである。
健常者は障がい者と比べて人間社会により幸せとみなされ、健常者の中でも一般的にエリートとされる層や陽キャなどは大衆により幸せとみなされる。
だが、大衆から幸せとみなされる状態と本人が幸せと感じているかは別であり、仮に前者の状態に近づいたからといって主観的な幸せと相関するとは限らないので、大衆などに洗脳されて自分は障がい者だから、若しくは社会通念上望ましい属性を持っていないから不幸と認識する必要は無いのである。
理想の状態になる為に頑張ってもその状態になれる保障は無く賭け事に過ぎないし、その状態になれたとして快楽が占める割合の最大化に繋がる保障は無いし、妥協できずに更なる理想を求める、もしくは求められるなら努力のループに陥ってしまうだろう。
努力好きなマゾヒストでもない限り努力は不快であり努力のループに陥ってしまう事≒変化を望み続ける事はマゾヒストでもない限り不幸なのである。
つまり、私は幸せになりたいなら努力するなと言っているのだ。
そして障がい者であれば障害年金が出る疾病利得があるし、障がい者雇用や作業所なら単純作業で仕事も楽だし、家庭次第では障がいを言い訳に働かずニートだって出来るだろうし何よりも他人に合わせず比較的自由に生きられて、健常者の人生と比べて強いられる努力が少ないというのが実情なのだ。
楽なレールがあるのならそれにタダ乗りする以外の合理的な選択肢は無い。
頑張っても健常者になれないなら最大多数の最大幸福の為に普通に近づく事を諦めて(≒変化を望まず)、時間が許す限り健常者が手を出さない分野まで無料の快楽を貪り(≒快楽が占める割合の最大化を実践して)、障がい者の特権を最大限までタダ乗り(=フリーライド)する幸福戦略を実践すべきである。
これが私の思想『ガイジズム』である。
前回の記事でも述べたがフリーライダーが増えても国が対策して生きやすくなると思っておけばいいのだ。実際にそうなるかはわからないので、より確実な自分が幸せになれる生き方を実践する事こそが正義なのだ。
法匪民は反面教師、はっきりわかんだね。
もちろん筆者も精神障害者保健福祉手帳2級を持っている障がい者である。